進撃O:05

朝日が昇る


 夜が、明けようとしていた。つい先程まで、星が瞬いていた空に薄明が滲む。壁の上にいると、遠い山の向こうにある世界の端から、太陽が昇り始める様がよく見えた。
 壁の上。その縁に爪先を揃えるように立つと、壁に沿って吹き上げる風に短い髪が微かに靡く。油断すればその風に攫われるままに落下してしまいそうだ。
 頬に触れる冷たい風は、冬が間近まで迫っていることを実感させる。吐く息に色が付くのはもう少し先だろうか。その時には、もうこの島を出ているのだろうか――。
 唇を結び、遠い壁の内側へと視線を凝らす。
 ――敵兵力多数接近。麓まで来ている、か。
 車力の巨人からの報告が頭にあるからだろうか。まだ姿は見えないが、迫る敵兵力の接近を肌で感じていた。

「おい、。こっちに来い」

 戦士長の呼びかけに振り返る。三者三様。呆れを含んだもの、咎めるようなもの、そして戸惑いに塗れたもの。それぞれの視線がオレへと向けられていた。

「ハイハイ」

 3人の輪に交じり、それぞれの飲み物を注いだマグを手にする。コーヒーは嫌いだとわがままを口にするオレを、「さすがに空気を読め」と戦士長は咎めたが、それでも船からくすねた紅茶を取り上げるような真似まではしなかった。
 鉄製のマグを、4人の中央に掲げる。音のない闇の世界に、鉄同士が合わさる音が響いた。

「勇敢なる戦士たちよ。ここで決着をつけ、我々の使命を果たそうじゃないか」

 ジーク戦士長の檄に、ライナーも、ベルトルトも、黙って応える。オレもまた何も言わず、熱い紅茶に口をつけた。
 ――これが最期の食事になるかもしれないな。
 頭に浮かんだ考えに抗うようにマグを傾けた。熱い紅茶を呷れば喉と舌の上が熱傷に痛んだが、勢いは崩さず飲み干した。

 使っていた食器類を地上へと蹴り落とし、それぞれの配置へと向かう。戦士長は調達した村人らを所定の位置に配置するため、車力の巨人と共にすでにこの場を離れていた。残されたのは、オレと、ライナーとベルトルトの3人のみ。
 初めは5人だった。この場にはいないマルセルとアニの姿が頭を過る。だが、今この場で、共に過ごした5年を思い返す時間はもう残されていない。
 闇に乗じてシガンシナ区まで辿り着いた『敵』を迎え撃つ。そのことだけを考えるべきだ。頭を切り替え、壁の上を駆ける。先を行くライナーが、なにやらベルトルトに進言しているのが風に乗って聞こえてきた。
 ライナーの言葉に含まれた棘に、ベルトルトは困惑しているようだったが、鼓舞する言葉に繋がればそれも闘志へと変わる。

「終わらせるんだろ? ここで」
「そうさ……ここで勝って終わらせてやる」

 ライナーの問いかけに対しいつになく眦を決したベルトルトに、振り返ったライナーもオレも口元に笑みを浮かべた。

「それから。お前もだぞ」
「えー?」
「この5年間、一番頼りにならなかったのはお前だぞ、

 唐突に飛び火したライナーの言葉に顔を顰める。たった今、出来上がったばかりの決意の空気を簡単に切り裂いて出すほど重大な話題ではない。檄を飛ばすにしても、落として上げることで効果が出るのは素直なベルトルトのようなやつが相手の場合だけだ。

「指揮系統は統一した方がいいと思ってー」
「それっぽいことを言いやがって」

 苦々しげに吐き捨てたライナーに肩を竦めてみせれば、お小言の代わりに盛大な溜息が落とされた。

「今回、お前は待機だからと言って気を抜くなよ。俺やベルトルトが斃れた時、お前がマーレに情報を持って帰るんだからな」
「わかってるってばー」
「そうは見えないから苦言を呈しているんだろう。本当にしょうがないやつだな」

 今回の戦闘では、人の力は役に立たない。巨人の力を有さないオレに新しく割り振られた役目を頭に思い浮かべる。巨人の役目を担うライナーやベルトルトに『もしも』があった時、この島で得た情報を祖国に伝える、ということ。
 ――あの国が、オレみたいなやつの言うことをまるっと信用するかは別問題だけどな。
 自嘲の笑みを口元に浮かべると、ライナーはその表情を見咎めたのか「おい」と言葉を尖らせる。ひらりと手をかざし取りなしたが、鋭い視線は変わらなかった。
 駆けていたライナーが、不意に足を止める。オレもベルトルトもそれにならい、立ち止まった。ライナーの背中にやっていた視線を周囲へと向けると、その景色に見覚えがあることに気がついた。
 ちょうどここは、扉の上だ。5年前、ウォール・マリアの外門を超大型が蹴破り、そしてこの内門を鎧が破壊したことで、この世界を一変させた。
 すべては、ここから始まった。
 そして、今、またここから始めるのだ。この狭い島の世界を、終わらせるために――。
 神妙な顔つきでライナーの背中を見守る。今が別れの時ってやつだ。最後にかける言葉に相応しいかはわからない。だけど、最期になるかもしれないのなら、くだらない遠慮なんてかなぐり捨てたってかまわないはずだ。

「なぁ、ライナー」
「なんだ?」
「ユミルの……最期の言葉、覚えてる?」

 問いかけると、ライナーは目を見開いてこちらを振り返った。何を突然、とでも書かれているかのような顔つきでオレを見つめるライナーの視線にまっすぐに応える。数度、目を瞬かせたライナーは、一度口元を引き締めると神妙な顔つきで言葉を口にした。

「あぁ、もちろんだ。ユミルとの約束だ。絶対に、クリスタを救い出す――」

 言葉と同時にライナーは自分の左胸を叩いた。コン、と軽い音がその場に響く。おそらく、そこにユミルから預かった手紙を収めたケースがあるのだろう。
 神妙な顔つきで目を伏せたライナーにならい、ベルトルトもまた深くうなずいて瞑目する。

「あぁ……絶対に」

 差し迫る戦いを前に、ふたりとも真剣そのものだ。それが悪いとは言わない。だが、ふたりから滲み出る覚悟からは、「死をも厭わない」という自己犠牲ばかりが漂っているように思えた。
 巨人の力を継承したふたりと、万が一の保険として派遣されたオレとでは、根本的な考え方がずれてしまうのは理解できる。だが、ふたりからはこの戦いが終わった後の、未来への展望が見えている気配を感じない。
 オレにだってそんなものはもう見えないけれど、これから戦いに身を投じるふたりが暗い心境のままでは、生還できるものもできなくなるというものだ。

「それだけか?」
「……どういう意味だ?」

 顔を顰め、オレを睨むライナーの視線は険しい。その視線からはこの戦いに、余計なことを持ち込んではならないという戒めが垣間見えた。
 唇を曲げ、右に視線を外す。伝えたい気持ちが形にできないまま言葉に詰まってしまう。だが、〝死んでもかまわないからやり遂げろ〟と別れることが正しいとは到底思えない。
 瞬きを挟み、戻した視線をライナーへ真っ直ぐに差し向ける。

「別に他意は無いさ。ただ、オレはオマエらに『後悔しないように生きろよ』ってことを頭に置いておいて欲しかったんだ」

 ユミルの言葉を反芻する度に、胸の内が鈍く痛んだ。今では、ユミルとの思い出を反芻することはかさぶたを剥がすことと同義となり、安易に片方だけを削ぎ落とすことができないほどに絡みついていた。
 後悔しないように生きることは、好き勝手に生きることとは違う。いつだって正しい道を選べるとは限らないし、自分で選んだ道が正しかったのだと知りようがないからだ。
 ユミルはよく「自分のために生きる」と言っていた。それが後悔のない生き方というのなら、オレたちには一番、困難な道だった。
 ――マーレの戦士には、自由を選ぶ権利がない。
 祖先が、血が、生きていることが悪いと蔑まされたオレが、今、こうやって戦士なんて代物になっているのだって、人として生きるためにそれしか方法がなかったからだ。
 生きて、故郷に帰ろうと言ったのはライナーだった。
 一番はじめに聞いたのは、この島に潜入してすぐのことだ。マルセルを喪い、アニに蹴り倒されたライナーが、反旗を翻しアニの首を絞めながら訴えたのがはじまりだ。
 それ以降も、折に触れ、伝えられたその言葉はオレたちの共通の目標となっていった。

 だが、無事に故郷に帰ったとしてその後は?
 あの国に戻ったとして、どうなる?

 ――きっと、幸せにはなれない。生還したところで、どうせすぐにまた別の戦争へと駆り出されるだけだ。アッカーマンの能力が覚醒していないオレはともかく、巨人の能力を持つふたりはなおさらだろう。
 あまりにも暗い未来を前に、暗澹たる気持ちが流れ込んでくる。
 静かに目を伏せ、そのまま深く瞑目する。視界が暗転すると、途端に耳の奥に潮騒が鳴り響いた。
 血のざわめきは焦燥によるものだ。不安が足下に忍び寄る気配がすると、途端に息がつまるような幻影に苛まれた。捕まれてもいない足首を、踵を上げて爪先を起点にぐるりと回す。苦し紛れの行為だったが、身体がほぐれれば少しだけ気も楽になった。
 薄く目を開けば、心底心苦しいといった表情でこちらを見つめるベルトルトと視線が交差する。

「僕たちは、そもそも後悔をしてはいけないんじゃないかな……」

 痛いほどに眉根を寄せたベルトルトの言葉に、ライナーは目を瞠る。険しい視線を注がれたことに怯んだのだろう。ベルトルトは一歩後ずさり、それでも身体の真横で拳を握ってさらに言葉を連ねた。

「だって、僕らがこの島に対して行ったことを思えば当然だろう? あの時、門を破壊しなければよかったなんて言えるはずがないよ……」

 あの日から五年、奇っ怪な寝相を見せるようになったベルトルトは、この壁の中に起こった悲劇のすべてが自分の責任であると知っている。いくらオレも共犯だと伝えたところで、実際に壁に穴を開けたベルトルトの気持ちをわかってやれるのは、同じく壁を破壊したライナーだけだろう。
 ふたりの心労を慮ることはできても、本当の意味で理解してやることができない。
 不甲斐ないな、と思う。それと同時に、だからこそ罪悪感で雁字搦めになっていないオレだけが言えることもあると感じている。
 同意できないまま黙り込んだオレに対し、ベルトルトの言葉に深くうなずいたのはライナーだった。

「そうだ。後悔なんてしていたら使命なんて到底果たせやしない」
「だから、僕たちは前に進むしかないんだ」

 決意を新たにするライナーもベルトルトも真剣そのものだ。痛いほどに寄せられた眉根からは、目の前の戦いにすべてを捧げるという誓いが迸っている。

「ねぇ、君もそう思うだろ? 

 いつになく眦を吊りあげたベルトルトがこちらに視線を転じた。人の好いベルトルトが、同期を殺す決意を抱いている。
 ベルトルトがもう惨めに泣いたりしない、と言っていたのはいつだったか。このシガンシナ区に潜伏している夜、眠りにつく前に吐き出した言葉だったか。船を見送った海で、朝日を目にしながら告げた言葉だったか。
 いつ、どこで、という記憶はあやふやだ。だが、その悲痛な声だけは耳に残っている。
 歯がゆさに下唇を噛みしめたオレがゆるりと頭を横に振ると、否定されるとは思っていなかったのだろう。ベルトルトは途端に、いつ泣き出してもおかしくないほどに眉尻を下げた。

「そういうのでもいいけどさ。後悔しちゃいけねぇなら、しなくて済むような道を選ぶしかないってことだろ。だから、さ――」

 後ろ頭を掻きながら、言葉を句切る。言い淀んでしまうのは、今から伝えるつもりの言葉がふたりにとって優しくない言葉だと十分理解しているからだ。
 ふたりの双眸がじっと注がれる。胃の奥が痛むような気まずさを抱えこんだまま、そっと視線を外す。シガンシナの北壁の外。そのさらに奥へと視線をやったところで、海が見えるわけではない。だが、心は簡単にあの朝へと舞い戻る。
 
 オレの中にある「後悔」はただひとつ。ユミルを救うことができなかったこと。ただそれだけが、いつまでも消えずにオレの胸の内を蝕んでいる。
 
 この先、オレが生き伸びたとしても、きっと今以上の後悔を抱えることなんてない。
 適当に生きてきたオレが悪いというのも重々承知している。こんなこと言われたっておそらくふたりを惑わせるだけだ。だがそれを踏まえた上で、ふたりにはオレと同じ後悔を抱えてほしくない、という気持ちが前に出る。
 今度は、オレが眦を決する番だった。外していた視線をふたりへと転じ、はっきりとした口調で言葉を紡ぐ。

「次、いつこの島に来れるかわかんねぇ。もしかしたら次に来るときは誰も生き残っていないかもしれない――だから、チャンスがあるなら大事なやつは救い出した方が良いと思うよ、オレは」

 一方的に語りかけたオレに対し、ふたりは息を呑んだ。ごく短い呻き声にも似た返答を残し、唖然とした表情でこちらを見下ろしたまま黙り込んだふたりにそれぞれ視線を差し向ける。

「本当に……いつまでも戦士らしさの欠片もないやつだな、お前は」

 先に反応したのはライナーだった。呻くように吐き捨て、頭を振ったライナーは手のひらを自分の目元に押し当てる。まるで頭が痛くなると言わんばかりのその態度に、言葉に出されるよりも強く、ライナーの呆れが伝わった。

「……は、いいの? 壁に近づかない君には、そのチャンスすら、もう――」

 言葉を詰まらせたベルトルトは、アニを助けることを諦めさせられたことが頭を過ったのだろうか。複雑な表情を浮かべ、かち合っていた視線をそっと横に逸らす。内心、肩を竦めながらも、首を傾げたベルトルトに、オレはいや、と頭を振った。

「いいんだよ。オレにはオマエたちみたいに救いたいお姫様なんて、初めから、いないからね」

 憐憫に塗れた表情と共に息を呑んだベルトルトに対し、怒りを露わにしたのはライナーだった。肩を震わせ、我慢ならないとばかりに腕を振るったライナーは、顰めた眉を緩めもせずに口を開いた。

「お前は……冷やかすのか真剣なのかどっちかにしろ」
「――大真面目だよ」

 柄にもない。自分でもそう思うほど実直な言葉を差し出したつもりだ。いつになく真剣だということが伝わったのだろう。ライナーは唇を固く結んでこちらを見下ろす。だが、一様に表情を強ばらせたふたりは、オレの言葉の意味を受け止めかねているように見えた。
 幾度か瞬きを繰り返したライナーは、オレの目を見返したまま薄く唇を開く。

「俺は――」

 言葉を紡ごうとしたライナーだったが、それ以上言えないとばかりに口ごもる。気まずそうな表情は何を、――誰を想うのか。
 開いた手のひらに視線を落としたライナーは、そのままゆっくりと拳を握る。開閉を繰り返す仕草は、訓練兵の頃から時折見かけているものだ。その仕草は、オレにはライナーが、何か――とても大事なものを取りこぼさないようにと縋る仕草のように見えた。
 微かに口を開いたまま黙って自分の右手を見下ろすライナーの脳裏に、果たしてどちらの少女の姿があるんだろうか。ほんの数ヶ月前であれば、あっさりと投げかけられた質問だが、このタイミングで聞いてしまえるほど、意地悪にはなれない。
 そっと、ライナーの手元から視線を外し、神妙な顔つきを浮かべたままのベルトルトへと視線を転じた。

「ライナーもさっき言ったようにさ、ベルトルトだってアニを救いに行きたいんだろ? じゃあ、オレが言ってる意味――わかるよな?」
「それは……わかるよ。けど――」

 言い淀むベルトルトは面白いほどに目を泳がせる。戦士長の言葉がベルトルトを縛っていることは明白だった。心配していることさえも決意の揺れだと言われてしまうとおいそれと自らの願望を口に出すことすら出来ないらしい。

「――いや、僕にとっては〝今〟じゃない。だけどこの戦いが終わったら、必ず救い出しに行ってみせる」

 いくらか逡巡したベルトルトだったが、決意を新たにしたようだ。今度こそ、迷いのない瞳でこちらを見返した。
 腹を括ったベルトルトの頼もしさに思わず口元を緩める。ほんの少しだけ、その生真面目さに同情も混じったが、今ここで水を差す意味はないだろう。

「まぁ、オレにとっては多分これが最後だよ。この島に、後悔なんてない」

 言い切った途端、胸に痛みが走った。その痛みは後悔がないのではなく、もうすでに後悔の渦中にあるのだと、オレ自身に知らしめる。痛みを振り切るように頭を横に振るい、無理矢理に笑顔を浮かべてみせた。

「始祖さえ連れて帰れば……もう、こんな」

 不意に、言葉を詰まらせたオレを、ライナーもベルトルトも不思議そうに見やった。
 ――もう、こんな思いをしなくてもいいんだよな。
 頭に浮かんだ言葉をそのまま伝えることが憚られたのは、戦士として弱音を吐いてはいけないという戒めですらない。
 その言葉は、オレのこの島への愛着を示すことと同義だった。
 辛い思いをしているのだと吐露することは、過去が幸せであったことの裏返しだ。
 この五年間――否、訓練兵に身を置いてからの三年間。島での日々がまるで、宝石かのように煌めいている理由は明白だった。
 蔑まれることも、疎まれることもない。口を開けば返ってくるのは罵声ではなく、ひとらしい「会話」。差し出される手が拳だけではないことを知った。
 この島に来て、はじめて、オレは人として生きることができたと思った。訓練兵になってからの三年は、特に――。
 嘘じゃなかった。仲間の振りをして、救われてきたのは間違いなくオレたちの方だ。結果、与えられる友情や信頼をいずれ裏切ることを知りながら甘受してしまった。
 何も知らないままこの島に生まれてこれたなら、どんなに楽だっただろう。だけど、オレたちは世界の実情を、文字通り頭に叩き込まれて生きてきた。
 マーレが本腰を入れて奪還計画に臨んだことは、おそらく諸外国にも伝わっているはずだ。オレたちがしくじったところで、いずれこの島も同じ脅威に晒される。
 ――悪魔の末裔。
 耳慣れた嘲罵を思いだすと、腹の内に冷たい塊が押しつけられたような錯覚を覚える。
 オレたちの先祖は自らに押しつけられたレッテルを拭うために、さらに「下」を見つけることしかできなかったらしい。エルディア人の現状を招いたのは島に逃げた裏切り者がいるせいだという「歴史」を植え付けられた。
 本当の意味で、島の悪魔の正体を知っているのはオレたちだけだ。この島を滅ぼすことが、世界に認めてもらえる唯一の手段だなんて、もう思えない。
 ――あんな思いをするのは、もう僕たちだけで十分だ。
 ベルトルトの悲痛な声が耳に蘇る。それは、マーレでの非道を意味するのか、それとも「仲間」と思っていた相手を殺すような目に遭うことを意味しているのかはわからない。
 だけど、今、この場に立つオレの頭に浮かんでいるのは間違いなく後者だった。
 ぎゅっと下唇を噛みしめる。ユミルを救えなかった後悔を飲み下せないまま、新しい後悔を蓄えようとしていることが我慢ならない。
 こんな思いはもう、懲り懲りだ。それは生まれるかもわからないオレらの子孫へ向けた言葉ではなく、自分自身の本音だ。だが、それを口にしたところで何になる。後戻りができないのなら態々ふたりに伝えたところで互いに苦しむだけだ。

「もう、こんな場所に来なくて済むんだよな」

 その言葉が、果たして適切だったのか。考え抜いた上で取り繕った言葉だったが、本心が別にあることをうまく隠し通せたのだろうか。
 苦い感情を飲み下す。いつの間にか落としていた視線を持ち上げ、ふたりの表情を窺った。
 目の前のふたりにも、うっすらとオレの本心が伝わったのだろう。ふたりとも身じろぎひとつせず、オレに視線を向けたまま固まっている。蒼白な顔に涙が浮かんでいないのが不思議なほど、悲嘆を色濃く写した表情を浮かべていた。
 溜息を飲み込んだオレは、いつもみたいに口元を緩める。目に見えて硬直したふたりだったが、先に身じろいだのはライナーだった。

「――そうだ。もう、二度と、こんな悲劇を繰り返させない」

 深く瞑目したライナーの切羽詰まったような声に、頷いて返した。
 未来へと向かうオレたちの足取りが、決して正しくはなくとも、明るくはなくとも、後悔の少ない道に繋がるように、ただ、祈ることしか出来ない。

「行こう」
「あぁ」

 ベルトルトの言葉に、オレもライナーも同時に応じる。重なった声に振り返ればライナーもまたこちらに一瞥を投げて寄越した。

「じゃあな。頼んだぞ、相棒」
「任せろ」

 互いの背中を叩き合い、言葉を交わすふたりの姿を横目に入れる。首だけでこちらを振り返ったライナーと視線が交わる。その視線に応えるように、腕を伸ばし、ベルトルトと同じようにライナーの背を強く叩いた。

「負けんなよ、ライナー」
「あぁ。また、後でな」

 ライナーの言葉に深く頷いた。口元だけで笑みを作ったライナーはこちらの背を叩き、そのまま壁の向こうへと降りていった。オレもまた、ベルトルトと連れだって壁の上から飛び降りる。
 地面へ辿り着く間合いを測り、ガスを吹かせながら、そっと視線を転じる。
 地上を支配していた宵闇はすでに鳴りを潜め、いつしか白い世界に飲み込まれていた。夜を切り裂いた光に目を細め、朝焼けを目に焼き付ける。
 ――あぁ。始まるんだ。
 まぶたを震わせる朝。壁に阻まれ途切れていく太陽の光を横目に、壁の中を一望する。狭い世界。マーレのように進んだ技術もなく、精鋭たちのほとんどはアニが葬り去っている。その上で戦士長まで出てきたんだ。きっとこの島は今日のうちに滅ぼされる。
 身体を回転させ、アンカーを壁に放つことで落下の勢いを緩めながら、すっと息を吸い込んだ。
 まだ日の差さない壁の中。次第に影の中へと身を投じることで生まれた明暗差に目を細め、それでも足りず反射的に瞬いた。

 ――そして、今日こそ終わらせるんだ。この真っ暗なオレたちの未来が、少しでも明るくなるように。

 心の中でひとつ抱いた願いごと。かなうのか、かなわないのか。神頼みなんて柄じゃない。だけど、もう始まってしまえば祈ることしかできない。
 この戦いの命運を握っているのはオレじゃないけれど、どうか、どうか――。




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