16
ちゃんが鳴さんに告白した。
突然知らされた事実に目の前が真っ暗になる。もしもこれがゲームなら、体力が尽きたところでリセットボタンを押して再開すればいい。だけど、これは紛れもない現実で、今、耳にしたばかりの言葉をなかったことにする魔法なんて、ない。
「……へー」
相槌を返すだけで精一杯だった。
自主練に入る前に買ったままだったペットボトルを拾い上げ、口元で傾けながら平静を装った。それでも頭の中が〝どうして〟で埋め尽くされていく。震える手と唇がかみ合わず、うまく流しこむことができなかったポカリが口の端を伝った。
努めて、落ち着いた様子を見せようと口元を拭って誤魔化せば、江崎は呆れたような顔をしてこちらを睨めつけた。
「へーって……お前なぁ、少しは驚けよ」
問いかけることも出来ず固まる俺を見咎めた江崎は、ノリが悪いとばかりにこちらを糾弾する。
――この上なく驚いてるよ。だって、さっき俺、ちゃんと直接話をしたけどそんなの全然聞いてない。
それどころか、いつも以上にちゃんの気持ちが自分に向かっているんじゃないかって感じていた。伝えたい話があると言ったら、自分もそうだとちゃんが言ってくれた。
――もしかして、ちゃんは鳴さんに告白したことを俺に伝えようとしたんだろうか。
その可能性が頭をよぎった途端、身体の芯から震えが起こった。つい先程、お互いに同じ話であればいいと願ったことが夢だったのではないかと疑ってしまう。
返す言葉が見つからないまま呆けていると、杉がひとつ肩で息を吐いた。
「まぁ成宮さんならそんなに珍しいことじゃなさそうだしな。なんてったってうちのエースだし」
言外にちゃんが惚れても無理がないと言いたげな杉の言葉に眉根を寄せる。たしかに学校内外を問わずファンの多い鳴さんに、ちゃんが想いを寄せていたとしてもなんらおかしくはない。だけど、どうしても信じられない。
頭では理解していても心が追いつかないのはこういうことなのかと身をもって知らされる。
「でもびっくりしたよな。まさかあのさんが告白するなんてさ」
目の前で見たとふたりは言っていた。いくら同じクラスで席が隣とはいえ、四六時中一緒にいるわけではない。俺が知らないうちに、俺が逃してばかりのチャンスをちゃんはいつ手にしたというんだろうか。
「……それって、いつの話?」
詮索なんてしたいわけじゃないのに、何も言わないのも不自然な気がして会話を円滑に促す言葉を選んでしまった。
暗澹たる想いを抱える俺とは裏腹に、よっぽど身近な恋バナが楽しいのだろう。江崎も杉も楽しそうに記憶を巡らせた。
「いつって……あれ? いつだったっけ?」
「あ、ほらこの前さ、俺たちがコンビニに寄ってって、樹だけ先に行った日あったろ」
「あぁ、そっか。そうだったそうだった」
杉の言葉に思わず目を瞠る。登校中にコンビニに寄る回数は少なくないが、俺がひとりで学校への道を急いだ日に覚えがあった。
――その日は、俺がちゃんに告白をしようと決意した日だ。
朝練を終え、教室でふたりきり。身も心もちゃんにこのうえなく近付いた。――近付けたと、思っていた。
今思えば、原田先輩が鳴さんを追い払ってくれたとき、たしかに女子の声が割って入ってきた。今から話がしたいと告げた彼女に対し、俺は〝今から告白でもするんだろうか〟と漠然と感じた。
もしかして、あの声の主がちゃんだったとでもいうのだろうか。いや、でももしも本当にちゃんだったとしたら俺が聞き間違えるはずがない。
根拠のない自信に押され、記憶の中にあるはずの声を引き出そうとした。だが、思い出したシーンがちゃんの声で再生されると、その声があの日聞いた声だったのかどうかわからなくなる。
信じたくない一心で、ままならない自分の記憶に翻弄されながらも、否定できる材料を探そうと記憶を巡る。だが、あの朝のちゃんの姿を思い描いても、ふたりが見たという告白シーンをいやでも想像してしまう。
明確な日にちや場所を聞いてしまうとなおさらだった。自分が教室で想いを募らせている間に、扉の向こうでちゃんが別の世界を進んで行ってしまったのだと、悪い想像ばかりが駆け巡る。
「俺たち吃驚してさ。さっさと退散したんだけどやっぱり気になっちゃって階段の陰から見守ったんだよ」
「……聞き間違い、とかじゃなくて?」
「好きですってちゃんと言ってたもん。な?」
「あぁ。あれは間違いなく告白だった」
一縷の望みをかけて口を挟んだが、あっさりと杉に否定される。告白だったと断言する江崎は胸の前で腕を組み、感慨深げに頷いた。
「でも意外だったな。さんが告白するなんてさ。あんなに綺麗な顔してんだ。待ってりゃ引く手あまただろうに、なぁ」
「成宮さんが相手ならしかたねぇだろ。相手は関東ナンバーワン左腕なんて言われてるエースだぜ? 学年ベスト3とはいえ入学したばかりの一年生じゃさすがに太刀打ち出来ねぇだろ」
いつの間にか入学当初に言われていたちゃんのランクが2つも上がっていたらしい。初めて知る真実を賞賛できるほどの気力もなく、呆けたまま江崎や杉が紡ぐ言葉を耳に入れながらいくつもの〝どうして〟が頭の中を駆け巡る。
ペットボトルの中身を飲み干した杉の言葉に江崎は「なるほどなー」としたり顔で頷いているのが横目に入る。
ちゃんが告白をする側かされる側か。俺がちゃんに告白する姿ならいくらでも想像できる。その逆を考えてみたがうまく想像できなかった。相手をに置き換えてみても同様だ。
だが、相手が鳴さんなら? そう考えた途端、想像の中の彼女の頬が色づく。
――あぁ、しっくりくるな。
実際に目のあたりにしたわけじゃないのに、頬を赤く染めたちゃんが鳴さんと向かい合い、愛を告げる姿がはっきりと思い描かれる。手に手を取って笑い合うふたりの姿。つい先程までは俺とちゃんとで想像していたというのに、俺の姿が鳴さんの姿に移り変わるや否や、一気に場面が華やいだ。
喉奥に湧いた感情を飲み下すように息を詰める。恥ずかしいのか泣きそうなのか。湧き上がる熱を、ただ歯を食いしばって堪えることしか出来ない。
眉根を顰めて耐えていると、杉と談笑していた江崎がこちらを振り返る。
「ってか、樹は? どうだった?」
「え? どうって……」
「さっきクラスのコとメールしてきたんだろ?」
急に向けられた矛先に、身を切られるような思いがした。まさに、今、話題に上っているちゃんが相手だと知ったらふたりはどう思うんだろうか。同情されるんだろうか。それとも応援するよと慰められるんだろうか。
どちらに転んでも自分が情けなくて泣きたくなるだけだ。今更、ちゃんが好きだと主張したところで、ちゃんの想いが鳴さんに向かっていることを知った今ではそんなものなんの意味もない。
あの朝、ちゃんと、好きと言えば良かった――。
タイミングとしてはあれが最後だったんだ。ちゃんが鳴さんに告白する邪魔をしたいわけじゃないけれど、もし、あの日ちゃんとちゃんに好きだと言っていれば、間に合ったかもしれない。俺と同じようにちゃんも鳴さんへの気持ちを固めていたというのなら間に合うもなにもないのだけど、こんな風に後悔することはなかっただろう。
話題を振られたまま黙り込んだ俺を、ふたりが不思議そうに見つめているのが目の端に映りこむ。なにか言葉を返さなければと理解しつつも、潰えたばかりの恋について語るにはあまりにも傷が鮮烈すぎた。
「いや、別に……話すほどのことじゃないよ」
やっとの思いで出てきた言葉はそれだけだった。
練習三昧でテレビもほとんど見れない俺たちにとって、同学年の恋愛話は娯楽のひとつだ。昨日までは無責任に楽しめていたはずの会話が、相手が変わることで途端に話をうまく膨らませることができなくなる。
口に出せない想いに縛られる俺を見ることに飽きたのだろうか。空のペットボトルを手の中で転がしていた杉が、ふとなにかを思い出したように顔を上げた。
「そう言えば樹。うちのクラスのやつに聞いたんだけど、お前、と仲良いらしいな」
「まじ? え、じゃあメールの相手ってもしかして!」
唐突な杉の言葉に江崎の声が弾む。新しい恋バナの存在を察知し期待に胸を膨らませる江崎とは裏腹に、俺はただどうしようもない想いを募らせるだけだった。
もし、ちゃんが鳴さんに告白をしたことを知らないままだったら、きっと今ごろその話題に乗っかったことだろう。だけど、もう知ってしまった今では、メールする仲だと浮かれたとしても〝でもちゃんが好きなのは鳴さんだ〟と思い出しては打ちのめされるだけだ。
それに今、ふたりにちゃんへの想いを白状して、鳴さんに知られてしまったら「樹が君のことを好きみたいだから」なんて理由でちゃんの想いを拒絶しかねない。自分のしたいようにするひとだから鳴さんが俺に気を回すことなんてないに等しいはずだが、少しでも可能性があるのなら黙っているべきだ。
「別に、そんなに仲良くないよ。ただ、――さんとは席が隣ってだけで」
「いいじゃん! これから仲良くなりたい放題じゃん!」
「さすがにそれは無理だよ」
「なんでだよ、諦めんなよ!」
背中を押すような江崎の言葉に胸の奥が締め付けられる。諦めなければちゃんとはもっと仲良くはなれるだろう。だけど、俺はちゃんと仲良くなりたいのではなく、告白をして想いが通じ合うことを望んでいた。
この想いが無駄なのだと知った今、諦めずに果敢にちゃんへと向き合うのだと募っていた気力がどんどん薄くなっている。嘘をつくのは心苦しい。だけど、今、その話題を掘り下げられるのはもっと苦しかった。
「いや、でも樹がと仲良くなってくれたらさ。ブラスバンド部のコ紹介して欲しいよな」
「だよなぁ。かわいいコめっちゃいるもんな」
黙り込んでいる間に、そっと杉が話の矛先を変えてくれたことに安堵の息を吐く。言っていることはめちゃくちゃ都合のいい未来だが、今、俺が直面している絶望の未来を掘り下げられるよりもよっぽどいい。
「じゃあ、ふたりに彼女が出来るように、もう少し仲良くなれたら聞いてみるよ」
「マジで! よろしくお願いします!」
「お前だけが頼みの綱だぞ、樹!」
多分、そんな未来はやって来ない。そうと気付きつつも、せっかく盛り上がった空気に水を差さないようにと気を払う。まだ見ぬ未来に期待を膨らませ、楽しそうに笑ったふたりに同調するように笑顔を作った。
「ちなみにお前、誰狙い?」
「いや、全然誰でもアリなんだけどさ、強いて言うなら俺のイチオシは――」
互いに顔を寄せ合い、ブラスバンド部に所属しているらしい女子の名前を言い連ねるふたりの姿をそっと見守る。
話の輪に入れない疎外感よりも強く失恋の痛みが胸にあった。きゅっと唇を結び、それでも足りず手にしたペットボトルを強く握りしめる。ほとんど中身の入っていないペットボトルは力を加えればパキ、と乾いた音を立てた。それを二度、三度と繰り返しながら高い音に耳を欹てていると、不意に江崎がこちらを振り返る。
「てかさ、樹から見たってどんな感じ? かわいい?」
「――え?」
「だってさ、仲良くなれそうってなら脈あるかもしれねぇじゃん」
――脈も何も、たった今、心臓を止められたばかりなんだけど。
あまりにもあっさりと投げかけられた質問の意図を計りかねて思わず首を傾げた。江崎はたった今、ちゃんが鳴さんに告白したという話をしたことを忘れてしまったんだろうか。それとも鳴さんに恋をするのなんてこの学校の女子なら当然のことで、それはそれとして別の男と恋をするのが普通だとでもいうつもりだろうか。
鳴さんの身体がひとつしかない以上、どんなに女の子がたくさん思いを寄せたとしても選ばれる女子はただひとりだけだ。だけど、だからと言ってちゃんが告白するほどに募らせた想いをなかったことにして、俺がアタックするのもなんだか違う気がする。
困惑に眉根を寄せ、手にしたペットボトルを両手で包みながらそっと口を開いた。
「いやいや。さすがに無いから」
「なんでだよ。せっかく今、仲良いんだろ?」
「ご期待に添えなくて申し訳ないけど、なにもおきないよ」
「えぇー」
粘る江崎の質問を即座に打ち返せば落胆の声が重なった。江崎だけでなく、杉もまた俺がちゃんにアピールすべきだと思っていることを知るにはその反応だけで十分だった。
噂話に身近の誰かをねじ込みたがるふたりに悪気はない。ふたりが知らないうちに俺がちゃんに恋をして、想いを伝える前にフラれたというだけの話だ。
自然と下がる眉尻はどうしようもないが、せめて口角だけは上げようと意図的に表情を作る。
「恋愛よりも、今はレギュラー奪取だよ」
「そんなこと言ってると青春が逃げていくぞ」
低い声が背後から投げ込まれた。突然割って入った声に驚いて目を見開けば、正面に立つふたりが俺越しに誰かを見上げていることに気がつく。ふたりの視線を追うように振り返れば、原田先輩がこちらへと近づいてくる様が目に入る。強面の表情がほんのりと緩められているのは、今の俺の宣言を受けてのことだろう。
どうやら俺はとんでもない会話を聞かれてしまったらしい。しかも相手は同じポジション。今の言葉を宣戦布告と受け止められても誤解の解きようがない。
顔から血の気が引いていくのが自分でもわかった。思考がから回りすれば焦りを生み、言葉が出なくなる。慌てている俺を見つめた原田先輩は、俺の目の前に立つと、ふ、と口元を緩めた。
「多田野」
「あっ、はい!」
名前を呼ばれたことで反射的に背を伸ばす。手にしていたペットボトルを取り落とせば、鈍い音がその場に響いた。原田先輩の視線を受けたまま硬直する俺が拾えない代わりに、慌てたそぶりで江崎が落ちたペットボトルを拾い上げる姿が横目に入る。
「そんなにかしこまらなくていい。多田野、これ」
言って、原田先輩の手がこちらへと伸びてくる。視線を落とせば高校生のお小遣いで買うにはいささか高級なアイスが差し出されていることに気がついて、俺は思わず目を瞬かせた。
「どうしたんですか? これ」
「鳴のやつがまたアイス隠れて食おうとしてたんだ。一気に2個も3個も食うのは腹壊すって言っても聞きやしねぇから、お前が代わりに食っとけ」
「え、大丈夫なんですか?」
鳴さんがアイスを好んでいるという話はこの2ヶ月足らずの間で何度も耳にした。共同の冷凍庫に入っているものを勝手に食うなという牽制だったり、プレゼントされるのなら好物の方が好ましいという例で出されたりと多岐にわたる。しかも今、原田先輩が手にしているフレーバーはその中でも一番好きだというラムレーズンだった。
鳴さんのアイスを俺が食べたなんてことがバレたらこの先どうなることか。大人げない鳴さんのことだ。きっと今以上に執拗に絡まれることが目に見えている。
「文句を言われたら俺にもらったとだけ言えばいい。ほら手、出せ」
「あ、はいっ!」
原田先輩の指示に従って思わず両手を出した。アイスの蓋に押しつけられたスプーンを落とさないように指を重ねれば、原田先輩は手を引き江崎らへと顔を向ける。
「悪いな、多田野の分しかなくて。また鳴が隠れて食ってたら取り上げてきてやるからな」
「いえ! 滅相もないです!!」
原田先輩の言葉に江崎らは恐縮しきりで首を振った。原田先輩にとっては硬直した後輩を見かねてのことばだったのだろう。だがその気遣いも俺らにとっては恐れ多いものに感じてしまう。3年のレギュラー。それも正捕手。憧れる要素しかない相手からの冗談に笑って返せるほどの胆力はまだない。
「じゃあな。居残りも程々にしとけよ」
ひとつ息を吐き、労いの言葉を残した原田先輩は手をひらりと翳してブルペンの方へと足を向ける。きっとこれからまだ投手陣を相手に捕球練習を重ねるのだろう。
その背中を見送っていると、誰彼ともなく詰めていた息を吐き出した。肩に入っていた力を抜けば、手にしたばかりのアイスに否が応でも視線が落ちる。
「……食べる?」
「いや、成宮さんのとか無理だって。お前がもらったんだ。責任もってお前が食えよ」
「だよね……」
鳴さんの、と言われると反射的に口を閉ざしてしまう。行き場のない言葉を飲み込んだことでぐちゃぐちゃになった感情の奥で、ひとつの望みが顔を出す。
どうせもらうなら、こんなアイスなんかじゃなくてちゃんの気持ちが――。
浮かび上がりかけた考えを、頭を横に振って払い落とす。そんなことを思い描いたって現実を見て空しくなるだけだ。
ひとつ、息を吐き出し、のろりとした足取りで近くの石段に腰を下ろし、アイスの蓋を開けた。
本来なら寮の食堂で食べるべきなんだろうが鳴さんに見つかって絡まれでもしたら今日だけはまともな受け答えが出来そうにない。幸い、江崎も杉もこの場に止まってくれるらしいから、もうここで食べてしまおう。
鳴さんと原田先輩へと話題を移し、楽しそうに談笑しているふたりの会話を耳に入れながらアイスを掬う。溶けるアイスを口の中で押し潰し、時折触れるラムレーズンを歯で擂り潰しては飲み込んだ。
一口、また一口と掬っては口に運ぶ。口に含んだばかりのアイスは舌で味わうよりも先に溶けて喉奥へと流れていく。冷たいものを食べているというのに、次第に口の中が熱を帯びていく理由は明白だった。
目の前で紡がれる会話が遠くなる。代わりに先程もたらされた噂話が、頭の中を埋め尽くしていった。
――相手が鳴さんだもん。俺じゃかなうわけないよな。
肩から息を吐き、入学して以来、目の当たりにし続けた鳴さんの栄光を思い描く。少し離れた場所から見つめ続けた憧れのエースの背中は、見た目の小ささに反して身体以上の偉大さを感じさせた。
芯が強く、負けず嫌いで、周囲の期待に怯むことなく笑顔で力に変える。わがままで少し子どもっぽいところもあるけれど、多分それは恋をする女子から見ればあどけなくてかわいいだなんて良い風に思われるはずだ。
尊敬出来る相手だからこそ、ちゃんが正しい判断で鳴さんを選んだのだと納得せざるを得ない。
ふたりが言ったニュアンスとは若干異なるものの〝鳴さんなら仕方ない〟のだろう。さっきまでは動揺して〝どうして〟なんて思ってしまったが、冷静になって考えてみれば、俺が鳴さんに勝っているのなんて、誤差程度の身長と若さくらいしか思いつかない。
――どうせならもっと知らない相手なら良かったな。
例えば〝中学のころからずっと付き合っている人がいる〟だなんて言われたら〝じゃあ仕方ないな。俺なんて知り合ったばかりだもんな〟と納得できた。
だが、鳴さんが相手となるとそんな言い訳が通用しなくなる。鳴さんのことをそんなに知らない素振りを見せていたちゃんがいつ好きだと自覚したのか知りようがない。だけど、入学して好きになったのだとしたら、自分が〝選ばれなかったのだ〟という事実と真正面から向き合わないといけなくなる。
――2ヶ月、か。
ちゃんを好きになり、想いを伝えることを決意するまでの期間は、振り返ればたったの2ヶ月に過ぎなかった。自分の気持ちの育ちようが早いと感じていたからこそ、まさか同じスピードでちゃんもまた恋心を募らせていたとは正直驚かされた。
――まぁ、俺は好きになった上でフラれるなんて経験まで積んでしまったんだけどね。
自虐めいた言葉が頭をよぎるままに、口元が歪に歪む。江崎たちに勘付かれないようにとアイスをさらに口の中に押し込み、口に残る冷たさを誤魔化すように唇をすぼめて息を吐き出した。
口の中の刺激を押し出しながら、この2ヶ月を振り返る。俺にとっての初恋は、まさに怒濤の日々だった。今にして思い返せば、入学式の日からずっと、ちゃんのことばかり考えていたように思える。
取り立てて何かのイベントがあったわけでもないのに、気がつけばちゃんに恋をしていた。ほんの少し話をしては胸の内を温めた日々は、この上なく楽しかった。この先も続いていく、むしろこれからもっと進むのだと思った未来が、突然、断ち切られた。
打ち切り漫画の続きが描かれないように、俺が想定していたちゃんとの未来はやって来ない。
そこに思い至ると同時に、自分が抱えた気持ちが喉元まで浮かび上がってくる。ぐっと口元を引き締め漏れそうになる叫びを抑え込み、まだ固さの残るアイスを大きく切り崩し口の中へと押し込んだ。急速に冷やされた喉元に、生理的な涙が浮かび上がる。親指を押し当て拭い去り、そのまま舌の上でアイスを溶かしながら、視線を手元へと落とした。
左手にはアイスカップ。右手にはその付属品のスプーン。開いた膝の間に収まった景色を呆然と眺めたまま、噂話のついでに聞かれた江崎の質問をなぞった。
――俺にとって、はどういう存在か。
その質問の答えなんて、とっくに出ていた。あとはもう、その想いをちゃんに伝えるだけだった。もうひとりでは抱えられないほど溢れかえった恋心は、喪失とともにその存在を強く俺に知らしめる。
胸の奥が痛い。かたちなんてないはずの心の在処をいやでも自覚する。
これからもクラスは一緒なんだ。話くらいはできるだろう。だけど、今まで正面から受け止められていたものを、果たして俺は受け止めることが出来るだろうか。
それにちゃんだけじゃない。鳴さんがよく告白されたと自慢してくるが、ちゃんの名前が挙がる日がくるのだろうか。「樹とこの前話してた子も、俺のことが好きだったんだって!」と。
喜色に弾む声が耳に滞りなく再生される。近いうちに起こりそうな未来を想像しては喉の奥で唸り声をあげる。
そんなこと、目の前で言われたらもう、諦めるしかないじゃん。
ふと、ひとつの考えに辿り着いた途端、息が出来なくなる。無理だとか何も起きないだとか口にしておきながら、きちんとその感情に向き合っていなかった。
――あぁ、そうか。もう諦めないといけないのか。
ちゃんが鳴さんに告白しただなんて突きつけられた言葉を受け止められないと無意識で抵抗していたのだろう。今更、自分には〝諦める〟という選択肢しか残されていないことに思い至った。
入学して以来、順調に積み重ねてきた交流に簡単に舞い上がった俺は、ちゃんと結ばれる未来ばかりを思い描いていた。がちゃんにフラれたことがあると知って、自分の身にも降りかかるかもしれないだなんて考えたくせに、それでも心の底ではハッピーエンドを疑わなかった。
俺が主人公で、ちゃんがヒロイン。ちゃんに向けられる態度だけを根拠に、自分に都合のいい世界を思い描いていた。
だが、現実にはそんな世界は存在しない。ちゃんが主人公の世界では想い人として鳴さんがいて、俺は単なる友人Aが割り振られていただけの話だ。もしかしたら〝ヒロインに片思いする当て馬〟だなんて不名誉な称号もつけられていたかもしれない。
俺の夢見た世界とちゃんのいる世界は交わらない。同じ未来を見てたはずだなんて思い上がりも甚だしい。
――樹くん。
ちゃんが俺の名前を呼ぶ度に期待が募った。この2ヶ月の間、話すたびに向けられた笑顔が脳裏に蘇り、そして消えていく。
野球だってそうだ。チャンスに決定打を打てないまま終わる試合の方が多い。そういう意味では俺なんかより、よっぽど鳴さんの方がヒーローに向いている。
栄光は、マウンドにエースとして君臨する鳴さんにこそ、ふさわしい。
泣きそうなのを誤魔化しながら食べたせいだろうか。初めて食べたラムレーズンの味は、ちっともわからなかった。