02
朝練を終え、寮の食堂で朝食を摂ってそのまま学校へと向かう。まだこなれない腹を押さえながら昇降口へと駆け込んだ。
中学生のころからシニアの監督に「食事もトレーニングだ」と教えられてきた。だからこそ胃の限界を超えて食べることに、多少なりとも自信があった。だが、稲実に入ってすぐにその自信が過信であったと知る。
入寮し、初めて持たされたどんぶりの重量。うずたかく積み上げられた米。その周りを彩るおかず。美味しそうと思うより先に、求められる食事量に絶望した。
上級生の中には俺よりも背が低いひとだっていたのに難なく食べきっていたが、1年も経てば俺も慣れることが出来るんだろうか。
広げた手のひらの中に視線を落とす。つかめない夢の姿を探す、つもりだった。だが、今の心境でハッキリと思い出したのは今朝方、抱えたばかりのどんぶりの重さだった。
山盛り3杯。腹の中に納めた米の量や重さを思い出すと、今朝食べたものがせり上がってきそうな心地がする。手のひらで口元を押さえ、吐き出しそうな居心地の悪さを、深呼吸を繰り返すことで誤魔化した。
心を整えながら、改めて自分の高校野球がスタートしたことに思いを馳せる。朝の短い時間であっても容赦のない練習内容を思い出すと、また別の意味で吐き気を催しそうになる。求められる食事量は、裏を返せばそれだけ練習量がハンパないという証明だ。これから2年半。厳しい練習が続くことが約束されている。
――望むところだ。
きゅっと唇を引き締め、差し掛かった階段に足を踏み入れると同時に上を向く。何人かが俺と同じように階段をのぼる中、ひとりの少女が手にした黒い鞄に自然と目が動いた。
艶やかで角張った黒い鞄には見覚えがあった。そして、その背中にも――。
「あ、昨日の……」
「ん?」
疑念が確信に変わると同時に声がそのまま出てしまった。慌てて口元を手のひらで押さえたが、時すでに遅く、階段をのぼっていた彼女がこちらを振り返る。怪訝そうな彼女の表情が、俺を視界に捉えた途端に和らいだのを目にすると、焦りが薄く引いていく。
昨日の、と思い当たったのはどうやら自分だけではなかったらしい。目に見えて相好を崩した彼女は、タンタンと軽い足音と共にこちらへと下りてくる。
「おはよう!」
「えっと、うん。おはよう、ございます」
目映い笑顔を差し向けた彼女に思わず面食らった。数段残して俺の正面に立った彼女を見上げながら、数度目を瞬かせる。真新しい印象の強い制服の雰囲気からいって同い年かな、と憶測を立てながらも、先輩の可能性も捨てきれなくてつい敬語で返してしまう。
ほんの少しだけ眉尻を下げた彼女は、まばたきひとつ挟む内にまた口元を緩めた。
「改めてにはなりますが、昨日は本当にありがとうございました! あれから大丈夫でした? その、よく考えたら、抱えてもらったときに腕とか怪我したりしてないかなって気になって」
緩い表情を一変させた彼女は心配そうにこちらを見つめた。手の甲で口元を隠し、慮るような表情を浮かべた彼女と数段分の差を埋めるべく足を進める。
彼女のいる一段下で足を止めると、高低差があるおかげか目線の高さがほとんど一緒になった。同じ高さに辿り着いてもなお外れない視線を真正面から受け止めると、途端に照れくさくなる。視線を脇に逸らし、彼女の横を抜き去るまま階段をゆっくりのぼりはじめると彼女もまた俺と歩調を合わせた。
「大丈夫ですよ。鍛えているので。それよりそっちこそ肩とか、その……おなか、とか大丈夫でしたか?」
会話を紡いでいると、ふと昨日の失態が頭をよぎる。記憶に釣られるように蘇りかけた彼女の身体の感触を誤魔化すように手のひらを自分の腰にこすりつけた。
「うん。私も、割と鍛えている方なので! でもその分、重たかったんじゃないかなって心配になりまして……」
軽く溜息を吐き、しょんぼりとした表情を浮かべた彼女に口元が自然と緩む。笑ったと思えばすぐにしょげたりしてみせる。言葉に出して伝えられた感情と表情が合致しているさまに、素直な子なんだろうなと漠然と考えた。
――そういう子の方が、安心してしゃべれるな。
表情の移り変わりひとつでそんな風に思うのは我ながら単純だと思うが、彼女に対し好感を抱くのにそんなに時間は必要なかった。
その後も階段をのぼる中で会話を紡いでいく。なんとなくお互いに敬語は崩せていないが踏み込みやすい雰囲気に、同じ1年生なんだろうなと当たりをつける。弾む会話を楽しんだまま足を進めていると、俺も彼女も同じ教室の前で足を止めた。
思わず首を捻って彼女の表情を窺うと、彼女は緩いカーブを口元に浮かべて俺を見上げていた。
「同じクラスだったんだね。……全然気付かなかった。自己紹介、真面目に聞いてたつもりだったんだけどな」
「1回じゃなかなか無理だよね」
ふふ、と笑った彼女が同級生だとわかった途端、ほんの少しだけ肩に入っていた力が抜ける心地がした。先輩かもしれない、と遠慮していた部分がほどけた途端、お互いの敬語が抜け落ちる。
俺と合わせた視線を一度右へと流した彼女は〝教室の入り口を塞がないように〟と配慮をしたのだろうか。そっと左へ立ち位置をずらした彼女にあわせ、俺もまた彼女の正面へと移動する。向かい合って立つ俺を実直に見上げた彼女は、昨日と同じように目映い笑顔を浮かべた。
「改めまして。昨日、あなたに命を救われたです」
クラスメイトだと知ったことで気安さが生まれたのか、彼女――さんはわざといたずらっぽい言葉を選んだようだった。
「そんな大袈裟な」
「本当のことだよ。もしあのまま落ちてたら高校生活はじまってすぐに入院生活突入だったよ」
またもや大袈裟な言葉を口にするさんに口元が自然と緩む。感謝の念を伝えることに躊躇のないさんは、「だからほんっとうにありがとう」とまたしても頭を下げた。
「さ、そろそろSHR始まっちゃいそうだし教室入っちゃおっか」
下げた頭を戻したさんは、頭を下げたことで血がのぼったのだろうか。ほんのりと赤らんだ頬を手の甲で隠しながらくるりと踵を返す。
「あ、待って。俺、多田野――」
「樹くん、でしよ」
反射的に手を伸ばし、引き留め「樹」だと名乗ろうとした途端、さんがこちらを振り返り俺の名前を呼んだ。昔から下の名前で呼ばれることの方が多かったが、年頃になって出会った女子に突然呼ばれることは初めての経験で思わず固まってしまう。
「ど、どうして?」
動揺した心地が落ち着かないままに尋ねると、さんはひとつ視線を脇にずらして思案するような表情を浮かべた。だが、その変遷もほんの一瞬で、左手を自分の頬に当てながらこちらを見上げると先程と変わらない笑みを浮かべた。
「昨日、自己紹介あったじゃない?」
「あったけど……え、まさかそれだけで?」
「うん。人の名前と顔を覚えるのは得意なんだ。だから、多田野くんのこともちゃんと、その、知ってたよ」
「得意って言っても、相当すごいよ。俺なんかまだ席の近い男子の名前もあやふやだもん」
特技であっても自慢げに話すことを良しとしない主義なんだろうか。ほんの少しだけ言葉を詰まらせたさんに感心したと素直に伝えると、さんは照れくさそうに眉尻を下げる。
「多田野くんの自己紹介かっこよかったから。ちょっと意識しちゃった」
「えぇ?」
さんの言葉に思わず声を上げてしまう。〝かっこいい〟だとか〝意識した〟なんて言われて、驚かない男子はいない。いない、と断定するのは言い過ぎかもしれないが、少なくとも俺はそっち側だ。瞬時に走った頬の熱を持て余し、慌てふためくことしか出来ない。
「あ、でもね。部活のことは最初からちゃんと言うつもりだったんだよ」
目を丸くしたさんは、ほんのりと頬を赤らめて顔の前で手を振った。ぽかんと薄く唇を開いて、さんの言葉の意味を咀嚼する。
今のさんの言う〝かっこいい〟だとか〝意識〟というのは、あくまで自己紹介の内容に対する言葉だったのではないか。そう理解に至ると同時に、ますます頬が熱くなる。
勝手に〝俺自身が〟彼女にそう思われたのだと、十分すぎる誤解をしてしまった自分が恥ずかしい。めまいがするような心地に、ふらりと身体が背中側に傾く。だが、1歩も下がりきらないうちに腕が突っ張って動きが阻害される。
不思議に思うまま自らの右腕を視線で辿れば、黒い鞄を持つさんの手首を掴んでいることに気がついた。頭の中を大量のクエスチョンマークで埋め尽くした鈍い頭で、どうして俺が彼女の腕を掴んでいるのかの記憶を探る。
試合のビデオを巻き戻すように正確にとはいかないが、つい先程までの自分の行動が断片的に頭の中で再生される。さんに「樹くん」と呼ばれたシーンだけがやけに鮮明に頭に蘇ったが、今思い出すべきはそこじゃない。ぶんぶんと頭を左右に振り改めて記憶を辿ると、その言葉を投げかけられる直前、彼女の腕を掴んだのだと思い至った。
教室に戻る素振りを見せたさんを引き留めようという気持ちが働いたせいか、知らず知らずのうちに腕を掴んでいたらしい。目を強く閉じ、やらかしてしまった自分を恥じる。指先から力を抜けば、するりとさんの手首は俺の手の中から離れていった。
「昨日からホントごめん……気をつけます」
「いいよー。別に昨日のも今日のもいやじゃなかったから」
無遠慮に触れた俺に対し、さんはけろりと笑って受け流す。拒絶さなかった温情を無碍にしないためにも、今後本当に気をつけないとな、と自分自身を戒めた。うん、とひとつ頷いて唇と心を引き締めると、頭上でSHR前の予鈴が鳴る。
「そろそろ教室入んないとだね」
「だね。あ、でもちょっとだけ待って」
「ん?」
教室に入ろうと身体を引いた途端、昨日と同じようにブレザーの裾を引っ張られる。ドアへと向けていた視線を戻せば、難なくさんと視線がかち合った。
「これから1年間、よろしくね。私の命の恩人、多田野樹くん」
きゅっと口角を上げて笑ったさんは、こちらに向かって手を差し出した。
昨日も思ったけれど、さんは実直だ。真摯にこちらを見上げてくる瞳に応えようと思うと自然と背筋が伸びる。
試合後に交わす握手の記憶が重なって、戸惑うことなく反射的に差し出された手を取った。だが、取った手のひらのやわらかさに面食らってしまう。そりゃそうだ。男子と女子とでは身体のつくりがまるで違う。
――昨日の身体もそうだったけど、指先にいたるまで女の子ってやわらかいんだな。
馴染みのない感触に、そんなことをぼんやりと考えながらさんの手のひらをぎゅっと握り返す。
「こちらこそ、よろしくね。、さん」
さんの言葉をあえて意識して彼女の名前を呼んでみた。スマートにはいかなかったものの、さんがうれしそうに笑うものだから、自分から仕掛けたというのにこっちが照れてしまう。
さんの親しみやすい笑顔と、こちらの懐に軽く踏み込んでくる気安さは、自分の推しているアイドルグループの一員にいてもおかしくないのではという錯覚を覚えさせる。
――あぁ、こういう子にガチ恋したら、痛い目を見てしまうんだろうなぁ。
会って2回目にしてはやけに弾んだ会話を振り返り、そんなことを考える。
首の裏に集まりはじめた熱は思ったよりも高温で、少なくともSHRが始まる前までには消えてくれそうになかった。