進撃O:07

敗北者


 獣の投げた礫により、周囲に立ち並んでいたはずの家々は軒並み砕かれてしまっている。更地にほど近いこの場所では、どこにも身を隠すことが出来ない。
 遮断するものがないせいか、やけに風を強く感じた。耳に入る音さえも、普段の数倍の大きさで聞こえてくる。
 勢いよく風が吹けば、数日、雨の降っていないせいで乾いた地面から砂埃が舞い、目に入ればちくちくと眼球を痛めつける。それでも兵長から視線を外すことは、出来なかった。
 得体の知れない獣と対峙した気分だ――。
 経験のない恐怖に、身体が竦む。瞬きひとつ挟めば斬りかかられるのではという恐れが身体を支配した。脂汗が染みでる感覚が、じっとりと肌にまとわりく。
 逃げ出したいという願望が、気持ち以上に足元にあらわれる。ジリジリと後退を始めた足は、怯えに塗れている。意識しなければ駆けていきそうな足を縫い止めるため、ぐっと膝裏に力を入れた。
 両の眼をじっと兵長に差し向ける。ガスが心許ないのだろうか。一歩ずつこちらへと歩みを進める兵長の表情はオレをにらみ据えたまま動かない。
 兵長の強さは、兵団の中でもよく耳にしていた。一人で一個旅団並の戦力になるだとか、一撃で巨人を複数体倒せるだとか。挙げればきりがない。化け物じみた強さだと漠然と感じていた。その時から、絶対に戦闘にならないように避けるべき相手だと警戒もした。 
 今、目の前に立つまで感じなかった兵長の底知れぬ強さが、同じ土俵に立ったことでより一層強く感じ取れた。
 ごくり、と喉を鳴らしてつばを飲み込んだ。その瞬間、空気が変わる。つい先程まで少し離れた場所にいた兵長が、瞬きひとつ挟んだ途端に目の前に出現した。振りかざした剣が、躊躇いなしで払われる。巨人の首を落とすように、鋭く。咄嗟に身体を捻って、横に回転しながら跳べば、辛うじてその旋回から逃げおおせた。
 だが、それだけだ。敵わない、と悟るにはその一撃で十分だった。おそらく十も打ち合う前に終わるだろう。
 今の一撃だけは、すんでのところで躱せた。そう思った。だが、そうではなかった。ぱっと血が飛んだのが視界の端に入る。目に入った途端、右耳に走る激痛に思わず手を当てた。
 どろりと手のひらに血だまりが出来る。その中に指を這わせれば、あるはずの感触が足りないことに気がついた。横に一閃。耳の付け根から、その縁まで割れている。

「ちょっとちょっとー勘弁してくださいよー。オレ、巨人になれないんだから欠損しても元に戻れないんですからねー?」
「そうか、なら加減は必要無いな」

 言葉と同時に、先程以上の斬撃が繰り出される。なんとかブレードで受けてはいるが、その鋒は頬や額に届き、細かな傷を作っていく。

「えっ、ウッソ。やっぱありますあります! 持ってます!」
「だったら早く巨人化してもらいたいもんだな。その方が的がデカくて斬りやすい」
「あー、もう……本当にこれだから人類最強ってやつは」

 不平を口にしながらも、余裕なんてこれっぽっちもなかった。どんどん崖の縁へと追い詰められていくような心地だけが胸に募る。敵わないのは大前提。あとはどれだけ時間を稼げるかという消極的な勝負だ。
 一撃、二撃と打ち合い、隙を見ては後方に飛ぶ。オレがむやみに突っ込まないからこそ、兵長の攻撃が致命傷たり得なかったとも言えた。地上戦と言うこともあり、体格差や腕の長さが、間合いとして、有利に働いているのもあるだろう。
 だが、だからと言って、勝てる見込みが増えるわけではない。
 ブレードは完全に兵長の攻撃を避けるためだけに使われている。苦し紛れに、足を胸の前に引き寄せ、兵長の腹をめがけて勢いよく押し出した。だが、その動きも届く直前に剣を振るわれれば押しとどめるほかなかった。一進一退の攻防というのもおこがましい。オレが放つ攻撃はすべて、兵長には届かない。
 ――もう、ダメみたいだな。
 不意に、諦めにも似た感情が顔を出す。オレは元々、我慢強い性格ではない。兵長に抗いきれるほどの度胸や手腕もない。諦めるための理由には事欠かない。
 だが、その考えは何度も何度も打ち消される。ギリギリの線で攻撃をかわし、諦めきれずに反撃を試みてしまう。
 根底にある感情が、オレを諦めることから抗わせた。

 ――お前達は後悔しないように生きろよ

 ユミルの声が、耳に蘇る。あぁ、そうだ。ユミルは「生きろよ」とオレたちに言ってくれた。自分が死ぬにも関わらず、命を擲って救ってくれた。
 負けられない。後悔なんて、できない。その想いだけが、一筋の光となってオレの命を繋ぐ。

 ユミルと出会って、オレは初めて人に興味を持った。任務を果たすことでしか人として認められない国に生まれ、自分ではどうすることも出来ないつまらない世界に、ただひとつ、見つけた光だった。
 その好意の正体が、恋だと気付くのに時間はかからなかった。憧れでもなく、信頼でもない。ユミルのためになら、どんなに面倒なことでも引き受けてやるつもりだった。
 だが、その心意気が生かされる機会は一度もなかった。オレがユミルに頼られたのは、せいぜい買い出しに出たときの荷物持ちか、当番の手伝いくらいで、それもすべてユミル自身のためではなく、クリスタのためのものばかりだったからだ。
 手応えもクソもない。そう感じながらも、訓練兵と過ごした3年間、理由を作ってはユミルについてまわった。その度に、ユミルがクリスタのためにしか動かないさまを嫌でも目にしてきた。正直、辟易した数は手足のすべての指を使ったとしても足りないほどだ。
 オレの知る限り、クリスタのことだけを考えていたはずのユミルが、あの日、オレたちを選んだのは、まさに青天の霹靂だった。オレたちの境遇をわかってやれるのは自分だけだ、と、ユミルは言った。それは、ユミル自身がオレたちと同じ目に遭ってきたと知らしめる唯一の供述だった。
 ユミルの生い立ちなんてもう知りようがないけれど、この島に放り出されていることを思えば、ろくな目に遭ってこなかっただろうことは嫌でもわかる。
 マーレの手により、楽園送りにされたユミルは、巨人の能力を奪うことでしか自由になれなかった。
 今にして思い知る。ユミルのためになら、なんだってやるという気持ちは、傲慢でしかなかったこと。命のリミットさえ持たないオレが、ユミルのためにできることなんて初めから無かったということを――。

 自嘲の笑みが口元に浮かぶ。悲観するには十分すぎる自覚も、嘆くことなくすんなりと受け入れられるのは、オレがこの世界に希望を持っていないからだ。
 顎の巨人の継承が終わったかどうかを確かめることは出来ないが、遅かれ早かれ、執行されるはずだ。
 どう足掻いたところで、運命が覆されることはない以上、ユミルの命を引き換えに、オレだけが助かろうだなんて気持ちはさらさら無い。
 ユミルのように女神様になんてならなくていい。ライナーのような英雄願望だってないし、ベルトルトのような自己犠牲の精神も持ってない。ユミルを救えなかったこの命に価値なんてない。もうここで終わるならそれでいいか、という諦めだってついている。
 それでも抗うのは、オレの自己満足だ。
 多分、いや、きっとオレはここで死ぬ。死んだ後の世界があるのかなんて知らない。だけど不甲斐ないままで終わることなんて出来ない。
 こんな情けない幕切れじゃユミルに――。

「合わせる顔が、ないよなッ――!」

 腹に力を込めて、初めて兵長に向かって踏み込んだ。瞬間、体中の神経が強く強く、繋がっていくのを感じる。雷鳴に脳が痺れたかのような錯覚と、そこから全身へ行き渡るような電流。付けてもいなかった枷が外れるような感覚は、いつか耳にした伝承に酷似していた。
 自らに起こった現象に、戸惑いを覚える。だけど、今はそれを顧みる暇はない。
 得たばかりの力を振るう躊躇など、必要ない。

「ッ!」

 振りかざした刃を横撫に翻す。オレが初めてまともな攻勢に転じたことに驚いたのか、兵長は仰け反って剣を避けた。鼻先を掠めただけの攻撃に手応えはない。
 右を避けられたのなら次は左だ。間髪入れずに左の腕を引き、そのまま兵長へと突き出すとマントの先に引っかかる。絡め取られては堪らない。手首を返し、マントを引きちぎりながら胴に向かって突き上げる。僅かばかりの引っかかりだが、たしかに手の中に感触が残る。その感覚が幻では無いのだという証明に、飛んだ血が頬へと付着した。
 オレの反撃に、初めて兵長の表情が曇る。焦りか、痛みか。判別はつかない。だが、その表情の変化は、かすかな希望のように感じられた。

「――クソガキが」

 細い瞳が、鋭い眼光を放つ。ギラリと反射する光とともに、振りかざされる剣の行方がはっきりと見えた。寸前で躱すことはおろか、躱しながら鋒を宛がい、自分から逸らすことさえもできるようになった。先程まで、当てずっぽうに剣を振り回していたのが嘘みたいだ。
 焦りが身体から引いていくのがわかる。殺気に呑まれることがなくなるとともに、胸中のざわめきが凪ぐと、さらに身体の動きが軽くなった。今度は、兵長の剣が翻る前に、その手を抑えることが出来た。
 膂力は拮抗している。全身を傾けた鍔迫り合いに、ブレードが音を立てる。肉を削ぐことに特化した刃は、互いをぶつけることを想定した作りではない。刃を折るわけにはいないと考えたのだろう。数秒の拮抗の後、兵長が横飛びに退いた。
 初めて兵長を退けたことに、胸の奥が高揚する。垣間見え始めた勝機に、諦める理由が消えていく。
 胸の奥が歓喜に打ち震える。だが、その感情は束の間で押し潰される。代わりに膨れ上がったのは、後悔だった。

 この力があればオレはユミルを救えたかもしれないのに――。

 頭に思い描いた途端、目頭が熱くなった。競り上がる涙を拭う余裕はない。攻撃に転じる勢いのまま、頭を横に振るえば簡単に飛び散った。だが、それだけで誤魔化せるほど甘いものではない。止めどなく溢れ出した感情が、激しく胸の奥を突き動かした。駆け抜ける後悔は、震えとなって体中の動きを妨げる。
 あの朝、海で別れたときに覚悟したはずだ。もう、ユミルはいない。今更、後悔しても――。

「――遅いっつの」
「そうか」

 耳に低い声が響いた。近くで聞こえたその声を認識すると同時に目を見開く。ひと呼吸おいて、腹に衝撃が叩き込まれる。強い衝撃に耐えきれず、足が地面を離れた。
 宙に浮かされたことを知るのと、背中が地面に叩きつけられたのはほとんど同時だった。背中と頬を地面で削り、衝撃に顔を顰める。仰向けに倒れた身体を起こそうと地面に手をついたが、それ以上は身体が痺れたように動かなかった。
 ぱた、ぱたと、顔に雨粒が落ちる。だが雲ひとつ無い晴天から落ちたものだとはにわかには信じがたく、空へと目を向ける。
 青天に、血が、赤く舞う。目にしたものが、また顔中に降り注いだ。
 兵長の繰り出した斬撃が腹に入ったのだと気付いたときには、火が付いたような痛みが駆け抜けた。
 荒れ果てた地に染み入りきらない血だまりは、巨人のものではない。オレは今、自らが流した血の上に横たわっている。状況を正しく認識したことで、痛みと共に生まれた熱に顔を顰める。肩から腹にかけて、ひどく熱い。だがその熱も長くは続かず、身体の芯から急激に冷えていく。
 荒くなる呼吸を整えようと試みたが、普段気にもとめない動作がうまくできなかった。顔を顰めたまま、周囲に目を凝らせば、すぐ傍らに兵長が立っていることに気がついた。見上げた兵長の顔が、返り血を浴びていた。蒸発していない以上、巨人のものではないということがはっきりとわかった。目を合わせると、兵長は苦々しい表情を浮かべる。肉食獣のような雰囲気は、すでに剥がれ落ちていた。

「兵長」

 絞り出した声はひどく掠れている。喉に引っかけながらも、訥々と言葉を紡いだ。

「強いっすね、さすがに」
「……何泣いてやがる」

 オレが差し向けた言葉をかなぐり捨て、投げつけれたぶっきらぼうな言葉に思わず笑ってしまいそうになる。反射的に、ふはっと息を吐いてみたものの、口の端から溢れた血を吐き出すだけで、笑い声になるはずの声は泡となって消えた。

「泣い、てないですよー?」
「そうか。――替刃、もらっていくぞ。今ある分では足りそうにない」

 傍らに膝をついた兵長の手がオレの腰に伸びる。本来ならば敵に武器を奪われるだなんて失態には抗うべきだろう。だが、毛ひとつ動かすほどの力さえ、すでにこの体に残されてはいなかった。
 中途半端に地についたままだった腕から力が抜け、横に倒れた。だらりと伸びたオレの腕を一瞥した兵長は、側に落ちていたブレードを拾い上げ、大きく血ぶりをすると、自らの装置に納めた。
 オレにとっては紛れもなく死闘であった。だが、相対した兵長には、まだ余裕のようなものが感じられる。人類最強とは聞いてはいたが、相見えないと見えてこない強さもある。その力は、本物だった。
 アッカーマンとしての覚醒を持ってしても、兵長に敵わなかった。ひょっとしたら、この人の強さも、オレと同じルーツから来るものなのかもしれない。
 兵長が獣の巨人を圧倒したシーンが頭をよぎる。反撃する隙も与えず、一方的に獣を蹂躙するさまは、巨人研究の副産物として、人の形をしたまま与えられた天賦の才にほかならない。思い描いたばかりの仮定は、みるみるうちに確証へとすりかわる。
 だとすれば、どう考えたってこちらの分が悪い。アッカーマンの血は兵長だけではなく、ミカサにだって流れている。あの子はきっと、エレンを守るためにならいくらでも鬼になるだろう。
 ――今回の作戦は、失敗だ。
 色濃い敗戦の匂いに、口元を引き締める。ここで負けて帰るとなると、きっとマーレは荒れるだろう。諸外国との戦争が始まる可能性は高い。
 後始末は戦士長やライナーらに任せた方が楽そうだ。そう思うと同時に、肩の力を抜いた。

「……ねー、兵長」
「なんだ」
「ひとつ、お願いを、聞いて欲しいんですけど」
「チッ……どうして敵の言うことを聞かなければいけない」

 心底嫌そうに舌を打ち鳴らした兵長の視線が落ちてくる。
 ライナーやベルトルトたちは戦士長らがどうにかしてくれるはずだ。そもそも兵長に見逃してくれだなんて頼んだところで、聞き入れてもらえるはずがない。
 だったら、心残りはひとつしかない。

「――ヒストリアのことです」

 ヒストリアというのだ、と彼女はユミルに告げていた。ユミルと約束したんだ。今はもう、そう名乗っているはずだ。

「ヒストリアのことだけでいいんで、あの子をこれから先、もう二度と、泣かないように、守ってやってくれませんか」

 ヒストリアへと宛てたユミルの手紙は、ライナーに託されている。ならば、他にユミルが望むことは何なのか。頭を巡らせなくても、わかりきっている。ユミルの遺したたったひとつの願いは、きっとそれだけだ。

「――なぜ、そんなことを言うんだ。あいつもお前らの仲間なのか?」
「はは、違いますよー。ただの、友人です。でもオレ、あの子とは割と仲良くしてたんで……」

 訓練兵の頃も、調査兵団に入ってからも、ユミルの隣にはいつもクリスタの姿があった。
 超大型に攫われたユミルを連れて帰るという約束を果たせなかったことを、彼女は怒っているだろうか。

「力になってやってくださいよ。じゃないと、オレはそのことに関しては化けてでますよー?」

 化けて出るだなんて脅したところで、実現しないだろうことはわかりきっている。だが、オレは無理でももしかしたらユミルならやってのけるかもしれない。他ならぬ、ヒストリアのためならば――。
 ひとつ、息を吐き出した。深呼吸のつもりだったが、喘ぐような浅いものしか生まれない。目が乾燥し始めているのか、まぶたを開いていることさえも億劫に感じた。瞬きをひとつ挟み、薄く目を開ける。
 人はいつか死んでいく。希望も、願いも、心に抱えていたところで、そんなもの死んでしまえば何の意味ももたない。
 そうと理解していても、頭から消えない想いがある。ユミルへの後悔だ。後悔なんてしていないと言ったユミルは、あの夜、壁の上で涙を浮かべていた。きらきらしたと月の光を反射した瞳が、横顔が、どうしても忘れられない。
 本当は、オレが生き残って、意地でもヒストリアのことを守れたら、ユミルへの恩に報いることが出来たのかもしれない。だけど、そんな非現実的なことは起こりえない。
 大事にしたかった人の想いを繋ぎたいのであれば、もう、あとはこの場にいる兵長に頼るしか、ないじゃないか。
 原野に倒れたまま、空を見上げる。あんなに吹いていたはずの風は、いつの間にか止んでいた。
 この島はいずれ戦地になるだろう。その時、この人はこの島を守るために立ち上がるはずだ。だったら、オレに頼まれなくたって『人類』のために戦うはずだ。その身を、削りながらでも――。
 目の前が、ただただ赤い。絞りきった声を兵長はちゃんと拾ってくれたのだろうか。

「……約束しよう」

 真上から聞こえた言葉に目を向ける。そう言った兵長の顔はもう見えなかった。




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