春雷:04

春雷の果てに咲く花 04



午後の修行を終え、屋敷へと戻ってきた俺は、いつものように「ただいま戻りました」と一声掛けてから引き戸を開く。染みつき始めた習慣に返ってくる声はない。いつになくシンとした廊下を見渡し、誰かがここまで出迎えにくる気配がないのを確認すると、そのまま上がり框に腰掛けた。
家の奥側にある煙突からのぼる湯気を思えば、おそらく先生は今、風呂に入っているのだろう。そうでなくとも他の柱へ手紙を書いたり俺の修行に使う罠を作ったりと、育手としての仕事が山積みなんだ。放っておいても勝手に家に上がり込む俺をいちいち出迎える必要は無い。
そう理解はしているが、どこか調子が狂った感が残る。その理由が先生ではない人物が脳裏に浮かんでいるせいだと気がつくと自然と舌を打ち鳴らしていた。
俺が修行に出る際も帰って来た時も、頼まなくても顔を見せてくるもうひとりの人物は、⁠俺が修行を始めるのを機に、藤の家から押しかけてきた女だった。⁠望まない対面を押しつけてくる女の行動は⁠⁠⁠煩わしくて仕方なかったはずなのに、それが無いと知るとどこか違和感を覚えるようになったのは、⁠⁠⁠慣らされてしまった――いや、毒されてしまったせいだと気付くと、いくらでも苛立ちは募った。

「チィッ!」

先程よりも大きく舌打ちすると、脇に用意されていた桶の淵に引っかけられていた手拭いを拾い上げる。それを乱暴に水に突っ込めば思いがけない温度に触れ、反射的に手を引っ込めた。怪訝に思うまま、桶の中を覗けばほんのりと湯気が立っていることに気づき、中に温かい湯が張られているのだと知る。
どうやら風呂を沸かすついでに用意されたらしい。アイツなりに考えて起こしたであろう行動の意図が透けて見えると思わず唇を引き結んだ。
憮然とした表情を保ったまま桶の中から拾い上げた手拭いを絞りきると、両手に広げ顔全体に押しつける。じんわりと滲む熱は、目元やこめかみを取っかかりにして⁠顔中に染みこんでくる。不本意ながらも心地よさを味わってしまいそうになったが、「クソ」と毒づくことで浮かび上がりかけた感情を紛らわせた。
――あんな女に絆されてたまるか。
手拭いを顔に押しつけたまま、ひとつ自分への誓いを立てる。そう自分に言い聞かせなくてはならないほど、己が懐柔されつつあることからは目を背けたまま、あの女のやり口を頭に巡らせる。
日が経つにつれ、この屋敷での手伝いに慣れてきたのか、手際そのものやこちらの待遇が良くなっているのは薄々感じていた。手桶の水が湯に変わったのもそのうちのひとつで、他にも様々な場面で生活の中にあの女の存在がちらつくようになってきた。
三食とも顔を合わせて食べる⁠⁠飯は当然として、修行から帰ってくれば玄関周りが掃き清められている様が目に入ったり、布団も毎日のように干されているのか寝床につけば独特なやわらかいにおいに包まれたりと、そこかしこにあの女の存在を感じた。
だが、居心地がよくなればなるほど、どこか腹立たしい気持ちが沸き起こる。やっていることがまともであっても、⁠押しつけがましいあの女の顔を思い出せば、決して感謝などするものかと頑なになってしまっていた。
脳裏に浮かんだ女の顔に、自然と眉根が寄る。まだほんのりと温かい手拭いを強く⁠顔に押しつけて苛立ちを紛らわすと、桶と手拭いを井戸と洗濯場に放り投げて屋敷にあがった。
そのまま自室へ向かってもよかったのだが、腰を落ち着ける前にひとまず茶でも飲むかと台所に足を伸ばす。出入り口に掛けられた暖簾を手の甲で押し上げ中を覗けば、まだ火にかけている土鍋を前に、調理に取り掛かる女の姿が目に入った。
――今日、出迎えがなかったのは、これが理由か。
屋敷に戻る度、女が何かしらの家事に取り掛かっている姿を垣間見る機会に触れた。今回は、調理の手を止めてまで表に出るほどの余裕はなかったのだろう。羽釜と煮炊きと、他にも何やら仕込んでいるのを目の当たりにすると、自ずと不在の要因が推察できた。
茶を用意するにしても、火を使ってるならまた後で出直すか。そう思い直したのも束の間、なんとなく、目が離れないまま、小気味よい音と共に長ネギを切っては鍋に放り込んでいく背中をじっと眺める。
。⁠俺の修行にかかりきりになる先生の生活水準を保たせることを目的に、藤の花の家紋の家から派遣された女。
その後ろ姿を眺めていれば、初めて会ったとき、屋敷までの道中で聞いてもいない身の上話を滔々と紡がれた記憶が頭の中を駆け巡る。思えば、見目の良さとは裏腹に鼻持ちならない性格をしているそいつとは、最初から折り合いが悪かった。
女は、笑っていれば簡単に他人の懐に入れるとでも考えたのだろう。初っぱなで差し出してきた作り笑いは、他人に敵意なんて向けられたことなんてないと言わんばかりの傲慢さに塗れていた。
いけ好かない表情に虫唾が走り、相手にするものかと拒絶したのは当然の反応だ。だが、無視をしたところでまるで効果は無く、返ってこれ幸いとばかりに本性を露わにした女はガミガミ口やかましく噛みついてくるようになった。
極端な女だ、と内心で悪態をついたこともあったし、無視しようとして失敗し、結局言い争う羽目になったこともあった。一向に改善されない態度を見ては人付き合いが下手なんだろうと見切りをつけたのも致し方ない流れというやつだ。
だが、クソみたいな性格かと思いきや、先生とは存外上手くやっているようだった。先生へ向ける態度はいつだって敬意に溢れ、きっちり一線を引いている時もあれば、時折、祖父を慕う孫のように親しげに振る舞うときもあった。俺の前で見せるような口やかましさの欠けらも無い姿に、思わず目を剥いて見つめたのは記憶に新しい。
おそらく、話す相手によって態度を変えているのだろう。その器用さに隠された薄気味悪さが垣間見えると、ますます仲良くしたくはないと確信を深めた。
――もう少ししおらしい態度を見せるなら、こっちだって、譲歩してやってもいいと思っていたんだがな。
今となってはとうに消え失せた気持ちを惜しむでもなく思い返す。⁠見ているだけで沸き起こる嫌悪感を御しきれないまま、不毛な視線を向けていると、炊き上がった米を台上にあるお櫃へ移したそいつは、ようやく俺の視線に気がついたらしい。首だけで俺を振り返ると、軽く目を見開きながら手近にあった手拭いで手を拭きながらこちらに歩み寄ってきた。

「あら、獪岳じゃない。修行から帰ってきていたのね。ごめんなさい、ちっとも気づかなかったわ」

何を勘違いしたのかすまなさそうに眉根を寄せたそいつは、俺の正面に立つと「おかえりなさい、今日もお疲れ様」と朗らかに笑った。
歓迎するとでも言いたげな表情が嘘くさい。率直な気持ちを突きつけることもできたが、また言い合いになるのが面倒だと思えば、口を紡ぐほかなかった。
ツンと鼻を逸らす俺に、女がひとつ溜息を吐いたのが耳に入る。

「もしかして、もうおなかすいちゃったの? ごめんなさいね、まだもう少しかかりそうなのよ」

どうもコイツは勝手に話を進めるクセがあるらしい。人の腹具合を誤解した女はいつものように口やかましく絡んできた。ガキをあやすような口調に思わず舌を打ち鳴らす。

「そんなんじゃない」
「あら。じゃあ、どうしてここに? 棚のおむすびは、もう食べてしまったでしょう?」

暗に「飯がなければこんなところに用はないでしょう?」と言いたげな⁠言葉に、思わず閉口する。女の言うとおり、先日から常備されるようになったおむすびは、一度、休憩で戻ってきた際に、すでに腹に納めていた。だが、⁠⁠⁠腹が減っていないからこ⁠そ、今はそんな用事ではきていないとなぜこの女はわからないのか。
当初、考えていた通り、茶をくれとでも言えばいいのかもしれない。だが、そんなことを口にしてしまえば、また甲斐甲斐しく世話を焼かれる可能性が残る。とは言え、⁠このまま引き返しては無駄に台所まで足を運んだだけになってしまい体裁が悪い。
そうなれば、一方的にしか考えられないコイツのことだ。またしても勝手に「やっぱりお腹がすいていたのね」だなんてほざいた挙げ句、明日からさらに米を炊く量を増やすことだろう。
予想できる展開に、対抗するにはどうすべきか。眉根を寄せたまま考えと視線を巡らせれば、壁際に設置された大きめの⁠台の上に箱膳が⁠並べられていると気付く。おそらく、後ほど、居間へと運ぶ準備を整えているのだろう。
――手伝いに来たと言えば、この察しの悪い女も馬鹿な考えを実行に移さなくなるのでは。咄嗟にひねり出した割には名案だと思えた。だが、⁠運ぶのを手伝うと伝えるのはどこか抵抗があるうえ、まだ小鉢や茶碗が載せられていないのを見るに、先に居間へ運ぶのは得策ではないように思えた。ならば、と視線を転じれば、その奥に米を移したばかりのお櫃が置かれているのが目に入る。
――運ぶなら、こっちだな。
米を移したばかりのお櫃は熱く⁠、重い。こぼされると面倒なうえ、一から炊き直しとなると待たされる時間も惜しい。だから今から起こす行動は、決してお前を手伝うためのものではない。もはや誰に対する言い訳かはわからなかったが、他ならぬ自分に言い聞かせるように頭の中で理由を作ると、意を決して女に声をかけた。

「おい。これはもう出来たのか」
「えぇ、そっちはもう大丈夫よ。あ、もし、先に食べたいなら向こうの棚にお椀があるから――」
「違う。食いたいなんて一言も言ってねぇ。――こっちは俺が先に運ぶ」

言いながらお櫃を取るべく台所の奥へと進むと、女は慌てたようについてきた。

「え、でも、かなり重いわよ?」

――だからだろうが。
元より足りないわけでもなかったのに、「多めに作る」と宣言されて以来、飯の量は明らかに増えた。先生や俺の食べ具合を見て、少しずつ調整はしているようだが、それでもまだ適量には至っていない。
いくら余った分でおむすびを握るとは言え、⁠羽釜いっぱいの米は優に五人分を超えていて、⁠元々先生が持っていたお櫃では収まらなくなった結果、藤の家からふた周りほど大きなお櫃を持って来やがった。⁠案の定、デカすぎるお櫃⁠に山盛りの飯を盛ったせいで、居間まで運ぶのに苦労する姿を見せはじめたのだから⁠相当に頭が悪い。
俺に手伝いを要求するでもなく、時折よろめきながら⁠居間へ運び込む女の姿はひどく滑稽に見えた。だが、⁠⁠いつかぶちまけるのではと危ぶむほどの頼りなさに、苛立ちとはまた違った感情が静かに⁠降り積もりはじめているのもまた事実だった。
いつでもどうぞと棚の中に用意されたおむすびや、修行の合間用に持たされるおむすびを思い出し、きゅっと唇を結ぶ。
……ひもじさに眠れない夜を過ごした過去を思い出さなくて済むようになったのは、多分、コイツのおかげだ。もっとも腹の容量が増えつつあるのはコイツのせいとも言えるから、感謝の言葉を口にする必要なんてないだろう。

「勘違いするなよ。こぼされたら飯にありつけなくなるから運んでやるだけだ」

振り向かず乱暴な口調で言い放つと返答を待たずにお櫃に手を添える。持ち上げてその場を離れようとしたが、想像以上の重みが腕にかかり思わず目を見開いた。
非難の言葉を浴びせようと、お櫃に手を掛けたまま背後を振り返った。だが、俺が言葉を発するよりも先に、女の表情が目に入ると口にしようとした罵声は喉奥へと消えていく。

「ありがとう。獪岳」

俺が呆けている隙に、感謝の言葉を述べたそいつは、浮かべたばかりの笑みをさらに深いものへと変える。いつもなら当たりの強い言葉を吐けば柳眉を逆立てて俺を睨み付けるはずの目元は柔和に細められ、⁠突っかかってくるはずの唇は⁠ちょっと手伝ったくらいで感謝の言葉を紡いだ。
怒りを自覚するよりも先に身体が反応したのか、カッと全身に熱が走る。⁠⁠なぜこんなことで熱くなるのか、わからないのがまた腹立たしい。
いつもみたいにムッとしてろよ。お前はそんな顔をして俺に笑いかけたりするな。――そうでなければ。その先に続く言葉が脳裏に浮かび上がりかけ、頭を横に振るうことで払い落とした。


「……フン。手伝うのはこれだけだからな。残りはお前が運べよ――

それだけを言い残すと返事を待たずにお櫃を抱えて台所を後にした。廊下に出ると一目散に居間を目指す中、先程目にした女の――の表情を思い返す。ゆるやかな表情が脳裏に浮かぶと、フンとひとつ鼻を鳴らした。
例えば「こんな量をいつも運んでやがったのか」だとか「間抜けなツラを見せるな」などと罵声を浴びせることできただろう。だけど、が、あまりにも嬉しそうに笑うものだから、そんな顔を目にすると、⁠いつものような反発心をぶつける気にはなれなかった。ただ、それだけの話だ。
今後も⁠自分からは関わろうとは思わないし、そもそも⁠先生が呼んだ人間でなければ決して歩み寄ろうだなんて思わない。
それでも、戸惑いながらも素直に礼を口にするを思い出すと、⁠悪い気はしなかった。




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