085.気にする 02
どうして今、自分が駆けているのか。それすらわからないまま目の前をのびる廊下を真っ直ぐひた走る。目指しているのは、1年1組――自分の教室ではなく、のクラスだった。
が小手指にいる。その事実には、随分前から気付いていた。それこそ、入学式の朝、昇降口前に張り出されたクラス名簿での名前を見つけて以来、ずっと。
最初は同姓同名の別人かもしれないと考えた。同じ名前で、同じ苗字で、同じ歳。確率は低くとも偶然が重なれば、そういうこともあるだろう、と。
それでも、壁一枚隔てた教室から、以前は間近で聞いていた笑い声が響く度に〝本当にがいるのだ〟と思い知らされる日々を過ごすハメになった。
その確信を今まで誰にも伝えること無く高校生活を送ってきたのは、ここには他に、の話をできる相手がいなかったからだ。シニア時代の知り合いはおらず、中学が違ったの友達も知らない。一度関係が切れれば、それこそ高校の進路すら知らせあうこともない、ただの元チームメイト。それが、俺との今の関係だ。
――なのに、どうして走っているんだ。
取り立ててに会いたいわけでは無いはずなのに、何度も浅い呼吸を繰り返しては逸る気持ちと共に進み続ける。自クラスを通り過ぎ、1組の前まで到達した俺はそこでようやく足を止めると、乱れた息を整えるように深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
たいした距離でもないのに激しい鳴動を続ける心音を不思議に思う暇も無く口元を引き締めると、そのまま教室の中を覗き込む。
「――いた」
思わず口を衝いて出た言葉を押し戻すように手のひらで口元を覆う。それでも視線はへと一心に伸び続けた。
廊下側にほど近く、やや教室後方に位置する席に、はいた。同じく教室後方の出入口から覗き込んだ俺の目と鼻の先と言って差し支えないほどの距離に思わず息を呑む。
机の上に広げた雑誌を中心に、女子数人と共に談笑をする姿を目にするだけで、ありもしない魚の小骨が喉奥でその存在を主張しはじめる。
高校生になったは、シニアの頃と比べたら随分な変貌を遂げていた。
坊主にほど近かったはずの髪は艶やかに伸び、小僧呼ばわりされても差し支えなかった顔は覚え立ての化粧で鮮やかに彩られている。見慣れたユニフォーム姿ではなく女子の制服を着ているだけでも記憶の中にいるからかけ離れているというのに、それ以上の変化を目の当たりにすると思わずその場に立ち尽くしてしまうほどだった。
声をかけるか否か。気後れするような心地に後者に傾きかけた瞬間、不意に女子特有の甲高い笑い声が響く。その中にはの声も混じっていて、昔と変わらない声音に触発されると思わず口を開いていた。
「――っ」
、とただその一言を口にしようとした。だけどそれさえも今の俺には難しく、形にならなかった言葉が喉奥につかえて息苦しさを感じさせた。
――藤堂くん風に言うなら「今更どの面下げてやってきたんだ」ってところだろうか。
別に避けていたわけでは無いけれど、会いに行く理由がなかったため今の今まで見ない振りをしていた。だけど俺以外の部員たちがを見ただとか、山田くんに至っては要くんの目から見ても仲良くしているだとか。俺の知らないの話をされると、どうしてか落ち着かない気分にさせられた。
ついのこのこと衝動に駆られるまま1組までやって来たが、声をかければ届く距離に立ってなお、に会う理由ひとつなければ、それすら振り切って会いたいほどの情熱もない。
軽やかに笑うを懐かしいと思う気持ちだけでは、会いに行く理由として十分ではない。そう自分自身が誰より強く感じていた。
「帰ろ……」
ぽつりと言葉が零れた。今日は会わないと決めた途端、真綿で首を絞められるような息苦しさを感じ、思わず下唇を噛みしめる。後ろ髪を引かれるような思いを振り切るように2組に向けて足を踏み出した。
だが、視線を進路方向に向けたのも束の間、1組の教室から飛び出してきた誰かと、トン、と肩同士をぶつけてしまう。
「あ、すみま――」
「っと、ごめ――」
反射的に謝罪の言葉を口にしようとした。だが、互いの姿を認識しあった途端、言葉が飲み込まれる。それはたった今、俺とぶつかった相手――も同じだったようで、中途半端に途切れた謝罪を言い切ることなく呆けたような顔つきで俺を見上げていた。
動揺しているのか、わずかに見開かれた目を揺らしながらも、まっすぐに伸びる視線が突き刺さる。
「ちはや……」
一瞬の沈黙の後、が俺の名前を呼んだ。掠れた声がいやに耳に残ると、たちまち身体が硬直した。それでも、一度でも瞬きを挟めば視線を逸らしてしまいそうな気がして、自分に負けないように一心にを見下ろす。久しぶり、だとか、元気してた、だとか。最初にかけるべき言葉は何なのか。頭の中を目まぐるしく思考が駆け巡ったが、どれも言葉は浮かべど口に出すまでには至らなかった。
互いに混乱の渦中に落ちる中、先に動いたのはだった。ぐいん、と音が出そうな勢いで首を反対方向に向けたは「悪ィな!」と残すと一目散に駆けていく。
「ハ?」
――逃げられ、た?
自分が逃げ出さないように振る舞うので精一杯で、にもその選択肢が残っていることに失念していた。その事実に怒るよりも呆れるよりも――傷つくよりも先に、足はの背中を追っていた。
人が行き交う階段前を器用にすり抜けていくは、たしかに女子の中では足が早い部類に入る。だけど、スピード勝負で俺に勝てた試しは無いだろう?
軽いステップと共に人の波を掻い潜ったは、ベーランさながらに右足を軸に角を右に曲がると別棟と繋がる渡り廊下へ向かう。人の少ない直線に入るなら好都合だ。キュッと口元を引きしめ、さらに加速する。
一段と近づいたの背を捕まえようと手を伸ばした。だが、俺が触れるよりも先に、が渡り廊下真ん中に位置する女子トイレに駆け込んでしまったことで、指先は虚しく宙を引っ掻くハメになる。
「……ちょっと! それは狡すぎませんか?!」
既のところで逃げ切られたことに納得がいかなくて思わず女子トイレの前で叫んでしまう。あと3mいや、1mあれば追いついていた。紛れもない事実に悔しさが募る。
だがまさか女子トイレの中に踏み込むことは出来ないし、が出てくるまで待ち伏せるなんてもっと出来ない。
別に会いたかったわけじゃない。でも逃げられると釈然としない。自分でもどうしたいのかわからない感情に振り回されている愚かさに気付きながらも、冷静になるどころか喉奥で唸り声を上げることしか出来ない状況にますます苛立ちは募る。
――クソッ。本当にロクでもない。
入学以来、俺がどれだけ気を揉んだのかは知らないから簡単に逃げるなんて選択肢が取れるんだ。八つ当たりのようなことを考え、悪態をついてなお気持ちが晴れるどころか鬱憤は溜まる一方だった。それどころか他ならぬ自分自身がから逃げ回っていたことを棚に上げているのに気がつくといたたまれない心境まで混じってくる。
言葉にならない呻き声を喉奥に留めると、フーッと長い息を吐き、気持ちの立て直しを図る。やはり、余計な行動なんて起こすべきではなかった。に俺と会う気がないのなら、対話を求めたところで虚しいだけだ。辿り着いた結論に、きゅっと口元を引き締める。
――俺だって、別に会いたかったわけではないし。
藪をつついて蛇を出すとはまさにこのような事態を言うのだろう。辞書を引いて知った気になっていた言葉の意味を体感できたのは収穫だった。
そう自分に言い聞かせ、とりあえず教室へ戻った俺は自席に着くと、野球部の面々に宣言した通り予習をするべく数学の教科書を開いた。だが、数ページ捲ったところで一年の教科書なんて読めば理解出来る程度のことしか書いてないので流し見するだけで事足りる。それならばとイヤホンを装着し、心地いいビート音に身を委ねてみたが、先程の空振りに意識が持っていかれると気に入った曲すら胸をざわつかせる要因になった。
落ち着かない心境は時間の感覚すら惑わせる効果があるらしい。せめて5分は我慢しようと思っていたはずなのに、3分後には既に席を離れていた。
自分の行動すら思うようにいかない状況に釈然としない気持ちを抱えたまま1組を覗きこむ。だが、ぐるりと教室を見渡したところでの姿は見つからない。まだトイレに立て篭もっているのか、それとも違う場所で時間を潰しているのか。どちらにせよから俺へ向けた警戒心の結果がそこにあり、知らず知らずのうちに溜息がこぼれる。
またしても空振りかと落胆にほど近い気持ちと共に踵を返したのも束の間、ちょうど自分の教室に足を踏み入れたタイミングで渡り廊下から戻ってくるの姿が横目に入る。
するりとドアをくぐり、身を潜めるとの動向を窺う。キョロキョロと周囲を警戒する様子を見せたは、近くに俺がいないことに気付くとホッと安堵の息を吐いた。
あからさますぎる態度と「千早がいなくてよかったー」と言わんばかりの顔つきに、つい意地悪な心が顔を出す。油断しまくっているのだろう。のんびりとした歩調で教室へと向かうの目を盗み駆け寄ると、1組に入る寸前でその腕を引いた。
「……随分長かったですね」
「ゲェッ!!」
品のない声を上げたは、すぐさま腕を振り払おうとする。だが、俺が掴んだ腕が左であることに気付くと、複雑な顔をして動きを止めた。それでも反発心は収まらないのか、眉根を強く寄せたは俺を睨みつけてくる。
当たり障りのない会話すらまともにできそうもないの態度に目を細めながら、なるべく温和に聞こえるように言葉を紡いだ。
「ゲってなんですか。そんなに驚かなくたっていいでしょう?」
「だって、千早がいきなり来るから……。っつーか腕! 放せよッ!」
「いいですよ。でも逃げても無駄なのはわかってますよね?」
スタートが同じならば遅れはとらない。同じチームでプレイしていたんだ。ポジションが違ったにだって俺の走りは頭にあるはずだ。
時には紅白戦で〝投手・〟を相手に、思う存分塁を荒らしてやったこともある。当時の忌々しい記憶が頭を巡っているのだろう。「ウッ」と短く呻いたは悔しそうに唇を突き出すと、こちらを睨むように見上げた。それでも逃げ出す様子が無いのが見て取れたので、彼女の希望通りゆっくりと手を放してやる。
「少し、移動しませんか?」
「……いいけど」
出入口前を陣取るのも体裁が悪いと思ったのはも同じだったらしい。そう進言するとは素直に頷いた。
渡り廊下側に逃げられないように視線で牽制しつつ、階段側へと舵を切り踊り場まで誘導する。そんな場所に立ち止まる生徒はほとんどいないため少しは注目を集めてしまう可能性は残るが、基本的には通り道に当たるので長く聞き耳を立てられないのは利点だった。
階段を降りきったが窓ガラスに背中を預けたのを確認し、その前に立ち塞がるように足を止めた。逃がさない。そう言外に含めた立ち位置に、一瞬での表情が曇る。
「さっきはよくも逃げてくれましたね、人の顔を見るなり。酷いじゃないですか。いくら俺でも傷つきますよ」
「どの口が……」
「おっと」
ジト目で睨んでくるの視線に、ついニヤついた口元を抑えるように頬を軽く叩く。それでも堪えきれない笑みが顔に出てしまったのを見咎めたのだろう。は不満げに舌を打ち鳴らした。
「……で、なにしに来たんだよ」
「別に他意はありませんよ。少し、の顔でも見ておこうかという気になっただけなので」
「ハァッ?!」
素っ頓狂な声を上げたに思わず片目をつぶる。顔を真っ赤にして怒りを露わにしたが、失点がかさんだ時と同じ顔をしていることに気づくと自然と反対の目も細めていた。
「そんなに怒らなくてもいいじゃないですか。せっかく同じ学校になったんだから顔を見に来るくらい、普通でしょう?」
「怒ってねぇよ! っつーか顔見るだけならまだしも、わざわざこんなとこに呼び出すなんて普通じゃないだろ?!」
「そうですか? 仮に小手指に巻田がいたら、だってアイツの都合も考えずに引っ張り回すんじゃないですか?」
「アイツ氷川だから会わないもん!」
今のはあくまで仮定の話だというのに、と来たら俺の言葉を否定することしか考えてないようだ。頑なな態度を見ても傷つくほどではない。その前提は常に頭にある。だが、だからと言って不満が消えるわけでもない。
――このまま帰るのが正解なんだろう。
邪険に扱われてなお居座るメリットはどこにもない。頭に浮かんだ答えを実行に移すか否か逡巡しながら、強く歯を食いしばるを黙ったまま見下ろす。
先程、怒ってないと口にした割に、はこちらを突っぱねるような言動や、敵愾心を剥き出しにしている。そういう姿はあまり見たことがなくて、当時の記憶との差に軽く首を傾げた。
「そんなに嫌がらなくてもいいのに」
呆れ混じりの言葉はに向けた言葉のつもりだった。だが、その言葉を口にした途端、ストンと腑に落ちるような心地が生まれてくる。「嫌に決まってんだろ!」とがなるの声が聞こえると尚更だった。
――そうか。もう俺たちはチームメイトじゃないからか。
に会いに来たことを嫌がられている。実感したばかりの事実に向き合うと、食べてもいない魚の小骨が喉に突き刺さるような違和感が蘇る。手のひらで喉元を多い、意識を背けようとしたところで、どうしても視線はへ向かった。正確には、伸びた前髪を指で梳くの指先に、だ。
シニア時代、「爪を上手く整えられない」とヤスリを片手に嘆くの姿が鮮明に浮かびあがった。だが、懐かしむ暇もなく目の前にある光景が重なると同時に儚く消ていく。
焼き付けられたのは、指先の一点のみ。華やかな装飾の施された爪は、〝投手・昴は死んだのだ〟と雄弁に語っていた。
――本当に野球を辞めたんだ。
知っていたけど、改めて突きつけられると複雑な気持ちが沸き起こる。
練習試合の帰り道。自転車で帰路に着きながら何の気なしに交わした会話が不意に頭を過ぎる。試合中、変化球の割合を増やしたに「肘を壊すよ」と苦言を呈した際、元より長く続けるつもりは無いと知らされた。
たとえが野球を続けていたとしても、男女の区別がある以上、いつかは離れる道だった。そう理解していても、想定したものとは違う形で離れるのだと宣告された瞬間に味わった砂を噛むような諦めは、今思い出しただけでも苦い気持ちを呼び起こす。
そもそも思い返せば、俺とは友達ですらない。同じチームに所属している間も、投手と二塁手としての信頼はあれど、まっとうな友人関係を築いたわけではなかった。が野球を辞めたことで信頼に値する内野手の存在が必要無くなった今、俺に対し〝共通の話題がないので会う必要も無い〟と結論づけるのも頷ける。
理解出来たが納得出来ないと抗う隙もなく、違う意味を持つはずの言葉が容赦なくこちらに降りかかる。目を伏せ、沈む気持ちに折り合いをつけようと努めたが、頭は冷静なまま失意だけが胸の内に広がった。
「あー……、そんなに嫌でしたか。……そりゃ俺のこと、避けますよね」
口を衝いて出た言葉は自分でも想定外のものだった。過ちに気付き口元を掌で覆いはしたが、彼女にもハッキリ聞こえてしまったらしく、顔を上げた途端、目を見開いたと視線がかち合った。
「千早。待った――」
「なんて。冗談ですよ、冗談。まぁ、も俺と話すのは気まずいみたいですし、今日のところは退散しましょうかね」
これ以上ここにいても話が進まないどころか後退しかねない、そう判断した俺は逃げるように踵を返そうとした。だが、先程の俺がそうしたように、が俺の左腕を掴むと途端に足を止めてしまう。
一瞬、呆けたような顔でを見下ろした。だが、気持ちを立て直すと作り笑顔でこちらを睨むと向き合った。
「……どうしました? 話は終わったつもりでしたが」
「終わってないし行かせない」
さっきは言葉を否定し続けたは、今度は俺の行動を制限するつもりらしい。その証拠に左腕を掴んだ手のひらが離れない。
どうして、とは言えず困惑を露わにすると、は悔しげに眉根を寄せた後、そのまま顔を伏せる。
「……、手を放してくれませんか」
「やだ」
「やだって……。そんな、こどもじゃないんですから……」
「千早に逃げられたら私じゃ追いつけない」
不意に、の手に力がこもる。逃げるなと言われるよりも強く伝わってきた感情に思わず閉口していた。要くんが同じようにしてきたらすげなく振り払えるはずの腕がどうしても動かなくて、黙ったままの頭のてっぺんを見下ろす。
「聞いて、千早」
「……なんでしょう」
「千早に会うの嫌だなんて思ってない……けど、気まずいのはマジである……っつーか、正直、今も逃げたいくらいなんだけど……それは、千早のせいじゃなくて……」
自分で言ってても支離滅裂だとわかっているのだろう。俺の腕を掴む手とは反対の手では髪を掻き乱すように頭に爪を立てた。
決して少なくない葛藤を目にすると、こっちまで何も言えなくなってしまう。「そうですか、誤解してました」なんて言って、教室に帰ってしまえば済む話なのに、から紡がれる気持ちをきちんと聞いておきたいだなんて願ってしまっている。そのことに気付くと、俺にできるのは唸るの言葉を待つこと以外、何もないようにさえ思えた。
「ただ、その、さっき、咄嗟に逃げたのはちゃんと理由があるから」
「……じゃあ、どうして?」
気付けば自然と続きを促す言葉が紡がれていた。頭を掻くだけでは足りなくなったのだろう。大きく開いた手のひらの中心に顔を埋めたはこの日一番の唸り声を上げた。
しばらくの間、が悶え苦しむ様を見守った。そのうち、自分の中で折り合いをつけたのか、顔を上げたは唇をすぼめて長い息を吐き出しはじめる。投げる球がわからないほど追い込まれたが、どうにでもなれと言わんばかりに決め球を放り込む直前に似たような仕草をしていたのを思い出すと、これからが本心を曝け出すつもりなのだと察しがついた。
「そ、その、ちょっと……め、めぃ……」
「め?」
覚悟を決めてなお言い淀む姿に思わず首を傾げた。〝め〟その次が恐らく〝い〟。耳で拾った情報をヒントに、またしても葛藤の渦に戻ったをまじまじと観察する。
命令、明暗、名人――迷惑。軽く思いつく言葉を並べてみたが憶測に過ぎない言葉に翻弄されるのが嫌で頭の中から締め出す。
その他に〝め〟で始まる言葉と言えば。ひとまず〝目〟を連想した俺は、の目元へ視線を向けた。
俺から顔を背け、階段を睨みつけるの横顔はいつになく険しい。機嫌は悪いようだと確認せずとも分かる情報を再認識したのも束の間、教室前でぶつかった時よりも睫毛の角度が上がっているのことに気付く。それどころか長さや量さえも増えているのではないだろうか。疑念を裏付けるべく口元にも注視すれば、尖る唇が色づいているのが見て取れた。
「あぁ。もしかして、メイクを直してたんですか?」
「ハァ?! 違うしっ! めちゃくちゃお腹壊してただけだからッ!!」
確信を持って告げた言葉に、瞬時に顔を赤らめたは声を荒らげると、俺の腕を放り出した。
唐突な腹痛宣言に思わず面食らう。肩から息を吐く勢いで怒鳴り散らしただったが、自ら発した言葉の過ちに気付いたのだろう。ハッと何かに気づいたように息を呑むと怒りに赤く染め上げていた顔色をさらに色濃く燃え上がらせる。果ては顔どころか首まで赤くし、「だぁっ! 違ッ……!」と腕を振り回しはじめる始末だった。
不格好な踊りを始めたに、先程まで抱いていた疎外感が一瞬で吹き飛ばされる。気付けば堪えきれず吹き出してしまっていた。
「笑うなぁッ! いっ、今のはものの例えで……ッ!」
「い、いえ、たっ、例えそうだとしもっ、せ、生理現象は抑えられませんし、仕方ないと思いますよッ?」
息も絶え絶えになりつつもフォローを入れてやったが、その発言さえもにとっては燃料にしかならないらしく地団駄を踏む勢いで身悶えし始めた。後悔と羞恥の板挟みに喘ぐを見下ろしながら、いまだ込み上げてくる笑いを口から漏らし続ける。
シニアの頃から随分と印象が変わったと思ったが、にとってもこの変化はまだ悩みの種らしい。高校デビュー。そんな言葉が脳裏に浮かぶと、俺にその辺をいじられたくなかったのだろうと察しがついた。
――メイクを直したと思われたくなくて咄嗟に嘘をついたってところでしょうか。本当に浅はかなんだから。
よりインパクトのある言葉を差し出せば誤魔化せるとでも思ったのだろう。だが、その方向性は女子高生的にはアウトだ。
――俺はすぐに理解しましたけれど、他の人はどうでしょうね。
階段を通り過ぎながらの姿を確認していく生徒たちの表情を横目に捉える。その中にの知り合いがいるかは知らないが、あらぬ誤解を撒き散らしたのは他ならぬだ。撤回して回るだなんて殊勝な考えを持たない俺は、ただ「ご愁傷さま」と心の中で呟くだけに留めた。
ひとつ息を吐き、「ガラじゃねぇんだよぉ……」といまだに頭を抱えるに視線を戻す。後悔に苛まれる姿を見ていると、可哀想にと同情の念が湧くのが普通なのかもしれない。だけど今のを見たところでそんな気にはなれない。むしろ「バカだな」とさえ思えた。
「本当には……」
思わず零れた言葉は思いの外、柔らかな響きを含んでいた。内心で驚きつつも、決して悪くはない感情に自然と口元を緩ませる。
意地を張る必要も無いのにわざわざ噛みついてきて、その上、自爆同然の墓穴まで掘られても掬いようがない。理解に苦しむ。に対し、否定的な感情は多分にある。だけど、あれだけ会う理由がないと渋っていたのが嘘みたいに会いに来てよかったと、今は素直に思えた。
「はー……。なんだか、色々考えてたのが馬鹿らしくなりました」
「バカ?!」
ピンポイントで罵倒のみ拾い上げたは悲痛な面持ちで俺を見上げる。そういう意味じゃないと教えてあげるのが親切だとしても、あえて誤解は解かずにおいた。
――だって、その方が退屈しない。
「」
短く呼びかければはびくりと肩を震わせる。すでにいっぱいいっぱいな癖に逃げたら負けだと思っているのだろう。やんのかステップを彷彿とさせるほどの警戒心を全身に纏ったは、それでも負けん気だけは一人前の顔つきで俺を見上げた。
その姿を見るだけで、どうして顔がほころぶのか。性格が悪いとたしなめられても反論しようがない状況なのに、満足に口元を引き締めることさえ出来なかった。
「久しぶり。元気してました?」
逃げたり追いかけたりのドタバタで有耶無耶になっていた再会の言葉を口にする。予想外だったのか、目を大きく開いたは何度もまばたきを繰り返す。口をぽかんと開き、まじまじと俺を見上げたは、ハッと我に返ると不貞腐れたように口元をへの字に曲げた。
「――そっちは?」
「質問に質問で返さないでくださいよ。……でも、まぁ、おかげさまで」
「……そっか」
少しの反発心を見せながらもやわらかい印象が残る語調で返せば、意外にもは素直に受け入れた。軽く目を伏せたは、納得したと言う代わりに2回頭を揺らす。その口元が軽いカーブを描いたのを目にすると、今度はこっちが驚く番だった。
再会以来、初めて俺の前で笑顔を見せたに、どこか落ち着かないような居心地の悪さを覚える。シニア時代、大きく口を開けて笑った〝〟には不釣り合いな笑顔に動揺しているのを悟られたくなくて、咄嗟にメガネのブリッジを抑えた。
「それで、はどうなんです?」
顔を背けながらも目線だけをに戻して尋ねると、は浮かべたばかりの笑みを瞬く間に引っ込めてしまう。
「今、千早のせいで元気じゃなくなった」
表情を無くしたの物言いに言葉を失う。俺が追いかけたせいで転んで骨を折ったならともかく、ただ顔を見せにきただけなのにまさかそんなことを言われるとは。
あまりにも理不尽すぎる話に絶句した俺を目にしたことで溜飲を下げたのだろう。不意には歯を見せて笑った。ニィッと口角を上げた笑顔は紛れもなく、よく知るの笑い方そのもので、俺はますます何も言えなくなる。
「……本当にはズルいですよ」
「ハ? なにもしてないじゃん?」
俺の反論にまたしても顔を顰めたは見当違いな言葉を返してくる。メガネを抑えたまま深い溜め息を吐きこぼせば、「なんだよ!」と荒い声までもが飛んで来た。
の表情ひとつ――否、ふたつの差に思わず動揺してしまった自分が恨めしい。せめてもの抵抗で「そういうとこですよ」と苦言を呈したところで、の頭の上にクエスチョンマークが増えるだけでまるで響いた気がしなかった。
――こうなったらもうにだけはバレないように気を払わなければ。
暴かれて溜まるかと内心で誓いを立てる。だが、一番隠したがっている本心については、実は俺自身さえもまだ気付いてはいなかった。