春恋06

06


「なぁ、樹! ってどの子?」

 昼休みも半ばを過ぎ、学食で腹を満たして教室に戻れば隣のクラスの江崎がとんでもない質問を抱えて駆け込んできた。突然の来訪者がもたらした話題に、周囲の注目がこちらに向けられる。
 ざわめく教室中から〝なぜこいつに聞く?〟とでも書かれているような視線を感じ取り、慌てて人差し指を自分の口の前で立てる。俺の行動にきょとんと目を丸くした江崎は、ほんの少し反応が遅れたもののようやく周りの注意が自分に集まっていることに気がついたらしく、俺の前の席の椅子を引いて小さくなって座った。

「なんでいきなりさんなんだよ」
「いや、結構かわいいってこっちのクラスでも噂になっててよ。正統派っつーの? 今年の学年ベスト5当確って話だからさ。見てみたくて……」
 
 声を潜めて尋ねれば、同じトーンで答えが返ってくる。江崎の言葉に耳を傾けながら、そっとさんへと視線を伸ばす。
 教室に戻ってきて、最初に目に入ったのはさんだった。思い返せば今朝もそうだった。騒がしいとか逆に孤立しているとか特別な理由なんてないのに、自然とさんの姿が目に入る。
 戻ってきたときと同じように、黒板の前にある教卓の周りを仲の良い女子と囲んださんはなにやらうれしそうに喋っている。その女子たちが「中学のころからの友だちなんだ」なんて教えてもらったのは月曜日の移動教室のときだったっけ。
 ――相変わらず楽しそうにしゃべっているな。いいなぁ。
 さんが笑う度に、そう思う。ただそれは彼女が学年で5本の指に入るほどかわいいから、なんて理由だとは思いたくない。アイドルならともかく、クラスメイト相手にはしゃぐのはちょっと違う。
 ミーハーな考えでやってきた江崎を非難するつもりはないが、どうしてかそんな抵抗めいたことを考えてしまった。
 妙なこだわりが俺の頭を過ぎると同時に、ふと、さんと交わした握手の感覚が蘇る。握り返した手のひらの感触を逃したくなくて、机の上で開いたままだった手のひらをそっと握り込んだ。

「樹?」
「――え?」
「どうしたんだよ、急に黙り込んで」
「いや、ちょっと……うん、なんでもないよ」
「そうか? まぁ、いいや。で、どうなの? 今は教室にいるの? 
「……いるけど」
「どこ?!」
 
 言葉を重ねるごとに心底楽しそうに声を弾ませる江崎に、なんだか釈然としない気持ちを抱えたまま教卓を指し示した。身を乗り出して「誰?」と尋ねる江崎に、彼女の特徴を挙げるが、5、6人もいるとなかなか合致させるのが難しい。
 呻く江崎が「いっそ今から話しかけてきてくれよ」なんて言い出したものだから「無理だよ」とたしなめる。あぁだこうだと言葉の応酬を続けたが一向に当たる気がしない。ベスト5だという割に意外と当たてくれない江崎に、次第に困惑が募っていく。

「なぁ、頼むからもう諦めてくれよ」
「えぇー。じゃあ今度さ、写真撮ってきてくれよ。お前とツーショットでも良いから」
「余計出来るわけないだろっ!」
 
 思ったよりもおおきな声が出た。慌てて自分の口を手のひらで覆ったがそんなことで取り繕えるはずがない。無遠慮な視線が自分に降り注ぐのを感じながらそっと息を詰める。
 ――さんに変なやつだって思われていないだろうか。
 チラリと教卓へと視線を向け反応を窺ったが、自分たちの話の方が盛り上がっていたらしく、彼女たちの中の誰ひとりとしてこちらを振り返ってはいなかった。安堵の息を吐きながら前傾していた身体を起こし、椅子に背中を預ける。そのまま首を反らして天井に視線を向けながら、ほんの少しだけ唇を尖らせる。
 小学生じゃあるまいし、はしゃいでひとの気を引こうだなんて思わない。だけどまるっきり眼中にないのも結構堪える。
 俺がさんにすぐに気がつくのなんて、所詮、一方的なものだ。だから俺が何をしていようが彼女が気付かないことを嘆く必要なんてない。それどころか今、さんは友だちと談笑しているさなかだというのに、単なるクラスメイトの俺に気を払う必要なんてあるもんか。
 はぁ、とひとつ息を吐き、腹筋に力を込めて身体を戻し、江崎へとまた言葉を掛けようとした。だが、口を開くよりも先に、さんがこちらに視線を向けている姿が目に入る。交差した視線に、喉の奥が一瞬で詰まるような感覚が走った。
 唇を引き締めて硬直した俺がおかしかったのだろうか。さんは口元に緩いカーブを描き、教卓にもたれるようにして組んでいた腕をほんの少しだけ動かした。指先が揺れる。手を振る、というにはあまりにも小さな反応だ。だけど俺の胸をおおきく打つには十分だった。
 机の上に手の底を当てたまま、さんがそうしたように指先だけで手を振ってみる。ちゃんと伝わったのだろう。さんは目を細めて笑い、また彼女たちの会話へと戻った。

「どうした? 樹」

 身体の中心に集まりはじめた熱を持て余していると、ずっと教卓を見つめていたらしい江崎がこちらを振り返る。先程、さんへと翳した手のひらを隠すように首の裏へと持って行き、視線を合わせられないまま江崎の質問に応じる。

「……今、こっち見てたのがさん」
「マジで?! おまっ……そういうのは早く言えよ!」
「ごめん……」

 指先でうなじの溝を引っ掻いていると、江崎は「さっき振り返ってたのは……」とつぶやきながらさんの姿を探す。見当がついたのだろう。江崎は感嘆の声を上げた。

「はいはいはい! なるほどね……。あー、あれはモテるだろうな」

 したり顔で言う江崎はうんうん、となにやら胸の上で腕を組んで頷いている。顔や雰囲気で〝モテる〟と断言する江崎は、さんに興味を持ったんだろうか。
 ――かぶったら、困るな。
 ふと、そんな考えが頭に浮かんだ自分に驚いた。息を呑み、目を見開いて机の上に視線を落とす。
 ――困る、って何が?
 自らの疑念を追及しようとしたが、考えるよりも先に江崎がこちらへと体勢を戻したのが目に入り、生まれたばかりの思案が霧散する。違和感を追いかけるか否か。逡巡する間もなく、江崎が話しかけてくれば諦めるほかなかった。

「で、樹はどうなの? と喋ったりするわけ?」
「そりゃ、クラスメイトだもん。少しくらいなら喋るよ」

 朝、学校で顔を合わせれば「おはよう」と交わし、食堂で昼食を摂って教室に戻れば「おかえり」だなんて軽い言葉が飛んでくるから、俺も「ただいま」なんて返すようになった。目が合う度になんらかの会話は生まれる。仲が良いかと聞かれればストレートに肯定することは憚られるが、俺にとって今のクラスで無難に話が出来る女子はと聞かれれば「さんだ」と答えるだろう。

「いいなぁ。俺のクラスにもああいうかわいい子がいたらハリが出るんだけどな」
「そっちは誰かいないの? 他のベスト5のひと」
「いないんだよなぁ……。なぁ、聞いてくれよ。杉のクラスには3人もいるんだぜ? ひとりくらいわけてほしいよ」

 不公平だ、とぼやく江崎は、どうやらさん単独に気があるというわけではないようだ。ほんの少し安堵の混じった息を吐き、改めてさんへと視線を向ける。今度はこちらの視線には気付かなかったようで、さんは相変わらず軽い笑い声とともに友だちとの会話を楽しんでいた。

「こうなったら樹にFAしてもらって俺がその人的保証でこのクラスに入るしかないな」
「そんな制度無いよ」
「知ってるけどさぁ。……あー、ホンット羨ましい通り越していっそ妬ましいわ……」
「はは」

 諦めの悪い江崎は嘆くあまりに机の上に額を押し付ける。ぼやく声を聞き流しながらそっとさんへと視線を流した。
 さんが〝かわいい〟か〝かわいくない〟かの二択なら間違いなく前者だ。ほかの女子に囲まれていたってさんが一番に目に入る。それだけ彼女に人の目を引く魅力が備わっているからなんだろう。
 ただ、江崎みたいにまるでアイドルのように祭り上げる気持ちにはなれなかった。

「……アイドルだったら好きに推せるんだけどな」

 ぽつりとこぼれた言葉に、江崎がのろりと身動ぎする。立てた肘にもたれ掛かり、俺を見上げた江崎は顔を顰めて口を開く。

「なんで? 推せば良いじゃん」
「いや、変だろ」
「いやいや、あのレベルなら推してもおかしくないだろ。お前好きじゃん、アイドル」
「好きだけど……でも同級生をそういう目で見るのは違うだろ」
「そういうって?」
「だから……こう、推すとか推さないとか、手の届かない高嶺の花に置くとかそういう……」
「あぁ、アイドルじゃなきゃ普通に恋愛してもいいもんな」

 あっけらかんとした江崎の発言に、返す言葉が見つからない。ぽかんと口を開いたまま固まってしまう。
 さんに対し恋愛感情を抱いても構わない。突然差し出された免罪符は、高嶺の花に据えることよりもよっぽど生々しい。
 だが、冷静になって考えろ。同級生に対していきなり恋愛フラグを立たせるなんてラブコメアニメだけの特権だ。〝高校球児でも恋がしたい!〟だなんてものは俺の身に降りかかるような話じゃない。
 そこまで考えた途端、唖然としてしまう。
 ――え。俺は、さんと恋がしたい……のか?
 身体の奥にある熱だとか、やけに浮き立つ心だとか。散りばめられた伏線を拾い集めたら確定してしまいそうな事実を前に愕然とする。
 野球をするために稲実に入った。その決意は揺るぎようがない。だからこそ、恋なんてしてる場合じゃない。
 ――それにまだ出会ったばかりなのに……って出会ったばかりじゃなかったら恋に落ちるのかよ!
 わからない。自分の心境が本当にわからない。ぐるぐると頭の中を巡り始めた考えに翻弄され、絶句する俺に気付かない江崎は、「あぁー」と大仰に溜息を吐きながら身体を起こした。

「まぁ、いいや。どうせうちのクラスにはかわいい子はいねえ」
「……江崎、それ絶対にクラスで言っちゃダメだぞ」

 言ったら1年どころか3年間、女子から無視される可能性がある。もしかしたらすでに隣のクラスの女子が潜り込んでいて江崎の発言をクラスででリークするかもしれないがそこまでは俺も面倒見てやれない。

「わかってるって」

 軽い返事を残した江崎は、椅子から立ち上がり額の上でピースサインを作っておどけてみせる。

「じゃあな、樹。お前はと達者で暮らせ」
「いや、普通にクラスメイトだから」

 ピッとわざとらしくピースサインを揺らした江崎は、わざわざ教卓の近くを通って扉へと向かう。歩きながらも視線を教卓へ向けたままの江崎にとある考えが脳裏に閃く。
 ――あいつ、さんのこと見て帰ったな。
 江崎の思惑を察知し、去って行く背中をジト目で追ってしまう。心なしかウキウキした背中が江崎のクラスとは反対の方へと曲がる。
 どうして? と一度は内心で首を捻った。だが〝もしかして〟という可能性が頭を過るまま、チラリと時計に目をやる。まだ昼休みがたっぷりと残っているのを確認すれば、浮かび上がったばかりの疑念は確信に変わった。
 ――江崎のやつ、杉のクラスにも行くつもりなんだろうな。
 先程の会話は伏線ってやつだ。意外と調子のいいところのある江崎はきっとかわいい女の子を見に行ったんだろう。
 ひとつ、溜息を吐きこぼし、右肘を机の上に置いて頬杖をつく。不思議と「誘ってくれればいいのに」とは思わなかった。人並みの野次馬根性はあるつもりだったけれど、今回の話題に関してはどうしてだかあまり興味が湧かない。
 話題の渦中にさんが入っているからだろうか。あまりにも見知った相手が話題の一端を担っているとなると、どうも話に夢中になりきれなかった。
 頬杖をついたまま視線を窓の外へと向けると、さっきよりも長く息を吐いた。青空をバックに風にはためくカーテンを見つめながら、胸に残るもやもやとした感情と向き直る。
 ――アイドル、か。
 江崎が見せたさんへの態度は、俺がアイドルに向けるそれと似通っていた。
 そっと唇を尖らせながら、俺の知るアイドル像を頭に浮かべる。会いに行けるアイドルだなんて言われているが実際、簡単に会いに行けるものではない。当然、声をかけるなんてもってのほかで、ただ遠い憧れとして眺め、一挙手一投足を賞賛する。踏み込めるはずもない壁の高さに打ちひしがれ、ありふれた恋にすることもできない。
 アイドルとは、そういうものだ。
 ――でも、さんはアイドルじゃない。
 唇の先を突き出し、机の上に投げ出した左手を握り込む。きっと、江崎のように遠巻きに眺めて〝今日もさんはかわいいな〟なんて思うだけなら楽しいんだろう。だけど、その想像がしっくりこない。
 晴れない心境を抱えたまま、さらに想像を深めようと頭を巡らせる。
 〝もしAKB48にさんがいたら〟という題目に沿って、代表的な衣装を身にまとうさんを想像する。
 ――……すっごくイイ。めちゃめちゃイイ。
 頬杖をついていた手のひらを動かし、左手を添えて顔全体を覆う。ハマっているなんてもんじゃない。今着ている濃紺のブレザーも似合うけれど、赤チェックの破壊力たるや!
 ――もし実現したら推せる。まゆゆと双璧で推してしまう。
 つい先程までとは真逆の考えを思い浮かべ、その上での確信は思ったよりも業が深い。乱れた心臓を落ち着けようと手のひらの下でおおきく深呼吸を繰り返す。
 たった今、思い描いた想像は〝もしも自分がプロ野球選手になったらこんなサインを書く〟や〝登場曲はこれを流してもらう〟といった、小学生のころに思い描いた夢のように現実感がなく、甘いふわふわとしたお菓子のようなものだ。現実みのない妄想に、覆う手のひらの下で口元は緩みきっている。
 さらに想像の幅を広げれば、ステージの上で踊って歌うさんの姿が頭の中に動き出す。
 華やかな衣装を身にまとい、キラキラとしたライトに囲まれて、一生懸命歌うさん。そして遠い観客席からさんに割り振られたテーマカラーのペンライトを振って応援する大勢のファンの中のひとりの俺。
 そんなありふれたアイドル像とそのファンの姿を重ねれば、簡単に胸は踊る――はずだった。だが、現実は違った。心が浮き立つどころか、言葉で言い表せないほどの拒絶感が沸き起こる。
 もしもさんがアイドルになれば、全然知らない奴らからも好意を向けられてしまうんだろうか。〝ちゃん〟なんて呼ばれて、今みたいに簡単に話したり出来なくなるかもしれない。
 単なる妄想に過ぎない。そんなことで落ち込むなんておかしなことだ。わかっているのに、急速に体温が下がるような心地を覚えてしまう。

「ねぇ、多田野くん」
「うわっ! ちゃん?!」

 唐突に声をかけられたことに驚き、手のひらに埋めていた顔を起こすと、俺以上に声をかけてきたさんの方が驚いた顔をしていた。まん丸に開かれた目は一心に俺に注がれたまま動かない。
 先程まで繰り広げた妄想への罪悪感からか、さんの視線をまっすぐに受け止めることが出来ず、眉尻を下げ視線を逸らしながら机の上に腕をたたみ手のひらで肘を掴んだ。
 
「ごめんね、急に声かけちゃって。驚かせちゃったよね」
「あ、うん。……いや、平気だよ。ちょっと考えごとをしてただけだから。それより、なにかあった?」

 ひとつ咳払いを挟んで気持ちの立て直しをはかりながら表情取り繕い顔を上げると、さんはほんの少しだけ戸惑うように口ごもる。一度横へと逸らした視線をまた俺へと戻し、軽く握った拳を口元に当てながらうっすらと唇を開いた。

「さっき、その、名前が聞こえてたから気になったんだけど……やっぱりその〝〟って私?」

 じっとこちらを見つめるさんの瞳を前に、一度目を瞬かせた。ほんのりと熱に染まる頬を目にするとぐっと喉の奥が詰まるような感覚が走る。
 だが、気持ちが上向いたのはほんの一瞬だった。
 ――そういえば、さっきうっかり〝ちゃん〟と口走ってしまった。
 そのことに思い当たると同時に、サッと血の気が引く。
 
「ごめん! 勝手に名前で呼んで!」
「いいよ、全然いやじゃなかったし」

 両手のひらで自分の口元を隠したが、出した発言を今更引っ込めるには至らない。自分が今、青ざめているのか照れくさくて赤くなっているのか判別がつかないほど、一気に混乱に陥ってしまう。そんな俺を目にしたさんは手のひらを振ってねぎらってくれるが、焦りはどんどん折り重なっていく。
 
「本当にうっかりしてた! なんでいきなり呼んでんだろ?! ほんっとうにごめん!」
 
 両手を合わせて、さんに対し拝むように謝り倒す。小学校の低学年のころからの知り合いならばともかく、思春期に突入してからというものそう易々と女子との距離を詰めることに慣れていない。まして、いきなりクラスの女子を名前で呼んだりするなんてもってのほかだ。羞恥心に煽られ、顔どころか首のまわりまで熱が駆け抜ける。
 あぁ、これは罰なのかもしれない。単なるクラスメイトに対し、〝彼女がアイドルだったら〟なんて身勝手な妄想を思い描いた俺が全面的に悪い。結果、さんからの心証を悪くする。そんな罰を受けているのだ。
 ――どうせなら俺ひとりが恥ずかしい思いをするだけならよかったのに。
 さんに気持ち悪い思いをさせたくはなかった。そのことが悔やまれて仕方が無い。
 俯かせた頭を抱え、沸き起こる後悔に打ち震えていると、さんが前の席の椅子にそっと腰掛けたのが目に入る。
 
「そんなに謝らなくて良いってば。なんならこれからもって呼んでくれたらうれしいんだけどな」
「……へ?」

 突然の申し出に下げていた頭を起こす。両手のひらで頬を支えるさんは唇を尖らせてこちらを見つめていた。怒らせてしまったのだろうか。頭を過った考えに、もう一度謝らなければ、と思う。だが、さんの提案と朱に染まる頬を前にすると、彼女の心境を計りかねてすぐには口を開けなかった。
 目を瞬かせるだけの俺を見つめたさんは、ほんのりと眉を寄せて口を開いた。
 
「あとね、私も樹くんって呼ばせてほしい」
「えぇ?!」
「前から多田野くんの名前、かっこいいなって思ってたの。だからさっきのひとが〝樹〟って呼んでるのいいなーって。……ダメかな?」
「ダメとか、そんなのないよ!」

 さんの提案を断る理由がない。下の名前で呼ばれ慣れているから受け入れやすいというのもある。だがそれ以上に、さんの唇から紡がれる〝樹くん〟という響きを手放す気になれなかった。
 ぶんぶんと頭を横にふって見せれば、さんは緩く口元に笑みを浮かべる。ただそれだけで、先程までの落ち込んだ気持ちが嘘みたいに晴れていく。

「よかった。呼びたかったから思わずお願いしちゃったけど、断られたら気まずいなって思ってたんだ」
「いや、俺の方こそ勝手に名前で呼んだの怒られなくて助かったよ」

 首の裏に手をやり、生まれたばかりの熱を逃がそうとうなじにかかる髪を掻き乱す。瞬間的に生まれた照れくささが収まれば、胸の奥にじんわりとした熱が新たに生まれた。
 抱えきれない感情を持て余したままさんに視線を向ければ、さんは口の端を引っ張るように笑った。
 
「ねぇ。さっきのひとって、野球部のひと?」
「あぁ、うん。江崎って言ってね。隣のクラスなんだけど……」

 シニアからの顔見知りであること。野球部に入って割と仲良くしていること。今は多分また別のクラスにいっているだろうこと。諸々の会話を紡げば、さんもまた、それに適う言葉を返してくれる。
 その中で、図らずも教卓の周りにいた女子の中に江崎と同じクラスの子もいたことを知ってしまい、江崎の未来を憂うことことしかできなかった。
 他愛もない会話を続けていると、先程の江崎との会話にリンクするような返事をさんが口にする。別に気にするほどのことじゃないけれど、なんとなく気になってしまう。

「……もしかして、江崎との話の内容ほとんど聞こえてた?」
「さぁ、それはどうでしょう」

 わざとはぐらかすような答え方をしたさんは、いたずらっぽい笑みを浮かべて頬杖をついた頭を傾ける。

「聞かれたらまずい話でもしてたの?」
「いや、まずくはないけど……多分」
「ちなみに樹くんが私と達者で暮らしてくれないのは聞こえたよ」
「まずいかもしれない」

 すんなりと発言を撤回するとさん軽い笑い声をもらした。

「樹くんは正直だなぁ」

 馬鹿にするような雰囲気もなく、呆れている風でもないその言葉は、さんの本心なのだろう。嫌な感じではない。だが、どことなくこそばゆいような気がしてさんと視線を合わせられなくなる。机の上に肘をつき両手のひらを合わせてその隙間に口先を突っ込む。親指で下顎を抑えながら口元を隠して視線を外せば、正面からふふ、と笑う声が聞こえてきた。

「本当のことを言うと、樹くんの声はほとんど聞こえなかったんだ。でももうひとりの江崎くんの声は結構聞こえてたかな」
「あー……。ごめん。代わりに俺が謝ります」
「いいよ。こっちもなんか聞いてて面白かったし」
「でもさんにもだけど、アイツ……自分のクラスの女子に対しても失礼だったよなって」

 さんを誉めそやすことも、その逆も、セクハラだと訴えられれば大敗するしかない。外していた視線を戻し、改めて正面に向き直れば、表情を曇らせたさんが目に入る。
 唇を尖らせてこちらを見つめるさんは、怒っているというよりも拗ねているようだった。さっきまであんなに楽しそうだったのに突然どうしたっていうんだろう。
 なにか今の会話の中で困らせるようなことをしただろうか。自らの発言を振り返ったが、該当するものが思い当たらず内心で首を捻る。だが考えあぐねた結果、ひとつの答えに辿り着けば、瞬間的に体温が上がるのを感じた。
 ――これ、的外れだったら本当に恥ずかしいんだけど。
 でも、もし当たっていたとしたら。そう考えた途端、失敗する恐怖よりも実行に移してみたい気持ちが勝る。
 ごくりと生唾を飲み込んだ。そんなことでは収まらないドキドキする心地を抱えたまま、さんに呼びかける。

「えっと、その……、ちゃん?」
「――うん」

 名前を呼んでみた。ただそれだけでふにゃふにゃとやわらかく笑ったさん――ちゃんに、一瞬で体中が沸騰するような熱を帯びる。口元を隠したままでよかった、と心底思う。今、多分、これ以上ないほどに緩みきっている顔を、ちゃんに見られなくてよかった。
 手のひらの下で熱い呼吸を繰り返す。熱を逃がしているつもりなのに、生まれた熱を手のひらで感じることでまたさらに身体の中に蓄積されていくように感じてしまう。
 ふと、視線をちゃんに合わせると、きゅっと唇を結んだちゃんが、俺の肘のあたりのブレザーにそっと触れた。小さなこどもが母親におねだりするような拙い指先に、簡単に鼓動は跳ね上がる。

「ねぇ、樹くん」
「はいっ」
「写真、のことなんだけど」

 ――その話も聞かれていたか。
 浮かれていた心地が一転、窮地に立たされる絶壁に辿り着く。ぐっと下唇を噛みしめ、目をつぶって顎を上げた。迂闊だった。話の主導権は江崎にあったとはいえ、加担していた俺も同罪だ。
 先程までとはまったく違う羞恥がこみ上げてくる。違うと否定したところで出した発言は引っ込めようがない。後悔と罪悪感が綯い交ぜになった心境を抱えたまま黙り込んでいると、ちゃんの指先が小さく揺れた。
 放心していた心境を立て直し、慌ててちゃんへと向き直ると、ちゃんはためらいがちに口を開いた。

「今度、よかったら一緒に撮りませんか?」
 
 上目遣いでこちらを見上げたちゃんは、自らの提案に照れているのかほんのりと目元を潤ませている。熱のこもった視線だ。そう錯覚してしまうのも無理のない瞳に、本能が警鐘を鳴らす。
 ――うわ、ヤバい。
 もはや倍率だけの話じゃない。ちゃんは、同じクラスのよく喋る女子、という枠に収まってくれないとただじゃすまない。ただのクラスメイトの俺にでさえも、簡単に踏み込んでくる気安さは危険だ。ガチ恋したら痛い目を見るに決まっている。だが、そんな抵抗なんてものともしないほど、急速にちゃんに惹かれていく。

 〝アイドルじゃなければ、好きになったっていいもんな〟

 江崎の声が頭の中で再生される。
 ひとりのクラスメイトを〝推す〟ということは、好きになるという意味に繋がる。そんなことはじめからわかっていた。だから、江崎の言葉をすべて打ち返した。だが、そんな抵抗なんてものともせず、ちゃんを前にすると心が勝手に進み出す。
 華やかな衣装を着るのを想像すればかわいいと思う。だけど、顔を合わせ、話もできるちゃんを遠い人だと思えない。
 ――〝観客〟でいたくはない。
 踏み出した一歩は、とてつもなくおおきかった。存在を主張する心音に、ぐらりと一気に傾いた心の在処が胸にあるのだと強く主張する。

「今度、その、いつでもいいので、よろしくお願いします」

 逸る心臓に押し出されるように言葉を紡ぐ。安心したように笑うちゃんに、もはや全面的に降伏するしか道はない。
 ――あぁ、好きだなぁ。
 自分の気持ちを受け入れた途端、堰き止めていた感情が溢れ出る。これからどう転がっていくのか見えるはずがない。だけど踏み出したからには、自分が納得のいくまで走り続けるしかないのだと腹をくくった。




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