春恋24

24


「ねぇ。黙ってたらわかんないんだけど」
「いえ、その……まだ心の準備が」
「そういうのいる? 何? 樹は俺のことを無駄に待たせてもいいって思ってるわけ?」
「ぐ……」

 矢継ぎ早に紡がれる非難にキュッと口元を引きしめる。俺の「打倒、鳴さん」の発言を拾い聞きした鳴さんはあからさまに不機嫌な態度でこちらを見下ろしていた。
 鳴さんから放たれる威圧感は部活中に発せられるものとはまるで質が違う。そもそもエースである鳴さんと、一年坊の控え捕手な俺とじゃ立場が違う。バッテリーを組ませてもらったことなんて片手で足りるかどうかの数しかない現状では、相手にされていない、という表現が最も正しいと言えた。紅白戦で対戦したこともない今、まさか初めての対戦が部活外で起こるなんて想定外にもほどがある。
 ストローに口をつけた鳴さんが牛乳を飲むさまをちらりと盗み見る。黙りこくった俺を睨む鳴さんの視線は険しい。言葉が降ってこない分、余計に視線に圧力を滲ませているようにすら思えた。
 敵意には敵意を。まるで失態をおかした下っ端を睨めつける悪役のボスのようにプレッシャーを与えてくる鳴さんを前に、明確な敵愾心を抱いていたわけじゃない俺は尻込みするしかない。気付けば居住まいを正すあまりその場に正座していた。揃えた膝頭を掴み、頭上に降り注ぐ強固な視線をどう執り成すべきか考えを巡らせる。
 だが口さがないでさえも黙らせる鳴さんを半端な嘘で誤魔化せる気がしない。正直に答える以外の選択肢は初めから用意されていないのだ。

「鳴さ……」
「だいたい樹に文句言われる筋合いないんだけど」

 戸惑いながらもひとまず謝ろうと口を開きかけた。だが、ズ、ズ、とパックの牛乳をすべて飲みきった音がしたのを契機に、鳴さんが強い言葉で俺の声を遮る。

「あのさ。俺、別に樹のこといじめてるつもりないんだけど。聞いてるだけじゃん。何が〝打倒〟なのか」

 ほんのりとではあるが怒気をはらんだ声に思わず首を竦める。俺の反応が気に入らなかったのだろう。鳴さんはあからさまな溜息を吐き出した。
 あからさまな機嫌の悪さを目にすると気持ちがどんどん萎縮してしまう。だが、元はと言えば鳴さんに敵愾心を向けるような言葉を放ってしまった自分に非がある。誤解されてしまった以上、きちんと謝罪と釈明はするべきだ。

「で、何?」
「えっと、その……」
「……また黙っちゃうし」

 どこから説明したものか。判断に迷いを見せた途端、鳴さんはまたひとつ溜息を重ねた。

「……やっかまれることには慣れてるけどさ。身に覚えのないことまで言われんのスッゲェ腹立つ」

 唇を尖らせた鳴さんの言葉に自然と眉根が寄る。身に覚えがないと断言した鳴さんが、重い感情と共に記憶に残っている姿と重なった。ちゃんの目の前で、彼女の告白をまるでなかったかのように振る舞った鳴さんの姿を思い出すと、やるせない気持ちが胸に蘇る。
 奥歯を噛みしめて頭を俯かせる。あの日もちゃんと、ちゃんの気持ちは鳴さんにあるのだと伝えたのに気にもとめてない様子の鳴さんに歯痒さが募った。こうやって俺が気を揉んでいたとしても、鳴さんから言わせれば〝樹が勝手に楯突いてきた〟に過ぎないのだろう。
 
「……身に覚えは、あると思います」
「はぁ?」

 俺の反論に対し、鳴さんは不満気な声を上げる。機嫌が悪いのだと隠しもしない態度に、緊張して身体が萎縮してしまう。背筋が寒くなるどころの話ではない。この学校のエースに凄まれて平常心でいられる1年なんているんだろうか。少なくとも、江崎や杉なら俺と同様に首を竦めてこの嵐が通り過ぎるまで身を小さくさせることだろう。
 だけど、口に出した以上、前に進むほかない。今度は怯まないように、と自分を奮い立たせるべく膝を掴む手のひらに力を込めた。

「打倒、と口にしたことは謝ります。あれは俺の失言であって鳴さんには一ミリだって非はありません」
「ふーん。じゃあ、なんで俺が樹から目の敵にされないといけないわけ?」

 不遜な態度で俺に言葉を続けるよう促す鳴さんの声を機に、下げていた頭を上げる。きゅっと寄った眉根を見られてはまた生意気だのなんだのと難癖をつけられる恐れはあった。
 だが、下を向いたままでは気持ちで負けてしまう。踏み出した勇気を蔑ろにしたくはない。

「俺の好きな子が鳴さんに……告白したって聞いて――それでも心を折らないようにと、気持ちを強く持つために言いました」

 ハッキリと、と言うにはあまりにも怯んだ物言いとなってしまったが、それでも今の俺には精一杯の言葉でもって口にする。
 鳴さんに対して嫉妬しているのだと初めて告げた。醜い感情を抱いても、それでもちゃんを好きな気持ちを捨てられない。その感情を受け入れるまで随分と時間が掛かってしまったが、俺は自分の抱く気持ちに初めて素直に従った。
 
「樹の好きな子って……あの子がァ?」

 俺の言葉を復唱した鳴さんは、不満気に顰めていた顔をまったく違う意味で歪ませる。困惑に加え、呆れ果てたと言わんばかりの表情を見せた鳴さんは、空になったばかりの牛乳パックを持つ手を大きく振るう。

「いーやない! それはない! 絶対にないっ!」
「そんな……。そりゃ、鳴さんにとってちゃんからの告白はたくさんある中のひとつだったのかもしれませんよ。でも、ちゃんにとっては違うんですから忘れないであげてくださいよ」

 全身で〝ない〟のだと主張する鳴さんに訴えかけたところで、ちっとも鳴さんには響かない。届かなかった俺の言葉は、翻された手のひらによって彼方へと投げ出されてしまう。
 
「忘れるわけないじゃん! この前、お前とチューしてた子だろ?」
「ハ? お前そんなことしといて告白するのしないの迷ってたのかよ」
「ちょっと話がややこしくなるからは黙ってて……」

 押し黙っていたが聞き捨てならないとばかりに口を挟んでくる。だが、その話をするタイミングは今ではない。割って入ろうとするを制し、「だからしてませんって何回も言いましたよね」と、鳴さんへ言葉と共に強い視線を向ける。
 からかわれる度に何度も違うと訂正してきた。鳴さんもさすがに頭では理解はしているのだろうが、逐一反論する俺が面白いのかいまだ誤解したフリを続けている。
 大仰に溜息を吐いた鳴さんは右手を頭の後ろに回し、乱雑に後頭部を撫で付ける。苛立たしげな仕草に思わず目を瞠れば、鳴さんは「あー、もう」とやはり苛立たしげな声を上げた。

「もうさ、チューしてるしてないはよくない?」
「いや、鳴さんが言い出したんですよ?!」
「だって俺、あの子の名前知らないもん。樹が言ってるのがお前の好きな子かどうか確かめてるだけじゃん」

 波乱を起こしかねない爆弾を落として起きながらまるで自分の発言に問題がないかのように振る舞う鳴さんに思わず閉口する。突き上げた下唇に不満がありありと現れているのだろう。俺の表情を目に入れた鳴さんは、あからさまにムッと顔をしかめた。

「っていうか樹はなんで自分の好きな子が俺のこと好きだとか言ってんの? マゾなの?」
「事実だから、言ってるだけです」
「ふぅん……」

 釈然としないのか目を細めて俺を睨みつける鳴さんは、「で?」と、冷ややかな声を落とす。

「打倒の意図はわかったけど、それで?」
「え?」
「俺に負けないってなに? 結局、樹はなにがしたいわけ?」

 腰に手を当てた鳴さんは、軽く顎を上げたまま目線だけを下げてこちらを睨んだ。鋭さを多分に含んだ視線で見下ろされているのだと気づいた途端、気持ちが萎縮しそうになる。
 だが、ここで怖じ気付くわけにはいかない。きゅっと口元を引き締め、鳴さんの視線に気圧されないようにと目元に力を込める。

「別に、今までと変わりません」
「勝手に俺のことを恋敵にしといて自分はその子に空しく片想いするって、そういうつもり?」
「そうですけど」

 悪意のある言い回しにきゅっと下唇を噛みしめたものの、空しい片想いだなんて断言されたことに不思議と腹は立たなかった。ただ、鳴さんに知られてしまった以上、その先の覚悟もあると伝えておかなければいけない。
 ごくりと喉を鳴らす。膝の上に置いた手のひらが緊張で強ばったのを感じながらも、気持ちを新たに込めて鳴さんを見上げた。
 
「だけど……だけど、もし、鳴さんがちゃんのことを好きになる可能性があるのなら――」

 今度こそ諦める。ふたりの邪魔をするつもりもない。
 そんな言葉を伝えるべきだと頭では理解している。なのに、どうしてかその一言が口に出せない。
 震える喉を叱咤して言葉を紡ごうとした。だけど、今度は唇が動かない。俺の戸惑う姿を目に入れた鳴さんはひときわ強い視線をこちらに差し向けた。
 ――ちゃんと伝えなければ。
 焦れば焦るほど、身体が強ばっていく。しゃべるのっていつもどうやってたんだっけ。空転する頭の中にそんな考えが浮かび上がるほどの緊張感が身体を支配した。
 中途半端なところで言葉を切った俺に苛ついているのだろう。懊悩する俺の言葉を待つ鳴さんから降り注ぐ視線は鋭い。差し向けられるプレッシャーに耐えかねて、思わず顔を伏せてしまう。
 ――覚悟なら、あるはずだった。
 ちゃんの恋する相手が鳴さんだと知った時、この恋の行方に未来がないことを悟った。鳴さんが相手で俺に勝ち目があるだなんて思えるはずがない。
 それでも、江崎や杉に背中を押されてやっと前向きになれた。散々悩んで、迷って、片想いを続けてもいいのだとようやくその答えに辿り着いた。たった今、に最後の一押しをされ、ちゃんとちゃんに想いを告げようと心に決めたところだった。
 だが強い気持ちと共にちゃんへの想いを胸に抱いたところで、いざ鳴さんに凄まれると身体が竦む。
 ――この人に、敵うわけがない。
 日に日に増していく鳴さんへの尊敬の念は厄介なほどに膨れ上がっている。遠い憧れは、ちゃんへの想いを含んで裏返せば劣等感へと遷りかわった。
 ――諦めるなんて、鳴さんに言ってしまったらもう取り返しが付かない。
 俺の意思とは裏腹に、身体が抵抗する理由なんてこれしかない。――怖いんだ。ちゃんへの想いを諦めさせられることが、怖い。
 口元を引き締めたまま、ぎゅっと膝を掴む手に力を入れる。戸惑う俺を、鳴さんはどう思っているんだろうか。顔を上げて確かめたいような気もするが、実行に移すほどの気概が湧いてこない。
 ただ奥歯を噛みしめたままどうするべきか逡巡する俺を見かねたのか、フン、と鼻を鳴らした鳴さんは、深い溜息の後、口を開いた。
 
「じゃあ、やめればいいじゃん」

 俺の言葉を待つよりも、言葉の先を自分で読んだ方が早いと判断したのだろう。キッパリと放たれた鳴さんの声に、伏せていた顔を上げる。目を丸くした俺を見下ろす鳴さんは、眉根を顰めて不機嫌さを露わにした。

「諦めるとか、そういうこと言いたいんでしょ? でもさ、可能性まで考えてたらキリがないよ? 100%なんて世の中にはないんだし、先のことなんてわかるわけないじゃん」
「それはそう、ですけど」
「別に俺はその子のこと好きでもなんでもないけど……俺に遠慮するくらいなら本気じゃないんじゃん?」
「それは……っ!」

 ――本気で好きに決まっているじゃないですか!
 反論めいた言葉をすんでのところで飲み込む。そんなことを口にしたところで相手がちゃんでないのなら意味がない。それどころか鳴さん相手に言ったって「じゃあその子に言えよ!」と一蹴されるのがオチだ。
 ――一筋縄ではいかないから悩んでいるのに。
 初めから誰とも付き合わないと決めている鳴さんなら迷いはないのだろう。俺だってちゃんじゃなければきっと、野球一筋に高校生活のすべてを捧げていた。
 でも、もう好きになってしまった。到底無視できるほどの質量じゃなくなっているからにはその想いも受け入れるほかないじゃないか。
 ぎゅっと眉根を寄せたまま口をつぐむ俺を一瞥した鳴さんは、またひとつ溜息を重ねる。

「じゃあさ。俺がその子のこと好きになったらどうすんのお前」

 冷ややかな視線と共に紡がれた言葉が耳に浸透した途端、ハッと息を呑む。
 もし、そんなことが現実に起こってしまったら――。
 考えただけで身体の奥底から震えが来る。背中に走る緊張は、試合の終盤にチャンスで打席が回ってきたときのものと似ているようでまったく異なっていた。試合中ならば追い込まれた緊張と共に「やってやる」という反骨心も多分に含まれる。だが、今抱えた感情には緊張のほかは悲嘆や哀愁で満ちていた。

「どうって言われても……」

 情けない声が出た。腹を括ったはずなのに、鳴さんに言われただけで揺らいでしまう。もしも、鳴さんがちゃんを好きになったらちゃんの恋は報われる。だが、その瞬間、俺の恋は本当の意味で失われるのだ。
 以前、考えたことがある。ちゃんの恋をする表情を見てしまったとき、ふたり並ぶ姿が〝しっくりくる〟と――。
 一方的に俺が考えることと、実際に鳴さんからちゃんを好きになる可能性があると提示されることには大きな開きがある。想像しただけなのに、伝えてもいない想いが踏みにじられたかのように感じてしまう。訪れるかもしれない未来への不安を前に、失意だけが募っていく。
 
「……なにも、出来ないですよ。ちゃんの恋が叶うなら……俺に、何かする権利は無いです」
「なんだそれ……。お前、それ本気で言ってる?」

 震える唇を無理にでも動かしたところで、鳴さんの鋭い言葉を耳にすれば簡単に言葉が詰まる。
 喉の奥で飲み込めない感情がその存在を主張する。飲み込み損ねた魚の骨のようにチクチクと痛む喉に手のひらを添えて覆い隠したところで心は誤魔化せなかった。本音を言えば、諦めたくない。ちゃんの恋が叶わなければいいとさえ願っている。
 ――だけど、そんなことを祈るのは間違いだ。
 鳴さんから視線を外し、強く、強く目を瞑る。人の道に悖るような考えを抱く俺がちゃんに選ばれなかったのは必然だ。繰り返す〝てもでも〟と共に湧き上がる本能は、理性で抑え込むほか道はない。
 
「――本気です。その時は、俺はもう恋なんてしません。今まで通り野球一筋で生きていきます」

 強く眉根を寄せたまま顔を上げた俺は改めて抱いた決意を口にする。たとえ本意ではなくとも、ちゃんの想いに対し誠実でいたい気持ちに嘘はない。

「あのさぁ……」

 深い溜息と共に言葉を零した鳴さんは苛立たしげに後ろ頭を掻くと、俺の目の前に腰を落とす。至近距離から睨めつけられると、立て直したばかりの気持ちが揺らぐような心地がした。
 だけど、もうこれ以上の答えは出せない。俺が頑張るのはちゃんが片想いでいる間だけだ。もしもその恋が実ってしまうのであれば、俺が横槍を入れて台無しにするなんてことはあってはならない。
 鳴さんから差し向けられる視線に負けないようにと口元を引き締める。強い気持ちを胸に鳴さんと対峙すれば、鳴さんは眉根を寄せ顎の角度をさらに上げた。

「ありもしない仮定で勝手に負けた気にならないでくれる?」

 普段よりも幾分もトーンの低い声に、鳴さんが怒っているのだと瞬時に理解した。だが、俺が口を挟むよりも先に、鳴さんの左手がこちらへと伸び、ネクタイと襟元をひとまとめに掴んだ。

「ありえないってホントはわかってんでしょ? だから安心して諦めたフリができるんだよ。第一、無関係だもん、俺は。あの子に興味ないし、そもそも頂点取るまで誰とも付き合うつもりないし?」
「かっ……関係ないとか、言わないでくださいよ」

 首が詰まっているせいもあり、反論は掠れ声で紡がれる。だが、その程度の抵抗であっても許さないとばかりにさらに襟元を絞められれば、それ以上の言葉を口にすることは出来なかった。

「人の話聞けって! あのさぁ、樹。お前、めちゃくちゃ失礼なこと言ってるのわかってる? 今言ってること全部、この俺を当て馬扱いしやがってるのと同じだからな?」
「……当て馬?」

 なじみはあるが、到底鳴さんには相応しくない言葉を思わず反芻してしまう。
 当て馬といえば負けヒロイン確定の幼なじみが定石だが、まさか鳴さんにそんな知識があるはずもない。訝しむ表情を浮かべた俺を睨む鳴さんの視線は険しい。

「なに? 言いたいことあるならハッキリ言ってくれる?」

 嫌悪いっぱいの表情で俺を睨む鳴さんの手からほんの少しだけ力が抜ける。喉の詰まりが解消されたことで反射的に咳き込んだ。喉に手をやり、浅い呼吸を繰り返しながら視線を鳴さんへと流せば、憮然とした表情が目に入る。
 
「あの……それじゃ質問なんですけど。鳴さん、ひょっとしてちゃんと幼馴染だったりします?」
「はぁ? 全然違うし! お前のそのたまにわけわかんない極論振りかざしてくるの本当にキモイんだけど!」

 鳴さんの言う通り、言いたいことを言っただけなのにとんでもない罵声を浴びせられる。質問した俺も俺だが、許可しておきながら怒る鳴さんも鳴さんだ。だが、先輩相手にそんなこと言えるはずもない。ましてや鳴さんが相手となるとちょっとでも抵抗しようものなら二倍三倍になって返ってくることは目に見えている。
 機嫌が悪いことを隠しもしない鳴さんにこれ以上何を言っても無駄な気がして口をつぐむ。だが口を閉じたところで不満は拭えない。
 表情にも出ていたのだろう。鳴さんはますます意固地になったように俺のことをぼろくそに貶してくる。もっとも、俺がうまく表情を取り繕ったところでそう簡単に鳴さんの機嫌が直るとも考えられなかったが。
 頭上を通り過ぎる罵声を聞き流しながら、ちゃんが鳴さんを前にしたときのことを思い出す。
 焦って尋ねてしまったが、そもそも俺がちゃんの前で初めて鳴さんと喋ったとき、ちゃんは鳴さんのことを知らない様子だった。だからこそ、短い期間で鳴さんのことを好きになったのかと落ち込んだというのにそんなことも忘れてしまうほど鳴さんの当て馬発言は突拍子のないものだった。
 だが、どうして鳴さんが自らを当て馬だなんて思うんだろうか。俺からしてみれば、ちゃんの想いが鳴さんにある以上、俺自身が当て馬でしかないのに。
 ケホ、とひとつ咳を払い、鳴さんの様子を盗み見る。相変わらず俺に対する不平不満を並べ立てる鳴さんから、真意を尋ねることは出来そうもない。
 早々に諦め、頭上を通り過ぎる罵声に耐えていると、自然と頭が下がっていく。膝を掴む手の甲を眺めていれば、唐突に襟元が絞まった。

「ちょっと樹! 聞いてんの!?」
「はい! 聞いてます!」

 掴まれた襟元を揺すられれば顔を上げることしかできない。反射的に答えた俺を睨む鳴さんの機嫌は悪いままだ。激昂する鳴さんを前に数度目を瞬かせれば、鳴さんは更に眉根を寄せて怒鳴り散らした。

「じゃあどうすんだよ!」
「え……何がですか?」
「ほら! 聞いてないじゃん!! せっかくこの俺がお前に忠告してやってんのに!」

 思わず聞き返してしまった俺を鳴さんは呆れたような顔で睨んだ。話にならないとばかりに息を吐いた鳴さんは、そこでようやく俺の襟元から手を離す。解放された首を労るように摩っていると、憤慨した鳴さんはこちらへ人差し指を突きつけて怒鳴り声を上げた。

「だから! 俺が誰とも付き合わない以上、仮にあの子が俺のこと好きだったとしても失恋確定なわけ! そしたら次、その子が他の男を好きになる可能性だってあるんだよね?! その時も樹は今回みたいに諦めるつもり?」

 ――いつの間にそんな話になったんだろうか。
 思わず助けを求めるようにの方へ視線を流したが、は自らの手元に視線を落としたまま動かない。その手にはしっかりと単語帳が握られているのを目にした途端、状況のすべてを把握する。
 おそらく、俺が「ちょっと黙ってて」と伝えた後、は時間を無駄にすることなく己の勉学に励んでいたのだろう。俺以上に鳴さんの言葉を意に介していなかっただろうの姿を目にした鳴さんは、肩をわなつかせ更に声を大きくした。
 
「ほら! どうすんの? 樹の好きな子がその隣の子のこと好きになっちゃったら!」
「いや、俺はもうにフラれてるんで、それはないですね」

 唐突に差し向けられた話題に動じることなくはいとも簡単に鳴さんの言葉を否定する。立てた二本指で眼鏡の縁を押さえたの余裕そうな表情とは裏腹に、を話題の中心に引っ張りあげた鳴さんはぎょっとした顔で固まった。
 言葉を失った鳴さんは、が自分の失恋を受け入れていることを知らない。もしかしたらの地雷を踏んだと誤解して怯んでしまったのだろうか。
 そう訝しんだが、先程以上に顰められた顔つきに、鳴さんが他人に対して遠慮するような人ではないと思い至る。

「ねぇ、君さっきからホント空気読まないね?!」
「いや、槍玉に挙げられて黙ってるのも癪に障るんで」

 ハッキリとした態度で宣言したは、言いたいだけ言うとまた単語帳へと視線を戻した。それだけでは飽き足らず、頬杖をつき、指先で耳の穴を抑えたは、鳴さんの追求なんて聞く気がないと口にするよりも強く態度で主張する。あからさまにこちらをシャットアウトしたには、さすがの鳴さんでさえも閉口せざるを得なかったらしい。
 ぐっと下唇を突き上げた鳴さんは、俺を睨み付けると「何この子! 樹に似て生意気なんだけど! 類友?! 類友なの?!」と叫んだ。
 
「あーっ、もう腹立つ……。それで? 樹は?」

 肩で息を吐く鳴さんは、もう怒り疲れたと言わんばかりの態度を見せる。下ろしただけだった腰を更に落とし胡座をかいた鳴さんは、膝の上に肘を置き、前髪をかき上げた。額を露わにし大仰に溜息を吐きこぼす鳴さんを見つめながら、質問の意図を探る。
 今回、〝鳴さんが相手だから〟と身を引こうとしているが、その次、ちゃんが他の誰かに恋をしたらどうするのか。おそらく、鳴さんが聞きたいのはその答えなんだろう。
 相手が鳴さんじゃなかったら――。
 この場合、想像するのはが相手でもいいんだろうか。チラリと視線を横に流すと、相変わらず涼しい顔をして勉学に励む姿が目に入る。
 ――の想いを知ったとき、俺はどう思ったんだっけ。
 初めてと話をしたのは、席替えのくじ引きを交換した時だった。その次の休み時間に話しかけられた際、ははばかることなく俺の想いがちゃんにあると指摘した。展開が早いと焦る間もなく、自分がちゃんに2回フラれていること、それでもなお彼女を好きでいることをは打ち明けた。
 今にして思うことだが、至極あっさりとした態度で「お互い頑張ろうな」なんて茶化してきたは、新しいライバルに対してあまりにも寛容過ぎたんじゃないだろうか。泰然自若としたの態度を思い返しては、思わず苦笑しそうになる。
 あの日、当たり前のように紡がれた言葉に従い、俺はこれまでに対してなんの配慮もせずちゃんを好きでい続けた。想いの期間の差はあれど、真っ当なライバル関係を築いたまま、今では友情まで育んでいる。
 だが、を蹴落としてまでちゃんの心を手に入れようと思わなかったのはが〝友だちだから〟という遠慮でなければ、〝ちゃんにすでにフラれているから〟なんて同情でもない。
 俺は俺、。お互いちゃんを想う気持ちに優劣はなく、対等な恋敵だったからこそ、ただ当たり前のように互いの想いを尊重した。もしが、本当にちゃんから選ばれたのなら、俺はきっと心の底から祝福するはずだ。
 ――だけど、ただ手をこまねいたままその日を待つつもりは無い。
 回り回って得た答えに、先程とはまったく違う意味で膝を掴む手に力を入れる。ちゃんの失恋を喜ぶのはいけないことだ。だけどもし次があるのだとしたら、足掻きもせず「あぁ、そっか」だなんて諦めたりしない。
 そう考えた途端、ひとつの考えに思い至る。
 ――じゃあ、今、俯いているのはどうして?
 ちゃんが鳴さんを想っている以上、俺の出る幕はない。そう思っていた根幹には、俺の〝鳴さんには敵わない〟という想いが渦巻いていた。稲実のエースで、それに相応しい度胸も自信もあって、わがままで決して優しくはないけれど思いやりのあるひとだからこそ、鳴さんの周りにはいつもひとが集まっている。
 ちゃんが鳴さんを好きになる理由には事欠かない。俺が勝てる要素なんて、若さと誤差くらいの身長だと嘆いたこともある。だけど、敵わない理由をいくつ重ねても、ちゃんを諦める理由なんてひとつもなかった。
 そう気付いた途端、目の前が突然拓けたように明るくなった。目の奥がチカチカと痛むままに深く瞑目する。勝手に負けた気になって俯くのはもうやめだ。ただ俺は、ちゃんに選んでもらえるように、前へ進む。
 顔を上げると、こちらを睨めつける鳴さんと視線が交差した。先程までならきっと怯んだことだろう。だけどもうさっきまでの俺じゃない。胸に湧き上がる決意に支えられるように背筋を伸ばして口を開く。

「――負けません」

 その一言に、想いのすべてを乗せた。や名前も知らない恋敵だけじゃない。俺は、鳴さんにも負けたくない。いつも胸にある鳴さんへの憧れや劣等感を払い落とし、辿り着いたシンプルな答えに気持ちを強くする。歯を食いしばり、膝を掴む手に力を込める。ちゃんが鳴さんを好きという事実は変えられないけれど、それでも気持ちまで負けるべきではないとようやく理解した。
 自らを鼓舞するべく目元に力を入れる。戦場に立つ前から白旗を掲げるのではなく、堂々、とライバルとして名乗りを上げた。そんなことを伝えたところで鳴さんはきっと「だから俺にはそん気がないの!」なんて怒るんだろう。だけど胸に込み上げた誓いをまたしまい込むことは出来ない。
 先程はぼんやりとした心地で口にした〝打倒、鳴さん〟の域にようやく辿り着けた。
 引き締めた表情のまま鳴さんを見つめる。目の前のこの人に、負ける訳にはいかない。俺がちゃんを好きな想いを、鳴さんへの劣等感で燻らせて溜まるか。
 口元を引き締めたまま正面に座る鳴さんに視線を向ける。目を開き下唇を押し上げた鳴さんの口角が一瞬、ニヤリと上がった、ような気がした。だが、まばたきひとつ挟んだ途端、般若のような顔に変遷する。

「そんな顔出来んじゃん!」
「痛ぁ!」

 結構な威力のデコピンを放たれて、思わず仰け反ってしまう。痛む額を抑えて体勢を立て直した俺に、眦を吊り上げた鳴さんがここぞとばかりに怒鳴り散らす。

「大体さァ! 樹は何をそんなにうじうじ悩んでんだよ! ずーっとこんな顔してさぁ! 辛気臭いったらないよ!」

 立てた人差し指で眉尻を下げた鳴さんはわざとらしく泣き顔めいた表情を浮かべる。普段の顔つきからは想像できないほど情けない顔をした鳴さんは、どうやら俺の顔真似をしているらしい。

「そ、そんな顔してませんって!」
「してたってば! ねぇ!」
「してたな」
「ほーら!」
まで!」

 鳴さんの呼び掛けに応じ単語帳から顔を上げたは、同意の言葉だけを残すと俺の糾弾は聞こえないとばかりにまた自分の勉強へと戻ってしまう。手を伸ばして肩を揺さぶったところではこちらを振り返らない。こういう時だけ参加するのなんて、は本当に狡い男だ。

「で! どうすんの! その子のこと好きなの? 好きじゃないの!」
「好きに決まってるじゃないですか!」

 の情へ訴えかける俺にとんでもない質問を鳴さんが投げかけてくる。反射で答えた俺も俺だが、そんな質問をしておいてびっくりする鳴さんも鳴さんだ。

「いきなりなんでそんな強気になってんの! 生意気!」
「痛ぁ!」

 ギョッとした顔で困惑を露わにした鳴さんは、ムッと顔をしかめると手刀を落としてくる。今度は手加減してくれたようだが、攻撃が重なれば痛みも残る。額へのダメージを労わるように手で摩っていると、まるで反省の色を見せない鳴さんは「大袈裟なんだよ!」と鼻を鳴らした。
 
「そういうことは彼女に言え!」
 
 正論を吐いた鳴さんは怒った表情を変えることなくサッと立ち上がる。一連の動きを眺めていた俺に「これも捨てといて!」と空になった牛乳パックを押し付けると、返事をする間もなくさっさとその場を立ち去ってしまった。

「あの! 鳴さん!」
「なに! まだなんかあるわけ?」

 離れてしまった背中に声を掛けると、鳴さんは眦を吊り上げた表情でこちらを振り返る。向けられた怒りにほんの少し怯んでしまったが、一度生まれた負けん気は腹の中にとどまったままだ。後退しそうな背中を押し留め、ピンと背筋を伸ばして鳴さんに言葉を投げる。

「ありがとうございました!」

 ハッキリとした声で感謝の意を示す俺に対し、ムッと顔をしかめた鳴さんはべっと舌を突き出した。面食らって目を丸くした俺を一瞥した鳴さんはフッと嫌味ったらしく口元を緩めるとくるりとこちらに背中を向けて去って行く。鳴さんが歩く度、黄色い声があちこちから飛んだ。それらに悠々と応えながら歩く鳴さんのご満悦な背中を目で追っていると、その先に白河さんたちの姿があるのが目に入った。
 遠くからも目が合ったような気がして会釈をすれば、カルロスさんが片手を上げ、山岡さんが力こぶを作って応じてくれた。
 その輪に辿り着いた鳴さんは楽しそうな雰囲気の三人に身振り手振り交えて喋っているようだ。ぼうっとした視線を投げかけたままでいると鳴さんの「だからいじめてねぇって!」という叫び声が空に響いた。

「なーんか、とんでもないひとだったな」

 耳に入ってきたぼやき声に振り返ると、首の裏に手をやりストレッチをするの姿が目に入った。普段は飄々としたでさえも鳴さんを前にすると少しは緊張していたらしい。肩に入っていた力を抜くための行動に思わず苦笑してしまう。
 俺もまた正座したままだった足を崩し、胡座を組み直す。自然と詰めていた息を吐き出しながら渡されたばかりの牛乳パックを畳んで袋にまとめ終えると、手元に落としていた視線をへと移した。

「まぁ、鳴さんにもいいとこはあるから」
「そういうもんかねぇ……。まぁ悪いひとではないんだろうが、同じ部活にいたら厄介としか思えねぇな」
「容赦ないなぁ、本当に」

 悪し様に言うわけではないが線を引くべきところは引くの言い分に眉尻を下げる。正直、鳴さんの対応に思うところがないと言えば嘘になる。理不尽な要求を突きつけられることも、言動に振り回されて嘆くことも多々あった。
 だが、多少わがままがすぎるところがあっても〝鳴さんなら仕方ない〟と納得する部分も大いにある。これはちゃんと鳴さんと関わっている者ならば共有できる感覚だ。
 野球に対する真摯さや、エースとしての使命を背負った背中を見ていれば、誰もが尊敬の念で鳴さんを見つめることだろう。今だって、乱暴ではあるものの尻を蹴飛ばしてちゃんに向き合うようにと促された。
 ――たとえちゃんが鳴さんのことを好きだとしても、フラれるのならちゃんからがいい。
 以前、そう考えたときはどうしようもない絶望のように感じていたが、今は想いを貫くことしか頭にない。固い決意と共に拳を握り、そのまま頭を後ろに倒した。
 夏が近づいているのだと主張する空を見据えながら深呼吸を繰り返す。屋上に来たときはあんなにも陰鬱とした心地だったのに、今は嘘みたいに心が軽かった。




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