月をみる
――ウォール・マリア、シガンシナ区。
5年前、超大型巨人と化したベルトルトが蹴破った門。その壁上に、命からがら辿り着いたオレたちは、思い思いの格好でその場に身体を投げ出した。
腹這いになって倒れ込んだオレの横に膝をついたライナーは、瞼が痛くなるのではと危ぶむほどに目を見開き、地面を見据えたまま肩で息を吐いていた。ぽたり、ぽたりと、ライナーの額から落ちる汗の粒を眺めながら、よく生き延びたものだと目を細める。
日没を過ぎて、ようやく動きを止め始めた巨人から逃げるため、長い距離をひとりで走ってくれたライナーには感謝しかない。なにか労いの言葉を口にすべきだと理解しつつも、今はまだ、自分の呼吸を整えることで精一杯だった。
硬く握り込んだままのブレードから指が離れないことがその証拠だ。ライナーへの援護というには満たないが、自分の命を繋ぐために斬った巨人の数は少なくない。だが、オレやベルトルト以上に、奮闘してくれた『女神様』がいたことを忘れてはならない。
疲れ切った身体は思うようには動かない。頬にへばりついた汗を地面になすりつけるようにしながらも、どうにかこうにか顔を上げる。ふらつく頭をいなしながら、目を細めて彼女の姿を探す。
右手で頭を抱え込み、長い体躯を折り曲げて座り込んだベルトルト。その奥に、ユミルが仰臥している姿が目に入った。表情はほとんど見えないが、オレたちと同じように疲弊しているさまは見て取れた。
壁の上では、風が強く吹いていた。遮蔽物がないからこそ、巻き起こる風のすべてがオレたちを横殴りに叩く。絶えず颯々と風が吹き荒れる音の中でも、ユミルの声だけはハッキリと聞こえていた。
このままでは助からないと告げたライナーに返すユミルの声音に怯えはない。それどころか、オレたちを助けたことで自分の命が助からないことさえも理解しているかのような言葉をユミルは口にする。
いつも通り、場を茶化すような物言いをするユミルに、胸がざわめいていくのがわかった。
――なんで、そんな簡単に受け入れられるわけ?
疲れたと口にするユミルが、訓練兵になるまでどうやって過ごしてきたかなんて知らない。だが、『楽園送り』にされたからには、相当過酷な目に遭ったはずだという察しはつく。
あのクソみたいな故郷で『ユミル』だなんて名前を背負わされた少女が、どんな目に遭うのか――。
想像しただけでも身震いが沸き起こる。きっとユミルは、オレらが投げかけられてきた罵倒や石の数なんて、軽く超える数をその身に受けてきたことだろう。
顔を顰めたところで口にしない思いがユミルに伝わるはずもなく、オレが一人で胸の奥をこじらせているだけだった。オレの不毛な視線に気付かないユミルは、涙ぐむベルトルトの問いかけに、ひどく真面目に応えている。
「お前らがこの壁を壊しに来なければ私はずっと覚めない悪夢を見てたんだ」
悪夢だと口にしたユミルに、ぐっと喉の奥が詰まるような感覚が走る。そんな悪夢を見せられて、やっとの思いで手に入れた二度目の生を、今、ユミルは捨てようとしている。そのことが、歯がゆくてたまらない。
夜の帳が降りる中、ユミルは倒れ込んだまま月に手を伸ばす。
「女神様もそんなに悪い気分じゃないね」
後悔なんて、まるでない。自らに言い聞かせるかのように呟いたユミルの声に、オレは目を瞠る。壁上に肘をつき、上体を反らし、身体を起こす。角度がついたことで、先程よりもユミルの姿がよく見てとれた。ままならない呼吸を整えながら、一心にユミルの姿を見つめた。
月に手が届くことなんてありえない。それでもユミルは、夜空に手を伸ばす。虚空を掴むためでもなく、掲げたままの掌ごしに、一体何を見ているんだろう。
月に照らされた横顔。涙のにじむユミルの瞳が、天の極みにある満月を映していた。きらきらと輝く瞳は、まるで星屑のようだ。
流れ落ちない涙を目尻に溜め込んでいるくせに、妙に晴れ晴れとした表情を浮かべたユミルに、オレはただただ歯を食いしばった。こわばった体中に走る不快感を拭いきれず、感情を吐き出せない代わりに大きく息を吐き出す。
ユミルから顔を背け、地面に視線を落とす。いつの間にか、またブレードを握りしめていたことに気付き、指先から力を抜こうと試みたが、微かに震えるだけで解くには至らなかった。
一度深く瞑目し、感情を整える。胸の底に沈めきれなかったものもあるが、それでもさっきよりはマシなはずだ。そう無理矢理に自分を納得させたオレは、薄く目を開き、ユミルへと視線を戻した。落ち着かせたはずの感情も、ユミルを目にした途端にまたしても簡単に揺れ動く。
どうしようもない感情は、まっすぐにユミルへと向かった。だが、「どうして」と、問いかける視線を差し向けたところで、ユミルにはちっとも届かない。
こちらを振り返らないユミルはいつまでも空を眺めていた。どこかうれしそうに見える横顔に、オレは唇を強く結ぶ。
――ユミルの目にした景色を見れば、なにかわかるかな。
浅はかな考えを実行に移そうと肘に力を入れ、身体を反転させる。後頭部をぶつけないようにと気を払いながら地面に背をつけ、そっと夜空に目を向けた。
真円の月は、ただただ明るく光り輝いている。だが、それだけだ。月は何も与えてはくれないし、何かを語りかけてくることもない。
妙に落ち着くだとか、その明るさに癒やされるだとか。そんな考えなんて、ひとつも浮かんで来やしない。少しでもユミルのことを理解しようだなんて、バカな考えは断念すべきだ。そう思い、オレは小さく息を吐き出す。
目映いものを直視し続けた弊害か、目の奥が鈍く痛んだ。その眩しさに目を細めた途端、ふと、頭を過ったものがあった。生じた痛みに抗わず、瞬きをひとつ挟む。
うっすらと目を開けば、生理的に浮かんだ涙が月をおぼろげな姿に変えた。世界がにじんでいるせいだろうか。
あの金色の光と同じ髪の色をした少女。その少女が振り返りざまに向けた笑顔が、まるで目の前にあるかのように思い描かれた。