正しい道の選び方
磯の香りが鼻をつく。久方ぶりの海は、暴力的なまでに五感に訴えかけてくる。静かに揺れる波に、太陽が反射する。きらきら、きらきらと。その眩しさに目を細めながら、オレはユミルの背中を黙って見つめていた。
最期の朝。船に乗せられる直前に、ユミルはオレたちを振り返る。
「じゃあな。――お前らも、後悔しないように生きろよ」
そう言って、ユミルが去ってから、幾日経っただろうか。シガンシナ区の荒れた景色を眺めながら指折り数え、折り返しにさしかかったところで、その動きを止める。作りあげたばかりの拳を、膝の上に落とした。
すでに片手では足りない夜を越えてしまっていることを、態々確かめたところで、ひとつも良いことはない。
――もう、ユミルはマーレにたどり着いてしまったんだろうか。
オレたちが船に乗せられてこの島へやって来たときのことを思い返す。あの時は、どのくらい船に乗せられたんだっけ。
記憶を巡らせてみたものの、初めての出国に浮かれや緊張があったせいか、当時の記憶はあまり残っていないのだと思い知るだけだった。
ユミルのことを思い返す度に溜め息が漏れる。ならば思い返さなければいいと賢明にほかのことへと気を払った。だけど、何をしていても頭にチラついてしまう。
あの時、オレが、他の道を選んでいたらどうなっていたんだろうか、と――。
もうひとつ、溜め息を吐きこぼす。長く、深い溜め息に、隣に座っていたベルトルトが、見咎めたように顔を顰めた。
「どうしたの、? ……なにか心配事でもあるの?」
白々しい質問に、オレは薄く口元を緩めて応じる。ベルトルトだって、ふとした瞬間に顔を歪めて息を吐き、それに対してライナーが何を言っても応じないくせに、オレには聞くんだから性質が悪い。
「んー? 別にー?」
「そ、そう……」
適当にあしらうように答えると、ベルトルトは抱え込んだ膝を引き寄せ、ほんの少しだけ俯いた。会話が途切れた途端、息を吐く音が聞こえてくる。今度はベルトルトが溜め息を吐く番だった。
重苦しい空気が肩にのし掛かる。陰鬱とした感情を振り払えずに、隣に座るベルトルト、そしてその奥に座るライナーへと視線を向けた。
オレたちがこの島へやって来て5年。こんな風に恐る恐る関わるようになるだなんて思ってもみなかった。気を遣い合うのには理由がある。失ったものや壊したものが、多すぎた。
もしかしたら、心根のやさしいふたりは、共犯であることだけが唯一の繋がりかのように感じているのかもしれない。
マルセルの死を見送り、3年間共に過ごした友を裏切り、アニを助けに向かうでもなくここにいる。ただ、かつての仲間が、オレたちを殺しに来るのを迎え撃つために待つ日々は、あまり心地の良いものではない。ふたりに対して、歩み寄る心の余裕がなくなるには、十分だった。
辛気くさいのなんてごめんだ。そうは思っていても、会話のとっかかりが見つからない。何を話すにしても、禁じられた話題が大きすぎる。いっそ、この3年間の記憶がすべてなくなったなら、どれだけよかったことか。
オレの視線に気付いたらしいライナーがこちらを振り返る。口にしていたコーヒーをおろし、眉根を寄せたライナーは、言葉を探すように唇を震わせ、それから自嘲気味に笑った。
「なんだ。やっぱりコーヒーが飲みたくなったのか? 残念だが、もう湯は沸かさないと無いぞ」
「苦いの飲めねぇからいいって」
「……そうか。だったらあまり物欲しそうな顔でこっちを見るな。ひとりで飲んでることを咎められているような気になる」
「あいよー」
今のライナーは戦士だ。だけど、時折、兵士の時のような話しぶりを見せることがある。その差に気がついたらしいベルトルトは、またほんの少しだけ表情を歪めた。その変化に、ライナーはいち早く気がついた。
「? どうした、ベルトルト」
「いや……別に、何もないよ」
ほらね、やっぱりだ。ベルトルトだってライナーに遠慮して何も言わないじゃないか。さっき想像した通りのことが目の前で起きたことに、思わず笑ってしまう。少しでも笑えば、凝り固まっていた気持ちは軟化する。
「あのさー。ちょっとふたりに聞きたいことできたんだけどさー」
「。どうしたの?」
ライナーからの追求から逃れる理由ができたことに安堵したのか、ベルトルトがオレを振り返り表情をほどく。だけど、ごめんな。オレは多分、オマエが望むような話をしてやることはできないよ。
腹を割って話すことは、元から得意じゃない。だけど、波のない湖に石を落とす役目は、いつだってオレのものだった。
「後悔しないように生きるのって、どうやったらできんだろうね」
オレの質問に対し、ベルトルトは表情を凍り付かせ、ライナーは息を呑んだ。またなんてことを言い出すんだ、とでも言いたげな双眸を見つめ返す。オレの視線から逃れようと目を泳がせたベルトルトだったが、じっと見つめ続けていれば、逃げられないと悟ったらしい。観念したように息を吐き、困惑に塗れた表情で呻いた。
「僕には、わからない……でも、こんなことになったからには、もう、ちゃんと最後までやるしかないじゃないか」
「ベルトルトの言うとおりだ」
低い声でライナーは同調する。怖いほどに顰められた眉根には、真剣さが集約していた。
「前に進むしかない。俺たちは、後戻りなんて、もうできないんだからな」
噛み締めるように言うライナーの視線がオレから外され、伸びる。つられるようにして顔を上げれば、その視線の先にはウォール・マリアがあった。その壁の向こうには、3年間過ごした景色へと繋がる道がある。だけど、もう、その壁を越えて行くことはできないんだろう。
離れてからまだ数日しか経っていないというのに、もうすでに遠い思い出のように感じている。自然と、手が持ち上がった。伸ばしたところでなにひとつ掴めない。憧れは、いつだって手が届かないものだと相場が決まっている。
きらきらと目の前が光る。陽光の鋭さに目を細め、オレはまたこぼれそうな溜め息を、歯を食いしばることで押さえ込んだ。
太陽をひとつ、見上げる度に、ユミルの背中を思い出す。海なんかに行けばきっとなおさらだ。自分自身でかけた呪いは、きっともう二度と、祓うことはできないだろう。
後悔しないように生きろよ、と、ユミルは言った。
――とっくに、してるっつの。
何度も何度も、その言葉が耳に蘇る。ユミルの最期の言葉は、まさしく「後悔」のかたちをしていた。
もしもあの夜、ユミルに断られても怯まずに、腕や足のひとつ斬ってでも、攫っていれば、こんな風にうじうじと考えることはなかったんだろうか。
ライナーのような信念も、ベルトルトのような責任感も、オレには持ち得ない。ユミルを見捨ててまで選んだこの「道」が、どうしても正しいだなんてオレには思えないんだ。