07
「そろそろ席替えでもするか」
4月最後のLHR。冒頭で「特に議題が無いんだよな」とぼやいた担任の続けた言葉に教室中が沸いた。入学して初めての席替え。現状の出席番号順での並びに不服はないが、それでも席替えがあるとなると、小学生のころから変わらぬわくわくめいた気持ちが顔を出す。
自然と視線がちゃんへと向かう。男子2列分と女子の分の隔たりの奥、俺の席から数えて前に2番目の席にちゃんは座っている。
見ようと思えば目に入る。だけど座っているとほとんどがほかの生徒の陰に隠れてしまっていた。
――今より席が近くになれればいいんだけど。
席が離れていても休み時間になれば少しはちゃんとしゃべることはできる。だけど、今より近づきたい。まだその心を望むほど近づけてはいないからこそ「せめて席くらいは」なんて考えてしまった。
「とりあえず学級委員、前に出てくじを作ってくれ」
「はい」
「はーい」
前に出た男女の学級委員は、授業で余ったプリントを切り裏面に数字を書き始める。テキパキとふたりがくじを作る中、黒板におおきくマス目を書いた担任はランダムで数字を割り振った。
その様子を眺めながら、隣の席の男子と「どの席がいい?」などの会話に興じる。一番いいのはやはり後ろの席で、最悪なのは教卓前だ。だけど、教卓前なら目の悪いやつとトレードできるし変えてもらうチャンスすらない2列目が最悪じゃないか? だなんて結論が出そうなころに、数字を書き終えた担任が「静かに」という代わりに大きな音と共にチョークの粉を払った。
「それじゃ、順番にくじを引いてもらうんだが――今日は27日か……じゃあ足して9番――から4引いて5番からだな。出席番号5番のやつから、6、7、8って順番にふたりずつ、な。はい、じゃあ5番! 前に出てー」
担任の雑な順番決めに従い、学級委員の用意したくじを引く。自席に戻り、4つ折りにされた紙に書かれた「2」を黒板のマスの中から探す作業は、癖のある担任の書く文字が要因でほんの少しの困難を伴った。
2番っていったら正捕手の背番号だし、いい数字だな。のんきなことを考えていたのも束の間、ようやく見つけた場所に愕然と目を見開く。にわかには信じがたく、数度視線をさまよわせたが、間違いなく「2」はその場所にしか書かれていなかった。
――よりによってアリーナ席か。
最前列、それも教卓前。ぽかんと開いた口を閉じることすらできないほどに茫然自失してしまう。視力は割といい方だからできれば後ろの方がよかった、と今更望んだところで出てしまった結論を変えることは出来ない。
――これで隣がちゃんならプラマイゼロどころからプラスでさらにおつりが来るんだけど、そううまくはいかないよなぁ。
肩で息を吐き、机の上に手を投げ出した。溜息が聞こえたのが気になったのだろう。前の席の男子がくるりとこちらを振り返った。
「どうだった?」
「これ見てよ。教卓前だった」
「うわぁ……。ホントだ。一発目からとはなかなか持ってるね」
「持ってないよ! あーあ……これは勉強頑張れって神様が言ってるのかなぁ」
「はは。ご愁傷様」
軽い笑いと共にポンと腕を叩かれる。「そっちはどうだった?」と尋ねれば、「廊下側の真ん中あたりだった」と彼はにやりと笑った。無難にもほどがある席だと彼は嘆いたが、俺が引いた席よりは断然いい。冗談めいて「交換してくれよ」と縋ってみれば「やなこった」と笑い混じりに即座に腕を振り払われた。
ちぇーと残念そうに唇を尖らせてみれば、眉尻を下げた彼は曖昧に笑んで口を開く。
「でもホラ、目の悪いひとと交換してもらえるかもしれないじゃないか。そんな気を落とすなって」
「そうだなぁ……うーん。ただ、まだ誰の視力が悪いとかわかんないからなぁ」
「あー……。なるほどね。ぶっちゃけまだしゃべったことのないひともいるし、なかなか交換してとは言いにくいよな」
苦い顔をする彼は自分の身において考えてくれたのだろう。眉を八の字にして悩ましげにうなり声を上げた。今回は初回だし観念して諦めるべきだという気持ちは、若干残った抵抗にあっさりと負ける。深い溜息と共に天井を仰ぐように、首を後ろに逸らすと、少し離れたところから声がかかった。
「なぁ、おい。お前、多田野? だっけ。ちょっと、頼みがあるんだが」
「あぁ、うん。なに?」
かかった声に、逸らしたばかりの身体を戻す。左斜め前に視線を向ければ、声をかけてきた男子がすぐ傍まで近づいてきたことに気がつく。顔を上げ視線を合わせれば、不敵な表情を浮かべた彼は掛けたメガネの縁を2本の指でクイッと持ち上げた。
「俺さ、まぁご覧の通り視力悪いんだけど一番後ろ引いちゃって。出来れば前の席のやつと交換して欲しいんだ。……それで今、お前らの話が聞こえてやって来たってとこなんだが」
「あ、そうなんだ? 俺でよければ、どうぞ!」
差し出された提案にパッと笑顔が浮かぶ。引いたばかりのくじを交換し、そっと黒板に視線を伸ばす。そこに書かれた数字は、たしかに一番後ろの席を示していた。彼もまた俺の渡したくじを目にし、教卓前であると確認したのか満足げに頭を揺らしてこちらを振り返った。
「助かる。いやー、でもホント今回ほど視力が良ければなって思ったことはないぜ」
「はは。たしかに一番後ろは魅力的だよね」
「それだけじゃないんだな、これが。もしかしたら逆にお前が俺に感謝することになるかもな」
癖なんだろう。彼はまた、メガネの縁を立てた二本指で押さえた。白い歯を見せて笑う彼につられて、俺の口元もゆるりと上がる。
「ハードル上げるなぁ」
「はは、ちょっとした冗談だ。まぁ、お前がどう思うかは知らねぇけどな。それじゃ、そろそろ机を動かすとするか。――どうもな。代わってくれて」
「うん、こちらこそだよ」
指の間にくじを挟んでひらりと翳した彼は自らの席に戻り、机を抱えて前方へと運んでいく。周囲が動き出したことに合わせて俺らも立ち上がって椅子を机の上に乗せた。
「ラッキーだったね」
「うん。これでまた一ヶ月は安泰だよ」
「はは、そうだね。ぼちぼち俺らも移動しよっか。また、適当に声かけに行くよ」
「あぁ、俺も。じゃあね」
簡単に手を振って別れ、窓際からふたつ目の一番後ろの席へ向けて机を運ぶ。ひとの間をすり抜けながら進み、元の席のひとが退くのを待って机を下ろした。
軽く周囲を見渡せば、まだ結構な人数が席を移動しているのが目に入る。
――もう少しの間は後ろの壁ギリギリまで下がってた方がいいかな。
思い直すままに、一度は下ろした机を再度抱え込むと、すぐ近くから声がかかった。
「樹くん、ここの席?」
弾むような声に誘われ振り返ると、ちゃんがほかのクラスメイトと同様に机を抱えて立っていた。教室の端っこまでやってきたちゃんに違和感を覚えるよりも期待が膨らむ。
「え、ちゃん。もしかして――」
期待に押され、頬に熱が走る。窓際の一番後ろに机を置いたちゃんがこちらを振り仰いだ。いつもと同じようにふわりと笑ったちゃんの髪が、開け放たれた窓から吹きこんだ風に靡く。やわらかい風に、ますます心臓が早く鳴る心地がした。
「隣だよー! 窓際一番後ろの特等席!」
100点の答案用紙を母親に見せるこどものような笑顔を浮かべたちゃんは、自らが手に入れたくじ引きの紙をこちらへ掲げた。
「ほ、ほんと?」
「さすがに冗談でここまで机持ってこないよ」
ふふ、と笑ったちゃんは椅子を降ろした後、前列と見比べながら机の位置を調整する。俺もまたほかのクラスメイトにならい、乱れのないよう机を動かした。
頭の中を〝本当に?〟〝嘘じゃない?〟という疑念と希望の入り交じった言葉が駆け巡る。前と比べて席が近くなればと願った。だけど、それがまさか本当に叶うなんて、それも隣の席になれるなんて、うまく行き過ぎじゃないだろうか。
チラリと横目でちゃんを盗み見れば、ちゃんは前列の女子とお互いに〝これからよろしく〟なんて言い合っていた。その会話ひとつで、本当にちゃんがその席に座るのだという実感が湧いてくる。
ガタガタと机や椅子の脚が床を擦る音が響く中、机の位置を調整し終えたちゃんが椅子に腰掛けながらこちらを振り返った。
「後ろの方ってだけでもうれしいのに樹くんが隣かー。学校来るの楽しくなってきちゃうな」
「ホント? じゃあちゃんの期待に応えられるように楽しい話を考えてこないとだね」
「えぇ? いいよ! 樹くんが隣ってだけで十分だよ?!」
慌てた様子で手を横にブンブンと振るうちゃんを制すべく、俺は左胸に自分の拳を突きつける。
「ちゃんのためでもあるけど、会話術は野球でも必要なスキルだから磨いておくべきだって先輩にも言われてるんだ」
会話の引き出しは多いに越したことはない、と原田先輩から教わったのはつい先日のことだ。タイムをとってマウンドに駆け寄るケースはひと試合では大した数ではないにしろ、年間通せばかなりの数になる。特に捕手は、ひとりで投手と対面する割合が高いから尚更だ。
気が昂っているのか、投げやりになっているのか。パターンは様々だとしても、投球に向き合ってもらうための叱咤激励や、時にジョークを交えてリラックスしてもらうような会話術を身につけなければならない。
捕手である以上、投手のためにできることはなんでもするべきだ。そのためには、常日頃から会話を楽しむ必要がある。
「だからちゃんさえよければ――」
利己的な理由を伝えた勢いに任せてとんでもないお願いを口にしそうになったが、すんでのところでぐっと言葉を飲み込んだ。突然、黙り込んだ俺を見上げたちゃんは「ん?」と首を傾げる。
切るべきではないタイミングで黙ったら不思議に思われることなんてわかりきっているのに、次の言葉が出てこない。
願いはひとつ。ちゃんさえよければ、たくさん話をして欲しい。
ただそれだけを伝えたいのに、踏み込みすぎてはいないかと頭を過れば躊躇してしまう。
――それでも、がんばるって決めただろ!
自覚したとき、自分に誓ったじゃないか。ちゃんに選んでもらうために、後悔しないために自分が納得するまでやれることは全部やると――。
気持ちが固まると、自然と眉根に力が入った。まっすぐにちゃんの瞳を見返してもなお言葉は詰まる。それでも、伝えたい言葉をもう飲み込んだりはしない。
「俺と、たくさん話してほしいです!」
強い気持ちを胸にしても、面と向かって伝えるには勇気が必要だった。恥ずかしいことを言っている自覚は十分にある。頬なのか耳なのか、それとも顔全体なのか。集まり始めた熱を隠すことすらできない。
開き直りのような大胆さが吉と出るか凶と出るか。じっと視線を向けたままちゃんの言葉を待つことは、ストライクかボールか微妙なラインの判定を待っている時の心境によく似ていた。試合の終盤だとか、勝負の分かれ目だとか。そこまで切羽詰まってはないはずなのに、早鐘のような鼓動が鎮まらない。
固唾を呑んで待っていると、丸い目でこちらを一心に見上げていたちゃんの視線がやわらかく細められる。
「そういうことならいつでも大歓迎だよ。いっぱいしゃべろうね」
ちゃんの性格を顧みて、勝算がなかったと言えば嘘になる。だけど確証があるわけではないからこそ、約束が欲しかった。ちゃんが〝いいよ〟と認めてくれた途端、心の底にある憂いが晴れるままに口元が綻んだ。
「ありがとう! あ、でもウケ狙いしすぎてバカなこと言い出しても引かないでね」
「ふふ、じゃあそれも楽しみにしちゃおうかな。でもそんなこと気にしなくてもいいと思うんだけどなぁ。樹くん、すっごく話しやすいし」
「いや、きっとそれはちゃんだからだよ」
「そんなことないよ。私、樹くんみたいにこんなに早くしゃべれるようになった人初めてだもん」
口元にカーブを描いたちゃんは、机の上に頬杖をつくとほんのりと唇を尖らせて言葉をこぼした。
「全然しゃべったことないひとだといっつも緊張しちゃうんだよね」
「またまた。ちゃん、いつも大勢で楽しそうにしゃべってるじゃない」
「違うよー。元々、仲のいい子と一緒にいるだけ!」
きゅっと眉を上げて必死に訴えかけてくるちゃんは真剣そのものだ。嘘を言っているとは思えない。
真摯な言葉には耳を傾けるべきだ。だが、突きつけられた真実と自分が目にした現実の齟齬をいまいち上手く飲み下せない。
「そうなんだ? ちゃん、いつも笑っておはようっていろんなひと言ってるから人見知りって感じ全然しないね」
「挨拶くらいはちゃんとするよ。それに笑ってるのだって緊張してるの誤魔化してるだけだから」
俺の抱いた正直な感想をひとつひとつ丁寧に訂正するちゃんは、ほんの少しだけ頬を赤らめた。バツの悪いようなのと、照れくさいようなのとが入り交じった表情に、彼女の人見知りの片鱗が見えた気がした。
「あ……それじゃあ今も、もしかして緊張してる?」
パッと浮かび上がった疑念の言葉が口をついて出た。
初めて喋ったときから、ちゃんはまっすぐに俺の目を見て話しかけてきた。だからこそ、話しやすい子だと感じたし、その印象は今も変わっていない。
だけど、先程の言葉を信じるのならちゃんはまだ俺と話すことに慣れていないのかもしれない。勝手に仲良くなった気でいたが、全然そんなことは無いと思われていたらすごく寂しい。
自らの顔を指さし、〝俺と話す時はどうですか?〟と視線で問いかけると、ちゃんは困ったように眉を落とした。
「人見知りは、してないよ」
「ん、そっか」
含んだような言い方に、ほんの少しだけ気落ちする。まだ少しは緊張しているというのをオブラートに包んだ結果、そのような言い回しになったのだろう。先回りして浮かび上がった考えに、軽くうつむいて息を吐けば、そっとちゃんの指先がこちらに伸びた。
ちょん、と肩口に触れた指先に促され顔をあげれば、口元をきゅっと結んだちゃんと視線がかち合った。
「でもね、樹くんとは、もっとしゃべりたいなって思ってがんばって話しかけてるんだ」
「え……ホント?」
「うん。ホントだよ」
軽く頭を揺らしたちゃんの言葉に何度も目を瞬かせる。耳を疑うような言葉だ。俺は単純だから、どうしても自分の都合のいいように考えてしまう。
――もしかしたら、ちゃんが俺と同じ気持ちなのかもしれない。
その考えが頭をよぎった途端、ぶわっと体中の熱が膨らんだ心地がする。
だが、出会ったばかりの俺が思うにはあまりにも分不相応な予感だ。浮かび上がった期待を全力で押し潰す。
そんなわけない。まだ早すぎる。いつかはその領域に足を踏み入れるかもしれない。だが、今はまだ努力している途中だ。まだ一ヶ月かそこらで辿り着いていい場所じゃない。それも勝手にちゃんの想いが自分にあるかのように錯覚するのはあまりにも傲慢すぎる。
目を覚ませと自分を戒めるため、そして浮かび上がりかけたニヤつきを隠すため、めいっぱい広げた右手で両頬を握り潰す。
「そ、そうなんだ……い、いや、全然気付かなかったな」
「そっか。……じゃあ、がんばって話しかけてるので気付いてくれるとうれしいです」
まるで、160km/hのストレートを投げ込まれたかのような衝撃だった。ちゃんのまっすぐな言葉は、深く俺の胸に刺さる。ドギマギとした心を抱えきれなくて視線を泳がせたというのに、ちらりと横目に入ったちゃんが目を細めて笑うものだからますます心が揺さぶられてしまう。
その頬がほんのりといろづいているように見えると自分の都合のいいように考えてしまいそうになる。目の錯覚でなければいいのにと祈るような気持ちさえ沸き起こるほどだ。逸る心臓を抱えた俺はそっとちゃんへと視線を戻し、「覚えとくね」と返すだけで精一杯だった。