春恋03

03


 夕食後、ランニングを兼ねて近くのコンビニへとひた走る。帰り道にマガジンとシャーペンの芯を買って帰る算段を整えながら大通りへと向かって足を進めた。
 遠回りをしながら30分ほどかけて駅の近くまで走る。折り返し地点として定めた場所をUターンし、寮へ向けて来た道を辿りながらどこのコンビニが一番近いだろうと考えていると、前方にうちの高校の制服を身に纏う集団が点在しているのが目に入った。
 寮の近くに住んでいる生徒が多いことはなんとなく察知していた。朝練を終えて学校へと向かう際、グラウンド前の坂道を歩く人々の中で稲実の制服を着ている生徒は少なくない。
 近くに中学校がいくつかあるらしいし、きっとその学校出身の子もいるんだろうな。
 そんな見当をつけながら走っていると、その中のひとつの集団に見覚えがあることに気がついた。
 ――否、集団というのは正解じゃない。
 その中のたったひとりに、自然と視線が吸い寄せられる。等間隔に設置された街灯の明かりだけが頼りの劣悪な環境では、5、6人の壁に阻まれるとほとんど姿は判別出来ない。だが、歩く度にチラリと覗くその後ろ姿がどうしてもさんの姿に似ている気がして、思わず目をこらしてしまう。
 制服の着こなし方や歩き方。楽しそうな笑い声。どれをとってもさんだと思えてならない。
 ――考えるというより、もはや期待してるみたいだ。
 自分で自分をからかったのは、浮かび上がった照れくささを誤魔化すためだった。道路の脇に視線を投げ、口元に浮かぶ自嘲の笑みを手の甲で汗を拭う仕草で誤魔化す。だが、それでも足りる気がしなくて下唇を噛みしめた。
 学校の外。しかも寮の近くで会えるのは、なんだか特別感があっていい。もしかしたらこの先、朝練がない日とか部活がない放課後だとか、学校を行き帰りする途中でさんと鉢合わせたりするかもしれない。
 思い浮かんだ情景に、噛みしめたはずの唇がむずむずと動く。緩みそうになる表情を取り繕うべく、きゅっと唇を引き締めた。前方へと視線を伸ばし、顎を引き身体全体に力を入れる。今、俺は走っているんだ。余所見してぶつかったり転んだりしてはたまらない。
 集中、集中。自分に言い聞かせるように気持ちを改めた。だが、彼女たちとの距離が縮まればそんな抵抗は空しく霧散する。数人の女子に囲まれて、ほとんど見えなかった姿が段々と浮き彫りになっていくにつれ、更に期待は高まった。
 ――やっぱり、あれって、もしかして。
 半ば確信しながらも確証には至らない。走る速度をほんの少しだけ緩めて、また彼女たちへと視線を流した。横目からでも一目でも目に入らないだろうか。一瞬でいいから、彼女がさんなのかどうか、見極めたい。
 でもこれは興味本位なんかじゃない。――そうだ。自分の動体視力を確認するためのものだ。そんな言い訳を用意しないと成り立たないような不純さを感じながらも、矛盾点から必死に目を背けたまま、彼女の背中を追った。 
 俺の視線に勘付いたのか、不意に彼女がこちらを振り返る。かちあった視線に息を呑むよりも早く、唇からその名前が紡ぎ出された。


「――さん?」
「多田野くん!?」

 交差した視線に引き留められるようにその場に足が縫い止められた。その反応は俺だけではなく、さんの足下にもまた現れる。互いに見開いた眼を外すことさえ出来ず、ぽかんと唇を開いたまま向き合った。
 数度、目を瞬かせてもなお、離れない視線に心臓が更に加速した。立ち止まったんだから普通は落ち着くはずなのに、と身に覚えのない緊張感に包まれたまま頭を捻る。だが、考えたところで明確な答えなんて出てくるはずがない。翻弄される心地と耳に直接叩き込まれているかのような鳴動を感じたまま、一心にさんを見つめた。
 一瞬か、それとも数秒にわたったのか。呆けたまま動けないでいる俺よりも先に、さんは硬直を解いたようだった。
 教室でしゃべるときと同じように緩く口元を綻ばせたさんは、集団の中から抜け出して、未だ戸惑いの渦中にいる俺の元へと駆け寄った。

「部活上がりだよね? おつかれさまー」
「ありがとー。さんたちも帰るとこ?」
「うん。そうだよー。多田野くんも?」
「いや、俺は寮住みだから、ランニングの途中で……と、言いつつちょっとコンビニに行こうかなって」

 正直な言葉を差し出すと、さんは「そうなんだ!」と相好を崩す。

「野球部の寮って、どのあたりにあるの?」
「あぁ、うん。まっすぐ行って、突き当たりを右に曲がったらすぐのとこだよ」
「え!?」
「うん?」

 驚いたように声を上げたさんは、慌てふためいたように自らの口元を手のひらで覆う。

「あ、えっと。ごめんね。ちょっと驚いちゃって……その、向こうって野球部のグラウンドあるよね。その近くってこと?」
「? あぁ、うん。なかなか知られてないかもだけど、実はグラウンドの敷地内にあるんだよね、寮」
 
 さんの歯切れの悪い様子に内心で首を捻りながらも、道の先を指さして示せば、一歩こちらへと身体を傾かせたさんが俺の示した道の先を覗き込む。不意に縮まった距離に、喉の奥が詰まるような心地を覚えながらそっと視線をさんへと落とした。
 肩にかけたスクールバッグを掴む手の甲や、さらりと肩に流れ落ちる髪の毛のやわらかさに意識が傾いていくのがいやでもわかる。
 ドギマギとした心境を誰にもバレていないといいんだけど。そんな望みを抱いてしまうのは、さんの周りにいた女子たちの視線が俺へと差し向けられているせいだ。
 どことなく居心地の悪さを覚えながら、首の裏を手のひらで覆う。立ち止まったことでじんわりと浮かび上がった汗を手のひらでなすりつけ、せめてもの抵抗とばかりにさんから視線を外した。

「えっと――それじゃ、その。そろそろ……」
、ウチら先に帰るよ」

 ――ランニングに戻るね。バイバイ、また明日。
 そんな言葉を残して走り去ろうとした。だが、その言葉を紡ぎきるよりも先にさんと一緒にいた子の中のひとりが口を挟んだ。

「あ、うん。また明日ね!」
「じゃあね、

 友人らへと視線を戻したさんは、おおきく手を振って彼女らを見送った。ふたりだけで残されることに戸惑いを覚え、遠くなる背中とさんの顔とを見比べる。

「……よかったの?」
「うん。いつも一緒に帰ってるし、家ももうすぐそこだから、大丈夫だよ」

 見送った後に確認するのはずるい気がしたが、どうしても気になってしまう。言葉を詰まらせながらも尋ねると、さんはあっさりとした態度で頷いた。
 女子はいつも一緒に行動しているもんだと思っていたが、案外そうでもないらしい。まぁ、たしかに俺も野球部内での団体行動を乱すことは無いが、それ以外で四六時中一緒にいるかと問われれば、そういうわけでもないしな。
 新たな認識を納得して受け入れ、遠くなった背中に一瞥を投げかけると、さんの友人らがこぞってこちらを見ていることに気がついた。驚いて目を見開くと、そそくさと視線が外される。あまりいい印象を抱きづらい彼女たちの態度に、ほんの少しだけうろたえてしまう。

「……俺、なんかしたかなぁ」
「なんかって?」
「いや、ちょっと――その、視線が厳しい気がして」

 睨まれているわけじゃない。だが遠目からもきっちり顔を見られたことを思うとすんなりとは流し難い。
 落ち着かない心境に陥った理由は単純明快。他人から好奇心を向けられることに慣れがないせいだ。もし、女子から視線を向けられる対象が鳴さんだというならまた違ったんだろう。だが、今回の視線の先にいるのは俺だ。入学以来、良い意味でも悪い意味でも、特に目立つことなく過ごしてきたと自負している分、納得のいかない気持ちがただただ膨らんでいく。
 抱え混んだ当惑を御しきれず、胸の前で腕を組み、それでも足りずに頭を傾ける。さんの友人らから注目されることに対し、思い当たる節がなさすぎる。何も思いつかないが、それでもなにか出てこないかと考えあぐねていると、じっとこちらを見上げていたさんが唇をきゅっと結ぶのが視界の端に入った。

「うーん。たぶん、ちょっと確認されたのかも」
「確認?」
「うん」

 軽く頭を揺らしたさんは左手を自らの頬に触れさせ、俺から外した視線を夜空へと向けた。

「あーぁ。今頃きっと〝あれがの大好きな多田野くんかー〟なんて、言われてるんだろうなぁ」
「へっ!?」

 さんの突然の発言に声がひっくり返った。ほんのりと頬を赤く染めたさんは、添えたばかりの手のひらをぱたぱたと動かし、自らに風を送り込む。
 きゅっと唇を結んださんは一瞥を俺に流した視線を友人らへと向けたのち、道の脇、空へとそれぞれへ視線を転じ、そしてもう一度こちらへと視線を戻す。交差する視線に顔から首へ、そして全身へとじんわりと熱が広がった。

「そっ……それは、ダメじゃない?! 早く撤回しないと!」
「いいよー。あながち嘘じゃないし」
「えぇ?!」

 重ねられた言葉にますます驚いてしまう。〝大好きなのは嘘じゃない〟という発言を、言葉通りに捉えていいのか判断がつかない。上がりきった熱が目元にも現れ始めたのか、風景が滲んでいく。反射的に自分の首筋に手をやれば、耳の後ろのあたりが異常に熱くなっていることに気がつく。先程まで走っていたというのを差っ引いても、今のさんの言葉に触発された熱だというのは明白だった。

「ちょ……ちょっと、話しかけただけでそんな噂するなんて女子って怖いね」
「ふふ。ちょっとじゃないよ。前からね、多田野くんのことは話してたから。だから特別」

 誤解してしまいそうな言葉を、他意のないものだと証明できるように、あえて逃げ道を作ったつもりだった。だが、どうしてかさんはそれを無視して切り込んでくる。与えられたばかりの誤解に、急速に気持ちが傾いていく。
 もしかして、の気持ちがどんどん膨らむのを誤魔化すように、襟首あたりの髪の毛を指全体でひっつかむ。入学を前に切りそろえたばかりの髪はほとんど指にかからなかったが、それでも痛みが走れば膨らみかけた気持ちから目をそらすことが出来た。

「特別って――」
「なんてったって、私の命の恩人ですから」

 熱の走る頬はそのままに、はにかむように笑ったさんが、物怖じせずに言葉を紡ぐものだからそのギャップに面食らってしまう。
 入学式の日の階段での出来事を言っているのだろう。初めて挨拶を交わした際にも伝えられた〝命の恩人〟というフレーズをまたしても耳にするとは。映画やアニメの世界なら耳にしても違和感はないが、さんにとっての恩人という立場に自分が立たされているのを知るとなんだかむずがゆくて仕方が無い。
 だが、それで先程のさんの言葉にも納得がいった。自らに降りかかった災難を未然に防いだ相手を好意的に捉え、それを友人に伝えたら〝大好きな〟とからかい混じりに称されてもおかしくはないのかもしれない。
 好かれているなんて思い上がりも甚だしい。そんな言い訳じみたブレーキを踏んだのは、たった一度の好意的な出来事で、さんの気持ちがまるで自分にあるかのように勘違いをしてはならないという戒めだった。
 さんを前にすると、体温がプラス一度上がるような心地がするのは、あくまで俺の中に起こる現象で、そこにさんの気持ちを勝手に当てはめるのは違う。
 期待するのはまだ――。
 そこまで考えた途端、思考が止まった。

「ダメだった?」
「え?」

 自分の中に浮かび上がりかけた感情を暴く直前にかけられた声に目を瞬かせる。ぼうっとした視線をさんへと向ければ、きゅっと唇を結んださんと視線がかち合った。

「その、友だちに多田野くんに助けられたこと言ったらダメだったかなって」
「う……ダメじゃ、ないけど――ちょっと、恥ずかしいかな?」

 入学して1週間経つかどうかの時期に他のクラスの女子の間で自分の噂が流れていることに対し戸惑いを覚えてしまうのは致し方のないことだと思う。しかも100%好意に満ちたものだと知らされると、そのむず痒さは増大する。

「ごめんね。多田野くんを困らせるつもりはなかったんだ。ただ、ホントに助けてくれたのがすごくかっこよくて、少女漫画みたい! って思うと黙ってるの難しかった」

 眉を落としたさんは、心底すまなさそうな表情で俺を見上げる。どうやら俺の羞恥を〝噂されること〟だと誤認したらしい。
 実直な眼差しには微塵も悪意が感じられない。本当に、起こった出来事を素直に話しただけなんだと、その目を見れば信じられた。

「噂されても別に困んないから大丈夫だよ」
「ホント?」
「うん」

 頭を軽く揺らして応じると、さんは心底安心したように息を吐いた。

「よかった……でも、ちゃんと話しとくね。少なくとも多田野くんには迷惑がかからないように気をつける」
「迷惑とかは気にしなくて良いけど……」

 俺は別に男だからなにを言われても大丈夫だけど、そういう噂話の類いって女子の方が気にするんじゃないだろうか。
 ふと思いだすままに、中学生のころを振り返る。誰が誰のことを好きだとか。誰と誰が付き合っているだとか。騒いでいたのは男子も女子も同じだったが、泣き出すほどの抵抗を見せたのは女子だけだった。
 傍目から見てもしんどそうだな、と思っていた渦中にさんが身を落とすのはあまりいいこととは思えない。
 ――さんは大丈夫なんだろうか。その、俺を好き……だなんて噂が流れても。
 想像しただけでさらに体温が上がりそうな妄想を頭に浮かべ、さんへと視線を落とす。だが、さんが心配する風でもないのを目にし、杞憂に過ぎないことを感じ取る。

「信頼してるんだね」
「長い付き合いだもん。それにちゃんと話したらわかってくれるし、無責任な噂話をよそで流すこともないから」
「そっか。……いい友だちっぽいね」
「まぁ、仲間内ではからかわれるとは思うけど」

 それもまた楽しみだったりして。
 そんな言葉をぽつりとこぼし、ふふ、と笑ったさんの言葉に、ほんの少しだけその現場を見たいな、だなんて思ってしまった。



error: Content is protected !!