04
「そろそろ帰ろっか」
会話の切れ目を機に、そんな言葉を投げかける。
弾むままに会話を続けた結果、さんの友人らと別れて随分と時間が経ってしまったような気がする。ポケットに入れたままにしていたストップウォッチを取り出して確認すれば、走っていればそろそろ寮に帰り着いていてもおかしくない程度の時間が経過していることに気付く。
距離的に逆算すれば立ち止まっていたのは10分も経っていないと思うが、さんの帰宅時間をこれ以上引き延ばすのはよくないだろう。
「多田野くんはどうするの? このままコンビニ行く?」
「そうだなぁ……ちょっと買わないといけないものもあるし、見かけたら寄ろうかな」
まゆゆがグラブを飾るマガジンはもとより、シャーペンの芯が切れかかっていることを頭に浮かべながら立ち寄るか寄らないかを秤にかける。予定よりも遅くなってしまったから明日、学校の売店で買ってもいいんだろうけれど、買いそびれる打ちに本格的に切れてしまいそうな予感もある。覚えているうちに買った方が賢明だろう。
自ら出した結論に、うん、とひとつ頭を揺らした。
そうと決まれば、と気持ちを改めれば新しい目的が頭に浮かぶ。
「さんの帰り道って、どっち?」
「え?」
コンビニに寄る前に、ちゃんと男としての義務ってやつを果たすべきだろう。そう思い、こちらを見上げていたさんへ視線を合わせ、帰り道を訪ねるとさんはほんのりと目を丸くした。合わさっていた視線をちらりと道の脇へと外し、口元に指先を添えた彼女の言い淀むような仕草に、首を傾げる。
――そう言えば、さっきも寮の場所を伝えたら驚いてたな。
つい先程の記憶を思い出しながら、さんの言葉を待っていると、躊躇いがちにこちらを見上げたさんはうっすらと唇を開いた。
「……実は割と練習場の近くだったりして」
「え? そうなの?」
「うん、だからさっき寮の場所聞いて驚いちゃった。グラウンドがあるのはさすがに知ってたんだけど、まさか寮も近くとは思わなくて」
「あぁ、そういうことか」
さっきのさんの態度も、今の態度もその一言で納得がいく。学校の設備と家が近いことを隠したがる気持ちは、なんとなく理解できた。
「じゃあ、あんまり知られたくなかったよね。ごめん、無理に聞いたみたいで」
「ううん! あとでちゃんと伝えようとは思ってたよ! でも、その、改めて聞かれるとちょっと恥ずかしいね。……気の抜けた服で外に出ないように気をつけないとなぁ」
ほんのりと頬を赤く染めたさんは、手のひらを頬に押し付け頭を傾ける。照れくささを誤魔化す仕草に俺の口元が自然と緩んだ。
「大丈夫だよ。野球部の奴らなら大体こんな感じだし」
Tシャツにジャージ。しかも汗まみれ。気の抜けたなんてもんじゃない。トレーニングウェアだから仕方が無いとはいえ、カルロス先輩の全裸に比べたらいくらかマシという程度の格好だ。
自虐ではなく純然たる事実を告げた俺に、さんは明るい声で笑う。
「男の子はそういうのでも格好がつくからいいんだよ」
「でも俺、多分似たような服で寝るよ? パジャマレベルだよ」
「うーん。そう聞くと段々かわいく見えてきた……」
「なんで?!」
口元に手をあてじっとこちらを見つめるさんは、今まさにかわいいかかわくいないかの判断を下しているのだろうか。あからさまに見られていることが途端に恥ずかしくなる。首の裏に生まれた熱はそのままに「見ないで」と言う代わりにさんの目の前に両手のひらを掲げて抵抗する。
慌てふためく俺を見上げたさんは、目を細めて笑った。からかわれたのか本心からなのか判別はつかないが、その笑顔さえもがこちらの照れくささに拍車をかける。
「ほら、もう! こっちばっか見てないで帰ろっ!」
「ふふ、はーい」
身をよじり、向けられた熱視線から逃れながら半分叫ぶように伝えると、さんから鼻歌のような返事が返ってきた。生まれたばかりの熱を逃すようにTシャツの襟元に指を差し入れ空気を送り込む。
「あ、そうだ。さっき、言いそびれちゃったんだけど、もう遅いから、近くまででよかったら送っていくよ」
「え、でも多田野くん、トレーニングの途中だったんじゃない? 送ってくれるのはすごく嬉しいけど……」
「そこを突かれると心苦しいな……。でも、いいよ。今日はさんの帰り道の方が大事。暗くなっちゃってるしこのまま帰すのも心配だから」
反対方向であっても、さんが望むのであれば送るつもりでいた。だが、彼女の家と寮が近いのであればなおさら送らない理由がない。
「多田野くんの方こそ帰り遅くなっちゃうけどいいの?」
「大丈夫だよ。このあたり出歩くのにもちょっとは慣れてきたところだから」
「じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな。――あ! あんまり早くは走れないから手加減してくれると嬉しいです」
「はは。そこはちゃんと歩くよー」
俺がランニング途中だったからせめて走ることで少しでもトレーニングになるようにと考えてくれたのだろう。さんが真面目な顔をしていうものだから思わず笑ってしまった。
今日のランニングは寮からここまできっちり走った分と、明日からほんの少し走る距離を伸ばすことで精算すればいい。歩いて帰ることになれば更に帰り着く時間はずれ込むが、最悪、風呂の時間までに帰りつけばなんとかなるはずだ。
「じゃあ、帰ろっか」
「うん!」
向き合っていた体を帰路へと向け、揃って帰り道を進む。並んで歩く道すがら、さんがこんなに夜遅くに学校の友人らといた理由を尋ねた。
「今日はたまたまだよ。部活のあとに同じパートの1年だけでミーティングしてたらこんな時間になっちゃった」
「部活?」
「うん。ブラスバンド部なんだ、私」
ブラスバンド。口の中でその単語を反芻し、右手を掲げたさんの持つ黒い鞄に目を向ける。いつも持っているその鞄はどうやら楽器を入れるためのものだと見当をつける。
「そうだったんだ。……あれ? 自己紹介の時も言ってたっけ?」
「多分、言った……かな? 1週間も前のことだし、結構うろ覚えだけど」
「なんとなく聞いた気がするんだよね。言ってなくても誰かが噂してんの聞いたとかかも」
「うちのクラスにも何人かいるもんね。パートは違うけど」
「パートって楽器のことだっけ? さんはなに演奏するの?」
「トランペットだよ」
まるで頬ずりするように抱え混んだ鞄に首を傾けたさんは心底嬉しそうに口元を緩めた。大事だと告げられるよりも強く印象づけられると同時に、階段から落ちそうになった際に自分の身体よりも先に鞄を守ろうとしたさんの姿を思い出す。
「トランペットかー。いつか聞いてみたいな。文化祭とか演奏会があるといいんだけど」
「それよりも先にチャンスはあるんじゃない?」
「え?」
「野球部の、夏の大会!」
やや興奮気味ながらも、華やぐような笑顔を浮かべたさんの言葉に目を瞬かせる。
野球部の応援と耳にし、思い浮かんだのは母親らの姿だった。次いで、手拍子とまばらに響く声援が耳に蘇る。そうでは無いのだと、さんは言った。
――シニアでは自分たちの身内の応援だけだったけど、高校では学校の応援も入るんだっけ。
思い至った想像に呆気に取られたのも一瞬で、その言葉が耳に馴染む頃には開く展望に目が眩むような思いがした。咄嗟に思い浮かばなかった想像がリアルな幻想として頭の中に思い描かれていく。
俺が扇の要を守りその裏で打席に立つ時、さんがアルプスでトランペットを鳴らす。そんな未来が来る、かもしれない。
「だからいつか、野球部の応援に行って、多田野くんの打席でトランペットを吹けるの密かに楽しみにしてるんだ」
今、まさに思い描いたばかりの未来を口にするさんに、ぐっと喉の奥が詰まるような心地がした。
春のセンバツ。夏の甲子園。テレビを通して馴染んできた風景。その景色を、他ならぬ自分自身が作り出すのだ。さんの音色を背に――。
いつか起こるかもしれない未来を前に、簡単に気持ちが高揚する。
「勝ち進んだらブラバンも入るもんね。昨年の試合でも迫力あってかっこよかったの覚えてるよ。そっか、俺も応援されるかもしれないのか……」
実際、ブラバンが入るのはいつからだろう。公式戦でも結構進んで、準決勝くらいにはならないと来てもらえないんだろうか。まだまだ入学したてということもあり、高校野球の応援の実状に疎い。
まぁ、稲実がそう簡単に負けるとは思えないけれど――。
鳴さんの言葉を借りるのであれば〝目指すは日本の頂点〟。つまり全国制覇だ。入ったばかりの若輩者が誇るのはおこがましいかもしれないが、頼もしい先輩たちがそう簡単に負けるとは思えない。
西東京地区。並みいる強豪校のすべてを倒し、日本一になるのは稲実だ。思い描いた未来を、夢で終わらせるわけにはいけない。
――その輪の中に、俺も入らなければ。
身体の横に下げていたままだった手をぎゅっと握り込む。先輩方の背中を追うだけではなく、並ばなければいけない。胸の中で誓いを新たにする。
黙り込んだ俺を見上げていたさんと視線を合わせる。生まれたばかりの誓いを宣言されてもさんを困らせるだけだとは理解している。だけど、胸にある熱を無視することもまた出来なくて、自然と目元に力がこもった。
交差する視線を受け止めかねたのか、さんは目を瞬かせ戸惑いをあらわにする。揺れ動いた視線が、それでも離れていかない。じっと見つめたまま、一度頭を揺らした。頑張るね、だなんて口にしていないからさんになにかが伝わる訳がない。だけど、唐突な俺の仕草を見たさんは、なにも言わず、うん、とひとつうなずき返してくれた。
「だから多田野くんの好きな曲とか使いたい曲があったらちゃんと教えてね」
「どんな曲でもいいの?」
「楽譜があれば大丈夫だと思うけど……ないと難しいかな?」
「そっか。じゃあ考えて選ばないとな」
最近では甲子園でもAKBの曲が流れていたりするし意外と昔ながらの曲にこだわらなくてもいいみたいだけど、あまりにもコアな曲だと楽譜がないのかもしれないのか。その線引きが難しいなと呻けば、さんは何曲か提案してくれればいいよと笑った。
「でも多田野くんが好きな曲なら絶対に探し出してみせるから!」
「いいの?」
「任せなさい!」
トン、と自分の胸を叩くまねをしたさんは歯を見せて笑う。自信満々なその表情に、根拠なんてなにもないのにきっとさんなら見つけてくれるんだろうなと信じられた。
熱くなったばかりの胸のうちに、また別の熱が生まれる。それは、触れられないような熱さではなく、とても心地の良いあたたかさだった。
――あぁ、なんて言うんだっけ。こういうの。
覚えの無い感覚に戸惑うよりも先に、今はただこの感情に浸っていたい。そんな気持ちに後押しされれば自然と口元が緩み、優しくしたい、なんて考えが頭をよぎった。
「楽器、重くない? 持とうか?」
「え? どうして?」
「あ、いや……重いのかなって。あと俺だけ手ぶらなのもちょっとどうかな、と」
きょとんと目を丸くしたさんにしどろもどろの弁明を続ければ、さんは困ったように眉尻を下げる。
「もしかしていつも、その……彼女の鞄とか、荷物とか持ってあげてるの?」
「えぇ?! いや、違うよ! 彼女とかいたことないし!」
焦るあまり、彼女いない歴=年齢であることを白状してしまう。そこまで正直に言う必要があったのか。いや、絶対にない。紛うことなく失言だ。両手のひらを揃えて口元を隠すが出した発言は引っ込めようがない。
慌てて背けた視線をさんへチラリと戻し反応を窺う。ぱちくりと目を瞬かせたさんはほんの少し驚いているように見えたが、動揺しっぱなしの俺を目に入れるとほんのりと眉尻を下げた。
「そっか。でもこれ、いつも持ってるものだし、慣れてるから平気だよ。ありがとね」
「あ、うん……変なこと言ってごめん」
「ううん。でも意外だなーって」
「ん?」
歯切れの悪いさんの言葉に首を傾げながら口元を隠していた手を下げると、さんはきゅっと唇を引き締めて俺を見上げた。
「多田野くんに彼女いないの。――多田野くん、優しいから。もう誰かのものでもおかしくないなって思ってた」
実直な視線がこちらへと向けられる。重なった視線に、先程以上に身体の芯から熱が走る。羞恥に似た感情に覚えがなくてただただ戸惑うことしか出来ない。
「いやいや、買いかぶりだよ! 15年間生きてきてそんな素振り一度も感じたことないから!」
「……謙虚だなぁ。気付いてないだけだよ、きっと」
「そんなことないって!」
どうやら、思いのほかさんの中での俺の評価は高いらしい。いくら否定してもさんはそのすべてを謙遜だと思っている節があった。
これも命の恩人効果ってやつなのだろうか。まさかたった一度の出来事でこうも好意的に捉えられてしまうとは。
初対面の印象が良すぎると、そのうちがっかりされてしまいそうだ。
――過大評価は困るけど、失望はされたくないな。
胸の内にほんのりと点った考えに、自然と眉尻が下がる。だが、そんなまだ来てもない未来を怯えてなんになる。考えを振り落とすように頭を横に振り、それだけでは足りなくて気落ちした自分自身を叱咤するように、右頬を叩いた。
――いつか失望されてしまったら、じゃない。失望されないようにちゃんとしないと、だ。
気を引き締め、改めてさんへと視線を戻すと、さんは相変わらずまっすぐにこちらを見上げていた。この真摯な瞳も、好意の表れなんだろうか。きらきらとした視線に過剰な期待が含まれているのではと思えば、固めたばかりの決意が怯みそうになる。
「じゃあ、慣れてないのに優しいんだね。根っからの性格がいいってことかー」
「あ、いや、鞄を持たされるのは慣れてるけど……」
「えぇ?」
またしても誉めそやされそうな気配を感じ、あえて別の話題へと方向転換させたがその道はあまりいいものではなかったらしい。口元に手を当て、眉根を寄せたさんはオロオロとうろたえているように見えた。この動揺を見るに、もしかしたらいじめかなにかに巻き込まれていると誤解されたんだろうか。
「あー。俺、その、鳴さん――あ、野球部の、成宮鳴さんって知ってる?」
「え? えっと。うん、ちょっとだけなら」
困ったような表情はそのままに、さんは親指と人差し指の間を2センチほど開いて示した。
「鳴さんがね、投手なんだけど。ちょっと、いや、かなりわがままでさ。肩に負担掛けたくないとか、今アイシングしてるからとか、なにかと理由をつけては、エナメルとか道具とか持たされるんだ。だからそれ、癖づいちゃってきてるのかも」
入学して間もないというのに、鳴さんは俺を標的にした。新人のキャッチャーと見るや否やの判断だった。慣れてしまったというのは早いかもしれないが、部活の練習前後に関わらず、なにかと荷物を運ばされることを思えば慣れたと評しても間違っちゃいないだろう。
「そうなんだ……。ホント紳士だねー、多田野くん。悪い女の子に騙されたりしないでね」
「うっ……どうだろ、それは」
騙されるかどうか。恋愛の免疫がない俺に果たして相手の思惑を見抜けるんだろうか。
ちらりとさんへと視線を向ける。視線が落ちてきたことに気付いたのか、まっすぐに前を向いて歩いていたさんがこちらを振り仰いだ。ほんのりと口元を緩めて、首を傾げるその仕草に、きゅっと唇を引き締める。
さんに騙されるのなら、それはそれでアリだな。
ふと、頭を過ったその考えに、自分自身が一番驚いた。さんが俺を騙すメリットなんてあるわけがないし、そもそもまだそんな関係じゃない。
――そんな関係って、まだって、なんだよ!
自分で考えたばかりの内容に即座にツッコミを入れる。それじゃ、まるで、まるで――。
「あ、そろそろ寮だよね? 私の家、この先だから」
巡り始めた思考の渦を断ち切るようなさんの言葉に、咄嗟に暴きかけた正体に蓋をする。
「そうなの? そっちまで送ろうか?」
「ううん、もうホントすぐそこまで見えてるから大丈夫だよ」
やんわりとした拒絶にほんの少し肩を落とす。だが、あまり近くまで送るのも踏み込みすぎかもしれない。クラスが同じなだけの男子に自宅まで知られるのはあまりいい気持ちじゃないだろう。そう思い直し、そっか、と承諾を示すべく頭を揺らした。
隣に並んで歩いていたさんがくるりと身を翻し、俺の正面へと回り込む。かち合った視線は相変わらずまっすぐに俺へと伸びてきた。
「送ってくれてありがとう。多田野くんと喋りながら帰るの、楽しかったよー」
「ホントに? じゃあまた見かけたときは声かけようかな」
「そうしてくれるとうれしいな。私も見かけたら声かけてもいい?」
「もちろん! ……っと、また話し込んじゃったらダメだよね。それじゃ、もうちょっとかもだけど暗いから気をつけて。また明日」
「うん。また明日ね。多田野くん」
ゆるりと笑ったさんにつられたのか、こちらもまた口元に笑みが浮かび上がる。やわらかな微熱を伴ったような心境が胸の内に広がっていくのを感じながらお互いに手を振り合い、それぞれの家路へとついた。
ほんの少し、歩き始めたところだった。後ろ髪を引かれる思いに背を押され一度振り返れば、ちょうどさんもまたこちらを振り返っていた。十数メートルも距離のある夜の住宅街。頼りになる明かりは街灯のみという劣悪な環境の中にあっても、目が合った瞬間、ほどけるようにゆるんださんの笑顔だけはくっきりと目に焼き付いた。