春恋08

08



「よぉ、多田野」

 授業の合間の休憩時間。トイレに行った帰り、教卓の前を通過すると同時に声が掛かった。授業中の本読みで聞いたことがある声だ。だが、日常会話ではあまり聞き覚えのない声は一体誰のものなのか。
 視線を左右に振って声の主を探せば机の上に頬杖をついた男子と視線がかち合う。ニヤニヤとした表情を隠しもせずこちらを見上げた男子は、席替えのくじを交換した相手だった。

「あぁ、さっきの……えっと」

 不意に声をかけられた驚きで、咄嗟に名前が出てこない。言い淀む俺を見上げた彼は「あぁ」と納得したように頭を揺らした。


くん」
「いや、でいいだろ。そこは」

 これ以上ないほどに顔を顰めた彼――は、同級生の男子にくん付けで呼ばれることを心底おぞましいと思っているらしい。その表情の厳しさに、二度と呼ぶなと言われるよりも強く印象づけられる。
 だがその反応も一瞬のもので、さらりと表情を戻したは口の端を上げてこちらを見上げた。

「どうだ? 新しい席の居心地は。良かったろ」
「あぁ、うん。一番後ろだと先生の目がほとんど届かないし、おかげさまでのんびり過ごせそうだよ」
「いや、そこじゃねぇ」

 またしても顔を顰めたは、〝なんでやねん〟とばかりに手のひらを横に振るい、返す手で立てた二本の指で眼鏡の縁を押し上げた。数時間ぶりに見た仕草は思った通り彼の癖らしい。やっぱりな、という心境に後押しされれば簡単に口元は綻ぶ。
 のんきな顔をした俺を呆れたように見やったは、まばたきひとつ挟んだ後、怜悧な瞳をこちらへと差し向けた。

が隣で、良かったろ」

 机に肘をつけ、手首で顎を支えて身を乗り出したに面食らってしまう。
 が――ちゃんが隣で良かったろ、だって?
 言葉が耳を通り抜け頭の中をじんわりと浸透していくのと同じくして、生まれたばかりの熱が顔全体に広がった。熱にまみれた頬が、赤く染まりきっていることなんて鏡を見なくても十分にわかる。
 その変化を肯定と受け取ったのだろう。は肩を揺らして笑った。

「その様子じゃ随分気に入ったみたいだな」
「え、なっ――なんで?!」
「なんでもなにも。そういうのはある程度は見てたらわかるだろ」

 俺が抱いた疑問の意味を正しく拾い上げたらしいはくつくつと喉奥で笑う。人の悪い笑みを憚ることなく存分に曝け出す彼は随分といい性格をしているらしい。
 そんな相手に自分のちゃんへの恋心を見抜かれた恐怖に思わず身震いしてしまう。しかも、とまともに喋ったのが今日が初めてだというのだから、なおさらだった。

「マジか……俺、そんなにわかりやすかった?」
「口に出してかわいいと囃し立てるやつよりかはダダ漏れだな」

 歯を見せて頷いたの言葉に、頬が火をつけられたように熱を持つ。賑やかしでないのは、本気の証拠だ。その本質を見抜いたは躊躇なく口にした。少しはオブラートに包んでくれたっていいのに、と文句を言ったところできっとには響かないだろう。
 しかし、自分としては普通に過ごしていたつもりだったけれど、そんなに態度に出ていただろうか。口元に手のひらを当て、ここ一ヶ月の動向を思い返す。
 顔を合わせれば挨拶を交わし、時間さえ合えば話し込んだ。同じクラスのどの女子と比べても、ちゃんとの交流は多かった。ただそれは、俺にとっての特別なだけで、ちゃんにとっては取るに足らない日常だと思っていた。
 ――俺だけが特別なんて思い上がってはいけない。きっと他の男子も同じだ。
 過信よりも確信に近い認識だった。だが、ちゃんによる「人見知り」という証言が加わると、がらりと色が変わる。
 どうやらちゃんにとっても、俺は数少ない男友だちのひとりだったらしい。もしも人に聞かれたら、自惚れにまみれた勘違いだと笑われそうなことを頭に思い浮かべる。だが、そんな自信をつけたのはほかでもないちゃんだった。
 誰とでも親しげに挨拶を交わすちゃんが本当は人見知りで、それでも頑張って俺に話しかけてくれているだなんて言われて浮かれないわけがない。
 事実、今日はいつも以上に浮かれていたし、その様子がの目に留まり俺の恋心を見抜いたというのなら、それさえもちゃんの言葉を裏付ける根拠のように感じてしまう。
 ――もしかしたら、自分だけが特別に仲がいいのかもしれない。
 そんな優越感にも似た想いを、に見透かされていたっておかしくない。
 そこまで考えると同時に、ふと頭を過ったのは、席を交換した際のの言葉だった。「もしかしたら逆にお前が俺に感謝することになるかもな」というのは、交換した席の隣にちゃんが来ることを彼は知っていたのではないか。
 その上で、「今回ほど視力が良ければなって思ったことはない」とは言った。それはつまり、もまたちゃんに対し、好意を持っていることにほかならないのではないか。
 憶測に憶測を重ねた考えだった。だけど、に確かめるよりも先に確信する。目の前に座る男は、恋敵なのだと――。

「あのさ、もしかしてじゃなくも、その、ちゃんのこと……?」
「ん? あぁ、お前が考えているとおりだよ」

 俺の疑念をあっさりと肯定したはにやりと口元を歪めた。その表情は悪人面と称してもお釣りが来るほどに悪い笑顔だった。到底、恋をしている表情ではない。だが、俺の想いとの気持ちが同じ相手に向かっていることを顧みれば、恋敵へ向ける表情としては正しいような気もした。

「えっと……なんて言ったらいいのか……」
「あぁ、別に気にしてない。どうせ授業中に話すことは無いんだ。快適な勤勉に優る環境はないさ」

 ちゃんの隣の席を譲ってもらったのが俺で本当に良かったのか。にとって敵に塩を送るような真似になってしまったことに罪悪感と居た堪れなさが生まれたからこその言葉だった。だが、は至極あっさりとした態度でその言葉を打ち返す。
 飄々とした顔つきは一切乱れがなく、強がりを言っているようには見えない。どうやら、は本心からちゃんの隣よりも自らの勉学に励むことの方が遥かに重大と感じているようだった。

「そういうもん?」
「そりゃあな。教師がいるタイミングで話すバカはいないし、自習の時間だってプリント解く邪魔されちゃ腹が立つだろ」

 の続けた言葉に納得がいかず、当惑に眉を顰める。考えが違うからと言って、の弁を否定するつもりは無い。だが、どうしても腑に落ちないのだ。
 授業中はともかく、もしちゃんに自習時間に一緒に勉強しようだなんて言われたら、俺なら喜んで応じるだろう。
 対極の考えを持つを、釈然としない居心地の悪さを抱えたまま見下ろす。自然と尖る唇を見咎めたのか、こちらを見上げたはひとつ溜息を吐いた。

「なんつー顔してんだよ」
「いや……うーん。俺に無い考え方だったからうまく消化できなくて」

 正直に答えるとは口角を上げて笑う。眼鏡を押し上げこちらを見上げたは、見るからになにか企んでいそうな顔つきだった。

「まぁアレだ。頑張ってもいいっつーならそのうち休憩時間に多田野の席にでもお邪魔するさ」
「あ、それは本当に邪魔だから来なくていいよ」

 手のひらを立てキッパリとNOを告げると、は面食らったように目を丸くした。

「元は俺の席だったんだからそのくらいの権利はあるだろ」
「残念。交渉時にそんな制約はなかったから無効です」
「……意外と言うじゃん」
ほどじゃないかな」

 少ない会話ながらも割と皮肉めいたところを見せるの為人が分かってきたことで、そのあしらい方も、ここまでなら言ってもいいだろうという線引きもできてくる。会話運びの主導権をいつまでも握られたままでいると、ぐいぐいと邪魔しに来られる恐れがあるのなら、その芽は今のうちに潰しておかないと。
 隣を譲ってもらった感謝はあれどそれとこれとは別だ。と違い、俺はちゃんの隣をそう易々と譲るつもりは無いのだから。
 負けず嫌いな気質を押し出せば、は「あっはっは!」と、高い声で笑った。

「はー……面と向かって邪魔と言われるとはな……あ、おい、! コイツ意外としたたかだぞ!」

 突然の呼び掛けに身を固くする。の振り返った先に目を向ければ、教室に戻ってきたばかりのちゃんの姿があった。
 俺と同じように目を丸くしたちゃんはへと向けた視線を俺へと流し、更におおきく目を見開く。呆けた表情を浮かべたちゃんは、に手招きされるがままにこちらへと歩み寄ってきた。

くんと――樹くん? 珍しいね、くんと話してるの」
「あ、うん。実は最初くじで引いたのここの席でさ、に席を替わってもらったんだ」
「え、そうなの?」
「逆だ、逆。俺が目ぇ悪いから交換して貰ったんだ」

 結果として実現した状況を口した俺の言葉をがより正解に近い形で訂正する。ピースサインに親指を足した手を、手首を軸にくるくると回すことで交換したのだとジェスチャーで示すを目にしたちゃんはほんのりと眉尻を下げた。

「あ、なんだ。そっか」

 さらりと流れる髪の毛を左耳にかけたちゃんは、浮かび上がったばかりの笑みを引っ込めた。きゅっと結ばれた唇に飲み込んだ言葉があるような気がして、首を傾げる。じっとちゃんを見つめたがちゃんの視線がこちらを向くことはなかった。
 俺らのやりとりを半眼で眺めていたは口元を引き締めたかと思うと、瞬きひとつ挟む間にニヤリと笑みを浮かべた。

「樹くん、ねぇ……。なぁ、。俺のことも下の名前で呼んでもいいんだぞ」

 唐突なの言葉に、言われたちゃんよりも先に動揺してしまう。どう答えるのか。いいよ、なんてすんなり受け入れたら嫌だな、なんて彼氏でもないのに分不相応な独占欲が顔を出す。息を呑んでちゃんの動向を見守っていると、若干俯かせていた頭を上げたちゃんは微かに眉を顰めた。

「……くんの下の名前ってなんだっけ」
「今更それかよ」

 大仰に溜息を吐いたは、顔を歪めてちゃんを睨めつけた。
 右手の平全体で顎を覆うように頬杖をついたを複雑な心境で見つめる。下の名前で呼ばれている現状に対する優越感よりも、目の前であしらわれるに共感してしまったのだ。
 今更、というからには以前からの知り合いなのだろう。それがいつからなのかは知らないが、こんなにも気兼ねなく話が出来ていてもちゃんには踏み込ませない領域がある。それを目の当たりにすると同時に、断られた当人ではないのに怯むような気持ちが顔を出す。
 これから先、ちゃんへの好意が強くなるにつれ、きっとちゃんへ望むことは多くなる。その際、すべてを受け入れてもらえることはないのだと改めて思い知った。
 〝名前がかっこいいから呼んでみたい〟なんて言われた俺はラッキーだったんだ。名付けてくれた親に感謝だな。今度のオフの日は家に帰って孝行でもしようと決意を新たにする。
 小さく拳を握る俺を後目に、悪態の限りをつくすはカチカチと歯を鳴らしてちゃんを威嚇していた。そんなを苦い笑みで見下ろしたちゃんは、軽く頭を振って口を開く。

「……嘘。嘘だよ。知ってるけど、呼ばないよ」
「ハイハイ。身持ちの堅いことで」
「そういうんじゃないけど」
「わかってるって」

 ふ、と口元を緩めたちゃんは眉を落として応える。ただそれだけの所作に、ただならぬ空気を感じ取ってしまい、言い知れぬ疎外感が胸に沸き起こった。
 チクリと痛む胸の心許なさを埋めようと、そっとセーターの胸元を握り混む。不安が表に出たのだろうか。ちゃんはこちらを振り仰ぎ、困ったような表情を浮かべる。その視線に応えられないままそっと顔を背けると、ちゃんが小さく息を吐く音が聞こえた。

「そういう話するなら、もう行くね」
「あぁ、そうかよ。呼びつけて悪かったな、
「そっちは気にしてないよ。それじゃね。……樹くんは、また後で」
「あ、うん」

 憂いを払い落とせないままでいるとちゃんが軽く前傾しこちらを覗き込んでくる。心配そうに眉根を寄せるちゃんの表情はあまり見慣れないものだった。俺が、そんな顔をさせてしまっている。いつも優しい顔をしたちゃんの表情を曇らせた――。
 降り積もる罪悪感に押され、無理矢理に口角を上げ笑ってみせたが下がる眉は取り繕えなかった。不甲斐ない笑顔を前に、ちゃんの表情はますます何か言いたげな顔つきになった。

「じゃあね、またね」

 手を振り、念を押すような言葉でちゃんを促した。釈然としないような表情を浮かべながらも、うん、とひとつ頭を揺らして去っていくちゃんの背中を黙って見送る。
 そっと視線を落とせば、もまたちゃんの姿を目で追っているようだった。




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