残された時間
「ユミル」
部屋に入る前に立ち止まり、声をかける。机に向き合うように座り、ぼうっとした視線を投げ出していたユミルがこちらを振り返ったのに合わせて、軽く首を傾げた。
「入ってもいー?」
「あ? 別にいいけど……」
「どうもねー」
許可を得たことで、開け放たれたドアをくぐる。歩み寄りながら、机の上にある灯りに照らされたユミルを見下ろした。視線が合っても和らぐことの無い瞳があまりにもユミルらしくて微笑ましく感じる。だが、和んだのもその一瞬のみだった。
明かりがあるからこそ、影はできる。ただそれを見ただけで、ユミルに迫る影が色濃いものであるのだと視覚化されているように感じてしまう。喉の奥に詰まる感情は簡単に飲み下せそうにない。複雑な表情で近付くオレを横目に見上げたユミルは、迷惑そうに溜息を吐きこぼした。
「ったく。んだよ……今度はお前かよ……。夜這いなら間に合ってるぞ」
「なんだー。相手してくれないのー?」
茶化すように応じると、ユミルは大仰に溜息を吐き出して頭を振った。
「誰がするか。くだらねぇこと言うなら帰れよ」
舌を打ち鳴らし、そっぽを向いたユミルは煩わし気にしっしっと手を払った。機嫌の悪さを隠しもしないユミルに、思わず苦笑してしまう。
「残念。じゃ、お茶だけでも付き合ってくれよ」
「お、気が利くじゃねーか。ちょうど喉が渇いていたんだ」
まだ湯気の立ち上る紅茶を、ユミルへと差し出す。乾杯をするようにカップ同士を合わせ、紅茶に口をつける。砂糖を多めに入れたのは、完全にオレの好みだった。この島では香辛料の類が高級品であるため、久々に摂る甘味に脳が痺れるほどの感覚が走る。
ジーク戦士長が持ってきた荷物の中には砂糖以外にも、コーヒーや缶詰など、懐かしい食べ物が多分にあった。今になって思えば、ウトガルド城にあった酒や食糧は盗品ではなく、ジーク戦士長が運び込んだものだったのかもしれない。
ユミルの座る椅子の近くの壁に寄りかかり、数口、紅茶で喉を潤し、ぺろっと口の周りについたものを舐めとる。顔を顰めてカップを傾けるユミルに、ねぇ、とひとつ声をかけた
「ライナーから聞いたんだけど……クリスタに手紙を書いてたんだってな」
「あぁ……なぁ、聞けよ。ライナーの野郎、私が恋文をしたためる中、ずっと居座ってたんだぜ? アイツ絶対モテねーわ」
心底嫌そうに吐き捨てたユミルは机の上に肘を置き、手のひらで顎を支えた。
たしかに、ライナーは他人への配慮や気遣いはできるはずなのに、肝心なところのデリカシーに欠けている。特に顕著になるのはクリスタが関わるときで、クリスタの純然たる親切がライナーにとっては恋心によるものだ、なんて誤認することが多々あった。しかもそれを、ライナーに心底惚れているの前で言ったりもするのだから、聞いているこっちがハラハラさせられた。
「まぁ……ライナーにはがいるんだし、もうモテる必要ないんじゃね?」
「ハッ……違いねぇ。その思い出にすがって生きてりゃいいんだ……つーかアイツも何が良くてあんなやつを選んだんだか……」
ここには居ない同期に思いを馳せているのか、ユミルの横顔が柔らかくなる。今日一日、一緒にいて、初めて、ユミルの笑った顔を見れた。ただそれだけで、ひどく安心できた。
ゆらゆらと、風が吹くたびに揺らめくろうそくの火に照らされたユミルは、小さく言葉をこぼした。聞こえなかった声は、追求してはいけないような気がして、そっと目を伏せて見ないふりをした。
多分、を思い出したことで、それに引っ張られるようにしてクリスタのことを思い出してしまったのだろう。いつだってユミルの頭の中はクリスタのことでいっぱいだ。3年の付き合いで、それは重々承知していた。
胸の内が熔けるような想いを燻らせながら紅茶を口にしていると、不意にユミルがこちらを振り仰いだ。
「そうだ。なぁ、」
「ん?」
「お前も何か持ってるのか?」
「何かって?」
「巨人だよ。ライナーさんは鎧で、ベルトルさんは超大型だった。もその仲間なら何か持ってて当然だろ」
興味本位な質問にしてはあまりにも突っ込んだ内容だった。面食らってしまったオレは、どう答えたものかと考えあぐねる。シンプルになにも持ってないよと伝えるのは簡単だったが、ならばどうしてパラディ島送りになったのかという質問が重ねられることがわかりきっているため、おいそれとは口にできなかった。
――全部言ってもいいんだけど……どうしようかな。
瞬時には判断がつかなくて、カップを持っていない方の手で、後ろ頭を掻いていると、ユミルはなにかを思いついたように目を見開いた。
「まさかあの女型の巨人は……」
「いやいや、アレはまた別のヤツ」
「……そうか。じゃあお前たちはたった4人でこの島に乗り込んできたのか?」
「あー……まぁ、最初は5人だったんだけどねー」
訂正を挟むとユミルは、ほんの少しだけ表情を固くした。”もうひとり”の能力を自分が受け継いだことに思い至ってしまったのだろう。意地悪な訂正だったかもしれない。だけど、これですべてを話す気持ちが固まった。小さく息を吐き、体を壁から離した。
「オレは誰かが食われた時にその食ったやつを更に食うっていう保険」
がお、とわざとらしく獣のような手つきを真似して吠えてみせる。そんなオレを一瞥したユミルは、笑うと言うには淡く、目を細めた。
保険として選ばれた経緯を思い返す。ここでもそうだったが、オレのマーレ戦士候補生としての成績は平凡なものだった。頭脳も、狙撃も、格闘術も、体力もすべてそこそこ。もしかしたら忠誠心に関しては周りより上手く取り繕えていたのかもしれない。何かが突出しているわけでもなく、かと言って劣っている訳でもないオレは、保険としてちょうど良かったのだろう。
「じゃあ、本来なら私はお前に食われるはずだったのか」
「そういうことになるねー。まぁ、現実は巨人を目の前にして怖くなって逃げ出しちゃったんだけどね」
わざとらしく涙を拭う真似をしてみせる。ダッセ、と、口では否定しながらもユミルは眉根を寄せて、同情するような表情を浮かべた。だが、次の瞬間には、柔らかく口元を緩めたユミルは、フ、と息を吐いて笑った。
「おかげで私は、少しだけイイ世界を見ることができたよ」
第二の生は好きに生きることができたと主張するユミルは、その借りを返すためにオレたちを助ける道を選んでくれた。その好意は、きちんと受け止めなければいけないのだろう。だが、クリスタには自分のために生きろよ、だなんて言っていたくせに、自分が人のために死ぬことを厭わないユミルが歯痒かった。
――こうやって喋ることが出来るのも今夜限りか。
そう実感すると、背中に冷たい感覚が走った。反して、手のひらにじわりと熱が広がるのは、紅茶を持っている影響ではないことは分かっていた。
「なぁ、ユミル」
「あ?」
甘ったるい紅茶に顔を顰めるユミルはこちらへと目を向ける。
「今はさ、オレしかいない」
「? そうだな。なんだ、。まだ私を口説こうとしているのか?」
茶化すような言葉を、今度は上手く受け流すことができなかった。頭を横に振って、真っ直ぐにユミルへと視線を差し向けると同時に、喉の奥に違和感を覚える。これから口にする言葉は、取り返しのつかないものだ。そう思うと自然と体が躊躇する。ひとつ咳払いをして、震える唇を開いた。
「……オレを殺せば、逃げれるよ」
「ア?」
和やかな空気が一転した。顔を顰めたユミルの視線の鋭さに、思わず目を逸らしてしまう。バカなことを言っている自覚はあった。だけど、その可能性を提示しないままではいられなかった。
もし、ユミルが生きたいと思っているのなら、その手助けをしたいと願ってしまった。それがたとえ、自らの命を擲つことに直結するのだとしても、ユミルが助かるのならそれで良かった。
「……バカか、お前」
「え?」
呆れたようなユミルの言葉に、面を上げる。捨てられた子犬のような視線になっていることを自覚しながらも、感情を取り繕うことがうまくできなかった。眉根を寄せてオレを睨み据えるユミルは、心底、機嫌悪そうな声で呻く。
「仮にお前を殺したとしても、このウォール・マリアから一番近いトロスト区までどれだけかかると思っているんだ。ひとりで逃げ切れるわけねぇだろ」
「じゃ、じゃあ、オレも戦えば……」
拒絶されて始めて、提案を跳ね除けられる可能性を考えていなかったことに思い至った。混乱する頭で弾き出した更なる提案は、現実味のないものだった。
母から受け継いだ血はまだ、目覚めていない。足でまといにならない程度に動ける自信はあったが、そんな力でユミルを守りきることなんて出来ないこともまた分かりきったことだった。
「……お前本気で言ってるのか? 私が逃げたことに気がつけば、あのでけぇ猿が追ってくる。夜でも動く巨人の原理だってわかっていない」
カップを乱暴に机に叩きつけたユミルの手元で、中に残っていた紅茶がはねる。まだ熱の残るそれを手に受けても、熱がることなくユミルはオレを睨み据えた。
「アイツらを引き寄せるようなことになったら……ヒストリアは……」
呻き混じりのかすかな声。後半は上手く聞こえなかったが、ユミルの表情を見れば、オレの提案は到底受け入れられるものでは無かったのだと察しがついた。
俯いて頭を横に振るったユミルは、大仰に溜息を吐きこぼす。数秒後、顔を上げたと思えば、オレを睨み、歯を食いしばっていくつかの感情を噛み砕いたような表情を浮かべていた。
「おい、。なんでそんな、つまんねぇこと言い出したんだ。お前はもっと、一歩引いて周りを見れるやつだっただろ」
「それは……」
ど直球な質問に、答えを差し出すことはできなかった。カップの中で紅茶が揺らめく。手が震えているのだと、どこか他人事のように考えた。
そもそも、オレはライナーのように信念を持ってこの島に来たわけではない。戦士候補生に立候補したのだって、今よりマシな生活ができるという売り文句に乗せられただけだった。今更、あんな街に戻ったところで、楽しい生活が待ってるはずもない。だから、どうでもいいんだ、命なんて。
閉ざされた未来を頭に思い浮かべながら、口元を真一文字に引き締めた。
――違う。こんな言葉じゃ、見抜かれる。
安直な言葉を頭に並べ立ててみたが、どれもユミルを納得させるだけの効力は持ち得なかった。だが、だからといって本音を言えば、もっと怒らせることを知っていた。
世界なんて、オレにはどうでも良くて、ただ、ユミルが生きてくれるなら、オレはそれだけでよかった。
そんなことを伝えるわけにはいかない。言えば、きっとユミルの気掛かりを増やすだけになる。
「……わからない」
沈痛な面持ちで黙り込んだオレを、ユミルは睨めつける。
「わかんねぇって……いい加減にしねぇと怒るぞ」
「……悪い。忘れてくれ」
「馬鹿野郎が……もうそんな時間、残されてねぇよ」
低い声で、ユミルは呟いた。明日の朝、ジーク戦士長が乗ってきた船がマーレに向けて出航する。その船に、ユミルは乗せられるのだ。
残されたチャンスは今夜しかない。そんな焦燥に駆られるがままに、オレの胸の内をぶちまけてしまった。
「……最悪だ、お前」
前髪を掴んだユミルは歯を食いしばり、オレから視線を外した。
「…………揺らぐじゃねぇかよ」
「……ごめん、ユミル」
「謝るくらいなら最初から口にするんじゃねぇよ!」
強く叫んだユミルが手のひらを額に押し付け、青い顔を隠そうとする。先程まであったはずの余裕は欠片も見当たらない表情に、胸が締めつけられるようだった。
――ユミルの表情を見なければわからなかったのか、オレは。
血の気の引く思いだった。オレがユミルに生きて欲しいがために差し出した言葉で、ユミルにもう二度と手に入らない希望を見せてしまった。
ユミルの言ったとおりだ。いつもならもっと、距離を置いた言葉をかけられるはずだった。今回に関しては、生き残る道なんて示さず、ただ穏やかに、ねぎらうくらいの会話で終わらせておけばよかったんだ。
迂闊にもオレが欲を出したばっかりに、ユミルに嫌な思いをさせた。少し考えれば、オレの発言でユミルがどんなに傷つくか、わかっていたはずなのに――。
「本当に、ごめん……」
低く呻くその言葉に、ユミルの返事はとうとう返ってこなかった。そんな些細なことにオレが傷ついていいわけないのに、身勝手にも胸の奥に痛みが走る。
今更発した言葉を取り戻すことなんてできない。慰めるために抱きしめることなんてもっとできない。オレが、ユミルのためにできることなんて、最初から何もなかったことを思い知らされる。
「ごめん……ユミル」
何度目かの謝罪の言葉を差し出した。繰り返す言葉は、ユミルにはもう届かない。罪悪感だけがオレの中にひとつひとつ重なっていく。紅茶から立ち上る湯気なんかでは、ユミルの姿を隠すことはできない。悲愴な顔をして俯いたユミルの横顔を、暗澹たる思いで見つめたままただ呆然と立ち尽くした。