最期の朝
磯の香りが鼻をつく。吹き荒れる潮風を正面から受けていると、自然と顔は顰められた。スン、と鼻をすすれば水っぽい粘膜を通してさえも潮のにおいが鼻の奥にまとわりついてくる。
望月の日の翌朝。五年前にマガト隊長に言われたとおり、マーレは港に軍船を停泊させていた。これからシガンシナ区に潜伏する間の食糧などを受け取れるのはありがたい。だが、その船がユミルを連れて行ってしまうことを思えば、「いなければよかったのに」と思わざるを得なかった。
船へと向けていた恨みがましい視線を、まばたきをひとつだけ挟んで水平線へと向ける。
五年ぶりの海は、暴力的なまでに五感に訴えかけてきた。静かに揺れる波に、太陽が反射する。きらきら、きらきらと。その眩しさに目を細めながら、オレはユミルの背中を黙って見つめていた。
「ユミル……本当に、すまない」
「そんなに泣きそうな顔をするなよ、ベルトルさん。言っただろ。もう、いいんだって」
「クリスタへの手紙は必ず届ける。これだけは絶対に裏切らない。約束だ」
「あぁ、本当にそれだけは頼むぞ。もし渡せませんでしたってなったら化けて出てやるからな」
「覚悟しておく」
ベルトルトとライナーが、それぞれの言葉でもってユミルへ別れを告げている。普段ならば特に気にも止めずに入る輪の中に上手く並ぶことが出来ない。
これからユミルは船に乗せられ、マーレへと送り届けられる。その先に待つものが何なのか。わかりきった結末を前に、口を開くことさえ憚られた。
「お前は?」
「えぇ?」
不意に、こちらを振り返ったユミルの問いかけに、思わずぎこちない笑みを浮かべてしまう。取り繕い切れなかった感情の齟齬を、ユミルは見抜いたんだろうか。眉根を寄せたユミルを前にすると、その居たたまれなさに思わず視線を逸らしてしまう。
首の裏に手をやり、感情の立て直しを図りながら、落とした視線でユミルの爪先を眺める。迫る巨人から逃げ出した際に失った靴を求めるでもなく裸足のまま歩くユミルは、足の裏で石を踏むことさえ気にも止めていないようだった。その仕草ひとつで、ユミルが大事に扱われないことに慣れているんだと知らしめる。
この足で、ユミルはオレたちを救う道を選んだ。それが自分の命を擲つことだと、知りながら――。
ぎゅっと口元を引き締めた。立て直すつもりだった感情は、ぐらりと揺れ動いたまま情けないほどに波打っている。
「お前は何か、私に言いたいことはないのか?」
ユミルからの問いかけはまるでオレにトドメを刺しに来たのではと訝しむほどに鋭いものだった。もちろんユミルにそんな意図はないと知りつつも、勝手に傷ついてしまう。
三年間、訓練兵として。そしてたった一ヶ月ほどだが、調査兵として。なんてことのない日々の情景が、走馬灯のように駆け抜ける。
伝えきれなかった想いは、いつだって口に出せないまま胸の内に燻っている。
最期に、一度だけ、と踏み込んだのもゆうべの話だ。ユミルを連れて逃げるという誘いはすでに撥ねのけられている。フラれたんだ。もう一度、ユミルの気持ちがないのにアンタの手を取って逃げるなんて、守り切る確証ひとつ用意できないオレにその道を選ぶ権利なんてあるはずがない。
「――ないよ」
「なんだよ。お前らのために死にゆく私に愛してるの一言くらい言えねぇのかよ。気が利かねぇな」
「言えるわけないよねー」
冗談めかしてこちらを睨めつけるユミルに、はは、と乾いた笑いを返せばユミルは真一文字に唇を引き締めて、ひとつ、息を吐き出した。
「そうかよ」
いつものような皮肉を含んだ笑顔ではなく、真面目な顔をしたユミルはそのままオレから視線を外した。ユミルのふざけた言葉に、ノリ切れなかったのはこれが初めてのことだ。反応をうまく返してやれなかったことに、自然と眉が下がる。
だが、だからと言ってユミルの冷やかしに乗れるほどの心境には至れない。「オレの愛の告白を待ってたのー?」だなんて道化を演じきれるのなら、どれだけよかったか。
一度言葉が詰まると、それ以上はもう、口を開くことができなかった。普段、どちらかと言えば場を取りなす側のオレが黙り込んでしまえば、それを目の当たりにしたライナーやベルトルトも、雰囲気に飲まれたのか口を挟めないままでいるようだった。
静寂が場を包もうかとした瞬間だった。船からマーレの兵が大声でこちらに出立を告げる。
息を呑んだのはオレだけではなかった。ライナーやベルトルトもまた、目を見開いてユミルを見つめた。オレたち3人の視線を受けたユミルだけが、その合図を黙って受け入れていた。
船に乗せられる直前、ユミルはオレたちを振り返る。
「じゃあな。――お前らも、後悔しないように生きろよ」
その言葉に、喉の奥を塞ぐような居心地の悪さを覚えた。目を見張り、喉の奥からせり上がる感情を飲み下す。目の縁が鈍く痛んでも、なお、まばたきひとつ挟むことができなかった。
ユミルが一歩、足を踏み出す度に、紡がれているはずの糸が引きちぎられていくような隔たりを感じる。
「――ユミルッ!」
思わず声が出た。だけど、ユミルはこちらを振り返らない。当然だ。もう、振り返ったところでその意味ひとつ残らない。
淡々とした様子で階段を上り、船へと足を運ぶユミルの背を目に焼き付ける。その姿が見えなくなってさえも、目を逸らすことができなかった。下ろしたままの手のひらは、いつの間にか拳へと代わり、その中に血を握り混んでいた。
「……大丈夫?」
「えー? なにそれ。大丈夫に決まってんじゃん。いきなりなに言ってんの」
ベルトルトの訝しむような声に、反射的に言葉だけを取り繕う。抗いきれたのかどうかはわからない。だが、それ以上、ベルトルトがオレに声をかけることはなかった。
姿が見えなくなっても、ただひたすらにユミルの乗った船を睨み付けた。だが、オレに出来るのはそれだけだ。
巨人の力ひとつもたないオレが、いくら傷を作ったところで意味なんてない。ベルトルトのように超大型巨人になって蹴飛ばすことも、ライナーのように鎧の巨人となり船体に身体をぶつけることさえできないのだから。
力の無さを痛感する。ユミルの言葉を反芻し、ぎゅっと唇を噛みしめた、
――〝後悔〟なら、今、目の前にある。
出来の悪い戦士で居続けることを選んだ自分の愚かさや、ユミルを救うことのできなかった不甲斐なさ。なにより、巨人の能力をいつか引き継ぐかもしれないことに甘えて、自分の持つ能力を引き出す努力をしなかった傲慢さに腹が立って仕方がなかった。
母親から引き継いだ力なら、あるはずだった。巨人科学の副産物――アッカーマン一族の血が、オレの身体には流れている。
いつまで経っても使えない能力に固執する意味を見出せず、無いものとして生きてきた。壁の中に入り、ミカサと出会ってその能力の凄まじさを目の当たりにしても、「いつか自分も」だなんて夢を見ることさえしなかった。
これは、オレの怠慢が招いた結果だ。
この先、オレは何度も後悔することになるんだろう。
もしアッカーマンとしての能力が目醒めていたら、ユミルを救えたかもしれないのに、と。