春恋21

21


「おはよう、ちゃん」
「うん、おはよう」

 教室に入って席に着くと同時に声をかければ、いつものようにすんなりと言葉は返ってきた。緩められた口元にぎこちなく返せばほんのりと眉尻を下げたちゃんは自分の席を立って友だちのところへと行ってしまう。残された俺は肩に入っていた力を溜息と共に押し出して自分の席に着くほかなかった。
 ちゃんから感じ取った違和感の正体がわからないまま、すでに一週間が経っていた。「話が出来なくなるかもしれない」と悲観的に考えていたが、現実は劇的に状況が悪くなったとは言いがたい程度の変化をもたらすだけだった。
 状況の維持ができる理由のひとつに、気まぐれな教師による「今学期はもう席替えはしない」という宣言があった。
 座席表の書き換えが煩わしいだとか、もうすぐ夏休みだからとか、理由はいくつかあるのだろう。結果として、今学期中はちゃんの隣の席でいられることが確定した。無いと思っていた延長戦に、戸惑い以上に深い安堵を得たのは言うまでもない。
 だが、現状維持と言っても違和感は絶えず存在した。朝や帰りに「おはよう」や「また明日」と声をかければちゃんと返ってくるし、そのまま何気ない会話を交わすことだってある。ただ頻度は極端に減ったし、ふとした瞬間に視線が交わることもなくなった。多分、少し前の俺がちゃんを避けていた時よりも、ずっと。
 いつの間にか尖っていた唇の先を引っ込め、ひとつ、息を吐き出す。首の裏に手をやり付け根を解すように触れたが頭にある気掛かりが消えることは無い。
 徹底して無視されているのなら、ちゃんに俺が何をやらかしたのか尋ねて改善するよう努力することも出来た。だけど、俺の勘違いでは無いと断言できるが傍目から見たら十分話をしているうちに入ると思うと身動きがとれないでいる。
 ――交流が減ったとは言え、毎日話してるのに「無視しないで」はないよなぁ。
 鞄の中から教科書やノートを取り出し机の中に移しながら短く強い息を吐く。落胆の溜息は身体の内に留めようがないほど膨らんでいた。
 ――いつまでも落ち込んでたって仕方ないや。
 肩を落としながらも気持ちの立て直しを図るべく、昨夜解いた宿題の見直しをしようと数学のノートを開く。手にしたシャーペンをノックしながら数式を目で追い意識を集中させようとしたが、どうしてもちゃんへの懸念を意識の外に追い出すことは困難だった。
 教壇の横にいるちゃんへと視線を伸ばし、誰かに気付かれる前にまたノートへと視線を戻す。ハッキリと目に映っているはずの数式は、目に焼き付いた横顔に上塗りされると次第に霞んでいく。今度は唇を内側へと巻き込み、込み上げてくる溜息を飲み込んだ。
 勘違いと言っても差し支えない程度の違和感に怯えてしまうのは、相手がちゃんだからだ。小さな違和感を掻き集めれば大きな歪みになるように、自分の中で悪い想像ばかりが膨らんでいる。
 ――初めからちゃんは俺に対して優しかったんだな。
 距離を置かれて改めて思い知る。まっすぐにこちらを見上げるちゃんの眼差しは紛れもなく好意に満ちていた、と――。
 命の恩人だと大袈裟な言葉と共に差し出された好意に、恋愛に不慣れな俺は簡単に舞い上がった。その挙句、両想いかもしれない、なんて妄想甚だしい期待を抱いたのだから救い難い。それでも、今の状況よりずっと健全だった。
 恋愛って難しいな、と思う。初めての経験だから手探りで進んできた。初めはまっすぐちゃんへと向かう気持ちに従うだけでよかったのに、ちゃんの気持ちが鳴さんに向かっていると気付いたときからその道を見失った。迷いが足取りを重くし、停滞と回り道を繰り返しているうちにいつの間にか八方塞がりになっていた。
 ――向いてないのかもしれない。
 恋愛に向き不向きがあるのかは知らない。だけど、こんなにも心を乱され頭を悩ませても、解決の糸口すら見つからないとなるとやはり恋愛の才能がないのかと諦めに似た気持ちが沸き起こる。
 ――でも、諦めることはもっと出来ない。
 ちゃんとの恋はもう進みようが無い段階へと足を踏み入れてしまっていることは重々承知している。だからといって「はい、次」だなんて割り切れるくらいならはじめから足掻いてない。
 ――強くてニューゲームを選ぶくらいならゲームオーバーの方がずっといい。
 挫けそうな心を戒めるべくきゅっと口元を引き締める。陰鬱とした気持ちを追い出し、改めて宿題に向き合おうと意気込むと同時に正面から声がかかった。

「どこまで芯出す気だよ」
「え? あ」

 掛けられた声に顔を上げれば呆れに塗れたの表情が目に入る。その視線が俺の手元に落ちていることに気づき視線を落とすと、の言わんとしていたことがわかった。どうやら俺は考え事をしている間、ずっとノックし続けていたらしい。そこにはかなりの長さの芯をペン先から突き出したシャーペンが握りこまれていた。

「シャーペンの芯は一回のノックで0.5 mm出るように作られてんだ。文字を書く最適な長さは1 mmだから2回でいいんだぞ」
「へぇ……よく知ってるね。将来、シャーペン販売の営業マンになれるんじゃない?」

 まるで文具メーカーの公式サイトに書かれてるようなことをサラリと口にしたは俺が感心した素振りを見せると眼鏡の縁を抑えニヤリと笑う。

「いや、俺は対人スキルに難があるのを自覚しているからな。営業職には向かないだろうよ」
「自覚があるなら治した方がいいんじゃ?」

 先日、が中学の時の同級生に野次られていた場面が脳裏に浮かぶ。面と向かって指摘されても態度を改めない芯の強さは評価に値するが、目に見えた欠点を治さない意地っ張りな面と合わせればプラマイゼロとなるだろう。

「治す気はねぇな。特に今のところ支障はないし」
「たった今、進路の幅が狭められたのに?」
「向いてない職業をわざわざ選ぶ必要がないってだけだ」
「……なるほどね。じゃあは将来どんな職なら向いてるって思ってるの?」
「そうだな。俺は先輩に可愛がられるタイプでもないし、どちらかというと個人事業主系の方がいいだろうな」

 顎に手をやり思案するポーズを取るは視線を斜め上へと向けてかすかに唸る。今、の頭の中には数多ある職業の名前が列挙されているのだろう。

「官僚か医者か。……弁護士なんて手もあるな」
「両極端な仕事を選ぶね」

 文系と理系。いずれにせよその分野の最高峰とも言える職業を口にしたに思わず目を丸くする。なかなか高スペックな将来のビジョンを語るはたしか中間試験ですべての科目で1位を取っていたはずだ。文系と理系のどちらに転んでも、ならきっと成し遂げることだろう。

「多田野は? 将来、プロ野球選手になりたいとか考えてないのか?」
「さすがにもう考えてないよ」

 プロ野球選手になりたいと口にしていたのはいつまでだったか。現実よりも夢にほど近い憧れは、今では中途半端な気持ちで口に出来ないほど遠いものとなっていた。

「なんでだよ。今年のドラフトに三年の――原田さん、だっけ? 候補に入ってるって話じゃねぇか」
「原田先輩は凄いから」
「お前もこれから凄くなるかもしれねぇじゃん」
「いやいや」

 原田先輩や来年のドラフト指名待ったナシな鳴さんみたいな人は、関東内で野球をやっているやつなら知らない人はいないと言っても過言ではないレベルでその名が知れ渡っている。俺もシニア内ではそこそこ名前が挙がる程度だったらしいが、それは狭い世界の中の話であって、きっとふたりには及ばない。
 そんな考えのまま謙遜してみせればは片眉を上げて呆れた表情を浮かべた。

「身の程を知るのも大事かもしれねぇけど端から諦めてると手に入るものも入らなくなるぞ」

 の言葉に思わず手を握り込む。シチュエーションは違えど同じような言葉をつい先日、耳にしたばかりだった。杉の言葉にはちゃんへの想いを諦めることはないと背中を押す優しさが滲んでいたが、の言葉には諦め癖がつくのはいいことじゃないという叱咤が含まれているように感じられた。

「……まぁ、アレだ。シャーペンにしろ進路にしろ時間は有限なんだ。効率いいに越したことはないぞ」

 眉根を寄せる俺に視線を落としたは、シャーペンの話題へと帰結させると得意げに笑った。2回だ、と強調する意味なのだろうか。は手の甲をこちらに向けたピースサインを披露する。

「はいはい。次から気をつけるよ。それよりどうしたの? 珍しいね。がこっち来るの」

 まさかシャーペンの使い方をわざわざ教えに来たわけはあるまい。理由を尋ねると手のひらを翻し自らの胸の上で腕を組んだは不敵に笑った。

「あぁ。お前の顔を見に来たんだ」
「えぇ?」
「死んだ魚の目ってのはこういうのを言うんだろうな」

 ニヤリと笑ったの言い分に、堪えきれなかった感情に押し出されたように唇が突き出る。目に見えて不服を顕わにした俺を一瞥したは目を細めてまたメガネの縁を抑えた。

「そんな顔するなって。見たまんま言ってるだけだからよ」
「余計にひどいよ」

 心の底から悪いことを言ったとは思っていないのだろう。ちっとも悪びれるところのないは、俺がムッとした表情を取ろうがその飄々とした態度を崩さない。相変わらず雑なやつだと呆れると共に自然と溜息が口をついて出た。

「ところで、多田野さ。お前、いつも昼飯どうしてんの?」
「たまにパンとかおにぎりも買ったりするけどほとんど学食だよ」
「あぁ、そういや寮生だったな。お前」

 以前、寮通いであることを告げた際、はひどく俺の境遇を羨んだ。学校と目の鼻の先にある寮であれば、通学による時間のロスが少なくなることが羨ましかったようだ。
 ちゃんと同じ中学なら家もそこそこ近いだろうと疑問を呈すれば学区のハズレにあるから遠いのだと反論されたことを思い出す。もっとも、同じ部屋に二、三年がいることを伝えれば簡単に「それは嫌だわ」と翻意されたのだが。
 身の振り方にブレのないの一貫した性質に苦笑し、眉尻を下げて見せればはなにかに納得したようにひとつ頭を揺らす。

「今度さ、パンか何か買ってこいよ」
「え? もしかしてパシるつもり?」

 脈絡のない言葉に思わず身構えてしまう。「買ってこい」と言われて脳裏に浮かんだのは鳴さんの怒った顔だった。原田先輩から鳴さんのアイスを譲り受けたことがバレて以来、鳴さんにはますます頭が上がらない日々が続いている。「樹! アイス無いよ!」と言われてコンビニまで走らされた記憶は既に片手の数では足りないほど積み重なっていた。
 その扱いをからも強いられるのではと疑念が頭を掠めれば、反射的に嫌悪を示してしまう。警戒心を剥き出しにして見上げる俺を目にしたはあからさまに顔を顰めた。

「そんな話してねぇよ。買うのはお前の分だ。外で一緒に飯食おうつってんだ」
「いいけど……でもどうして?」
「ちょっとツラ貸してもらおうかってやつだ」

 ムッとした表情を一変させたは目を細めて笑った。ご丁寧に口を開いて笑顔を作り上げる当たり、底意地の悪いことを考えているのだと思わざるを得ない。だが、あからさまに悪い顔をするに、何を企んでいるのかと問いかけたところでまともな答えは返ってこないだろう。
 理由がわからなくともクラスメイトに誘われて抵抗するほど嫌なわけでは無い。小さな溜息と共にに対する疑念を追い出すと、改めて視線を合わせるべくを振り仰いだ。

「今度っていつにする?」
「そうだな……来週から試験準備期間に入るし、火曜には梅雨開けって話だから念のため一日間を取って水曜でどうだ?」
「いいよ。じゃあ朝のうちにコンビニでパンでも買っておくよ」
「あぁ、よろしくな」
「うん」

 「わかった」と告げれば、一度頭を揺らしたは「じゃあな」と去って行く。離れていく背中を小さな溜息と共に見送って、が自分の席に着いたことを確認すると自分の手元に視線を落とした。
 飛び出た芯は押し戻した方がいいか。それともいっそ引き抜いた方がいいか。出ている長さを目測し、本体に収まったままの芯の方が短いだろうことを推測すると、出しっぱなしになっていた芯をそっと引き抜き、上からシャーペンに補充した。
 の指摘するとおり、2回ノックし、シャーペンを握りこんだまま頬杖をつく。空っぽの隣席を横目で眺めながら、は一体何の話をするつもりなんだろうかとぼんやりと考えた。




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