ベルトルト・フーバー
5年ぶりの海を前に、が泣いた。
自分が泣いていることに気がついていないのか。は一心に前を向いたまま、頬を伝う涙の跡を拭いもせず、ぽろぽろとこぼれる粒を落とし続けている。
――拭けばいいのに。
身も蓋もないことを思ったのは、あまりにもが自分自身の様相に無頓着に見えたせいだ。もしかして自分が泣いていることに気がついていないのだろうか。沸き起こる疑念を裏付けるかのように、はただただ静かに、迫り上がる涙を落とすだけだった。
の視線を辿れば、そこには海が広がっている。マーレへと向かう船を浮かべ、ゆらり、ゆらりと波が揺れる。朝焼けが海に反射するさまが見て取れると、思わず反射的に目を細めた。目の奥に痛みがにじむほどに、きらきらと輝く水面を眺めながら、そっと記憶を巡らせる。
――が涙を流したのを目にしたのは何度目だろう。
思い返して見ても、僕やライナーが泣くようなことがあっても、が泣くことはほとんどなかったように思える。覚えている限りの記憶を洗い出しても、片手の指で事足りるどころか折り曲げる指すらないのではというほどに思い描けない。
最後に泣いたのを見たはいつだったっけ、とさらに記憶の糸を辿れば、マルコを巨人に喰わせたときの様子が頭にちらついた。
あぁ、そうだ。あの時もは泣いていた。
立体起動装置を外すアニへ、何度も「なんで?!」と問いかけるマルコに自分の手を噛ませ、その叫びを押さえ込んだ姿が脳裏に蘇る。冷静に立ち回ったかと思えば、それでもマルコの死に直面すればは涙を流した。
あの時はライナーの様子のおかしさに気をとられてしまったけれど、きっともどこか変になってしまったのだろう。きっとそれは、ふたりだけに現れたものではなく、もちろん僕も――。
頭を横に振り、雑念を払い落とす。急に頭を振った僕を、隣に立つライナーが不思議そうに見上げた。だが、唇の動きだけで「が」と伝えれば、僕越しにの様子を窺ったライナーもまた目を見張り驚いた様子を示した。
ライナーが驚くくらいだ。やはりが涙を流すことはこの上なく珍しいことで間違いないらしい。昔はよく泣いていたライナーも今でこそほとんど泣かないが、はその頃から泣いていなかったように思える。
――こどものころと言えば、マルセルの時は泣いていただろうか。
マルセルが無垢の巨人に喰われたとき、逃げ切った先でがどうだったか。あの時は逃げることと、アニの首を絞めるライナーが鮮烈すぎてうまく思い出せない。だが、泣きべそを掻いて立ち尽くす僕に対し、アニが気絶したことをライナーに伝えたのはだった。
訓練兵になってから今まで、腹が減っただとか眠くて仕方がないと情けない声を上げるの姿はいくらでも見てきた。だが、いつも飄々とした態度のが、訓練が辛いと涙を落とすことも決してなかった。
だからこそ、今、が泣いている姿を見ることが、珍しくてたまらない、と思う。
今、流す涙の理由がどこにあるのか。の視線を辿れば、向かう先には広大な海と遠ざかる船しか見当たらない。その船は、つい先程マーレに向けて出港したばかりのもので、中に乗っているのは僕らの失態を贖うために命を差し出してくれたユミルただひとり――。
そこまで考えて、はた、と気づいた。
――もしかして、ユミルのため?
ひとつの考えが頭に浮かんだ途端、欠けていたパズルのピースが次々とはまるかのように、いろんな記憶が浮かび上がる。
訓練兵になった直後から、気がついたらはユミルの下僕のように振る舞っていた。口を開けば面倒くさいと言い、何かさせようとすれば寝たふりをするが、ユミルに呼び出された時だけは、元々の予定を覆してでも彼女の元へと駆けていった。
ライナーは「よっぽどの弱みを握られたらしい」と笑っていたし、僕自身もユミルに顎で使われることが少なくなかったのできっと同じように断れない理由を抱えているんだろうと思っていた。
直感が閃く。ユミルやクリスタの買い物に付き合わされることは僕にとっては断れないだけのものだったが、もしかしたらにとっては違ったのかもしれない。
――は、ユミルと友だちだったんだ。
思い返せば、はマルコともよく格闘訓練を組んでいた。が一方的にマルコをからかっている姿ばかりが思い描かれるが、あのときのも見ようによっては楽しんでいたようにも見えた。
もしかしたらは、自分のせいで友だちが死ぬ場面に立ち会ったとき、泣くのかもしれない。仲のいい相手を見殺しにすることが、どれだけ苦しいことか。
アニを救えない不甲斐なさに悩む僕にも、その気持ちが少しはわかるような気がした。
「……大丈夫?」
「えー? なにそれ。大丈夫に決まってんじゃん。いきなりなに言ってんの」
空元気を多分に含んだ声音で反論するはいつになく言葉を滑らせる。何も言えなくなった僕の肩に、ライナーが手のひらを乗せる。眉を下げ首を捻れば、何も言うべきじゃないということだろうか。ライナーは目をつぶり、頭振って示した。
うん、とひとつあたまを揺らした。そして、もう一度振り返り、の様子を窺う。僕が声をかけたことでようやく泣いていることに気がついたのか、は肩口に目元を押し当て、ぐすりと鼻を鳴らした。
もう、誰かが泣く姿を見るのはいやだな、と思う。
これから先、否、ずっとそうだったのだが改めて認識する。その「誰か」は、選ばなくてはいけないのだ、と。
マーレに帰ればまた違うのかもしれない。だけど、今、この島にいる相手だけをと思うのなら僕にとってそれはライナーとアニ、そしての3人に絞られる。
身体の真横に下げた腕の先で、小さく拳を握る。もう、大事に思う相手は3人だけでいい。それ以上のことを望んではいけない。
そのためには一刻も早く始祖を奪還し、終わらせなければと決意を新たにした。
* * *
シガンシナ区での最終決戦。獣の咆哮を耳に入れながら今回の作戦の概要を頭に思い浮かべる。
開戦直後は獣と鎧にて敵に当たる。前線で始祖を奪取する役目を担う鎧の合図を待って、僕は戦場へと向かうこととなる。それまでは今回の作戦の任務から外れたと待機だ。とは言え、いつその合図が来るかはわからない。
結果、ずいぶんと早い段階から僕は樽の中へと押し込められている。
この島に入る前、確かに荷台にある樽の中に紛れ、時を見計らって巨人化することで敵を殲滅したことがある。その際も、かなりの時間を樽の中で過ごしたことは古い記憶ながらも鮮明に残っている。
だが、それはこどものころだからこそ耐えられたことで、戦場に駆り出されたときよりも幾分も成長している今では、数分の待機でさえもだいぶ堪える。緩衝材を入れたことで窮屈さが増した樽の中が息苦しいことを、戦士長もも知らない。
せめて蓋を開けることができないかと頭上の板を押してみたが、思った以上にきっちりとはめこまれているらしくピクリとも動かなかった。
大仰に息を吐いたところで、やり場のない閉塞感が楽になることはない。むしろ樽の中の酸素が薄くなり、自分を苦しめるだけだ。樽の中で膝を抱えたまま、側面に開けられた穴からそっと外の様子を窺う。変わらない景色は、兵団がこちらへ攻め込んできていない証でもあった。
忍び寄る緊張は残したまま、樽の内壁に背を預ける。シン、とした樽の中で僕の溜息だけがひっそりと反響した。
「ねぇ……君、今、どこにいるんだい?」
同じ場所で待機命令を下されたの姿が見えないことに、薄々と嫌な予感が頭をよぎる。それを確かめようと声をかけてみれば、程なくして返事がかえってくる。
「樽の上ー」
今の返事だけではあまりにも短すぎてどこからの声なのか判別がつかなかった。僕の疑念が当たっていなければそれでいい。だけど、の性格を思えば、予想が当たる気しかしない。
戦場にいる際のものとは、また別の種類の緊張感が身の上を走る。
「……どの?」
僕の疑問に対し返答はない。だが、沈黙を貫けば数秒の間を置いて、コンコンと頭上から樽を叩く音が響いた。
予想通りとはいえ、否、予想通りだからこそ、頭を抱えてしまう。溜息を吐きこぼせば、自分だけしかいない狭い樽の中に想像以上の溜息が満ちた。が僕の入った樽の上に座っている事実に打ちのめされる。先程、僕が蓋を開けようとした際、邪魔をしたのは、ほかでもないだったのだ。
普段のの無頓着さを思えば、控えめに叩かれたことを褒めるべきなのかもしれない。
ライナーがこの場にいればきっとうまくを退かしてくれたことだろう。だが、あいにく今は頼れる相棒はこの場にいない。
誰も頼ることができない状況に辟易する。から雑な扱いを受けることに慣れているとはいえ、受け入れられるかどうかはまた別の話だ。
大声で怒鳴って抵抗するほどのことじゃない。だが、今ここで尻に敷かれていることを良しとすれば、この先もっとは雑な扱いを僕に強いることになるだろう
「……」
「なーにー?」
咎め立てを多分に含んだ声音で彼の名前を呼ぶと間延びした声が返ってくる。まるでなにも問題はありませんとでも言いたげな声に、頭がクラクラするようだ。
あまりにもの態度が普段通り過ぎて、まるで戦場じゃないかのように錯覚してしまいそうだ。先程まで抱えていたはずの緊張感が削がれていくことを自覚する。
「なにじゃなくて……降りてよ」
「仕方ないでしょー。車力の荷台が箱と樽でいっぱいでさー。座る場所がないんだって」
「だからって僕が入ってる樽の上じゃなくていいじゃないか」
その問いに返答はない。
――都合が悪くなるといつもこれだ。
昔からそうだ。普段の口数は少なくないくせに、しゃべりたくないと決めたときは簡単に黙り込む。面倒ごとが絡むとなおさらだった。
からの返答を待ち黙り込めば、途端に静寂に包まれる。ただでさえ樽の中にいるんだ。風の音もほとんど遮断され、口を閉ざせば残るのは自分の呼吸音だけ。
唇を引き締めたままの動向を待つ。姿が見えない以上、僕にできることは少ない。 ――いっそのこと無理矢理蓋を持ち上げて落としてやろうか。
乱暴な考えを頭に思い浮かべ、打ち消すように頭を振った。仮に実行に移し、成功したところでまた樽の中に入れば、必ずはまた同じ場所に座る。そういうやつだ。
「……?」
いつまで経っても反応がないことを訝しみ、名前を呼ぶとともに樽に開けた穴の隙間から外を覗き込んだ瞬間だった。
「なにー?」
「わっ!」
青緑色の瞳がこちらを覗きこんだ。至近距離でかち合った瞳に、思わず声を上げてしまう。
樽の中に大きな声が反響する。口から飛び出した声が自分自身に与えたダメージは思ったよりも深刻で、耳の奥に痛みがにじむ。手のひらで耳元を押さえたところで後の祭りというやつだ。
耳の痛みに気をとられていたが、狭い樽の中で仰け反った背中も投げ出した爪先にも次第に痛みが現れる。緩衝材を入れているが、咄嗟の衝動にはほとんど意味をなさなかったらしい。
「はは、びびってやんのー」
僕の絶叫が随分とのお気に召したようだ。いつになく甲高い笑い声が頭上に響く。数度聞こえてきた音は、おそらくが振るった爪先か踵が樽に当たった音なんだろう。
ご機嫌な声は、特にこちらに憎たらしさを抱かせる。
僕が声を荒げて怒ったりしない以上、剣呑な空気にはならないが、いつまで経ってもくすぶる想いは拭えない。少しくらい僕の心境をに伝えたって罰は当たらないはずだ。
「本当に……君は緊張感がないね」
「オレ、今回は戦闘免除されるからねー」
僕としては皮肉を多分に含んだ言葉だったが、にはちっとも響かない。それどころかまるで自慢するかのような言い草さえ披露する始末だ。
明るい声音は、笑い混じりのものでの機嫌がいいことを印象づける。本当に、壁の上にいたときの真面目さはどこにやってしまったのか。
この樽の中に押し込められてから何度目かもわからない溜息を吐きこぼす。
――だから、チャンスがあるなら大事なやつは救い出した方が良いと思うよ、オレは。
不意に、の言葉が頭の中に蘇る。いや、突然じゃない。耳にしたときからずっと胸の内に燻っていた。
ライナーに窘められたは〝守りたいお姫様なんていない〟と茶化すような言葉を添えた。長い付き合いの中、が慕うような人物が思い当たらない以上、その言葉は本当なんだと思う。だが、僕たちに向けた言葉が〝大真面目だ〟と言ったのは本心に違いないと確信していた。
僕が王子でアニが姫。そんなおとぎ話のようなことは微塵も考えていないけれど、仲間が捉えられたのなら救わなくちゃ、と思う。
膝を抱え直し、ほんのりと痛みの残る耳たぶの裏を掻きながら、改めてに声をかけた。
「ねぇ、」
「ん-?」
「さっき……君が言ってただろ。後悔しないように、って」
「あぁ、言ったねぇ」
「ねぇ、もし――僕たちが帰れなくなるようなことがあったら……君が、アニを、助けに行ってくれないか」
あっけらかんとした口調で相槌を打っていたが息をのむ音が聞こえた。一瞬、途絶えた会話に、が何を感じているのか。わからないままに、の言葉を待つ。
沈黙はそんなに長くは守られなかった。軽く咳を払うような音の後、はいつもの調子で言葉を紡ぐ。
「いいのー? そんなことしたら長年の友情むなしく、とうとうアニがオレに惚れちゃうよー?」
「茶化さないでくれよ」
この土壇場で、からかうような言葉を選ぶの神経がわからない。
壁の上でライナーが口にした言葉を真に受けたのか。それともただ単にからかうための材料として使いたかっただけなのか。
――多分、後者の方だな。
昔から、そうだった。底意地の悪いところのあるは、僕やライナーをからかうことに余念がない。気のおけない仲間だと思われているのだろうが、それを素直に喜んでいてはの思うつぼだ。
唇をすぼめ、ふーっと長く息を吐き出した。僕の忠告を聞くようななら、とっくの昔にその性格は改善されている。ライナーならともかく、僕が言ったところできっとには響かない。だが、だからと言って甘んじて揶揄の言葉を受け入れ続けるつもりも毛頭ない。
なにか言い返さなければ。そう意気込んだところに、の言葉が降ってくる。
「オマエ、ほんっとにバカだねー……」
「なっ――」
唐突な罵倒に言葉を失う。呆れをたっぷりと含んだ声音に、窮屈そうにしかめられたの顔がありありと目に浮かぶようだった。
「助けにいくんだってオマエが言ったんでしょー。――行って、帰ってこいよ。アニが待ってる」
思いのほか落ち着いた声だった。普段の憎まれ口が嘘みたいに、がこちらを思いやるような言葉を告げる。顔が見えないからこそ、その言葉がいやに胸に響いた。
抱えこんだ膝の上で両の拳を握る。生まれた熱は、決意そのものだ。
もしも帰れなかったら、なんて今考えるべきじゃない。必ず帰るんだ。故郷へ――。
「あぁ、そうだね」
きゅっと口元を引き締めて頷いた。の姿は見えないが、きっと僕と同じように決意を新たにしたはずだ。からかうような言葉が降ってこないだけで、そうだと信じられた。
小さな穴を通して、新たな決意を胸に抱いたまま空を見つめる。いまだ、ライナーからの合図はやって来ない。
まだ戦闘が始まっていないのか、それとも苦戦を強いられているのか。それさえもわからない。募る焦燥から逃げる術はなく、逸る心音に紛れて息をする。
負けられない戦いに臨む心境にまだ慣れきってはいないけれど、初めて戦争に駆り出されたときよりも幾分かはましになったように思える。
思えば、ずいぶん子供のころから命のやりとりは始まっていた。
歩けば石を投げられるような国に生まれ、寿命を擲って、やっとひとりの人間として扱われるようになった。だが、それでも差別は止まない。
生きて、十年足らずのうちに確信した。
――この世界に、希望はない。
僕らは悪魔の末裔で、世界のすべてが僕らを滅ぼすことに躍起になっている。どうやら僕らの知らない祖先が、疎まれて当然のことをやってきたせいらしい。その代償を払うのは薄汚い血を受け継いだ僕たちの役目だそうだ。そうやって教育されてきた。
――とっくに、まともじゃないさ。
この島にいるみんなは、そんな世界の不条理を知らないまま生きてきた。壁の中に閉じ込められたと聞けば理不尽のように感じるかもしれない。だが、生まれてきたことを許されることが、どれだけ幸せなことか。
この島に来て、僕はようやく人になれた。
5年間、人として扱ってくれた同期や訓練兵団の教官の顔を思い浮かべる。敵対してしまったとはいえ、僕にとって彼らが仲間であったことには変わりない。憧憬は、胸の内にある決意を簡単に鈍らせる。だけど、〝終わらさなければ〟。ただそれだけが、僕らを支える言葉だった。
仲間だからこそ、彼らを僕らと同じような目に遭わせてはいけない。きちんとここで終わららせてあげなきゃ。
深く瞑目し、鈍ったばかりの決意をつなぎ合わせる。
エレン、アルミン、ジャン、コニー……それから、それから――。
共に調査兵団に入った仲間のことを思い浮かべる。裏切り者と呼ばれた。それ以上に、仲間として笑いあった。
壁の中にある平穏を長く受け入れた君らが羨ましくもあり、そして時に妬ましい。
仲間だからこそ、できることがあるのだ。ちゃんと、終わらせてあげることが優しさと信じて、僕たちは前に進む。