春恋01

01


 春、四月。入学式を終え体育館から退場した俺たちは、ほとんど整列したままの状態で教室へと戻った。出席番号順に割り振られた席に着いたことでようやく肩に入っていた力が抜ける。
 教室内に視線を巡らせ、見知った顔がないかと確認する。残念ながら中学が同じだった者が目に入ることはなかったが、シニアの試合で見た顔がぽつりぽつりと混じっていることに気がついた。
 安堵の息を吐きながら机の上に頬杖をつき、窓の外へと目を向ける。
 春の青空は底抜けに明るい。あたたかな陽気が教室内に満たされた心地の良さに目を細め、眩い陽光を受け止めた。
 ――これだけ天気がいいと、幸先がいいんじゃないかな。
 いい高校生活になりそうだ。気が早いかもしれないけれど、不思議とそう確信できた。


 ***


「じゃあ、次」
「はい!」

 前の席の男子が自己紹介を終え席に着く。そのタイミングを見計らっていたであろう担任の呼び掛けに、短い返事とともに立ち上がる。椅子が床を擦る音が止んだのを機に、大きく口を開いた。

「多田野樹です。野球部志望、ポジションはキャッチャーです。この学校で野球をやりたくて入学を決意しました。よろしくお願いします」
「勉強も真面目にやってくれよー」
「はい!」

 すかさず飛んできた担任の野次を打ち返し、そのままの勢いで席に着いた。野球部で言うような自己紹介になってしまったが、それは偽りのない自分の本心だった。
 ――自分の力を試すため、稲城実業を選んだことを隠す必要なんてない。
 一仕事終えた心地に、ほんのりと頬が紅潮する。緊張するというほどではないが、新しい生活が始まるのだという自覚が胸を熱くさせた。机の下で握りこぶしを作る。早く、グラウンドに行きたい。野球が、したい。
 ――はじめから勉強の手を抜くつもりはないが、やっぱり俺にとっては野球が一番だ。
 クラスメイトの声を聞き流しながら、そっと窓の外へと視線を向ける。
 外を見たところでこの教室を飛び出していけるわけじゃない。だけど逸る気持ちが俺の心をグラウンドへと導いた。
 わくわくした心地を隠したまま外を眺めていると、開いた窓から強い風が吹き込んだ。はためくカーテンに窓際に座っていた女子が短い悲鳴を上げる。ほんの少しの驚きとともに、視線を前へと戻すと、自己紹介のために立っていた女子の髪が靡く姿が目に入る。
 左から右へと流れた髪を抑えるように右手で梳いた彼女は、歯切れよく言葉を続けた。

です。中学の頃ブラスバンド部に入っていたので、高校でも続けるつもりです。よろしくお願いします」

 凛とした声が教室の中に響く。甲高いわけでもなく、かと言って不機嫌に感じるほど低くもない。耳馴じみのいい声に、思わず彼女が席に着くまでの姿を目で追ってしまった。


 ***


 自己紹介を終え、長い担任の話を聞き、待ちわびた放課後。
 野球部の練習場へ向かおうと急いた心に促され、普段よりも足早に移動する。左肩にかけた鞄の紐の位置を調整しながら、階段を下りていると先を急ぐクラスメイトが何人か前を歩いていることに気がついた。
 その中のひとりの女子が手に提げた黒い箱のような鞄が揺れるのを目に入れながら、タンタンと足音を鳴らし階段を下りる。踊り場を通り過ぎ、また1段、と階段に足を伸ばすと、後方から誰か駆け下りてくるような足音が耳に入った。
 ぶつかるとまずそうだ。そう思い、反射的に左側の手すりへと身を寄せる。チラリと後方を確認する間もなく駆け下りていった男子の姿を目に入れ、改めて階段を下りはじめたが、また同じような音が上の方から聞こえてきた。
 ――結構、慌ただしい学校なのかな。
 入学し2、3日では学校の雰囲気なんて掴みようがない。だが、こうも立て続けに走るひとを見かけると「もしかして」と思わずにはいられない。
 思い描いていた印象とずいぶん違うな、なんて正直な感想が沸き起こる。内心がっかりしたような、ほんの少し親しみやすさが増したような複雑な心境だった。
 ――俺の知る稲城実業はいつだって高潔だった。
 野球を始めて以来、いろいろな高校の試合を観てきた。青道や市大三高も、もちろん魅力的だったが、その中でも群を抜いて稲実に惹かれた。
 子供というのは単純だ。今にして思えばユニフォームに加え、アンダーシャツまでもが白いというのが理由だったのかもしれない。
 清廉潔白で誇り高い。そんな印象を与えられ、憧れはいつしか目標となり、そして〝今〟につながった。
 その中の一員になるんだ。いくら急いでいても決して階段を走り降りるような真似はしない。怪我を防ぐ意味でも、誇りを守る意味でも――。
 ひとつ、息を吐き、決意を新たにする。きゅっと唇を引き締めて階段を下りていると、ふと、前を歩いていた女子との距離が詰まっていたことに気付く。急ぐ気持ちが自然と前へ前へと足を進めていたらしい。ぶつからないようにしなきゃ、と思いつつも抜き去るほどのスピードを上げることも出来ず、若干の気まずさを抱えながらそっと視線を外した。
 つかず離れずの状態で階段を半分ほど下りたころ、先程と同じように急ぐ男子が現れた。複数重なった音に、何人か集団で走ってきたのだろうと見当をつける。
 身体を引いて道を譲ったが、それでも肘が駆け下りた相手に掠る。それは俺だけではなく、前にいた女子も同様だった。否、それ以上だ。飛ぶようにして下りる男子の腕が、強かに彼女の肩にぶつかったのが目に飛び込んできた。

「わっ!」
「え?」

 短い悲鳴とともに前を歩く女子の身体が傾いた。目に見えてバランスを崩した彼女は、手にした黒い鞄を落とさないようにと自らの胸に抱えこむ。背後から見ているだけの俺にさえわかるほど、自分の身体に対する注意が払えていない。
 ――このままだと落ちる!
 駆け抜ける焦りよりも早く腕を伸ばし、彼女の右腕を引っ張りあげる。それだけでは足りないような気がして左腕を彼女の胴に回した。腕に体重がかかったことで彼女が落下を免れたことを知りつつも、生まれたばかりの焦燥は安堵にはほど遠く、にわかには身体を放すことが出来なかった。

「あ、すんませーん!」

 階下から声がかかる。彼女にぶつかった相手からの謝罪の声だろうか。鈍い頭の奥で憶測が浮かび上がる。
 ふと、腕にかかる重さが緩まったことに気がついた。どうやら彼女がちゃんと自分の足で立ったらしいと知るにはそれで十分だった。

「大丈夫でしたか?」
「は、はい……なんとか」

 声をかけると、か細い声が返ってくる。よっぽど怖かったのだろう。彼女の背中からダイレクトに伝わる心音は、かなりのスピードを保っていた。

「――って、すいません!」

 回したままだった腕を放し、ぱっと彼女から身体を離す。背中から抱きしめるような格好のまま硬直してしまった自分が恐ろしい。入学早々、痴漢だなんて騒がれてしまっても言い逃れが出来そうにない。
 明日から糾弾の日々が続くのだろうか。目の前が暗くなるような心地を味わいながら、一瞬で浮かび上がった冷や汗を手の甲で拭う。こちらに背を向けたまま1段下に立つ彼女の表情は見えない。心なしかその背中が震えているように見えるのは、俺の引け目からくるものだろうか。
 真実を確かめるのが怖い。だけど彼女がこちらを向いていない以上、声をかけることも憚られる。
 どうしたらいいんだろう。彼女からそっと視線を外し、階段の上へと視線を伸ばせば今度は走ってはいないものの何人かの集団が階段を下りてこようとしている姿が見えた。
 立ち止まっていないで一度下りた方が良い。そう思い、彼女を避けて先に階段を下りようとした。

「――あのっ! 待って!」

 不意に声を掛けられた。それだけではなく、ブレザーの裾を引かれる。驚いて振り返れば、こちらに頭を下げた彼女の姿が目に入る。

「お礼を言うのが遅れちゃってごめんなさい。急なことでびっくりしちゃって……。その、さっきは助けてくれてありがとうございましたっ!」

 言葉と同時にさらに頭を下げた彼女の指先に力が入る。ぴったりと合わせられた親指と人差し指のいじらしさに思わず唇を引き締めた。

「いや、俺の方こそいくら助けるためだったとはいえ、必要以上に触れちゃって、その、すみませんでした」
「ううん、あなたが助けてくれなければきっと大けがしてたと思うから! だからごめんなんて言わないで!」

 顔を上げた彼女と、初めて視線がかち合った。真摯にこちらを見上げる瞳に思わず息を呑む。
 ――こんなかわいい子を、抱きしめたのか。
 ふと浮かび上がった考えに、一瞬呆然としたが、その意味が頭に浸透すると同時に身体全体を熱が走り抜ける。紅潮する頬を見られるわけにはいかないと泳ぐ視線を脇へとずらした。

「えっと、とりあえず今、怪我がないならよかったです。それじゃ、俺、部活があるので……さよなら!」

 言い淀む俺から彼女が指を放したのを横目に、数段残っていた階段を駆け下りる。先程立てたばかりの誓いをもう破ってしまったが、今の心境で焦らないでいられるほど大人ぶってはいられなかった。
 階段を下りきると、途端に彼女がどんな反応をしているのかが気になった。階段を駆け下りたせいか、それとも心境によるものなのか。判別をつける時間も惜しみ、逸る心臓を抱えたまま彼女を振り仰ぐ。
 両腕で黒い鞄を抱えたままの彼女は、先程とまったく同じようにこちらを真摯に見つめていた。すぐさまかち合った視線にほんのりと胸の奥が熱くなる。
 窓から差し込む春の陽射しを背に受け、微笑んだ彼女がきらきらと輝いて見えた。




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