元恋敵の厄介な先輩
「あれ? お前、たしか……」
食堂にあるテーブルの一角。先に昼食を買い終えた俺は、まだ湯気の立ち上る親子丼を前に単語帳を捲りながら連れである多田野を待っていた。頬杖をついたまま英単語を頭の中に詰め込み続ける俺の頭上を通り過ぎた声は果たして誰に差し向けられたものなのか。
――俺じゃないよな。
ほんの少しだけ逡巡したものの、聞き慣れない声に他人へ向けたのものだろうだと判断し、またひとつ英単語へと向かい合う。だが、集中しようと意識を傾けた途端、左隣の席に生姜焼き定食の乗ったトレイが叩きつけられる様が横目に入った。
「ちょっと、なんで無視するわけっ?!」
「うおっ」
癇癪にまみれた言葉と共に、唐突に肩を揺すられる。思わぬ攻撃に反射的に振り仰げば見慣れない、だが一度見たら忘れられない容貌の持ち主の姿が目に飛び込んできた。
驚いたまま声も出せないでいる俺を無遠慮な瞳が見下ろした。人を見下すことに慣れているのだろう。様になるその姿の持ち主は、俺と視線を合わせてもなお睨む視線を弱めることはなかった。
色素の薄い瞳と視線を交差させたまま唇を真一文字に結ぶ。興味が無い間は知りようがなかった。だが、一度認識してしまえばその名を聞かない日がないほどの有名人。
成宮鳴。
稲実のスーパーヒーローは、同じクラスの多田野の先輩にあたる。俺にとっての成宮鳴は、そんなおぼろげな接点しかない相手だ。なのに、たった一度、昼飯を食っているときに顔を合わせただけの俺をどうやらこの人は覚えていたらしい。
――多田野にも執念深そうな絡み方してたもんな。
記憶の中にある風景を引き出せば思わず溜息を吐きこぼしそうになる。たまにはパンでなくちゃんとお昼を食べようと多田野に誘われて食堂にやってきた。他のクラスのやつとのエンカウントは想定していたが、まさかこの人から声が掛かるとは。
多田野はまだ定食の列に並んでいるんだろうか。もしくはを見つけて話し込んでいるのか。ちらりと周囲を探ったが、多田野の姿が目に入ることはなかった。援軍が期待できない以上、俺ひとりでこの人と向き合わないといけないらしい。
テーブルの下に入れた足を出しがてら、身体を椅子に座ったまま捻り、成宮鳴と向かい合う。気圧されているつもりはないが、どこか腹の奥で居心地の悪さを感じる。生まれて初めて感じる畏怖に似た躊躇に戸惑いを隠せず、憮然とした表情を浮かべてしまう。
苦虫を噛み潰したと言いたげな俺をヨシとしなかったのだろう。成宮鳴は「アァ?」と威嚇するような声を上げた。それに対しビビることは無かったが、うっすらと浮かび上がる嫌悪感に唇を真一文字に引き締めた。
「君、本当に生意気そうな顔してるよね」
「親がそう産んじまったんだから仕方ねぇでしょうよ」
「その上でイヤそうな顔を隠しもしないね」
「いや……まぁ、実際めんどくせぇんで」
この状況の煩わしさに対し、正直な感想を述べると成宮鳴はまたしても「ハァ?!」と声を荒らげた。現れた怒りを隠しもしない相手に、ますます渋面を刻んでしまう。
「なんなの、もう! この前も思ったけど君ホント空気読めないね?!」
「読まなくていいものは読みませんよ」
読めたところで取り繕うつもりもない。言外に孕んだ意図を見抜いたのだろう。成宮鳴は一度大きく口を開いて何事かを叫ぼうとしたようだった。だが、思い直したのか、それとも呆れたのか。ぐっと下唇を突き上げて駆け巡り始めたであろう怒りを飲み込んだように見えた。
肩を震わせてすぼめた唇から長い息を吐き出した成宮鳴は、じろりと俺を睨みつけるとフンと鼻を鳴らした。
「もういい。お前がそういうヤツなのはカンペキ理解した」
「あぁ、そうですか……」
たった少しの会話で理解しただの見抜いただの言われるのは釈然としなかったが、そこを突いたところでメリットはない。ここは逃げだとしても反論しない方がいいだろう。
耳の裏を指先で引っ掻きながら頭を揺らして応じた。だが、素直に受け入れたというのに成宮鳴はこちらを睨む視線を緩めない。
「そういえば、君、樹の友達でしょ?」
「はぁ……まぁ、多分」
「多分ってなに? 実は仲悪いわけ?」
――極論しかねぇな、この人は。
前に屋上で鉢合わせた時にも思ったが、素直に言葉を受けいれるということが出来ないのか。この人もだが、多田野もそうだ。本人の気質だとしても、こうも頑なな態度を立て続けに見せられると、〝野球部はめんどくせぇ〟なんてレッテルを貼ってしまいたくなる。
「悪くは、ねぇっすけど」
「けど? けど、何?」
「……」
返答に窮する問いかけに唸り声を上げてしまいそうになったが、すんでのところで堪えた。横目で成宮鳴を見上げる。いまだにこちらを見下ろす相手から追求の念が引いた様子はなく、唇を軽く尖らせた。
多田野とは決して仲は悪くない。だが、昼メシを一緒に食う仲ではあったとしても、仲良しだと口にするのははばかられる。男なんてそんなもんだ。
友だちとは言いがたく、クラスメイトと呼ぶには味気ない。だからと言って、親友だとはもっと言えない。俺と多田野の間柄を説明する時、しっくりくる言葉はなんなのか。
分かりきっている答えの断片を一度この人に差し出したことはあった。だが、わざわざ蒸し返す気にはなれない。
――多田野とが上手くいった以上、恋敵だったと主張することになんの意味もねぇよな。
憮然とした表情のまま押し黙っていると、成宮鳴はひとつ大仰に息を吐き出した。また罵声が飛んでくるのかと眉根を顰めたが、見上げた成宮鳴の表情は案外あっさりとしたものだった。
「……まぁいいや」
「え、ここで食うんすか」
後ろ頭をかきながら隣の席の椅子を引き腰掛けようとする成宮鳴に、思わずそんな言葉を投げかけてしまう。俺の言葉に瞬時に腹を立てたのだろう。眉尻を釣りあげてまたこちらへと詰め寄ってくる。
「はぁ?! 何?! 俺がどこで飯食おうが俺の勝手だよねっ?! それともここお前ん家なわけっ?!」
「いや、極論しかねぇのかよ」
おおよそ年上とは思えないほどの子供じみた言い分にとうとうタメ口で反論してしまう。その言葉を引き金に、成宮鳴は地団駄を踏み怒りを撒き散らした。
「なんだよ! さっきから生意気ばっかり言って!」
「こういうことを口にする性質はもう治らないっすね。……あ、もし殴るなら眼鏡外してからにしてくださいよ」
たしかこの前、成宮鳴に反論を重ねた多田野がデコピンを食らっていたはずだ。横目に入った記憶を思い出しながら、あらかじめ対策を講じるべく進言した。言葉と同時に眼鏡を外し、来るべき衝撃に備えるべく奥歯をぐっと噛み締める。
「ハァ?! もう! 殴るわけねぇじゃん! そんなんで甲子園フイにできるかよ!」
「痛って」
殴らないとは言え腹いせを諦めるつもりはないらしい。こちらへと両手を伸ばした成宮鳴は、ぎゅっと俺の両頬を親指と人差し指で挟んだあと左右に思いっきり引っ張った。想定外の痛みに思わず呻き声をあげると成宮鳴はフンと鼻を鳴らして俺を解放する。
「あー……。クッソ、痛てぇ」
「ふふん。これに懲りたら先輩は敬うよーに!」
胸の前で両腕を組み、ふんぞり返った成宮鳴は、俺の頬を抓りあげたことである程度は満足したのだろう。逆襲は果たしたとばかりにせせら笑った。
面食らって唇を引き締めた俺をニヤリと笑った成宮鳴は、サッとこちらから視線を外すと手のひらを合わせて「いただきまーす」と口にした。そのまま味噌汁のお椀に口をつけたことでようやく沈黙が訪れる。
――ホントに子どもじゃねぇかよ。
悪態をつこうと思えばいくらでもつけた。だが、どうせまた口にしたところで文句が何倍にもなって返ってくるだけだ。釈然とはしないが、これ以上、絡まずに大人しくしておこう。そう結論づけた俺は胸の中にある蟠りを少しでも払拭するべく肩で息を吐いた。
――それにしても多田野のやつ遅ぇな。
多田野が合流するまで食べるのを待ってくれとは言われてない。義理立てする必要はないのだが、どうせすぐに来るだろうとタカを括っていたから食べ始める機会を逸してしまっていた。
せっかくトロトロの半熟だったたまごももう固まってしまうし……どうするかな。
湯気の勢いが弱まりつつある親子丼に視線を落とし、箸を伸ばすか否か逡巡していると不意に左側から声が掛かる。
「ねぇ」
「……」
「ねぇ、って呼んでるだろ」
「あぁ、俺に言ってたんですか」
会話が終わったと思っていたのでまた話しかけられるとは思っていなかった。思わず目を丸くして応じると、成宮鳴は揃えた指先を脇腹に刺してくる。どうやらこの人は暴力とは言えない程度のちょっかいをかけることに慣れているらしい。身を捩って次の攻撃に備える俺の目に、まるで悪びれる様子のない顔が映り込む。
「お前さ、名前なんだっけ」
「ハァ?」
「だーかーらー! 名前聞いてんの! 俺、まだお前に自己紹介されてないんだけど!」
自己紹介ってなんだよ。そんなもん始業式直後のホームルームか部活での初顔合わせの時しかしねぇよ。
まるで俺が悪いかのように咎める声色に思わず反論しそうになった。だが、すんでのところで喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。ただでさえうるさいのに、これ以上絡まれてほ堪らない。
しかし、例え成宮鳴のやりように我慢できたとしても納得ができるわけではない。こちらの領域に勝手に踏み込んできて自己紹介を強要するなんてどういう了見だよ。俺だって人当たりが良いわけではないと自覚しているが、ここまで横暴ではないはずだ。
俺様どころじゃすまない。こいつは王様だ。自分の思い通りになると信じて疑わない性質は、この短い交流の中でもまざまざと見せつけられた。絡みのない俺ですら呆れるんだ。野球部のやつらは一入だろう。
――しかし、コイツの上の代のやつらはどういう教育をしてきたんだ。
増長に一役買っているだろう多田野に恨みの念を飛ばしながら隣に座る成宮鳴に対峙する。相変わらず追求を緩めるつもりのない瞳がまっすぐにこちらに向けられていた。抵抗は無意味だと言わんばかりの視線だ。折れるのはどうやら俺の方らしいと悟るにはそれだけで充分だった。
「っすけど」
「あのさ、ちゃんと自己紹介出来ないの? そんなんじゃ社会に出た時苦労するよ?」
ちゃんとってなんだよ。苗字さえあればその辺で呼びかけられたってある程度は振り分けられるんだからフルネームは必要ないだろうよ。
言葉にするつもりのない悪態を心の中に撒き散らす。すべてを表に出さないほど大人にはなりきれなくて、思わずムッと口元を引き締める。そんな俺の表情を見た成宮鳴は「ホラ、早く名乗んなよ」と言いながらこちらに箸を向けてカチカチと急かすように鳴らした。
「……」
「……ふぅん。あっそ」
お望み通り〝ちゃんと〟答えてやったというのに気のない返事だけを残して成宮鳴はまた食事へと向き合った。もうお前には一切興味ありませんと言われるよりも強く印象づけられる横顔に思わず閉口する。それ以上を求められたとしても答えるつもりもないのだが、聞くだけ聞いといてまるで興味が無い素振りを見せられると腹が立つ。
ご飯や豚肉を口に運んではもぐもぐと咀嚼し続ける成宮鳴を横目に睨みつける。釈然としない心地を抱えたまま喉奥で唸り声を上げていると、テーブルの向かいから声がかかった。
「、お待たせ……ってなんで鳴さんといるの?」
定食の乗ったお盆をテーブルに置く多田野が怪訝そうな顔をしてこちらを覗き込んでくる。丼と定食。並びの差からある程度の遅れは予想がついていたが、こうも予想外の人物に絡まれた後だと「なんでもっと早く来てくれなかったんだ」と恨み節を口にしたくなる。
文句を言うとまた成宮鳴からいらぬちょっかいをかけられるのは明白だ。口に出来ない以上、視線で訴えるべくキッと多田野を睨み据えたが、多田野はわけがわからないと言った顔つきで首を捻るだけだった。
「……知らねぇよ」
「がボッチで寂しそうだったから俺が構ってあげてんの!」
「ハァ!?」
来ることがわかっている相手を待つことに寂しさを感じる必要なんて無い。それどころか人の勉強の邪魔をしておいて「構ってあげた」とはなんだ。言うに事欠いてそれかよ。
頭の中に数々の不平不満が湧いてくる。だが、どの言葉も俺が出ると言わんばかりにせめぎ合っているためうまく言語化することが出来なかった。
わなつく唇を開閉続ける俺に視線を向けた多田野は眉尻を下げ、ひどく困惑した顔を浮かべる。
「えぇ……経緯は知らないけど周りの人に迷惑かかるから大声出すのも程々にしなよ」
「いや、俺じゃなくてこの人に言えよ」
「が挑発するの諦めてくれたら終わるから」
原因である成宮鳴を親指で指し示したが、多田野は事も無げに俺をとりなす方に注力する。嵐の通り過ぎ方を熟知しいると言えば聞こえはいいだろう。だが、そうやって多田野や周りのヤツらがコイツを甘やかしてきたから、成宮鳴は調子に乗っているんだろ。
今、まさに増長させる姿を目の当たりにしたことでますます文句を口にすることが困難になる。歯をカチカチと鳴らして出てこない、出せない言葉をやり過ごしていると左隣で「あーぁ!」と声が上がった。
「樹ももうるさいよ! ご飯は静かに食べなさいって小学校で習わなかったの?」
――だからオマエが言うなっ!
またしても飲み込んだ言葉を成宮鳴は知らない。だが例え歯噛みする俺や苦笑する多田野を目にしたとしても、この人は態度を変えることはないのだろう。少しの会話で判断するのはよくないと知りつつも、その印象が覆らないだろう予感はあった。
だが、あまりの奔放さをたしなめないからと言って、すべてを受け入れることが出来るかと言われればそうではない。成宮鳴のやり口に我慢ならなかった俺は鋭く舌を打ち鳴らす。その結果、成宮鳴に絡まれることを理解していたが、もうこれ以上の忍耐は持ち得なかった。