春恋15

15


 部活後の自主練習。自らに課したノルマを終えた同級生がひとり、またひとりと寮へと帰っていく。残った俺たちもまた、目標としていた素振りの回数を超えたのを契機に一息ついていると、不意に杉が口を開いた。

「今日さ、ブラスバンド部が応援歌の演奏練習してたよな」

 ペットボトルを口元で傾ける杉の言葉に、同じくポカリを口にしていた江崎は突如としてむせ返る。そんなに驚くような言葉ではないのにどうしたんだろうと目を向ければ、江崎は涙混じりの目を杉に向けていた。

「え? マジ? いつ?」
「いや、結構ずっと流れてたよ。俺、外野だから割と校舎寄りじゃん? サウスポーとかアッコちゃんとか流れてくる度、心の中で歌いながら練習しちゃったよ」

 楽しそうに笑う杉に対し、江崎は残念そうなのと悔しそうなの半々といった顔で嘆いた。
 
「えー……全然気がつかなかった。樹は聞こえた?」
「あぁ、俺もちょっとだけ聞こえてきたよ」

 江崎の追求に頭を揺らして応じると、江崎は心底ショックを受けたように顔を歪めた。

「マジか! 聞いてないの俺だけ?」
「はは。俺はちょうどブルペンに移動してるときだったかな。アフリカンシンフォニー流れてて少し話題になったよ。あれ、原田先輩のリクエストなんだって」
「さすが原田先輩。シブいとこを選んでくるよな」

 握った拳を振って「かっこいいぜ」と誉めそやす杉に、俺も江崎も首を縦に振って同調する。流行の曲が悪いとは言わないが、浮ついたところのない選曲に原田先輩の真面目さが伝わってくるようだった。

「樹はなんの曲にするか決めた?」
「うーん。実はまだ迷ってるんだよね。ふたりは?」
「俺もまだ」
「同じく」

 眉を落としてまだ悩んでいるのだと言いたげな表情を浮かべたふたりに「なかなか決めらんないよなぁ」とぼやいてみせる。
 背番号を貰ったからにはいつだって打席に立つ心構えを胸に抱くべきだ。自分の曲を選ぶこともひとつの準備だからこそしっかりと決めておきたい。きゅっと眉根を寄せ、心構えを新たにすると、ふと、頭の奥に部活中に浮かんだ考えが蘇る。
 ――そういえば、ちゃんにメールを送るつもりだったんだ。
 部活に勤しんだ後、夕飯を無理矢理腹に詰め込んでは流れるように自主練へと入ったのですっかり忘れてしまっていた。約束したわけではないが、思い出したからにはメールを送っておきたい。
 ハーフパンツのポケットを探り、携帯電話を手に取ると流れるようにちゃんと撮った写真を表示してしまう。つい、いつもの癖で開いてしまった写真が視界に入れば自然と目尻が下がる。
 いつ見てもかわいいな、だなんて胸の内を暖めたが、当初の目的を思いだし、気を取り直してメールの機能を呼び出した。壁に預けていた背中を起こしがてらふたりに向かって声をかける。

「ちょっとひとつだけメールしてくるからあっちに行ってくるね」
「お、なんだよ。改まって。彼女かー?」

 茶化すような声で笑った杉に、俺もまた肩を揺らして応じる。同学年という気安さからか、鳴さんにからかわれる時よりもずっと気楽に受け止められた。

「違うって。クラスのコ」
「その言い方! 絶対女子じゃん!」
「女子だな!」

 否定も肯定もせずただ口元を緩めてその場を離れればすかさず野次が飛んでくる。だが、それも一通り投げかけられるものを甘んじて受け入れればそのうち背を追う声は消え失せた。
 ――俺が戻る前に別の話題に移っててくれてると助かるんだけどなぁ。
 江崎や杉が相手なら単なる冷やかしは受け流せる。だがこれが真剣な話題として提起されたらそうもいかない。
 メールの相手は誰なのか。好きなのか。告白しないのか。そんなことを根掘り葉掘り聞かれたら言い逃れできる気がしない。むしろ自分の気持ちがすでに固まっているからこそ口を滑らせてしまいそうだった。
 すでににバレているのだからひとりもふたりも変わらないというのもあるし、俺がちゃんが好きなことを伝えてもふたりなら悪いようにはしないはずだという信頼があるのも白状しかねない理由の一端だった。
 まっすぐにふたりから距離を取り、突き当たりを曲がる。周囲を見渡し、その場に誰もいないことを確認すると、壁に背中を預けてしゃがみ込んだ。
 誰もいないと知りつつもどことなく恥ずかしさを誤魔化したくて、左手で画面を隠しながらちゃんへのメールをしたためる。
 今日の練習中に、ブラスバンド部がアフリカン・シンフォニーを演奏していることに気付いたこと。ちゃんも頑張っているんだと知れて励みになったこと。
 いつかちゃんが送ってくれたメールのように、飾らない言葉でまっすぐに想いを打ち込んだ。

「送信、と」

 誤字はないか。変な意味に捉えられるような言葉はないかと三回ほど見直して送信ボタンを押す。ひと仕事やり終えた心地に押され、自然と詰めていた息を吐き出した。
 長い息を吐きながら、そっと空を見上げる。星なんて見えるはずもないが、ぼんやりと光る月は見て取れた。
 お世辞にも〝月が綺麗ですね〟などとはとても言えない月だ。それでも恋をしているからだろうか。朧気な月ですらもたまらなく輝いて見える。
 ――キザなことを考えてしまった。
 らしくない自分に思わず頬を赤らめる。頭を横に振り雑念を払い落とし、屈めていた背を真っ直ぐに伸ばす。そのまま立ち上がって江崎たちの元へ戻ろうと膝裏に力を込めると、不意にマナーモードに設定したままの携帯電話が手の中で震えた。

「え?」

 突然の振動に慌てて携帯電話を取り落としそうになったがすんでのところで抑える。握り込めた手のひらを開き、メールの受信を告げるアイコンを確認した途端、心臓が跳ねた。
 ――もしかして! いや、そんな。まさかね。
 一瞬で期待に傾いた心地を立て直し、ひとつ、長い息を吐き出す。跳ね上がった心臓を抑えるように左胸に手のひらを添えながら、携帯電話を操作する。
 せっかちな熱が首の裏に集まり始めた。じんわりと広がった熱が耳を通り、頬へと辿り着いたころ、その期待が間違いでなかったことを知る。
 。メールの受信欄の一番上に書かれたその名前に、ごくりと喉を鳴らした。
 受信した日時と未読メールが意味するアイコンを何度も見比べて、今、目にしているものが先程自分が送ったメールの返事で間違いないのか確認する。
 今日の日付、そして今の時間。間違いなく、このメールはたった今、ちゃんが送ってくれたものだ。そのことに気がついた途端、肌が粟立った。
 浮かれた心地を抱えたまま、携帯電話を操作しちゃんのメールを確認する。いつも通り、ちゃんらしい言葉が連なる文面を見ているだけで自然と頬が緩むようだった。
 中でも、〝早く樹くんの打席でトランペット吹きたいな〟という言葉には胸の奥が甘く痺れるほどに打ち震えた。
 俺が楽しみにしていることを、ちゃんも楽しみにしてくれている。自惚れが過ぎるかもしれないけれど、他ならぬちゃんの言葉だ。口先だけの言葉ではないと信じたい。
 画面をスクロールさせながらちゃんのメールを読み返す。文字を追うごとにじんわりと胸の奥に折り重なった想いに押され、深く息を吐きだした。
 交わした言葉が増える度に、ちゃんへの想いもまた積み重なっていく。
 ――今ではもう、溢れてる。
 ハッキリと自覚している想いに、手にした携帯電話を握りこむ。
 今、ちゃんが何をしていたのかは知りようがない。だけど、突発的に送ったメールに返事が来たということは、もしかしたら今、ちゃんの手は空いているんじゃないだろうか。
 頭をよぎった考えに、背筋に緊張が走る。
 ――ふたりきりになる時間がないと嘆くくらいなら、作ったらいいんじゃ?
 せっかくこうやってメールが出来る仲なんだ。メールで誘うこと可能だ。それもちゃんの家は野球部の寮とかなり近くにあると聞いている。時間さえあえば、会えるんじゃないだろうか。
 いいタイミングに鉢合わせることばかりを望んでいた俺に飛び込んできた〝呼び出す〟という戦法。ついに辿り着いてしまった案に、ごくりとつばを飲み込む。
 いや、だが、まさか今から呼び出すなんて良くないよな。こんな遅い時間に、女の子を出歩かせていいわけがない。
 でも、近くまで俺が迎えに行くとしたら、どう?
 今日の自主練は自分で定めたノルマを終えて後はもう自由時間だ。この後に予定されたミーティングもなければ、風呂に入って寝るだけで終わらせるのも味気ないとゲームをやるやつだっている。それに今の時間帯なら近くのコンビニやドラッグストアに日用品の補充に出向く部員も少なくはない。
 シャンプーを買った帰りに、ほんの少しだけちゃんと顔を合わせるくらいなら許されるんじゃないだろうか。
 チラリと携帯電話に目を落とす。ちゃんから送られたメールは、俺に対する親愛に満ちていた。それが友情なのか、それ以上の意味を持っているのか――確かめたい。
 逸る心音と今後の行動の算段を整えながら、深呼吸を繰り返す。
 分がいいのか悪いのかはわからない。だけど、今なら想いを伝えることが出来る気がする。
 根拠のない自信を抱え、賭けに出るべく意を決して返信ボタンを押した。ちゃんの言葉への返信もそこそこに、今から出てこられないか尋ねる旨をしたためる。告白する決意を抱えながらも、最後の一押しを見ていることが出来なくて送信ボタンに指を添えたままぎゅっと目を瞑る
 ――もし、ちゃんが今から出てきてくれるなら、今度こそ好きだって伝えるんだ!
 声には出せないからこそ胸の内で強い誓いを立てる。親指に力を込め、送信ボタンを押し込んだ。マナーモードにしているからこそ、ボタンを押したところで音は鳴らない。怖いもの見たさにも似た心境で、画面へとチラリと視線を向ける。問題なく送信が終わったことを確認すると揃えて立てた膝に、ぐっと額を押しつけた。

「……送ってしまった」

 つぶやいた言葉は、胸と足の間で行き場がないまま消えていく。それ以上の言葉が出ない代わりにばくばくと鳴り始めた心音を誤魔化すため、その場に立ち上がって右へ左へと足を向ける。動物園にいる檻の中のライオンが徘徊するよりも幾分もペースの速い行動をとりながらちゃんの返信を待つ。
 送る前の勢いはとうに鳴りを潜めていた。こんなに動揺するくせに、告白しようだなんてよく意気込めたものだ。だけどもう呼び出したからには伝えないと意味がない。逃げ場を塞いでしまったからこそ、堂々と待ち受けるしかないのだ。だが開き直ったところで、もしこのままメールが返ってこなかったらどうしようなどと不安ばかりが身に降りかかる。
 左手で口元を押さえ、何度も何度も荒い呼吸を繰り返す。緊張感に吐き気までもが湧いてきそうだと体調の変遷を感じたころ、不意に右手の中で携帯電話が震えた。
 ――き、きた!
 瞬間的に動揺が走る。もはや画面を見なくてもちゃんからの返信だと確信していた。足を止め、その場にまたしゃがみ込む。震える手で携帯電話を操作し、受信したばかりのメールを開いた。
 本文を下にスクロールする度に、緊張感がいやでも増幅する。指先の体温が急激に冷えていくのを感じながら、読み進めていると〝今から出るのは〟という文面に行き当たる。
 今日一番の痛みが胸に響く。この後に続く言葉に、俺の運命が決まると言っても過言ではない。見たいような、逃げ出したいような相反する気持ちが胸を締め付ける。
 だけど、俺が誘った以上、ここで怯むわけにはいかない。ぎゅっと眉根に力を込めて意を決してもうひとつ、スクロールボタンを押した。

 お風呂に入っちゃったから家を出るのは今日は難しいかな。ごめんね。また今度でも大丈夫?

 すまなさそうな絵文字と共に伝えられたちゃんの言葉に、身体を支配し続けていた緊張感がスッと跡形もなく消え去った。脱力するままにその場に倒れてしまいそうなほど気が抜ける。残念なのかほっとしているのか。そのどちらでもあるような、どちらともいえないような複雑な心境が胸に沸き起こる。
 ――お風呂に入っちゃったんなら仕方ないよな。
 風呂上がりに外をうろついて湯冷めしちゃったらよくないもんな。まっとうな理由で断られたことに残念だと思うよりも納得してしまう。
 それに風呂上がりじゃなければよかったということは、前もって声をかけていたらちゃんは来てくれるかもしれいない。〝また今度〟と添えられているからこそ、落ち込む必要はないという考えに辿り着く。きっかけ作りをひとつ思いついたことを今日の成果として捉えよう。
 うん、とひとつ頭を揺らし自分を納得させる。気持ちを入れ替えたことで返事をしようと、改めてちゃんからもらったメールを読み返すため携帯電話の画面に視線を落とす。上から順に辿っていると、さっきは気にならなかった文面に自然と目が吸い寄せられる。
 二度、三度と反芻すると、その言葉が持つ意味を別の角度から捉えてしまう。
 ……今、ちゃん風呂上がりなのか。
 冷静になって読み返せば、その情報は思春期真っ盛りの俺には、随分と刺激の強いものだった。先程まで抱えていたはずの熱とはまた違ったものが身体の中に満ちていくのを感じ取り、思わず生唾を飲み込んだ。
 雑誌のグラビアで、バスタオル一枚で佇む女性の姿を目にする機会は少なくない。記憶の中に蓄積された写真の一枚が頭に浮かんだ途端、ちゃんの姿に書き換えられていく。 見たこともないくせに鮮明に想像しようとする妄想力が発揮されかけたが、すんでのところで抗う。肩から下を想像したら負けだ。不埒な考えを振り落とそうと頭に手をやり髪の毛を掻き乱す。
 それでも浮かび上がろうとする素肌の色を、目を瞑ってやり過ごそうとしたがむしろ視界が失われたことでより鮮やかに思い描いてしまう。悶々とした心地は身体に毒だ。下唇を押し上げて歯を食いしばり必死の抵抗を試みる。集まり始めた熱を逃がそうとシャツの襟元をばたつかせ風を送り込みながらやり過ごしていると、またも携帯電話が震え始めた。

「うわあっ!」  

 唐突な鳴動に、大絶賛発揮中の妄想を咎められたような気がして大仰に驚いてしまう。だが、そのおかげで抗っても浮かび上がり続けた素肌の色が消え失せる。二度、三度と呼吸を繰り返してもなお、鳴動し続ける携帯電話にメールではなく電話がかかってきているのだと知る。
 こんな時間に誰だろう、と画面に目を落とすと着信画面に表示された名前に思わず息を呑んだ。
 。見間違うはずはない名前が画面上に煌々と輝いている。ちゃんからの電話だと気付いたときには、すでに電話を耳にあてがっていた。

ちゃん?!」
「うん。……こんばんは、樹くん」
「こ、こんばんは!」

 焦って電話に出た俺とは裏腹に、ちゃんは落ち着いた声音で応える。だけど、教室で交わす時よりもほんのりと含まれたぎこちなさに、もしかしたらちゃんも少し緊張しているのかもしれないと感じ取れた。

「ごめんね。急に電話しちゃって。――今、話しても大丈夫?」
「もっ、もちろん! 大丈夫だよ!」

 携帯電話を通して聞こえてくるちゃんの声が耳に直接注ぎこまれる。こそばゆい感覚が走る度に、身体に熱が蓄積されていく。身に余る熱は俺の思考能力を低下させるのか、ちゃんに見えるはずもないのに思わず何度も頷いていた。
 不慣れな空気が纏わり付けば、固唾を呑んで構えてしまう。緊張感をいなすため背筋を伸ばし、踵に腰を下ろすように膝をつく。普通に体勢を整えたつもりだったが、自然と投手に向かい合う時と同じ格好になっていた。

「その、どうしたの? 急に、電話なんて珍しいね……っていうか初めて、だよね」

 言葉がうまく出てこない。まどろっこしい言い回しを情けなく思いながらもちゃんの言葉を促す。控えめに「うん」と聞こえてきた後、そっとちゃんは言葉を紡ぎ始めた。

「その、ね。さっき樹くんが今から出てこれないかって言ってくれたでしょ?」
「あ、うん。いきなりだし不自然だったなって今、反省してたとこだった」

 正直な心境を伝えると、ちゃんは小さく笑った。その笑い方ひとつで胸は弾み、刺激を受ければほんの少しだけ心が落ち着いた。
 
「でね。今度でも大丈夫? ってうっかり言っちゃったんだけど、もし急ぎの用事だったらって気になっちゃって。……樹くんが、そんなこと言ってくるの初めてだから」
「……うん」
「だから、なにか困ったことでもあったんじゃないかなって。だとしたらちゃんと聞いておかないと後悔しちゃうなって思ったら、つい電話しちゃったんだ」

 俺の突然の誘いに対し、ちゃんはいろいろと考えてくれたらしい。いつもよりも歯切れの悪い様子で話し続けたちゃんは、他者への詮索を良しとしない性分なのかもしれない。それでも〝心配だから〟と電話をかけてくれた気遣いにじんわりと胸の奥に熱が広がっていく。
 ――やっぱり、好きだなぁ。
 思いやりだったり、優しさだったり。ちゃんがかけてくれる言葉や差し出される態度のひとつひとつがたまらなく愛おしい。固めたはずの想いがまた一層強くなる。あとはもう、〝好きだよ〟と直接ちゃんに伝えるだけだ。
 本当は、このタイミングで告白をしても悪くはないんだろう。だけど、ちゃんの反応を見ずに想いを伝えることは不誠実なのではと思えば踏みとどまるほかなかった。

「困ったことはないよ。ただ、ちゃんに、伝えておきたいことが出来たから」

 今、言える範囲で正直な言葉を差し出すと、ちゃんが電話越しに息を呑む音が聞こえてきた。言葉や空気からもしかしたら俺の想いの断片が伝わったのかもしれない。
 言いようのない緊張が喉元に集まって閉塞感をもたらす。携帯を持つ手とは反対の手で口元を押さえ、浅い呼吸を繰り返して気持ちを落ち着かせようと試みたがあまりうまくはいかなかった。
 
「えっと、それは……その、今、聞いてもいい話、なの?」
「いや、電話じゃちょっと言いづらいかな。だから、今度ふたりきりで顔を合わせた時にちゃんと言うね」
「そっか……」
「うん」

 曖昧な言葉で何ひとつ断定的ではないのに、ほとんど告白したようなものだった。告白されることに慣れているちゃんなら、もしかしたら俺の思惑に気付いてしまったかもしれない。
 だけど、今日会えない代わりにと電話までかけてきてくれたちゃんに期待してしまえば、どうしても想いが溢れた。好きだと口にしないだけで、態度も想いもすべてがちゃんへと向かっている。
 ばくばくと高鳴る心音が電話越しに伝わることはないだろう。また余裕のない表情だってちゃんが目にする術はない。だけど、形のない空気や想いだけが、今、ハッキリとちゃんに伝わっている。流れる沈黙が、その証拠だった。
 数秒、あるいは十数秒程度の沈黙が永遠かのように感じてしまう。曝け出した本音を、ちゃんはどう受け止めてくれるのか。ただひたすらにちゃんからの裁定を待つ。
 ふと、耳にちゃんが細い息を吐きだした音が掠めた。今から何らかの言葉が来るのだと知るにはそれだけで十分だった。

「あのね、樹くん」
「う、うん」

 来ると身構えていたはずなのに、思わず言葉を詰まらせる。耳の中に心臓があるのではと疑ってしまうほど、血の巡る音がダイレクトに耳の奥に響いた。身内から湧き上がる騒音を止める術を持たない俺は、ちゃんが次に紡ぐであろう言葉を聞き逃さないようにと意識を集中させた。

「私……私も、樹くんに伝えたいことがあるから……今度、ゆっくり聞いてくれる?」

 小さく震えるちゃんの声は、想像以上の熱を孕んでいた。どうしてか、今、ちゃんの表情が俺と同じように赤く染まっているのだと確信を抱く。目に見えない姿が不思議なほどはっきりと浮かび上がっていた。
 まだ明確な言葉を伝えられたわけでもないのに歓喜に打ち震える。口元を抑えていた手のひらに力が入れば、頬が歪に形を変えたがちっとも痛くなかった。
 早合点ではないはずだ。今、きっとちゃんと気持ちが重なっている。普段なら自惚れだと自分を戒めるところだが、これ以上ないほどの確信を得た心地が止まない。
 飛び上がりそうなほどの心境を押さえつけ、ひとつ、頭を揺らした。

「うん、もちろん聞くよ」
「だから、今度また、ちゃんと時間作ろ?」
「俺からも、ぜひお願いします」

 お願いします。ちゃんにちゃんと好きだと伝えたいから、その機会を俺にください。
 深々と頭を下げたところでちゃんに伝わることはない。だが、言葉には出せない分、しっかりと想いを込めるためには、その動作が必要だった。
 下げていた頭を起こし、詰めていた息を吐き出した。その反応は電話の奥でもほとんど同じタイミングで起こったことで、俺もちゃんも、ふ、と笑った。

「……同じ話だといいなぁ」
「――うん。きっと、同じだよ」

 ぽつりと零した言葉にちゃんが同意してくれる。ただそれだけで、心が重なっている予感がした。
 ――本当に、あとはちゃんに直接ちゃんと好きだと伝えるだけだ。
 確信を胸に抱いたまま長く息を吐き出した。今まで感じたことのないほどの充足感が心に満ちていく。
 緩む表情はそのままに、伸ばしていた背をほんの少しだけ曲げる。身体に襲いかかっていたはずの緊張感は、すでにどこかへと消えてしまっていた。

「ごめんね。遅くに変なメール送って」
「ううん。樹くんからのメールだもん。いつだって嬉しいよ」

 かけられた言葉に、またひとつ好きが重なっていく。あぁ、やっぱり好きだなぁ。今、伝えることが出来たらいいのにと思う気持ちと、直接顔を見て伝えたい気持ちがせめぎ合う。
 でも、想いを伝えるなら顔を見て直接伝えたい。ちゃんも望んでくれたんだ。その機会は必ずやってくる。

ちゃんが喜んでくれるならいつだってメールするよ。今夜は、もうこれで」
「うん。そうだね。ありがとね。樹くん」
「ううん。こっちこそ電話くれてありがとう」
 
 他愛のない会話を続けてもいいんだけど、今、これ以上話をするとやっぱり告白したくなりそうだから、と電話を切ることを選択する。ちゃんももしかしたら同じ気持ちだったのかもしれない。すんなりと電話を切ることを了承してくれた。
 
「じゃ、また明日ね」
「うん。――おやすみなさい、樹くん」
「おやすみ……ちゃん」

 電話を切りがたい心地に目を瞑り、受話器を置くマークを押すと同時に長い、長い息を吐く。前みたいに息を止めていたわけじゃない。だけど胸の内に詰まりまくった感情を吐き出せない代わりは深呼吸しか方法が見つからなかった。
 ――本当に、ちゃんが大好きだ。
 確信していた想いを胸の内に募らせる。この前の朝に得た手応えよりも数倍も増した感触が胸の内に残っている。両思いになった経験なんてないのに〝もしかしたら〟の期待が膨らみ続けた。
 ――次、いつふたりきりになれるかな。
 隣の席だからいつだって喋ることは出来る。だけどちゃんと告白をするのならきちんと場を設けたい。だが前もって誘うとしても、お互いの部活の練習がある以上、そう簡単に時間を合わせることは出来ない。
 それでもどこかで、ちゃんと向き合って話をすることが出来たら、今日の話の続きが出来たら――。
 地面につけていた膝を立てるように座り直し、ぎゅっと膝頭に頬を当てる。手にした携帯電話に目をやり、先程までちゃんと繋がっていた時間を噛みしめる。
 ――でも、もうお互いに話すことは約束したんだから、いつだって大丈夫だ。
 時間も、場所も、もはや重要ではなかった。あとは俺たちがちゃんと向き合うタイミングさえあれば、想いを伝えることが出来る。
 ぎゅっと拳を握り、胸の内に芽生えた暖かさを抱えたまま、改めて息を吐き出した。幸せな心地に浸るのもいいが、そろそろ気を取り直して江崎たちのもとへ戻らなければ。
 どのくらい離れていたんだろうと、メールの送信時刻を確認すれば15分足らずの時間しか経っていないことを知る。満たされた時間というのは意外と長く感じるものらしい。
 それにしても、一通メールを送るだけだと席を外したが、まさか電話までしてしまうとは想定外だった。だが、それも嬉しい誤算というやつだ。明確な日時の指定はないにしろ、告白のチャンスを得たことに自然と胸に熱を帯びる。

「よし、そろそろ戻ろう」

 誰に伝えるでもなく言葉を零す。胸の内に残る熱を追い出そうと気持ちを切り替えるための言葉だった。膝裏に力を込めて立ち上がり、その場を後にする。
 15分ぶりに戻ってきた俺を、江崎と杉がそろって出迎えてくれた。ふたりから漂う楽しげな空気につられて、自然とこちらにも笑みが浮かび上がる。

「あ、樹! やっと戻ってきた」
「うん、ただいま。何の話してたの? すごく楽しそうに見えるけど」
「いや、さっきと一緒。打席のテーマ何がいいかって」
「そうなの? もう決まった?」
「いや、まだ。さっきカルロスさんと白河さんが通ってさ何の曲を選んだか聞いたんだ」
「へー」

 相槌を打ちながらふたりの会話に溶け込んだ。紅ってどんな曲だったっけと尋ねれば杉が高らかに歌い上げてくれる。RUNNERはさすがに知っていると伝えれば、じゃあ歌えよとからかい混じりに促され、最初の出だしの分だけ歌ってみせた。
 けらけらと笑いながら交わす会話に身を委ねつつも、話題がブラスバンドの応援にあるせいか、頭の裏にちゃんの姿がチラチラと浮かび上がる。
 
「どんな曲でも、ブラスバンド部が奏でてくれるならきっと迫力があるだろうな」

 なんてったってちゃんが奏でてくれるんだから。そんなことは言えないけれど、うんうん、と頷いて噛みしめていると、不意に江崎の表情が明るくなった。
 
「そうだ! なぁ知ってるか、樹。ブラスバンド部って言えばこの前、俺たち見ちゃったんだけどさ」
「ん? なにかあったの?」
「ふふふ」

 もったいぶった笑い方と共に胸の前で両腕を組んだ江崎に何を言われるんだろうとワクワクしてしまう。面白いことだといいな、と胸を弾ませた俺に、江崎は満面の笑みと共に口を開いた。

さんが成宮さんに告白してるとこ!」

 にわかには、その言葉の持つ意味を理解できなかった。
 だが、理解が追いつかなくても衝撃だけは容赦なく襲いかかってくる。震えにも似た心地が揺さぶりかけてくれば、コンクリートの上にあるはずの足下がまるで絶壁の上に立たされたのではと錯覚するほどに覚束ないもののように感じた。
 長い時間と称すには足りないかもしれない。だけど、ちゃんと出会ってから着実にひとつひとつ想いを重ねてきた。たった今、心に触れたという確信さえもいだけるようになった。たとえ自惚れだとしても、ちゃんの想いが自分にあるかのように感じていた。
 だが、江崎の言葉ですべてが勘違いであったことを自覚させられる。
 俺が丁寧に積み上げていたはずの想いなんて関係なく、いともあっさりと投げ込まれた直球は俺の胸の内を深くえぐり取る。内角にズバッと決まった一球に抗う術もなく、ぱきんと、心の折れる音だけが身内に響いた。
 




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