多田野03:15歳

冬に生まれて春を待つ


 新年を迎え、もうすぐ1ヶ月が経つ。私立高校の受験を乗り越えほっと一息ついたのも束の間、2月が迫るに連れ寒さが一段と増したころ。調子が悪いかも、と異変を感じたのは木曜の夜だった。
 いつもより暖かくして眠ったところで翌日にすっかり治ってるなんて都合のいいことは起こらない。金曜日には違和感はかすかに表にあらわれ、たまに咳が出る程度になっていた。
 予防のつもりでつけたマスクに対し、目敏く反応したのは同じクラスのくんだった。帰りしな普段通り「バイバイ」と伝えるとくんはひどく顔を顰めてこちらを睨みつけた。

「おい、苗字。お前明日、絶対に病院に行けよ。まだ私立しか終わってねぇんだ。公立の受験前にこじらせると受かるもんも受かんねぇぞ」

 くんの言葉はいつも語調が強い。友だちのひとりが「もう少し優しい言葉をかけれないの?!」と言い返してくれたけれど、くんが発言を撤回することはなかった。
 たしかにくんの言葉は非難めいたところが多くある。いつもの顰めっ面なんて合わされば文句を言われたと受け止めることも出来ただろう。
 だけど、あれでいいところもある人だから、くんなりの不器用な気遣いなんだとも思えた。多分、私以外の友だちもそう感じたんだろう。「ったくはしょうがないな」なんて言って見逃していたのがその証拠だ。

 不調を抱えたままようやく迎えた土曜日。親の勧めもあって朝一で駅前の病院へと赴いた。小一時間ほどの待ち時間を経て診察してもらったところ、喉の炎症が出始めていて放っておけば月曜日にも高熱が出ただろう、という見立てだった。
 喉に塗られた薬の苦みに眉をひそめながらそっとマスクの位置を整える。今日と明日ゆっくりしていれば恐らく大事には至らないだろう。お医者さんの言葉を胸中で反芻しながら家の最寄りへと向かうバスに乗り込んだ。
 ICカード型乗車券をタッチし、車内を目にした途端、思わず足を止めてしまう。怯んでしまった理由はただひとつ。バスの中には野球部特有のユニフォームを身に纏った男の子たちがひしめいていたからだ。
 一本見送って次のバスにしようか。体調が悪い状態で大勢ひとがいる状況に押し入るのはどこか心苦しい。一歩足を引き、後退しようとした。だが、乗車券はすでにタッチしてしまっていたし、後ろに並んだ人がいる以上引き返すのは困難で、そのまま奥へと足を進めるほかなかった。
 車体の真ん中よりも少し後ろあたりで足を止め、近くの吊革を掴む。正面の座席に座った男の子も帽子こそかぶっていないものの一目で野球部の子だとわかる格好をしていた。
 ――今日は土曜日だし、近くで練習試合でもあるんだろうか。
 土日に限らず夏休みや冬休みの間、他の学校の部活生と思われる人がうちの中学の体育館や運動場に出入りしている姿を見かけたことが何度もある。もしかしたら彼らも同じような理由で他校に赴く途中なのかもしれない。
 そんな風に見当をつけながら、無遠慮にならない程度に目の前に座る男の子をチラリと視界に入れる。真面目そうな顔つきでまっすぐに正面を見据えた男の子が膝の上に載せたエナメルバッグにはローマ字で南沢と書かれていた。結構遠いところから来たんだなと感心とも感嘆ともつかない息を吐く。
 ――この路線だと……もしかして稲実に行くのかな。
 ふと、そんな考えが浮かび上がる。家の近所にある稲城実業高校は勉強の面でも名門と名高いが、野球も同じくらいに有名だ。強豪校は他校からの練習試合のお誘いも多いと聞くし、あながち間違ってはないんじゃないだろうか。
 ――今年は甲子園にも行ったんだってお姉ちゃんも言ってたっけ。
 試合に勝ち進めば全校応援の主軸としてブラスバンド部も駆り出される。ブラスバンド部の一員であり次の代の部長を引き継いだお姉ちゃんもまた例に漏れず応援に参加していたらしい。日に焼けるから勘弁して欲しいだなんて悪態をついていたけれど、結構楽しそうにしていた姿は今もなお記憶の中できらきらと輝いている。
 4月になって入学したら、お姉ちゃんと一緒に応援出来るといいな。
 ふと、浮かび上がった願いに口元をほんの少しだけ緩める。とは言え、その前に稲実に合格しないといけないのだけど。
 先日行われた入試では正直、模試以上の手応えを感じた。それでも合格発表もまだの段階で入学してからの予定を考えるなんておこがましい。
 だけど、たとえ今はまだ夢物語だとしても、湧き上がる憧れは止まない。青空の下で思いっきりトランペットを吹けたらどんなに気持ちいいだろう。
 まだ見ぬ未来へと思いを馳せながら、自然と背筋が伸びるままに伏せていた顔を上げた。そのままバスの車内から窓の外の景色をまっすぐに見つめる。時折、曲がり角に差し掛かる度に起こる揺れに合わせるように重心を移動させる。最初のうちは大きく身体が傾いたが、二度、三度と繰り返すうちに翻弄されることはなくなった。
 大きくカーブをひとつ曲がったところでそっと息を吐く。マスクの中に暖かい呼気が留まるのを感じながら、再び窓の外へと視線を伸ばした。
 流れる景色は駅前の繁華街特有のものではなくすでに住宅街へと移り変わっていた。それでもまだ自宅の最寄りのバス停まではほど遠い。
 ――まだまだ時間が掛かりそうだなぁ。
 もうひとつ溜息を吐きこぼそうとした。だが喉の違和感は思いのほか強かったらしく、ケホ、とひとつ咳き込んでしまう。大勢の人が乗っている以上、あまり不調を見せるのはよくないだろう。きゅっと唇を結びふたつめの咳が出ないようにと気を払う。
 幸い、すぐに咳き込むようなことはなかったが、次第に身体に熱がこもっていくのを感知した。暖房が効きすぎているせいも相まって頭の中にもやが掛かったようにぼんやりとしていく。
 ――やっぱりお姉ちゃんに付き添いを頼めば良かったかな。
 珍しく部活が休みだからと家にいたお姉ちゃんの姿を脳裏に描く。リビングで食パンをかじっていたお姉ちゃんに「ついていこうか?」と言われたのに、「大丈夫」と断ったのは他ならぬ私だ。せっかくだからゆっくり休んで欲しかったのが一番だが、ひとりでも大丈夫だろうと高をくくってしまっていたのも大きかった。
 朝までは平気だと思っていたが喉の炎症があると言われてしまうと途端に身体が〝不調なのだ〟と主張し始めたように思えてならない。家に帰ったらちゃんと安静にするから、今はまだ表に出ないでいて欲しい。
 そんな私の願いなんて知るかとばかりに、具合はどんどん悪くなっていく。乗り慣れないバスに乗っているのもその一因だろうか。暑さに耐えかねて首元に巻いたマフラーを緩めるとほんの少しだけ楽になったが解決には至らなかった。
 心細さに次第に眉根が寄っていく。早く家に着かないかな。マスクの下できゅっと唇を結びながら堪えるように顔を伏せた。その時だった。

「あの、大丈夫ですか?」

 突然の声に驚いて、伏せていた目を丸くする。思わず顔を上げれば正面に座っていた男の子が真摯にこちらを見上げていた。
 視線が交差してもなお、自分が話しかけられたのかの確信を抱けない。動揺するままに軽く周囲を見渡したが彼の視線はまっすぐに私へと差し向けられたままだった。

「え……私、ですか?」
「はい。なんだか調子が悪そうに見えたので……良かったら席変わりましょうか?」
「いえ! その、平気です」

 不調はたしかにある。だけど見ず知らずの人にそれを訴えるのも悪い気がして思わず平気な振りをした。吊革を掴む手とは逆の手を胸の前で振り、なるべく自然に見えるようにと作り笑いを浮かべる。
 マスク越しでも私が笑ったと伝わったのだろう。男の子はかすかに眉尻を下げながらも「そうですか」と応じた。

「すみません。いきなり声をかけてしまって。熱を出されてるんじゃ無いかなって思ったら、つい」
「いえ。むしろ気にかけてくださってありがとうございます。……多分、少し、暖房が強いから。そのせいだと思います」
「なるほど。そうだったんですね」

 ひとつ頭を揺らした男の子は思案するように口元に指の甲を当て、そのまま隣の席に座る男の子を振り返った。

「江崎、そっちの窓、少しだけ開けれる?」
「おう。ちょっと待ってろ」

 江崎と呼ばれた坊主頭の男の子は軽く腰を上げ頭上へと手を伸ばすと、窓を開けてくれた。ほんの数センチとは言え、冷たい空気が流れ込んでくる。ただそれだけでかすかに感じていた不快感は薄れていった。

「ありがとうございます。かなり楽になりました。……でも、窓開けちゃったら寒いんじゃないですか?」
「これくらい平気っすよ」

 あげていた腰を下ろす男の子に尋ねると、はにかんだような笑顔が返ってくる。坊主頭をなでつけて照れたような仕草を見せる彼はそれだけを残すと膝に手を置いて窓の外へと視線をやった。
 耳元に現れた熱に、彼が見ず知らずの相手と話す気恥ずかしさにそっぽを向いたのだと知る。彼の気持ちは痛いほどわかる。私だって知らない男の子に突然話しかけられて、正直まだ驚いたままだ。もう話をしたくないとまでは言わないが、知らない相手と長く話すとどうしても緊張してしまう。
 だが、手前に座る男の子は違うらしい。相手の不調を気遣うためとは言え、知らないひとに物怖じせず話しかけられるのはすごいなと思わず感心した。いまだこちらを見上げる彼の視線に会話が続きそうな気配を感じ、キュッっと唇を結ぶ。
 ――本当に、思いやりのある人なんだな。
 たまたま同じバスに乗り合わせた相手にこうも真摯に向き合う姿勢に、尊敬に似た念が生まれるのを感じる。温かい気持ちが目元にも現れたのかもしれない。そっと視線を合わせれば、彼ほホッと安心するように息を吐いた。

「よかった……」
「え……?」
「さっきは無理に笑ってらっしゃったんじゃないかなって気がしたので」

 眉尻を下げた彼の言葉に、瞬時にして熱が頬を走る。不調を見抜かれただけでなく、虚勢を張ったことさえもバレていたなんて。あまりの照れくささに手の甲を頬に押し当て顔を隠した。

「す、すみません。見ず知らずの方に心配されるのも悪い気がして」
「いえ! 責めてるわけじゃないので謝らないでください」

 慌てた様子で手のひらを振った彼の様子に思わず数度目を瞬かせた。つい先程、尊敬の念を覚えたばかりの相手が見せる年相応の男の子らしさについ面食らってしまう。
 先程まで大人びているとさえ思った相手から見せられた隙に親近感を覚えると共に、胸の奥でほのかな熱が点る。会話の端々から垣間見えるひとの好さに目を細めると、彼は照れくさそうに頬を指先で搔いた。

「あまり長く話すのも良くないですよね。もし体調悪いようならいつでも席変わるんで言ってください」
「ありがとうございます。その時はよろしくお願いします」

 言って、頭を下げると彼もまたひとつ頭を揺らした。窓を開けてくれたのもあって先程まで感じていた不調はほとんどなりを潜めている。この分なら最寄りのバス停までは問題なくやり過ごせるだろう。
 自分の体調を顧みながらそっと窓の外を眺めれば見慣れた街並みが目に入る。もう間もなく到着するだろうと予想がつくと同時に、緊張感が安堵へと移り変わった。
 ――良かった。このまま何事もなく家に帰れそう。
 一度、不調がピークに達したからこそ、必要以上に気を抜いてしまった。安堵するままに肩から力を抜き、そっと息を吐く。だが胸をなでおろしたのも束の間、カーブの強い箇所に差し掛かったらしく鋭く車体が揺れる。吊革を掴んでいたにも関わらず、揺れ幅に抗うことすら出来ず小さな悲鳴とともにたたらを踏んでしまう。
 ぎゅっと腕に力を入れて吊革に縋り付き、何とか持ちこたえようとその場に踏みとどまった。だが、私ひとりが耐えたところで隣に立つひとが揺れに流されてしまうとひとたまりもない。ドン、と強い衝撃と共に体重がかかると途端に吊革を掴む手がほどけてしまう。
 ――ダメだ。こける。
 転ぶ先に手を伸ばし、せめて衝撃を和らげようと試みる。だが、その手のひらが床につくよりも先に腰周りに引き止めるような抵抗が現れた。

「大丈夫ですか?!」

 その声と共にぐいっと腰を引き寄せられる。驚いて目を瞬かせながら振り仰げばつい先程まで話をしていた男の子の顔が眼前に現れる。
 きゅっと眉根を寄せたまま真摯にこちらを見つめる瞳は真剣そのものだ。真っ直ぐに降り注ぐ眼差しひとつで呼吸さえもままならなくなる。
 離れない視線を惚けたまま見上げていると、更に彼の眉根が寄せられた。その些細な動きひとつで心配しているのだと口にされるよりももっと強く気持ちが伝わってくる。
 最早転びそうだったことすら頭から飛んで行ってしまっていた。咄嗟に言葉が出ない。やっとの思いで頭を揺らすと、彼はそっと安堵の息を吐いた。
 その表情の変遷に、胸の奥が小さく痛む。だが身に覚えのない違和感を探り当てるよりも先に、目の前の彼が短く悲鳴を上げたことで考えが霧散する。

「……ってすみません! 急に抱えちゃって……その、痛くなかったですか?」
「は、はい……」

 バランスを崩したままだった体を起こし、立ち上がった私を見上げた彼は両手のひらを掲げて降参のポーズを見せた。支えてもらえなければ転んでいたはずだ。助けたのだと誇ってもいいくらいなのに、彼はそれをしない。それどころかまるで痴漢ではないと主張するかのように振る舞っている。
 恥じ入るように顎を引いた彼の目は落ち着きなく泳いでいた。つい先程まで真剣にこちらを見つめていたとは思えないほどの萎縮ぶりだ。
 瞬きを繰り返しても覆らない印象に一度は面食らってしまった。だが、目の当たりにしたギャップと真っ赤にした顔から滲む羞恥に隠れて垣間見える人の良さに自然と口元がほころんでいく。

「謝らないでください。あなたに助けてもらえなければ、きっと転んじゃってたから。……助けてくださってありがとうございます」

 彼は自分の行動を恥じ入っているようだが、その行動のおかげで助けられたのは他でもない私だ。感謝しているのだと伝えるべく頭を下げる。顔を上げ、ふたたび彼と視線を合わせると今度ははっきりと視線がかち合った。こちらを見上げる瞳から戸惑いが薄れていることに気付き、そっと胸を撫で下ろす。
 安堵するままに口元を緩めると同時にまた軽く車内が揺れる。思わずたたらを踏んでしまうとまた彼の手のひらがこちらに伸びた。掴まれた腕に引かれるままに体勢を整え、吊革に捕まったが正面に座る彼の顔色がまた曇った様が目に入る。

「……やっぱり座ってください。俺、次で降りるので」
「いえ! そんなの悪いですから。私も降りるの次なのでホント、大丈夫です」

 足元をふらつかせるさまを二度も見せてしまったせいだろうか。ついに彼は立ち上がり私に座るようにと促してきた。正面に立たれると随分と背が高いことに気付かされる。
 ふと顔を上げればきゅっと眉根を寄せた彼の顔が目に飛び込んでくる。通路に出てこようとする彼を押しとどめるべく手のひらを立ててガードしてみたが、そんな抵抗なんてきっと通用しないんだろうと知るにはその眼差しひとつで十分だった。
 それでも「じゃあ遠慮無く」だなんて座れるはずがなく、騒がしくない程度に断りの言葉を並べた。だが、やはり彼は折れてくれず、狭い場所でやいのやいのと押し問答を続けてしまう。
 そうやって互いに譲り合ってるうちに最寄りの停留所への到着を知らせるアナウンスが流れた。互いに目を丸くしたまま見つめ合う。その驚いた顔を見た途端、ふたり同時に吹き出すように笑ってしまった。

「とりあえず降りましょうか」
「ふふ、はい」

 軽い笑いを携えたまま頭を揺らす。目の前に立つ彼が一歩こちらへ踏み出すのとほぼ同時に、他の野球部らしき格好をした男の子たちが一斉に立ち上がってバスを降り始めた。その流れに乗って、奥に座っていた男の子と3人で並んでバスを降りる。結局、乗客のほとんどを降ろしたバスは次の停留所へと向かって走り出した。

「あの、本当にありがとうございました」
「いえ、結局なにも出来てませんから」

 バスを降りて三歩分横に移動し、改めて彼に頭を下げた。慌てた様子で手のひらを胸の前で振るう彼は相変わらずお礼の言葉さえ受け取ってくれない。
 ――きっと、彼にとっては取るに足らない親切なんだろうな。
 彼の態度を見るに普段から周囲に気を配っているのかもしれない。だからお礼を言われるほどのことではないとあっさりとした態度を貫けるんだろう。そんな憶測を重ねながら、人の良さそうな顔を見つめたまま眉尻を下げる。
 首の裏を抑えていた手のひらを翻した彼は私と目を合わせると「あ」と言葉を漏らした。

「そうだ。……これ、さっき買ったやつなんですけど……たくさんあるので良かったら」

 肩にかけているエナメル素材のバッグからビニール袋を引っ張り出した彼はその中からスティックタイプののど飴を取り出した。こちらに差し出された意図を受け止めかねて思わず首を捻ってしまう。戸惑う私に彼の手が更にこちらへと伸びる。胸の前で止まった手の甲に視線を落としたまま、導かれるようにその拳の下に手のひらを添えるとコロンと手の中にスティックが転がり込んできた。

「……え?」
「ひとつで足りますか?」
「え、はい。十分です。……あっ。お金払います」

 びっくりしてうっかり勧められるままに受け取ってしまったがさすがに丸ごともらうのは気が引ける。慌てて財布を取り出すべく肩にかけたバッグの中に手を入れると、目の前に立つ彼もまた慌てふためいてこちらに一歩詰め寄ってくる。

「いや、ほんとまだ2個はありますし誰かにあげようと思ってたので! むしろ貰ってくれた方が助かります!」

 一息に言ってのけた彼の迫力に飲まれポカンと口を開く。どうしてそんなにたくさん買ったんだろうという疑念は残ったが、あまりの彼の勢いに負けて思わず首を縦に振っていた。

「あ……ありがとうございます」
「いえ。体調、早くよくなるといいですね」

 ふ、と、口元を緩めた彼は安心したように息を吐く。肩に力の入ってない笑顔を向けられると疑念が吹っ飛ぶと同時に自然と笑みが浮かんだ。

「それじゃ。……お大事に」

 軽く手をかざした彼は少し離れたところに立っていた隣の席に座っていた男の子の元へと駆けていく。

「悪ぃ、待たせた」
「いや別にいいけど。っつーか樹さ、稲実ってどっちか覚えてる?」
「先週も来たろ。あっちだよ」

 進む方向を指で示した彼は数歩進んだ後、こちらを振り返り軽く頭を揺らした。私もまた彼に向かって頭を下げると自宅への道を進もうと一歩踏み出す。だけどどうしても後ろ髪を引かれる想いが消えてくれなくてその場に足を止めて彼を振り返ってしまう。
 ――やっぱり稲実に用があったんだ。
 南沢高校なんて聞いたことないけれど、そこの野球部の人だったのかな。そんな想いを馳せながら遠くなる背中を眺めているとかすかに喉の奥が詰まるような心地を覚えた。
 炎症しかけてるって言われたしそのせいだろうか。コホ、と小さく咳をこぼしてみたものの特に改善した心地はしない。病院では薬を塗ってもらった。あとはお昼ご飯食べたあとに飲むようにとお薬も処方されている。
 ――その前にのど飴、食べちゃってもいいかな。
 誰に問うでもない質問を頭に浮かべながら手元に視線を落とし、そっと手のひらを開いた。切り口を引っ張ってくるりと回すと、コロンと一粒が手の中に転がり込んでくる。
 包み紙を取り除きのど飴をつまみ上げると、指先でマスクを下げ、そのまま口の中に押し込んだ。コロコロと口の中で転がすとじんわりとした甘みが舌に広がっていく。同時にほんの少しだけ喉の痛みが和らいだような気がした。
 のど飴を舐めながら手にしたスティックに目を向ける。ミルク入りと書かれたパッケージを見つめながらつい先程これを渡してくれた男の子へと思いを馳せる。
 いつかまた会えたら、ちゃんとお礼が言えるといいな。
 稲実に入学したら、練習試合かなにかでまた会えたりしないだろうか。ふと、そんな考えが頭をよぎるままに顔を上げれば、並んで歩く背中はかなり離れてしまっていた。じっと見つめていると、並んで歩くふたりのユニフォームが微妙に異なることに気付いた。三校集まっての合同練習か何かだろうか。野球部の事情には詳しくないのでわからないけれど憶測を重ねたところで正解がわからない以上、詮索を続けたところで意味は無い。
 そうと分かっていても、気にしてしまう。さっきから男の子と交わした言葉ばかりが頭の中を駆け巡っていた。

「いつき、くん」

 先程耳にしたばかりの名前をひっそりと紡いだ。たったそれだけで言いようのない羞恥が降り掛かってくる。覚えのない感覚に一瞬で翻弄された。それでも、彼の背中から目が離せない。
 貰ったばかりののど飴のスティックを握り込みキュッっと胸に押し当てる。体を蝕む微熱とはまた違う温かさが胸の奥から滲み出るのを感じながら遠くなる背中を見送った。



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