09
ひとつ息を吐き、自分の席についたちゃんから視線を外す。だが、この場に残ったのはいいもののちゃんが立ち去った途端、先程まで弾んでいたはずのとの会話に窮する。
ふたりの空気に当てられたような心地は疎外感によく似ていた。
「――ちゃんとは、仲いいの?」
「いや、別にそこまでの仲じゃねぇよ。たまたま小学校から一緒ってだけだ」
ぼんやりとした心地のまま話しかけてみると、口元をへの字に曲げてこちらを見上げたはあっさりとした態度で応じた。
〝小学校から〟ということはもう10年近く一緒なのか。先程感じたばかりの疎外感の片鱗が垣間見えたことでほっと安堵の息を吐く。理由があった。それだけで心が軽くなったような気がした。
だが、それでもまだ納得のいかない心境は残っている。〝小学校からの知り合い〟だけで終わらせるには、ふたりの空気には妙な親密感があった。俺と同じ片思いなのにどうしてこうも違うんだろう。そんな僻みにも似た予感の正体は何なのか。
――ここはもう一歩踏み込んで尋ねてもいいのだろうか。
好きな女の子と話をしたばかりなのに、やけに涼しい顔をしたをじっと眺める。放っておけば口笛でも吹きそうなほど飄々とした態度のに思い悩んでいる自分がバカみたいに思えてきた。だが、見た目はそうでなくとも心中は嵐のように荒れているかもしれないと思うとあっさりと尋ねてもいいのか判断に迷う。
逡巡する理由は、ひとつ。他人の噂話を耳にすることがあっても、自ら恋バナの渦中に飛び込むことに慣れていないせいだ。それも俺のちゃんへの想いを知っている恋敵に、彼女との仲を聞くなんてそう易々と出来るはずがない。
彼氏というのならいざ知らず、単なる片思いの相手が自分のことを探っているだなんてちゃんに知られたら気味悪がられたって文句は言えまい。だが、最悪な未来が待っている可能性を知りつつも、心に引っかかるものは簡単に打ち払えない。
気になることは単刀直入に聞くか。それとも見なかった振りをして流すか。揺れる天秤の上で、本心は前者に傾きたがったが、理性が後者であるよう押し止めていた。
だが、元はといえば込み入った話を始めたのはの方だ。が俺のちゃんへの想いにいつ勘付いたかは知らないが、あっさりと揺さぶってきたことを思えば、俺が同じように振る舞ったって罰は当たらないはずだ。
遠慮なんてするべきではないと心が決まったのなら早速、実行に移すべきだ。ぎゅっと身体の横で拳を握りこむと、意を決してへと声をかけた。
「それにしては、なんだか、わかり合ってる風だったけど」
「あぁ。俺、にフラれてるからな」
まるで「今日のA定食は生姜焼きだった」という報告を受けるくらいさらりとした口調だった。ぼうっとしていたら聞き逃してしまいそうなほど淡々と言葉を紡いだに、俺は目を瞬かせることしか出来ない。
ぽかんと口元を開いたままの俺を見上げたは、いたずらが成功したガキ大将のような表情で笑った。
「驚いたか?」
「……少しだけ」
正直に答えるとはますます機嫌良さそうに笑った。机の上に身を乗り出し、呆けた俺の表情をニヤニヤと見上げるは、ちゃんに告白したことがあると言う。その事実を簡単に受け止めることが出来なくて、取り乱すまではいかなくとも背中に冷や汗が伝う心地がした。
「その、そんなにあっさり教えてもらっていいの?」
「あぁ。別に告白した事実は覆しようがねぇしな。それにそういう噂には足が生えてんだ。今言わなくてもそのうち多田野の耳にも入るだろ」
「へ、へぇ……」
あっさりとしたの対応とは裏腹に、自分の顔つきがどんどん強ばっていくのがわかった。教室の喧噪が遠くなる。窓から覗く外の風景は青空が広がっているというのに、目の前が真っ暗になるような心地が湧き上がり、思わず額に手のひらをあてがった。
朦朧とした頭の中に、なにか言葉を紡いででも平静を装うべきだという考えが浮かび上がるままに口を開く。
「そっか……その、えっと、いつの話?」
「……意外と突っ込んでくるな」
「あっ、ごめん。ついうっかり……」
「いや、別に謝ることじゃねぇだろ。こっちが話題振ったんだ。多田野が気になったってしょうがねぇわな」
慌てて取り繕う俺を見上げたは、丸くなった目を細めると、ふ、と軽く口元を緩めた。先程までの皮肉めいたものではなかったというだけで言いようのない罪悪感が顔を出す。自分の粗忽さをもう一度詫びるべきだと口を開きかけたが、こちらから視線を外したに何も言えなくなる。
「――小学校と中学と二回。両方とも卒業式ん時に告ってフラれてる」
親指で中指の爪の甘皮を押し上げるは自分の指先に視線を落としたまま淡々と言葉を口にする。
がちゃんにフラれた。その事実を飲み込んだばかりだったというのに、ほんの一ヶ月前、それも2回目の失恋を経験したと言われてにわかに身体が硬直した。
返す言葉が見つからず、俺はぐっと下唇を押し上げたまま身体の真横で拳を握ることしかできないでいた。返ってこない言葉に焦れたのか、がこちらを振り仰ぎ、そして苦々しげに口元を歪めた。
「なんでお前が暗い顔をするんだよ。別に同情されたくて言ってるわけじゃない。ただの話題だ」
「いや……そうなんだけど」
に気を遣わせてしまった迂闊さにぎゅっと眉根を寄せる。そんな俺を見上げたは眉を下げて口元をほんのりと緩めた。
「だから気にするなって」
呆れたような口調だったが、それはの優しさに満ちていた。俺が落ち込んでいる姿を見て同情しているのだと感じるは、態度はともかく、心根はいいやつなんだろう。
俺とは雲泥の差だ。そんな自虐的なことを考えてしまったのは、本心が同情だけではないと自分が一番知っていたからだ。
への同情心もたしかにあった。だが、それよりも強く自分の未来を憂えた。
――いつか俺も、と同じようにちゃんにフラれてしまうかもしれない。
想いが届くことばかりを考えていた日々に一石が投じられた。失恋の可能性を前に、足が竦むような心地がする。
今はまだ、自分がちゃんのことを知ることで精一杯だ。だけど、その先を望む気持ちがないわけじゃない。
――のいる道は、いつか俺が行く道かもしれない。
そう思うと心の奥がキリキリと痛んだ。
もしこの先、ちゃんに告白するチャンスがあったとして、その時ハッキリとフラれてしまったら? のように諦めず、2回も伝えることが、そしてその結果またフラれて、それでも好きだと笑って言えるんだろうか。
考えたくもない未来。その可能性を考えただけでぞっとする。
喉の奥が詰まるような居心地の悪さを飲みこむことが出来ないまま、を見据える。素知らぬ顔で爪の付け根を見つめるは、失恋の痛みを乗り越えたのか。ただそれだけで、尊敬の念を抱いてしまう。そして、そのチャンスがあったということは、少なくとも今の俺よりも断然の方がちゃんとの距離は近かったのだろう。
――それでも、フラれる。
その事実が重く胸の奥にのしかかる。身体の中心が痛むのは胸が締め付けられているせいか、それとも胃にきているのか。それさえも判別がつかない。腹の中心に手を添え、声を絞り出そうと口を開く。
「は、告白できるかもと思ったくらい仲良くなったんだよね? それでもフラれるのって、その……キツいなって」
「そうか? 俺は別になんとも感じなかったがな。端から勝算があったわけじゃねぇし傷つくとかはねぇよ」
「えぇ?」
整えたばかりの指先にふぅっと息を吹きかけたは、前傾し机の上に頬杖をつくとまたニヤニヤと笑った。その表情に、告白なんて軽いもんだと口にされるよりも強く、がちっとも困難に感じていなかったことが窺い知れる。目を何度も瞬かせての様子を窺ったが、一度ついた印象は覆らない。
駄目かもしれないのにどうしてそんな勇気を出せたというんだろう。
唖然とした表情のまま硬直してしまい、聞き出したくても言葉が出てこない。そんな空気を察知したのだろう。は手の甲に乗せていた顎を離し、椅子にもたれ掛かるように腰かけた。
「仕方ねぇだろ。そん時にを好きだったのは事実だし、高校入って別のやつと出会って、何もしないうちに彼氏作られても癪に障るからな」
唇を尖らせたは、初めてちゃんを好きだと口にした。先程の〝お前の想像通りだ〟なんて濁した言い方をした時とは違い、他人の真っ直ぐな好意にドキリと心臓が撥ねる。〝知っている〟ということと〝知らされる〟ということの差がこんなにもあるのだと痛いほどに実感した。
自然と詰まる息を整えようと浅い呼吸を繰り返す度に、ぐるぐると頭の中で〝どうしよう〟が駆け巡る。いや、どうするもなにも、俺がちゃんを好きなこととがちゃんを好きなことはなんの関係もない。そんなことは十分わかりきっているし、そもそも学年ベスト5だなんて称されるちゃんを恋愛対象で見る男子は多くて当たり前だ。
だが、明確なライバルを目の前にすると気持ちが尻込みしてしまう。
これが野球なら申し訳なさなんて感じず、負けないようにと今まで以上に奮起するだけなのだが、如何せん恋愛のフィールドでは打率や打点といった目に見えた指標はない。
暗くなる気持ちを晴らせないまま視線を落とす俺を尻目に、は涼しい顔をして軽く頭を後ろに傾ける。
「なに暗くなってんのか知らねぇけど、お前ホントなんでも顔に出るのな。そんなんで野球部やってけんのかよ」
「さすがに部活の時は集中してるから大丈夫、だと思いたい……」
最近、鳴さんにも似たような意味合いでいじられたことを思い出し言葉尻が弱くなる。
鳴さん曰く、〝全部顔に出てるから生意気〟だそうだ。球を後ろに逸らしてしょげている顔だとか、理不尽な言葉を向けられてむっとした顔だとか。そういうのが全部表に出ているらしい。わかっているのならいちいちつっかからないで欲しい。そんなことを考えれば、その悪態さえも読まれてますます絡まれたんだっけ。
懐かしみたくもない記憶が頭を過り、はは、と力なく笑う。苦い笑みを浮かべる俺を見上げたは、「なるほどな」とどこか納得した口ぶりで頭を揺らした。
「そういう素直なところがお前の魅力ってやつなんだろうな」
「えぇ……いきなりなにを」
「俺さ、今まで恋をするってのを見たことがなかったんだよ。だから2回も告る羽目になったんだけど」
「え、そうなんだ?」
いきなり俺を誉めそやしたに不信感を抱いたものの、唐突に告げられた新事実を前に、落ち込んでいたのも忘れて反射的に顔を上げる。パッと視線がかち合えば、憐憫が驚愕に変わるさまを目の当たりにしたは満足気に笑った。
「彼氏のひとりやふたりいるかと思ってたか?」
「うん」
の問いかけに頭を縦に揺らし正直に答えると、はますます喜んだようだった。
「イケメンと評判の先輩に告られようが学年一の秀才に告られようが靡いたなんて話はなかったよ。女とばっかつるんでるからそっちとデキてんのかって話もあったくらいだ」
「……デキてたの?」
「さぁな、そこまでは知らねぇ」
の弁に思わずごくりと喉を鳴らした。とんでもない噂を告げておきながら結末を教えてくれないあたり疑念は残っているということか。
ちゃんはクラスの男子にも女子にも均等に挨拶を交わしているけれど、一緒にいる相手はたしかに決まったメンバーだと記憶している。5、6人ほどの女子の顔を頭の中に並べ、その中でも誰と仲が良かったっけ、だなんて考えた。
もし、その中のひとりと本当にデキていたら――。
それはそれでアリだと思ってしまうのはアイドルの百合営業に慣れ親しんだ自分の悲しい性なのかもしれない。だが、それを是としてしまうと、この先あるかもしれない俺の未来を否定することになる。
女の子に囲まれて笑うちゃんの姿が頭に思い浮かんだが、そこから発展しそうになる想像を食い止めるため頭を横に振るう。溢れる想像力をねじ伏せるさまを眺めていたは不審そうに顔を顰めた。
「や、ごめん。大丈夫……」
「ならいいけどよ」
手のひらを立て自分の状態が正常であることを告げると、は訝しむ表情を残したままひとつ頷いた。両手のひらで頬を挟み、押し上げることで自らの表情を整える。気持ちの立て直しを試みる俺を見上げていたは、やけにキリッとした顔つきで自らを親指で示した。
「ちなみに学年一の秀才は俺な」
「もうどこから突っ込んだらいいかわからないよ」
顔を挟むままに唇を尖らせ反論すると、は高い声を上げて笑った。夏の青空のようなからっとした笑い方に、なにがそこまで面白いのか、とますますのつかみ所のなさを感じた。
呆れるままにひとつ溜息を吐きこぼす。げんなりとした顔つきの俺を見上げたは机に向かって前傾し、体勢を整えながら顎肘をついた。
「高校で三回目の告白をする羽目になるかどうかは……まぁ、これから判断するよ」
じっとこちらを見上げたの視線に耐えかねて一歩後退したが、その視線は離れず俺を追いかけた。
「……なに?」
「……」
俺の問いかけに答えはない。いたたまれないような心境を抱えたまま軽く視線を外した途端、の手が翻り、そのままパンッと高い音を立てて尻を叩かれる。不意の衝撃に思わず伸び上がってしまう。
「なんで?!」
「いや、まぁ今のうちにと思って」
「意味がわからない!」
尻に手を添え、突然の殴打に腹を立てたと示したところでには響かない。ニヤニヤと浮かべられた笑みが、今はただただ恨めしい。
いじられることに慣れていても叩かれることには慣れていない。調子に乗られる前にきちんと嫌なものはいやだと伝えるべきだ。
顔を顰めて反論を口にしようとする俺を、は手のひらを掲げることで制した。
「もうしねぇって」
「殴られ損も割に合わない!」
「殴る気かよ。別にいいけど」
「殴らないけど!」
眼鏡を外し、殴ってもいいと顔を差し出すは、俺が殴らないことをきちんと想定しているのだろう。その余裕綽々な態度に重ねて腹が立つが、もし挑発に乗って殴ったとして、喧嘩両成敗と周りが見てくれるとは限らないことを思えば、野球部に迷惑をかけるリスクを背負ってまで拳を握ることはできない。
そもそも、人に手をあげることに抵抗があるのはなにも野球部に所属しているからではなく、自分の性分が人をみだりに傷つけることをよしとしないからだ。
怒りを抑えるべくおおきく息を吐いたところで、眼鏡をかけ直したは「不自由だな、スポーツマン」と小馬鹿にする態度を改めることはなかった。
「人が良さそうな顔して意外にちゃんと怒るんだな」
「いきなりケツ叩かれて怒らないやつは少ないでしょ」
いまだ収まらない怒りを表に出しながら応じると、は「悪かった。もうしない」と改めて謝罪の意を示した。きちんと謝られたところで釈然としない心地は残るが、許さないというほど痛かったわけでもない。
もうひとつだけ、と勢いよく息を吐きだしがてら肩の力を抜くと、が目を細めてこちらを見上げた。
「いやぁ、今のはちょっとした嫉妬ってやつだ。をって呼ぶやつはいても、下の名前で呼ばれる男は初めて見たからな」
右側の口の端だけを上げ意味ありげに笑うは、こちらの反応を窺うようにまっすぐに見上げる。聞かされたばかりの言葉をどう捉えたらいいのか。額面通り受け取れば、嫉妬のあまりが俺に対し辛く当たるような真似をしたと受け止めることもできる。だが、の表情やこれまでの態度を顧みると、どうしても俺をからかっているのではという疑念は晴れない。
これもの冗談なのだろうか。だが、皮肉交じりで冗談めいたことばかり口にするだが、目に見えた嘘をつくことはなかったように思える。嫉妬したうんぬんはともかく、ちゃんが俺以外の男の名前を呼んだのを見たことがない、というのは信じてもいいんじゃないだろうか。
の話すちゃんの過去を信じたいだけなのか、の為人を信じているだけなのか。その両方の間で心は簡単に揺れ動く。
「――それ、どういう意味?」
「単なる事実を口にした。それだけだ」
答えを求めてへと率直に尋ねてみたが、の答えは実に簡素だった。きっとは、小学校のころからの記憶をなぞり、ありのままを口にしただけなのだろう。その飾り気のない言葉に、の話も為人も、信じてもいいのだと思った。
信じる、と決めた途端、胸の中にじわじわと喜びが膨らんでいく。
――ちゃんが、俺だけを下の名前で呼んでいる、かもしれない。
ちゃんから直接聞いたわけではないので憶測の域を抜け出せないが、小学校のころからの知り合いであるの言葉に舞い上がらないわけがなかった。
自惚れてしまいそうな心地に笑みの形を作ろうとする口角と、それを戒めようと引き締める口元との戦いが静かに始まる。口の先が複雑な動きをするのを見られないようにとそっと手のひらで隠した。
手のひらの下でももぞもぞと動き続ける口の端を、親指と人差し指でぎゅっと強く抑え込む。物理的な力を加えることで、ようやく表情も気持ちも引き締まった。
たかが名前で呼ばれているだけだと流せないのは、それがちゃんとの進展の証拠のように思えてならないからだ。それは十分理解している。とはいえ、今はまだ浮かれている場合じゃない。
これから先、恋に発展するのかどうか。俺の心が決まっている以上、選ぶのはちゃんだ。俺はただ、ちゃんに選んでもらえるようにまっすぐに進む。
「なーんか、本当に妬けてきたな……」
「え? なに?」
自分の思考に集中していたこともあり、頬杖をついたままぼやいたの言葉のほとんどが聞こえなかった。正直に聞き取りづらかったことを告げたが、は小さく息を吐き、そのまま横に首を振った。
「なんでもねぇよ、樹クン?」
「あー……さっきが気味悪がった理由わかったかも」
男子相手に〝くん付け〟されることのおぞましさに身震いしてしまう。うえ、と顔を顰めてみせればは俺の反応を楽しそうに見上げた。
「それより、そろそろ時間じゃねぇか。いいのか? 次の授業の準備しなくて」
に言われるまま黒板の上に取り付けられている時計を見れば、次の授業まで残り2分も残されていないことに気が付いた。
「あ、ホントだ。次って何だっけ?」
「英語」
「そっか。英語ならちゃんと予習してきたけど念のため見直しておこうかな。それじゃ、俺も席に戻るよ」
「あぁ。――お互い、頑張ろうな?」
「含みがあるなぁ」
「大いにな」
多分、その〝頑張ろう〟は英語のことじゃないんだろうな。薄々と感じながらも追求の言葉は飲み込んだ。
人の悪い顔で笑ったを振り返れば、やっぱり立てた二本の指でメガネの縁を押さえている。随分見慣れてきた癖に手のひらを翳して別れを告げると、そのままそっと自席へと戻った。
椅子を引き、腰掛けようとしながらそっと視線を横に流すと、前の席の子と話をしていたちゃんがこちらを振り仰いだ。
「あ。樹くん。おかえり」
「あぁ、うん。ただいま、ちゃん」
いつものように〝樹くん〟と呼ばれただけで簡単に心臓が高鳴ったのは、先程のの言葉が頭にあるせいだった。
――本当に名前で呼んでるの俺だけなのかな。……だったらいいな。
ふわりと頭を掠めた考えに簡単に口元は綻んだ。タイミング的にはちゃんに笑いかけたように見えたことだろうが、そうではないと自分が一番知っている。
照れくささに負け、慌ててちゃんから視線を外し、辞書や単語帳を机の裏に並べた。そのままノートを開いて、ゆうべの予習内容にケアレスミスはないか簡単にチェックする。
だが、ノートの上に視線を滑らせながらも、意識はちゃんへと傾いていた。
――よくないな。集中しないと。
部活の時に発揮される集中力のかけらもない。じっとノートに視線を向けたところでちゃんの笑い声が耳に入れば、簡単に意識がそちらへと向かっていく。ちゃんの笑顔を横目にする度に、きゅっと胸が締め付けられる。
――の判断は正しかったのかもしれない。
学年一の秀才だと豪語するがあえてちゃんの隣を捨てたのも、きっとこんな風にちゃんに意識を持っていかれることをきらったのだろう。
にはめられたのかもしれない、だなんて被害妄想を頭に浮かべてしまう。勉強は苦手ではないが、の脅威になるほどの成績を収めるかはその時のテスト次第なんだけどな。
まぁ、はめるつもりがあったかどうかを問い質したところで、はニヤニヤと笑って眼鏡を押さえるだけなのだろうが。
ひとつ息を吐き、ようやく見つけた間違いを書きなおしていると、横目でふたりの会話が終わったことを察知する。見直しに集中しきれないのであれば、と開き直ってそっとちゃんに視線を向けた。
机の中に手を差し込み、次の授業の準備を整えるちゃんの横顔を眺めながら、細く長い息を吐き出す。溜息に似た呼吸は、先程まであった浮かれるような心地とはほど遠いものだった。
――ちゃんは、どうしてに告白されたときに断ったんだろう。
いいやつか悪いやつかの判断には迷うが、は結構、しゃべりやすい男子に分類されると思う。先程目にしたふたりの会話も、気安さだけで言えば俺よりも数段上に思えた。告白してフったフラれたの関係性が下地にあるからこそ、ある程度踏み込んだってお互い傷ついたり傷つけたりしないという安心感がそうさせているのかもしれない。
――それでも……あんな風に仲良く話ができても、ちゃんはを選ばなかったのか。
フラれた理由をが聞いたのかどうかは知らないが、たとえ聞いていたとしてもさすがに教えてもらうことは出来ない。
これ以上、考えたって無駄だ。だけど、どうしても頭に浮かべてしまう。
――をフったのも、単純にのことを好きじゃなかった、というだけなんだろうか。
考えたところでちゃんの本音がわかるはずもないのに、ぐるぐると考えてしまう。
から2回、先輩から1回。少なくともちゃんは合計で3回、人から好きだと言われたらしい。そのすべてを断った、というのがの弁だった。
――たとえ彼氏がいなくても、好きなやつはいたんだろうか。
目下の悩みはそこにあった。自然とシャーペンを持つ手に力が入る。
もしがフラれた理由が、ちゃんに〝好きなひとがいる〟だとしたら、出会って1ヶ月の俺に太刀打ちできるはずがない。
ひとつ、息を吐きだし、そのままちゃんの横顔を窺う。英語の教科書と、単語用の問題集とを見比べるちゃんは、俺がよく見るちゃんの横顔だった。
きちんと整えられた髪に、可憐さに包まれた表情。凜としているのに、ちょっと隙のあるあどけなさ。ひとのいい顔だ、と思う。そして誰からも好かれる顔だとも。
近所に住むおばあさんに孫のようにかわいがられている姿も、コンビニの店員からメアドを渡されるハプニングに見舞われる姿も簡単に想像がつく。ちゃんから滲むかわいさは、そういう類いのものだった。
そんなちゃんの恋をする顔を見たことがないとは言っていた。他人の弁をそのまま鵜呑みにするのはあまりよくないことだが、今はそれを信じたくて仕方がない。
――俺だってそんなの、見たことないよ。
俺の知る限り、ちゃんは誰に対しても平等だ。とりわけ仲のいい女子はいるようだが、クラスの男子に対して特に誰かをひいきしているようには思えなかった。
ブラスバンド部に男子の先輩がいて実はそのひとを追いかけているなんて展開があったとしたら、そんなものもう知りようがない。だが、仮にそうだとしたら、ちゃんの友人らが〝大好きな多田野くん〟だなんてちゃんをからかったりしないだろう。
自分にとって都合のいい考えだったが、そうでも考えないと挫けそうになる。
――いっそのことちゃんに尋ねてしまおうか。〝好きなひとはいるんですか〟なんて。
投げやりになったというよりも、苦肉の策だった。だが、それを想像した途端、血の巡りが早くなるのを自覚する。焦燥か、はじらいか。その合間に揺れる心地を落ち着けようと長く息を吐き出した。
リサーチは大事だ。野球だって相手の投手や打者が何を得意とし、何を不得意とするか入念に調べて対応する。恋愛も野球に置き換えて考えれば相手の好きな人の有無は十分、事前に知っておくべき事項だと言えた。
だが、ちゃんに直接好きな人がいるかどうか聞くことは、相手の投手に得意の球の打ち方や癖の見抜き方を尋ねるようなものだった。簡単に聞けるはずもないし、仮に尋ねたとしても教えてもらえるわけがない。
ならば、彼女の友人に聞くのか。答えはノーだ。聞けるような知り合いもいないし、そもそも相手はちゃんの味方だ。どこの馬の骨ともわからない俺なんかに教えてくれるはずがない。
ならばがすべてを知っているのかと言えばそうとも限らない。の言葉すべてを信じることが出来ない以上、この話はそもそもはじめから詰んでいる。
と、なると俺に残された道はあとひとつ。正面切った告白。これしかもう打つ手はないのだ。
だが、告白をする以上、それだけでは終われない。俺は、ちゃんに告白をしたいのではなく、その先を求めている。
きっと、今までちゃんに告白したやつらだってそうだったはずだ。のさっぱりとした態度や〝癪に障る〟なんて言葉を顧みると、もしかしたらの目的は違ったのかもしれないが、アイツは例外中の例外だ。それでもちゃんに告白をしたことがあるという経験がにある以上、アドバンテージは向こうにある。
や知らない相手に先を越されたなんて考えている時点で、俺の心は決まっているも同然だ。あとは、伝える勇気とタイミング。
――タイミング、かぁ。
さすがにまだ早いよなぁ。目を細め、入学してから徐々に積み重ねた交流を振り返る。俺としてはかなり仲良くなれたと思っているが、それは単なる俺の主観でしかない。
気兼ねなく喋れるようになったとはいえ、まだほんの1ヶ月足らずの知り合いだ。卒業まで待ったと比べるべくもない。
だが、果たしてこの先、ちゃんに〝好きだ〟と言ってもいいタイミングなんて来るんだろうか。また、仮に本当に来たとして、それが〝今〟だと俺にわかるんだろうか。
話しかけても良さそうかどうかくらいならわかるんだけど、さすがに告白してもいいかどうかの距離感なのかまでは経験がないから判断がつかなさそうだ。
のように卒業式だなんて明確なリミットがあればまた違うんだろうけれど、そんな先まで我慢出来る気はしない。
――と、なると1年のクラス替えか? いやでも2、3年でまた同じクラスになったとき、フラれた状態だとかなり苦しいな。
じっとちゃんの横顔を見つめたまま考えていると、ほんの少しだけ目線を泳がせたちゃんがおずおずとこちらを振り向いた。
「あの、樹くん」
「ん?」
「その、どうかした? なんか、こっちずっと見てるっぽかったから、その……なにか話があるのかなって思って声かけてみたんだけど」
ほんのりと頬を赤く染めたちゃんは手のひらを頬にあて、泳がせていた視線を俺へと合わせた。そっと顎を引いたちゃんの表情は戸惑いに塗れている。なにか顔についているとでも疑ったのだろうか。ちゃんは頬に当てた手のひらを小さく動かし、頬についたなにかを払う仕草を見せた。
「あ、ううん。ちょっと考え事してただけだから」
「そうなの?」
「うん。だから気にしなくて大丈夫だよ」
「気には、なっちゃうけど……」
「……だよね」
俺のごり押しにも似た弁解が通用するはずもなく、ちゃんに控えめに打ち返される。だが、だからと言って〝ちゃんにいつ好きだと言えばいいんだろう〟と考えていただなんて言えるわけがない。そんなことを言ってしまえば、もはやそれは告白と同意義だ。正直に伝えることが出来ない以上、ちゃんには悪いが、このまま流すほかない。
首の裏にやった手で頭を掻いて笑って誤魔化してみせれば、ちゃんはほんのりと眉尻を下げた。
「そっか。……まとまるといいね、考え」
「うん……ありがとう」
踏み込んでこないちゃんの優しさに甘えて、うん、とひとつ頭を揺らす。唇をきゅっと引き締めたちゃんは、困ったように笑ってまた教科書へと視線を落とした。
ちゃんに気になると言われた以上、引き続き彼女の姿をみつめ続けるわけにもいかない。最後に、とじっとちゃんの横顔を見つめることで目に焼きつけ、それから俺もまた自分のノートに視線を落とす。
書きかけたままにしていた間違いを書き直しながらも、いまだ頭の中はちゃんでいっぱいだ。ちゃんが恋をする顔をこの先、見たいのか、見たくないのか。
――その相手が俺なら、見たい。
そんなことばかりをずっと考えていた。