春恋05

05


 さんと別れてから、全速力で寮へと戻った。ほんの5分足らず駆けただけなのに、いやに息が上がる。胸の内に残る熱が、鼓動に拍車をかけた。
 門をくぐり、寮内の練習場を覗けば幸い、まだ自主練に勤しむ人数は少なくないことを知る。急いでその輪の中にまざろうと、靴を脱ぎ捨て室内履きに履き替えようと下を向く。
 上がった呼吸を整えようと呼吸を繰り返す中、ふと、先程までの出来事が自然と頭を過った。
 ――それにしても、さっきの帰り道……楽しかったな。
 さんとの会話は、普段、男子と喋るときとはまた違う楽しさがあった。しゃべった内容なんてお互いの部活の話くらいなのに、その会話ひとつひとつを思い出しては唇の先がむずむずとゆるみそうになる。心が浮き立つような、それでいてじんわりとあたたかくなるような不思議な時間だった。
 部活が最優先だからそんなにチャンスはないだろうけれど、またいつか、さんと話しながら歩けたらいいのにな。例えば、試験期間中とか、朝練のない日とか。偶然とはいえ、さんの家と寮が近くだと知ったことで、そんな空想を思い描いてしまう。
 ――そう言えば、さんはもう家に帰り着いたんだろうか。
 近いから大丈夫だ、なんて言っていたけれどそれでも夜道に女の子ひとりを歩かせてしまったことに心配は募る。
 もし連絡先を知ってたら、ちゃんと家に着いたらメールして、なんて言えるんだけどな。そんなことを考えながらスニーカーの紐を結び直していると、ふと、ひとつの考えが頭に浮かぶ。
 ――今度、連絡先を聞いてみてもいいのかな。
 入学してすぐということもあり、割と話すようになった男子とは何人か連絡先を交換していた。その流れでさんの連絡先も聞けないものか。男子と女子の壁が厚いというほどクラス内の空気は悪くないが、簡単に踏み込んでいいほど開け放たれているわけでもない空気を思い出すと難しいような気がしてくる。
 でも、やっぱり今みたいに心配しちゃうし、次に同じようなことがあったら聞いてみようかな。外にランニングなんてなかなか行かないから難しいかもしれないけれど、さんの今日の反応からして断られない手応えはあるんだよな。
 頭の中で算段を整える内にちょうど靴紐を結び終えた。とりあえずこの件は、次、会えた時にでも考えよう。よし、と気持ちを新たにし練習に励もうと心を入れ替えた途端、つい先程まで考えていた自分の考えに身体の動きが止まる。
 ――だから手応えってなんだよ!
 あまりにも身勝手な考えに自分自身へ大きくツッコミを入れる。だがそんなことで羞恥が収まるはずもなく、考えが浸透すればするほどどんどん顔が熱くなっていく。

「樹……? お前、なにニヤついてんの?」

 近くからかかった声にドキリと心臓が跳ねる。さんの友好的な態度を自分に都合良く扱おうとしたことを誰かが咎めに来たのか。絶対にあり得ない妄想が頭の中に広がると、一度跳ねた心臓は簡単には収まらない。
 さんを軽んじたつもりはないんです。ただ、そうなればうれしいなってちょっと考えてしまっただけで――。
 頭の中で弁明の言葉を探しながら慌てて表情を取り繕い顔を上げれば、首に掛けたタオルで顔を拭う鳴さんがこちらを睨み据えていた。
 眉根を寄せ怒った様子を隠しもしない鳴さんに、一気に妄想から現実へと引きずり下ろされる。冷たい視線を一身に受けていると、練習をおざなりにしてさんとの帰り道を優先させた罪悪感が顔を出す。
 咎めに来たのがよりによってこの人かよと思うとあまりのタイミングの悪さにひゅっと喉の奥が鳴った。
 
「え? あ、はい。少し、その……ありまして」

 外を走ってきた時間の方が圧倒的に長いとはいえ、さんと楽しく喋っていた身としては〝走ってきただけです〟とは言いがたい。ニヤついていたとまで指摘されてはなおさらだった。
 後ろめたさがあると、どうしても言葉が鈍くなる。しどろもどろになる俺の弁が気に入らなかったのだろう。鳴さんはますますその表情を険しくさせた。

「ハァ? なんだよ、その含んだ言い方!」
「いえ! やっぱりなんでもないです!」

 2年の先輩。それも不動のエースに凄まれては恐縮するしかない。他のみんなが自主練に励む中、さんと話し込んでいた後ろめたさも手伝って、その場に膝をついて謝ってしまいたくなるような心境に陥った。

「お前さあ、いくら飯食ったあとは自由時間とはいえこんな初っぱなから外出するの、どうかと思うよ?」
「はい! 面目次第もありません!」
「あーあ。せっかく今日はお前に投げてやっても良いかなって思ってたのにいないんだもん。チャンス逃してるよ、樹。そんなんでレギュラーとろうとか甘すぎるんじゃない?」
「ぐっ……」

 グサグサと的確に急所を突き刺す鳴さんの言い分に返す言葉が見つからない。まだ入学したての俺がエースの投球に付き合うチャンスなんて、あるか無いかどころじゃない。無いか無い、ってやつだ。投げてもらえるはずだったものが手に入らないとわかった途端、急激に惜しくなる。
 だけど、今日走りに行かなければさんとの時間もなかったことを思うと、時間を巻き戻して欲しいなんて望めるはずもない。
 そこまで考えた途端、急速に自分に落胆する。野球に対して不真面目な態度をとった上で、息抜きを優先するようなことを考えてしまった。
 あぁ、こんな生半可な気持ちではダメだ。何のために稲実に入ったんだ。たるんでいると怒られても言い訳なんてできるはずがない。初心忘れるべからず、なんて言葉があるが、本当にこんな初っぱなから腑抜けた真似をするなんてレギュラーが欲しくないと思われても仕方が無い。
 今もなお、早まる鼓動を抑えつけるべくドンと胸に拳を突き立てる。どうしてこんなにも心を揺さぶられているのか。少し考えれば答えが出そうなものから必死に目を逸らした。根底に根付いてしまった熱は、野球への情熱に上書きしてしまおう。

「すみません、鳴さん。もし良ければ今から投げてもらうことは出来ませんか?」
「投げるわけないじゃん! お前がいないうちにすっげー投げたんだから!」
「嘘をつくな、鳴」

 苛立たしげな鳴さんの声を押しのけるように低い声が被さる。視線を転じれば、顔をしかめた原田先輩が筋トレルームの扉から姿を現したところだった。突然の正捕手の出現に思わず息を呑む。

「多田野、今日の鳴はノースローの日だ。だからお前も遠慮無く走りに行ったんだろ」
「あ、そう言えば……」

 原田先輩の言葉に、鳴さんもだが最近よく組んでくれる井口さんにも同じくノースローデーだと言われたことを思い出す。平野さん含め他の投手にもチラホラ断られたこともあり、どうせなら走るついでに用事を済ませてしまおうと外出を選んだんだった。
 さらに思い返せば俺が外に出るタイミングで鳴さんもアイスを買いに行くだなんて走って行ったはずだ。俺が選んだルートとは別だったからすっかり忘れていた。
 原田先輩の弁に鳴さんが唸る。いつもならば一を言えば十どころか百や二百と返ってくる言葉が出てこないところを見ると、いくら鳴さんとは言えやはり先輩相手というのは分が悪いものなんだろうか。

「お前もなんだってそんなにも後輩につっかかるんだ。多田野の顔見りゃわかるだろ」

 鳴さんを嗜める原田先輩の視線がこちらに移る。なにか顔に出ていただろうか。いきなり矛先が自分に向かったことに驚き、慌てて手のひらで顔の下半分を覆い隠すと思いのほか頬に熱が走っていることに気がついた。

「走り込んできたんだろ。顔、真っ赤にしてんじゃねぇか」

 原田先輩のその言葉に、熱の在処を思い出す。今、顔が赤い理由は決してランニングのせいではないと自分が一番わかっていた。
 ――違うんです。褒められることなんて何もしていない。
 頭の中で弁明の言葉を並べ立てたが、帰り道で会って以来、ずっと燻っている熱がさんと話していたせいだなんて口に出来るわけがない。さっきも鳴さんに指摘されたばかりだ。さんに会ってニヤついていた。顔が赤い理由なんて、ただそれだけだ。
 黙り込んで顔を赤くする俺に鳴さんと原田先輩の視線が向けられていることに気付き、腕の付け根あたりで汗を拭うふりをして表情を隠す。強く押しつければ、この赤みは肌がこすれたせいだと言い訳が立つだろう。

「なんかあんだろ絶対……」
「まだつっかかる気か」

 訝しむような視線でこちらを睨む鳴さんを原田先輩がたしなめる。何度か頬をこすっていると、鳴さんは大仰に溜息を吐きこぼした。
 
「まぁいいや。で、樹。どうせお前もコンビニに行ってきたんだろ。俺にお土産のアイスは?」
「鳴……お前、さっきまで食ってただろ」
「アイスは一日一個までなんて決まってないしー?」
「決まって無くても腹の具合悪くするぞ」
「そんなにヤワじゃありませーん」

 鳴さんと原田先輩の言葉の応酬を聞きながら、お土産を買う約束なんてしてないなぁ、とのんびりと考える。だが、自分の手の中に何もないことに気がつくと気持ちが急下降した。

「忘れてた……」
「はぁ?」
「いえ、コンビニ行くの……忘れてました」
「はぁ? 何しに行ったのお前」
「いえ、もう……ホント……何しに行ったんですかね……」

 用事があると出たはずなのに、マガジンどころかシャーペンの芯さえも手に入れてない現実に、頭がクラクラするようだった。
 コンビニに立ち寄る話だってしたはずなのに俺もさんもどちらも思い出さなかった。
 ――それって、さんも俺と同じように話に夢中だったってことなのかな。
 一瞬で頭に思い浮かんだ自分に都合の良すぎる考えを振り払うように頭を横に振った。突然ぶるぶると頭を振った俺を見たふたりはぎょっと目を見開いて驚いている。

「それだけ熱心に走ってきた証拠ってやつだ。今日はもう上がれ。あまり無理をするな」
「いえ! まだまだ自分は至らないと思い知りました! なのでもう少しがんばります!」

 原田先輩のねぎらうような言葉を大声でもって打ち返した。そうやって暴きかけた事実に何度目かの蓋をして、俺はトレーニングルーム前に常設してある金属バットを手に取る。今日はもう、体力の限界まで振り込んで何もかもを忘れて寝るんだと心に誓った。




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