11
――今日は朝からついていたのか、いないのか。
俺を逃がしてくれた原田先輩を相手にわぁわあと捲し立てる鳴さんの声を背に、昇降口から階段へと向かいながらそんなことを考えた。
朝一番、ちゃんと出会ったところまではよかった。だけど、その直後に鳴さんにからまれたせいで台無しにされた。
原田先輩のおかげで難を逃れることが出来たが、もしあのまま先輩が通りかからなかったら今もまだ鳴さんに執拗に絡まれ続けたことだろう。そうなれば後からやって来るはずの江崎や杉たちも俺がちゃんと話していたことを知ることになり、もっと面倒くさいことになっていたはずだ。
だが――いや、だからこそ、最終的に原田先輩に助けられたことを思えば、運が良かったと総括できるかもしれない。
――部活の時にでも、改めてお礼を言わないとな。
鳴さんの魔の手から逃がしてもらった原田先輩への感謝は尽きない。部活の時も、それ以外でも、原田先輩はいつだって俺たち新入生に気を配ってくれる。
寮生活で一年生が戸惑うようなタイミングで声をかけてくれたり、配球やリードの意図を丁寧に教えてくれたりと、原田先輩には常日頃から面倒を見てもらっているが、本当に人間が出来ていると思う。
弟がいるから慣れているだけだと原田先輩は謙遜しているが、培った優しさを単なる部活の後輩へも惜しみなく差し出せるのだから並の優しさじゃない。
同じ先輩の鳴さんのことだって、本当に心の底から尊敬しているけれど、時折、その判断が間違いだったのではないかと疑いそうになる。こどもじみたところを見せられるとなおさらだった。
――まぁ、そんな指摘をしたところで「高校生はまだ子どもだもんね!」だなんてすぐさま反論されるんだけど。
先輩たちの為人を思い返しながら歩みを進め、階段に差し掛かったところでそっと上を向く。だが、そこに誰の姿もないことを目にすると、自然と溜息がこぼれた。落胆に塗れた吐息に、もしかしたらちゃんが待っていてくれるかもしれない、なんて期待していた自分がいたと知る。
落ちた肩を上げながら肩にかけた鞄の紐の位置を整え、きゅっと唇を結んだまま階段へと足をかけた。
――結局、ちゃんはどうしてあんなところにいたんだろう。
階段を一段、また一段と踏みしめていると、ひとつの疑問が頭を掠めた。
多分、ちゃんは俺が聞いたら教えてくれるだろう。だが、あの場面で聞けなかったことを今一度尋ねるのはひどく困難に思える。下手をすると〝いちいち詮索するほどのことじゃないのにしつこいな〟なんて幻滅されるかもしれない。そんな考えが頭に浮かべば、おいそれと行動に移すことは出来なかった。
――それに、ちょっと言いにくそうにしてたもんな。
おおきな声では言えないとちゃんは言っていた。それでも伝えようとしてくれたのは俺の「朝からどうしたの」なんて軽い気持ちで投げかけた疑問に答えようとしてくれたからだ。
――ちゃんの誠意だけを受け止めて、それでよしとしよう。
疑念は晴れないがそこまで気にすることじゃない、と自分自身を納得させるべく、うん、とひとつ頭を揺らす。正面にある踊り場の窓から覗く晴天をぼんやりと見上げたまま階段を上り、自分のクラスへと足を運んだ。
教室前の扉に辿り着くと、中がシンと静まり返っていることに気がつく。どうやらうちのクラスのひとはまだ誰も来ていないらしい。目線の高さにある窓から奥を覗いたが、見える範囲に人の姿がないことで確信を得る。
下で騒いだとはいえ、朝のSHRまではかなり時間があるもんな。
普段よりも早い登校時間だと思えば納得だ。でも、ちゃんは先に教室に向かったはずなのに、という疑問が頭に浮かび上がる。
まぁ、まだ時間に余裕もあるしすでに他のクラスにでも遊びに行ったのかもしれないな。そんな見当をつけながらそっとドアをスライドさせる。だが、いつもと比べてやけにドアが勢いよく滑った。力加減を間違えたわけでもないのに、と指先に違和感を覚えた途端、胸にトン、と誰かがぶつかった。
「っと」
「わっ、ごめんなさい!」
ぶつかったばかりの相手が誰なのか。目線を下げれば、鼻の頭を抑えてこちらを見上げるちゃんと視線がかち合った。
「い、つきくん」
「――ちゃん」
こちらを見上げたちゃんが、今、俺の胸の中にいる。そのことに気付いた途端、顔中に熱が集まった。手の甲を頬に当て咄嗟に表情を隠したが、それだけでは耳や首に走る熱は誤魔化しようがない。
必要以上に照れてしまうのは鳴さんの言葉が要因であることは火を見るよりも明らかだった。
キスをしたように見えただとか、カノジョだとか。寝る前に思い返しては真夜中であっても叫び出したくなるような言葉を浴びせられた。絶えず女子に囲まれている鳴さんにとっては慣れっこであっても、片思いに突入したばかりの俺には刺激が強すぎる。
しかも今、目の前にいるのは俺が大絶賛片思いの相手であるちゃんだ。これまでだって近付けば簡単に動揺したのに、あんなことまで言われては今まで以上に意識しないわけがなかった。
かち合ったばかりの視線をほんの少し下げる。薄く開かれた唇が目に入ると、ぐっと喉の奥に力が入った。
――キスをするなら、この唇に。
ふと、頭をよぎった考えを打ち消すべく頭を振った。それだけでは払い落とせない照れくささに、思わず視線を泳がせる。
さまよう視線が無人の教室の姿を捉えると、ひとつの考えが脳裏を掠める。今、間違いなくこの場にふたりきりだと実感すると、ますます心臓が高鳴った。
「……また、ぶつかっちゃったね」
えへへ、と笑うちゃんの声に惹かれるがままに、そっと胸元へと視線を戻す。鼻の頭を指先で隠しながら照れくさそうに俯いたちゃんが、一歩分俺から退いた。ただそれを目にしただけで呼吸が楽になる心地と離れた距離を惜しむ気持ちが綯い交ぜになる。
「ごめんね。走ってたつもりはなかったんだけど気持ち急いでたから樹くんがドアを開けるの気付かなかった」
「いや、こっちこそ。ドアがよく滑るなって気付いた時点で避けるべきだったよ」
互いの非を詫び合う中、合わない視線にむず痒さを感じる。目を合わせようとして、でも不意に相手から同じものを差し向けられると受け止めきれない。照れくささに身を置いてもなお離れ難い心地に後押しされればその場に踏みとどまるほかなかった。
顔を背けたままちらりと横目でちゃんの様子を窺えば、迷いの無い瞳が真っ直ぐに俺を見上げていた。ドキリと跳ねる心音は聞かれていないだろうか。脈打つものを抑え込むことなんてできない代わりに、左手で耳の下を隠しながらまたちゃんから視線を外した。
だが、抗ったところでちゃんの元へと向かいたがる意識に促されれば、曖昧に泳ぐ視線であってもちゃんの姿は横目に映り続ける。離れがたい視線を御せないまま、上擦りそうな声を押さえつけて言葉を紡いだ。
「なんだか、その、ちゃんとはよくぶつかっちゃうね。入学式の時もだしさっきもだし。……今、その、具合はどう?」
「頭ぶつけちゃったとこ? それならもう全然痛くないよ」
「そう? でも後から痛くなったりしないか心配だよ」
「樹くんは優しいなぁ。でもホントもう痛くないから平気だよ」
何度も確認する俺をしつこいと邪険に扱うでもなく、ふふっと笑ったちゃんは自らの額に触れながら問題ないことをアピールする。ほんの少し見え隠れした額を覗き込もうと前傾すれば、首を竦めたちゃんはササッと前髪を払う。いつもと前髪の分け目を変えてまで隠されてしまうと傷の具合が悪いのかと疑ってしまう。
本当に大丈夫なんだろうか。――気になると、見たくなる。
「ひゃ……」
短い悲鳴が耳に入ったが、それだけでは行動は止まらなかった。
親指の腹で前髪をかきわけ、額を見ればぶつけた直後に確認した時よりも幾分か腫れが引いているように見えた。右から、左からと角度を変えて検分したがその認識は変わらない。痛くないというちゃんの言葉はどうやら嘘じゃないらしい。
大事に至らなくてよかった、と胸をなで下ろし、安堵するままそっと息を吐き出した。
「あの、樹くん……」
「――ん?」
おずおずと言葉をこぼしたちゃんは顔を真っ赤にして俯いている。どうしたんだろう。疑問と共に首を捻れば、ちゃんの額を大きな手のひらが覆っていることに気がついた。そして、その手が他ならぬ自分の手のひらだということに――。
咄嗟に息を呑んだ。どうやら怪我の有無を気にするあまり無意識にちゃんへと手を伸ばしていたらしい。しかも触れるだけでは収まらず、ほっとする心地に押されてちゃんの頭を撫でていた。
意識した途端、ふわりとやわらかな髪の毛に触れる感触が鮮明に手のひらに残る。覚えのない質感に動揺が駆け抜けると共に瞬間的に迸る熱に翻弄され、踊るように手を離した。
「ごっ……ごめん! また勝手に触ってた!」
「ううん。嫌じゃないからいいよ。でもちょっとだけ恥ずかしい、かな」
俺が触れたばかりの額を手のひらで隠したちゃんは慌てふためく俺を見上げながらも眉尻を下げた。困らせたのは自分だというのに、ほんのりと色づいた頬を目の当たりにすれば、きゅぅ、と心臓の奥が心地よく痛んだ。
性格が悪いとなじられても言い訳のしようがないことを頭に思い浮かべてしまったことを反省すべきだというのに、一度駆けだした心音を抑えることはできない。手の甲でニヤつきそうな口元を隠し、いまだ泳ぎ続ける視線をちゃんへと戻しながら口を開いた。
「そういえばさ、小さい時、頭をぶつけたらもう一回ぶつけなさいって言われなかった?」
「え? そんなのあるの?」
「え、なかった?」
〝聞いたこともない〟と言いたげな表情のちゃんは、俺を見上げたまま頭を横に振って否定する。
あれは家庭内のローカルルールというやつだったんだろうか。いや、でも小学校の低学年のころは割と周りでも通用したはずだ。遠い記憶を思い返せば、わざとらしい頭突きが幼なじみから返ってきた記憶が蘇る。
だが、ちゃんが知らないというなら、あれはもしかしたら地域密着型の風習だったのかもしれないと思い始める。
「うちだけかなー? 結構、いろいろ言い聞かされてたんだけど」
例えば、夜に爪を切ると親の死に目に会えないだとか。例えば、雨の日に靴を下ろすと事故に遭うだとか。
都市伝説めいた風習のようなものを、小さいころから聞かされた。特に田舎のじいちゃんやばあちゃんから言われることが多かったな、なんて思い返しながら、掻い摘まんで説明したが、ちゃんはそのどれをも初めて聞いたとばかりに目を丸めるだけだった。
今もなんとなく、その風習を破らないようにと守ってはいたが、住む地域が変わるとまったく通用しないのか。新しい認識に驚いているのはどうやら俺だけではないらしく、ちゃんもまた感心したような相槌を繰り返した。
「それじゃ、今回みたいに頭をぶつけたとき、もう一回ぶつけなかったらどうなるって言われてるの?」
「たしか縁起が悪いとかなんとか……でも、多分これも迷信だよね」
ちゃんの質問に、じいちゃんから口を酸っぱくして言われた言葉を告げる。だが、聞いたことがないと言われた以上、それに固執するつもりはない。むしろ、そもそものスタートが思い出したことをただ単に口にしただけであって、ちゃんに〝もう一度頭をぶつけてください〟なんて頼むつもりは毛頭無い。
だから、気にしなくていいよと言うつもりだった。だが、それを伝えるよりも早く、ちゃんの手がこちらへと伸びる。
「えっと、じゃあ――ちょっとこっち来て」
「え? うん」
どうしたんだろう、いきなり。
訝しみながらもちゃんに腕を引かれるがまま、教室の中へと足を進める。そのまま自分たちの席まで連れて行かれるのかと思ったが、ちゃんはドアを閉めるや否やくるりと体を反転させた。
閉ざされたばかりのドアを背にしたちゃんはまっすぐにこちらを見上げる。その真摯な視線を目の前にすると、さらに大きく心臓が高鳴った。
「それじゃ――どうぞ!」
「えぇ?!」
「あんまり痛くしないでほしいけど……」
唐突な許可に戸惑ったが、くいっと顎を持ち上げたちゃんがきゅっと目をつぶったことでますます混乱に陥ってしまう。
――え、もしかしてキスをしてもいい、とか?
一瞬、頭を過った想像はあまりにも自分に都合のいい妄想だった。そんな子じゃないってちゃんと知っているのにも関わらず浮かび上がった甘い夢を打ち落とすように自分の頬を手のひらで打つ。
普段なら思いつきもしない横暴な考えを頭に浮かべてしまったのは、先程の昇降口での騒ぎが原因であることは火を見るよりも明らかだった。鳴さんが、俺とちゃんがキスしてただなんて騒いだから、どうしてもその考えが頭に居座ってしまう。
混乱の最中に陥った心を落ち着けるように二度、三度と深呼吸を繰り返す。胸の中心に手のひらを添え、逸る心音を数えながら、ちゃんの行動の意図を吟味した。
〝痛くしないで欲しい〟とちゃんは言った。それは俺がちゃんを痛めつけることを前提とした言葉だ。突然の申し出に混乱してしまったが、その前の話の流れからして、おそらく〝頭をもう一度ぶつけていい〟と、ちゃんは言っているのだろう。
その衝撃を受けるために俺に向かって目をつぶったのは、先日〝殴ってもいいぞ〟と顔を差し出したの行動と似たような意味合いを孕んでいるに他ならない。そこには決して、特別な意味なんて無い。いつまでも誤解したがる自分に、強く言い聞かせた。
だが、キスではないのだと落胆したところで、ちゃんから額を重ねてもいいのだと許可を得たことには変わりが無い。そんな至近距離に意図的に踏み込んでいいだなんて、今の俺には十分刺激が強すぎた。
「や、いいよ! 気にしないで! きっとうちだけのルールだから!」
「でもしなくて樹くんの運気が下がる可能性があるならイヤだな。私は樹くんの足を引っ張りたくない」
「うっ……」
パチッと眼を開いたちゃんは至近距離であっても俺をまっすぐに見上げた。真摯な瞳とまっすぐな言葉に尻込みしてしまう。
ちゃんと断らないと、と思う。もしかしたら口にしないだけでちゃんだって相当無理して提案してくれているのかもしれない。だが、真剣な眼差しを見せられると、その考えも途端に霧散する。
――勘違いしちゃいけない。これはちゃんにとっては誠意で行動しているだけなんだ。
きゅっと唇を結び、自分自身に言い聞かせる。だが、誤解してはいけないと何度も注意しようと、一向に考えは変わらない。
いつになく真剣な顔をしたちゃんの瞳から目が離せないのは、その言葉に俺への情愛が少なからず含まれているのではと勘違いしそうになるからだった。
ぶつけた頭を二回ぶつけなければ縁起が悪いなんてあり得ない。話題を持ちかけた俺でさえ迷信だと思っているのに、ちゃんは俺の言葉をまるっと信じ、その上で俺の運気が下がらないようにと、普通なら恥ずかしがってやらないような行動にさえ躊躇なく踏み込んでくれようとする。俺のためだと、ハッキリと言われるよりも強くそう感じた。
――本当に心から、ちゃんは俺の言葉を信じてくれたのかもしれない。
その考えが浮かび上がると、もう抵抗なんて出来るはずがなかった。ちゃんの好意を無碍にするなんて、俺に出来るはずがない。
だけど受け入れるにしても、俺はこういうシチュエーションに慣れていないからどうしても躊躇してしまう。眉を下げ困惑に塗れた表情を浮かべた俺を見上げたちゃんが、身体の真横で拳を握る。その行動に、ちゃんの決意を垣間見た俺はゴクリと喉を鳴らした。
「私がぶつけた方がいいなら、樹くんがしゃがんでくれたら――」
「いや、それはさすがに恥ずかしくて死ぬので! ちゃんにぶつけてもらうくらいならちゃんと俺がします!」
「じゃあ、お願いします!」
声を大きくして宣言した俺に合わせるように、きっぱりと応じたちゃんは、改めて目をつぶった。
――マジか。
二回目とはいえ、突然差し出されたシチュエーションに戸惑うことしかできない。だが、こんな風に二回もちゃんに踏み込まれて、二回とも突き放すなんて選択肢を取ることはもっとできない。
もしも俺が「ラッキー!」だなんて言ってホイホイ踏み込めるような男なら楽だっただろうな、と架空の自分の姿を頭に浮かべては溜息を吐きこぼしそうになる。
そっと、ちゃんへと視線を差し向けた。きゅっと寄せられた眉根と共に微かに上を向いたちゃんは、俺が額をぶつけるのを静かに待っている。ちゃん自身に他意がないとしても、どうしてもその行動を特別かのように考えてしまう自分を否定できない。
音が出ないように気を払いながら自分の頬を押さえる。そのまま、意を決して若干ななめを向いていた身体をちゃんの正面に移す。
だが、実際にちゃんを前にしても、すぐに身を近付けることはできなかった。ひととわざと頭をぶつけるなんて小さいころにやったきりだし、距離感がうまくつかめない。
そりゃそうだ。高校生にもなればある程度の落ち着きが生まれるから、他人と頭をぶつけることなんて滅多にない。むしろ中学のころですら、そんな事態は起きなかったはずだ。
もし俺が内野手や外野手だったら捕球の際に近くのポジションのやつとぶつかることもあるかもしれないが、捕手である俺がぶつかったのはバックネットくらいのものだった。
いくら思い返してみても思い浮かばない記憶を引きずり出せるはずもなく、ぐるぐると混乱する頭を抱えたまま、引き寄せられるようにちゃんの肩に手を置いた。その瞬間、小さくちゃんの肩が撥ねたのを目の当たりにすれば思わず手を引っ込めてしまう。
「ごめんね、樹くん。ちょっと吃驚しただけだから……もう、大丈夫だよ」
「――うん」
目を閉じたまま、そっと言葉を紡いだちゃんの肩にもう一度手を伸ばす。今度はちゃんの宣言通り、彼女の身体が反応することはなかった。
両肩の端を包むようにゆっくりと指先に力を入れる。俺の肩とは違い、丸くやわらかな感触に、意識してちゃんの身体に触れることが初めてであると今更思い至った。
心臓が口から飛び出しそうだ。だが、至近距離で叫び出すなんてことはあってはならない。
自分の存在を極力ちゃんに気取られないようにしなければ、と注意を払う。そのままぐっと息を止め、同時に思い切って目を瞑った。
痛くしないでね、というちゃんの言葉を頭に思い浮かべながら、そのまま身体を前傾させる。だが、あと少しの距離を詰めることが出来ない。
不意にぶつけるのとは違う。自分からちゃんへと近づく。その事実に今度こそ心音が身体中を打ち鳴らした。もしかしたらこの距離ならちゃんにも聞こえているかもしれないと気付きながらも、前にも後ろにも進めないまま留まってしまう。
――今、ちゃんはどんな顔をしているんだろう。
好奇心か不安か。二極化した意識に背中を押されれば行動に移す以外の選択肢はすべて伏せられる。ほんの少しの距離を残したまま、強くつぶっていた瞼を薄く開いた。
目に入ったのは、伏せられた瞳、そして眉間から伸びる鼻筋くらいだった。景色と呼ぶには狭い世界だ。だけど、どうしようもないほどに心が騒ぎ出す。閉じた瞼を縁取る長いまつげの一本一本がつぶさに見て取れるほどの距離にぐっと喉の奥に力が入る。
おいそれと立ち入ってはいけない距離だ。だが、ちゃんはさらにその先を進んでもいいと俺に言った。
――とんでもないことが起こっている。
間近でちゃんの表情を見つめたまま、改めて自分の身に起こっている事件の重大性に打ち震えた。
迷信をまるっと信じての提案とはいえ、いくらなんでも近すぎる。他ならぬちゃんからの許可とはいえ、迂闊に踏み込めないのは俺とちゃんが単なるクラスメイトでしかないせいだった。
――恋人同士でもないのにいいんだろうか。
焦りとも期待ともつかない感情が胸の内で綯い交ぜになる。このままちゃんに近付きたいという欲求は強い。だが、ひとかけらの理性が接近を食い止めた。
まるで自分の頭の上で天使と悪魔が戦っているみたいだ。漫画やアニメで見かけるコミカルな映像が脳裏を掠める。ちゃんに対し誠実であろうとする理性は天使で、自分の願望に対し忠実に動くべきだという欲求が悪魔、といったところか。
脳内で繰り広げられる諍いは、現時点では天使側が劣勢である感は否めない。悪魔による〝だってちゃんがいいって言ったもん!〟なんて台詞まで思い浮かんでしまうあたり、もうほぼほぼ勝負は見えていた。
据え膳食わぬは男の恥とは、昔の人はよくいったものだ。もちろん、そんなところまで踏み込むつもりはないけれど、もたもたしていたらまたちゃんに「私がぶつける」なんて宣言されかねない。
――最後の一歩くらい俺が踏み出さなければ男が廃るってやつだ。
意を決して、ちゃんの額に自分のものを重ねようと下げていた頭を上げる。だが、ずっと息を止めていたせいだろうか。急激に頭を動かしたことでにわかに平衡感覚を失った。
倒れるわけにはいかない、と足下に力を込める。だが、身体に力を込めたことで、残り少ない気力の最後の一滴を振り絞ってしまった。
不意に、目眩にも似た感覚が襲いかかる。急に視界が薄暗くなったような心地に慌てて目を瞑った。頭を起こしたままではいられないながらも、ちゃんと頭をぶつけないようにと気を払う。左に頭を傾けたまま、ゆっくりとちゃんの肩口に額を寄せた。俺の体勢が変わったことを肌で感じ取ったのだろう。耳元でちゃんが息を呑む音が聞こえてくる。
詰めていた息をおおきく吐き出すと、それだけで身体がほんの少し楽になる。それでも身に降りかかった災難は簡単には立ち去ってはくれず、吸って、吐いてと繰り返しながら、縋るようにちゃんの肩を掴んでしまった。
「い、樹くん? 急にどうしたの?」
「……ごめん。ちょっといろいろ考えてたら息するの忘れてた……」
「どうして?!」
戸惑いに塗れた声で尋ねたちゃんに隠すことなく自分の状態を口にしたが、さらなる困惑を与えてしまったようだ。
「いや、ホント、なんでだろうね……」
まさか〝俺が吐いた息なんてちゃんは浴びたくないよね〟などと考えていたとは口に出来るはずもなく、曖昧な言葉で誤魔化した。答えに窮するさまを、ちゃんに呆れられてはいないだろうか。気にはなるが、まだ頭を動かせるほどに調子は出ていない。
「ごめんね。まだ少し、頭がクラクラしちゃって……もう少しだけこうしててもいい?」
RPGのステータス異常で例えるなら〝くらやみ〟の最中にいる俺は、身体の不調に任せてとんでもないお願いを口にしてしまったが、今更それを自覚したところで後の祭りというやつだ。
――ちゃんは今の状況をどう思っているんだろう。
表情が見えない分、ちゃんがどう思っているのか微塵も読めない。だけど、離れることもまた出来なくて、俯いたまま浅い呼吸を繰り返す。
言葉が返ってこない数秒間は、まるで永遠に続くのではと危ぶまれるほどだった。
身体に走り始めた緊張感に、性懲りも無く息を詰めそうになっていると、ふと、ちゃんが身じろぎしたことが感覚で伝わってくる。
どうしたんだろう、と疑問に思ったのも束の間で、控えめに触れる手のひらが腰の辺りで落ち着いたのがセーター越しに伝わってくると途端に身体が硬直する。
顔をこちらに向けたのか、耳のあたりをちゃんの髪の毛がくすぐった。こそばゆい感覚と共に胸の奥に痛みが滲む。甘く痺れるような痛みは、やがて胸全体に広がった。
「――うん」
言葉と同時に、控えめにちゃんが頷いたことを間近で感じ取る。同時に、伸びたばかりの手のひらでポンポンとやわらかく脇腹あたりを叩かれた。
一定のリズムでちゃんの手のひらが撥ねる。まるで子どもをあやすような手つきは、俺の体調を慮ったちゃんの優しさだとは十分に理解している。だが、恋愛に不慣れな俺は、抱きしめられているのではなどと考えてしまった。
意識した途端、にわかに心臓が駆けだした。額をぶつけることを躊躇った結果、それ以上の僥倖を手に入れてしまい、自分からくっついたばかりだというのに走って逃げ出したいような気持ちが膨れ上がる。
「樹くん」
「……ん?」
心臓を押さえつけられない代わりに、静まれ、静まれと頭の中で念仏を唱えはじめた俺の耳元にちゃんのやわらかな声が注がれる。素っ気ない反応になってしまったことを詫びようと頭を起こしかけた。だがその瞬間、ちゃんが頭をこちらへと傾けたことでこめかみ同士が触れあうと、それ以上の動きを取ることができなくなる。
静まれと願っていた心臓の音が、アップテンポな曲のドラムに似たリズムで身体中に響き始めた。重なったままのこめかみから、ちゃんへ伝わっているかもしれない。そう気付くとさらに心音が加速するようだった。
「頭、今のでぶつけたことになるかなぁ」
「――うん、なると思う」
結局、ちゃんに先を越されてしまったが、不思議と落胆はなかった。それどころか思ってもない方法での反撃に、心臓が打ち抜かれたような心地に陥る。
――そんなぶつけ方ある?!
驚きを伴った喜びに打ち震える。コツンとぶつけられたあとも、まだちゃんのこめかみが触れあったままであることが興奮に拍車をかけた。
込み上げる熱に煽られて身体が汗ばんでいく。これ以上は心臓が保たない。ドキドキしすぎて、今度こそ本当に倒れてしまう。
ぎゅっと強く目を瞑り、唇をすぼめて長く息を吐き出した。心にある熱情がそんなことで追い出せるはずはない。だが、シニアで学んだメンタルトレーニングの中に、深呼吸することでひとつの区切りとして意識させるという方法が身体には馴染んでいた。
ちゃんの肩を掴む手に力を入れ、そのまま倒していた身体を起こす。頬どころか身体全体に走る熱を誤魔化す術も持たない俺は、一筋縄ではいかない感情を抱えこんだままちゃんを見下ろした。
相変わらず迷いのない瞳を差し向けるちゃんは、喜びと焦りの入り交じった複雑な顔つきをした俺を見上げ、きゅっと口元を引き締めた。
「もう大丈夫? 立ちくらみかな? 朝練もあったのに朝からいろいろあったもんね」
「うん。多分、そうだと思う。――ごめんね。いきなり」
気落ちした声音で謝罪の言葉を紡ぐと、ちゃんは頭を横に振り、ふわりと笑った。
「んーん。樹くんなら、いいよ」
ただ、その一言でつい先程、落ち着かせたはずの気持ちが簡単に再浮上する。
俺は単純だから、好きな子にそんなことを言われたら自分の都合のいいように捉えてしまう。もし、そんなことを伝えたとしたらどうなるんだろうか。
まっすぐにこちらを見上げるちゃんと視線を合わせると、やわらかなカーブで眉上を掠める前髪を指先で流したちゃんは、はにかむように笑った。
「恥ずかしいこと言っちゃった」
頬を赤く染めたちゃんは、前髪を流した指先を動かし、そのまま自分の耳を隠す。隠れていない反対側の耳はほとんど髪の毛に隠れてしまっていたが、赤く染まり上がっているさまが見え隠れしていた。
それを目にした途端、心臓が痛いくらいに高鳴った。ちゃんの顔に浮かび上がった熱を特別なもののように感じてしまうのは、俺の単なる誤解なんだろうか。
――あぁ、やっばり好きだな。
ちゃんへ向ける情愛が、外に出せとばかりに俺の胸を叩き続ける。〝想いが溢れる〟というのはきっとこういう瞬間を言うのだろう。
ちゃんが好きだ。その言葉が、頭の中を埋め尽くしていく。
教室には今、俺とちゃんのふたりだけ。告白なんてしたことはないし、その瞬間が来たとして俺にわかるかどうか自信が無かった。だが、もし今の機会に伝えると決めたなら、他の生徒が登校してくる前に一刻も早く伝えるべきだということはわかる。
例えば告白は3回目のデートを済ませてからの方がいいだとか。文化祭や体育祭の準備期間に交流を重ねて盛り上がった時期がいいだとか。ネットを探せばいくらでも告白するのに相応しいシチュエーションを書いた記事が転がっていることだろう。
だけど、そんな大多数に当てはまる案よりも、今、俺の目の前にいるちゃんから感じ取った空気を信じたい。
「ちゃん――」
バクバクと心臓が躍る。野球の大会で味わった緊張とはまた種類が違う。張り詰めた心境が身体全体に行き渡ると、耳の奥に心臓があるみたいに鳴動が頭の中で鳴り響いた。
ほんのりと頬を染めたちゃんは相変わらず俺をまっすぐに見上げていた。合わせた視線に、自然と力が入る。直球か変化球か。打席に入り相手投手の投げる球を見極める時と、同じような顔つきになっているだろうと自分でもわかった。
衝動じゃない。気が急いたわけでもない。今、俺は真剣に、ちゃんに好きだと伝えたい。
「あの、俺――」
ちゃんが好きだよ。そう、口にしようとした。だけど、その声を紡ぎきる前に劈くような声が響き渡った。
「いーつきぃ!! テメェ何逃げてんだよ!! どこだ!」
「おい、やめろ。下級生の廊下で」
その声を耳にした途端、身体の内に燃え上がっていた炎が霧散する。氷水をぶっかけられたかのように一瞬で冷え込んだ気持ちの表れか、愕然と項垂れた頭を手のひらで抑えた。
情熱から落胆へ。あまりの落差に風邪を引いてしまいそうだ。
原田先輩のたしなめる言葉に反論する鳴さんの声が廊下に反響している。頭痛さえも覚えるほどの邪魔の入り方に腹を立てるよりも、ただただ気落ちする。
「ごめん……ちゃん。二回目だけど、逃げてください……」
「う、うん。大変だね?」
「俺は割と慣れたけど……ちゃんを巻き込むわけにはいかないから」
ああなってしまった鳴さんが俺を見逃してくれるとは思えない。もし原田先輩の制止で引き返してくれるような人なら、そもそも一年の廊下にやってくることはないはずだ。
「今、その……叫んでるのが成宮、鳴先輩だよね?」
「え? うん、そうだよ」
「そっか。前にも言ってたもんね……結構、その、――自由奔放って」
躊躇いを重ね、オブラートに包みまくった言葉を選んだちゃんは眉を落として心配そうに俺を見上げている。前に話したことと言えば、なにかある度に鳴さんに荷物を持たされるという話だ。突然の来訪者がそんな男だと知っていれば、ちゃんが表情を曇らせたっておかしくはない。
「それじゃ、ちょっと隣のクラスに避難しようかな」
「うん。ぜひ、そうしてくれたら助かるよ」
こんな場面を見られたら、今度こそ鳴さんは、俺のすべての感情を暴くまで解放してはくれないだろう。そんな場にちゃんを巻き込むわけにはいかない。
「また後でね、樹くん」
するりと教室から出て行ったちゃんは、閉めかけた引き戸の奥ではにかみながら小さく手を振った。
極力、音を立てないようにと配慮しているらしく、ゆっくりとちゃんがドアを閉めるさまを見守る。ようやく完全に閉ざされたのを目にし、ドアに背を預けながらその場にしゃがみこんだ。
立てた膝とその上に乗せた左腕の隙間に頭を埋め、右腕を首の後ろに回す。手のひらに触れる首には、熱情の残滓が少なくない存在を主張していた。
熱っぽい息を吐き、胸の内にある感情を整えようと試みる。告白をし損なった悔しさや邪魔された憤りはたしかにあった。だが、大半はちゃんのことを考えるだけで息苦しくなるような恋心が占めていた。
ひとりになった今も、嵐のような鼓動は一向に和らぐ様子を見せない。ドアに預けた背中を少しだけ浮かせ、ドアと、今座る場所、そして自分が先程まで立っていた場所を順番に確認する。その世界は、ほんの数十センチほどの距離に過ぎない。片手をまっすぐに伸ばした距離とほぼ同じくらいしかない距離の中に、俺とちゃんが立っていたのだ。
浮かび上がる照れくささを噛みしめるように、ぎゅっと奥歯を食いしばる。満員電車に無理矢理押し込まれるのとはまったく意味が違う。俺も、ちゃんも、ちゃんと向き合うために近付いた。
――このドアに、ちゃんが背中を預けてたんだよな。ほとんど壁ドンじゃん。
先程までの記憶を反芻しては悶え、また身体に熱を呼び起こしてしまう。
もう少し、鳴さんがやってくるのが遅かったら、ちゃんにちゃんと好きだって言えていた。もし、その言葉をきちんと伝えることが出来ていたら、今ごろ俺たちはどうなっていたんだろう。
――付き合えたり、したのかな。
頭に浮かぶ〝たられば〟に満ちた空想の世界で、俺とちゃんは互いの両手を握り合って向かい合う。俺を見上げて笑ったちゃんの姿が鮮明に脳裏に浮かび上がると自然と顔は綻んだ。
うまくいかなかったかもしれない可能性に蓋をして自分に都合のいい空想に耽っていると、唐突に背後のドアがスライドする。
「やっと見つけた! 樹! ……ってお前、なにしゃがんでんの?」
「鳴さん……」
抱えこんでいた頭を起こし背後を振り返れば、心底不思議そうな顔をした鳴さんがこちらを見下ろしていた。俺を探していることを察してはいたが、教室にまで踏み込まれるのは予想外だった。
もう少し興奮が治まったら表に出ようと思っていた目論見が外れたことに思わず溜息をこぼす。一度絡み始めたらしつこい人だとは思っていたが、まさかここまで執念深いとは――。
噛みしめていた熱が、まるで潮が引くように消えていく。首に回していた手を前にやり、立ち上がろうかと膝に力を込めると、ぶすっとした鳴さんが尖らせた唇を開いた。
「で、何? その体勢。流行ってんの?」
「え? いえ、聞いたこともありませんが……どうしてですか?」
「いや、だって表でも女子が真っ赤な顔しておんなじポーズでしゃがんでたし」
「ええっ?!」
「なんだよ! いきなりうるさいな!」
鳴さんから知らされた新事実に、驚きの声と共に勢いよく立ち上がってしまう。突然叫んだ俺に対する鳴さんの罵倒が頭の上を通り過ぎていく。
このドアの向こうでちゃんも俺と同じようにしていたなんて知らされて、平然となんてできるわけがない!
もしかして、今、ちゃんも俺と同じようにさっきまでのことを噛みしめていてくれたんじゃないだろうか。かなり自分に都合のいい妄想が頭をよぎると、引いたばかりの熱がまた胸の内に蘇る。
他人の顔が赤いかどうかなんて、仲が良くて普段の顔色との違いを識別できるか、もしくはその人の顔がよっぽど紅潮してないと判別出来ないはずだ。通りすがりの鳴さんにでさえちゃんの顔色の変化がわかったということは、よっぽどのことが起こったとしか思えない。
思わぬかたちで得た情報を抱えきれず慌てふためく俺を、鳴さんは心底気持ち悪そうに見やった。
「青い顔だったかもしれないけどね」
「なっ……ちょっとここに来て撤回しないでくださいよ! その違いかなり大事なんで!」
「なんだよ。いきなり大声出して……」
広げた両手を上に向け、鳴さんの正しい記憶を差し出してくれとアピールすると、鳴さんは煩わしげに自分の耳を手のひらで塞いだ。必死の形相で詰め寄る俺を不振そうな顔つきで睨みつけた鳴さんだったが、数秒も経たずに表情がパッと翻る。
「あれ? もしかして今の子ってさっき下でチューしてたコ?」
思い至った考えを遠慮無く口にした鳴さんは、ぷぷ、とわざとらしい音を出して笑う。顎の下に立てた指先で自らの口元を隠そうとしたのかもしれないが、大きくはみ出した白い歯は惜しみなく曝け出されていた。
「だ……だから、してないってさっきも言ったじゃないですか!」
「なるほど! じゃあ、仕切り直しでもう一回ってわけね!」
「もう一回なんて――」
鳴さんの言葉に怯んだ俺の脳裏に先程までのちゃんとのやりとりがよぎる。キスはしていない。だけどいつ唇を重ねてしまってもおかしくないほどの距離にいた。
腰に添えられた手のひらの感触が不意に蘇れば、生まれたばかりの熱が全身に波紋のように広がる。その熱は、すぐさま背筋を伝い、首、そして顔の隅々にまで行き渡った。
「して、ませんから……」
嘘はついていないが弁明には至らない。ハッキリと断言できるのは〝キスはしてない〟という一点のみ。正直、いつ魔が差してもおかしくないシチュエーションだった感は否めなくて、思わず言葉尻が弱くなる。
尻込みする俺を前にした鳴さんは、新しいおもちゃを与えられたねこのように目をキラリと光らせた。
「つまりチューはしてないけどまたさっきのかわいい子とイイ感じになってたってわけ?」
「……」
イイ感じだったかそうでないか。正直、手応えがまったく無かったといえば嘘になる。
好かれているという明確な自信があるわけじゃない。だけど、〝俺ならいい〟とはにかんだちゃんから漂う熱が、告白寸前まで俺の背中を押した。
ちゃんに好きだと伝えることは、アイドルへ抱く一方的な憧れとはほど遠い。差し出した愛情と同じものが返ってくることを期待した。計画的でないという意味では、衝動と思われても仕方が無い。
だけど、あの瞬間、生まれて15年間、感じた覚えのない種類の確信がたしかにあった。
不意に蘇った直感に、身体の真横で拳を握る。真剣な顔をした俺を見上げた鳴さんは、目を丸くしておおきく口を開いた。
「えっ?! 否定しないってどういうこと?! もしかしてたったいま告白でもした?!」
「違っ――まだしてませんから!」
「まだ?! ゆくゆくはってこと?!」
「いや、もうほんと勘弁してくださいよ!」
決意が胸にあるせいか、とんでもない言葉を付け足してしまった。案の定、耳ざとく俺の言葉を捉えた鳴さんは、執拗にそこを掘り下げようと食い下がる。あまりの剣幕に後退すれば、黒板の横の壁に背中をぶつける。逃げ場がないのだと思うとますます窮地に立たされた心地に陥った。
「いい加減にしろ、鳴。表にまで聞こえてるぞ」
「は、原田先輩ぃ……」
鳴さんの来襲以来、開きっぱなしになっていたドアから原田先輩が顔を出す。その姿を目にした途端、情けない声が出た。
助かった。これ以上、追求されたらちゃんとの間に起こったすべての出来事を吐かされるところだった。救世主の出現に心から安心して、おおきな溜息と共に肩から力を抜くと、ちょっとだけ自分が涙目になっていることに気がついた。
「えぇ-。雅さんも気になんないの? 樹のやつこれから恋愛に現を抜かして練習サボったりするかもよ? 今のうちに釘刺しとかなくていいの?」
「そんなやつじゃねぇだろ、多田野は」
鳴さんの右腕の付け根を引っ掴んで俺から引き剥がしてくれた原田先輩は、ひょいっといとも簡単に鳴さんをドアの外へと追いやった。戻ってこようとする鳴さんの攻撃を躱しながら、原田先輩はこちらを振り返る。
「多田野。悪いな、二回も邪魔して。後でシメとくから」
「邪魔だなんて、そんな。原田先輩には先程も助けていただいたので……本当にありがとうございます」
鳴さんに邪魔されたと思ってはいるけれど、原田先輩には助けてもらってばかりだ。頭を下げ、感謝の意を伝えると原田先輩は「いいって」と笑った。
「じゃあな。頑張れよ」
「はい!」
軽く手のひらを掲げてドアの向こうへと去った原田先輩をもう一度頭を下げて見送っていると、不意に女子の声が割って入ってきた。
「あの! 成宮先輩! 少しだけ、お話しさせてもらってもいいですか!」
「え、俺? いいよ! あっち行く? 雅さん、ごめーん! 俺、女子に呼ばれちゃったから! じゃあねー!」
「チッ」
さっきまで不機嫌に塗れていた鳴さんの声が弾む。ドア越しに聞こえてくる会話に、原田先輩の苦労が垣間見えるようだった。ひとり教室に残された俺は、力ない苦笑を浮かべることしか出来ない。
肩にかけたままだった鞄の紐がいつの間にか下がっていることに気づき、そっと元に戻すと同時に長い息を吐き出した。
――ようやく、終わった……。
長い戦いだった。いや、時間にしてはものの10分か15分くらいのものだが、まさか教室まで追いかけられての二回戦があるとは思っていなかった。
ゲームのラスボスなんかは二回変身を残しているのがセオリーだが、まさか〝3度目の鳴さん〟はないだろう。――ないよね?
ないと確信しつつも〝鳴さんなら〟という一抹の不安に駆られて、ドアをほんの少しだけ開いて廊下の様子を窺ったが、そこには誰の姿も見て取れなかった。目で確認できたことに今度こそ安堵の息を吐き、そっとドアを閉じる。
さっき鳴さんに話しかけていた女子の用事は知らない。もしかしたら告白でもしようとしているのだろうか。先程まで自分がその立場にあったせいか、勝手な予測だというのに応援したい気持ちが沸き起こる。まぁ、ほんの少しだけ〝鳴さんの気を逸らしてくれてありがとう〟という気持ちもあるけれど。
もし本当に告白をしているというのなら、部活の時間に自慢されるくらいのことはあるだろうが、それで俺への追求が減るというのなら甘んじて受け入れよう。
うん、とひとつ頭を揺らし、小さく拳を握る。ぎゅっと掴むような感覚に紛れて、ちゃんの肩を掴んだ感触が蘇ってきた。それと同時に、ものの数分前の景色が鮮明に脳裏をよぎる。
「……告白、か」
ぽつりと、言葉がこぼれた。誰もいない教室にその言葉はいやに響く。
――自分が出来なかったことを、今から彼女は為すのだろうか。
つい先程、生まれたばかりの励ましにほんの少しの羨望が混じる。落ち着いてみれば、ひとつの機会を逸した現実を目の当たりにしてしまい、どうしても自然と気持ちが落ちていく。
――これから先、ちゃんに告白するチャンスは果たしてやってくるんだろうか。
告白のタイミングとして先程の状況が正解だったのか。今となっては確かめようがない。だけど、あんなにもまっすぐに気持ちをぶつけると、躊躇せずに踏み込むことが今後出来るんだろうか。
考えるだけで気が重くなるのは、後悔が胸にあるせいだ。自然と詰まる呼吸は、あと一歩で〝好きだ〟と言えなかった自分の不甲斐なさを責めているようだった。
――だけど、きっとまだちゃんとは仲良くなれるはずだ。
根拠のない自信が頭に浮かびあがる。自分自身を鼓舞するためのものだとは知りつつも、今はただ、その考えを支えにやっていくしかない。
先程ぶつけられたばかりのこめかみに手をやり、ちゃんに触れた体温を、固い感触を、何度も何度も追いかける。いつか、もっと違う関係で触れることが出来たらいいな、と願わずにはいられない。
「――よし」
短く強い息を吐き、意気込んだ。次、似たような場面になったら必ず告白する。そのためには、もっとちゃんと仲良くならなければ。そんな新たなる決意を胸に教室の奥へと歩みを進める。
そのまま自分の席に着き、机の上に頬杖をつきながら上体を左に捻って空白の席を眺める。机の横にかけられた紺色のスクールバッグは間違いなくちゃんのものだ。グレーの持ち手には、まだ新しいノラネコギャングのストラップが揺れている。
――もしかして好きなんだろうか。
ノラネコギャングについて、俺はあまり詳しくはない。ただ、野球部の食堂の隅っこにも飾られているし、街中でもたまに見かけるから流行っているんだろうとはなんとなく察していた。
今まではそのタヌキに似たキャラクターを特別かわいいと思ったことはなかったが、ちゃんが好きなのかもしれないと思うと途端に愛らしく見えてくる。
我ながら現金だな、とつくづく思う。だけど恋ってそんなものだよなとも思った。
ノラネコギャングについて知らないからこそ、ちゃんにどんなキャラクターなのか、どういうところが好きなのかを聞いてみるのもいいかもしれない。
話したいことはたくさんあるが、話題はひとつでも多い方がいい。ちゃんがいない間に、今日はどんな話が出来るかな、なんて考えるだけで胸の内が自然とあたたかくなった。
――早く、戻ってこないかな。
見送ったばかりだというのに、もうこれだ。引き留めて困らせることはできないけど、早く帰ってきて欲しいと望むくらいなら罰は当たらないよな。
ちゃんともっと仲良くなりたい。
次、告白するタイミングが本当にやってくるかどうかはまだわからないけれど、これからひとつずつ言葉を交わして、いつかそこに辿り着く。
明確な目標と呼ぶには頼りないが、願望と呼ぶにはハッキリとした意識を胸に秘め、ぎゅっと拳を握った。
〝ちゃんと、好きと言えばよかったのに〟。
この日、告白するタイミングを逃したことを、後日、俺は何度も何度も後悔することになる。だけど、このときちゃんへの気持ちに燃えていた俺は、そんな未来が来ることにまったく気が付いていなかった。