13
練習試合の後。夕食を食べ終え試合で着たユニフォームを洗濯しながら、今日のスコアブックを片手に原田先輩に配球の意図を尋ねる。時間が来れば洗濯物を干して自主練へと移る。
そうやって過ごしている内に、夜は更け、就寝時間も目の前に迫ったことでようやく一息ついた。
同部屋の先輩たちとの会話もそこそこにベッドに入りかけたところで、自分の手元に携帯電話がないことに気がついた。そう言えば帰ってからまだ一度も触ってないな。日々の生活や練習に没頭していると、どうしてもそのあたりのことが疎かになってしまう。
そんなに密に連絡を取り合う相手はいないが、それでも両親からの緊急連絡などが入っていないか心配で、ベッドに乗せた片足を下ろした。
今日の練習試合に持ち運んだエナメルバッグの前に膝をつき、内ポケットをまさぐる。程なくして見つかった携帯電話を持ったまま改めて二段ベッドの下段に潜り込んだ。
メールの通知を表すアイコンを目にしながらも、まずは明日のアラームがきちんと設定されているかどうか確認する。朝練に間に合うような時間に合わせ、次に、とメールの受信ボックスを開いた。届いていた件数は5件。中学のころからの友人、母親、推し関連のメルマガが2件、そして――。
「――ちゃん」
唇の先だけでその名前を紡ぐ。声と呼ぶには頼りなく、呼吸に近いその音は、多分、他の人には聞こえていないはずだ。それでも、気恥ずかしさに押されて左手で口元を覆った。
ごろりと寝返りを打ち、壁を背にする。誰かに覗かれることはないと知りつつも、誰にも見られたくないという思いが自然と体を動かした。
とりあえず、とメールが来た順番に返信し、満を持してちゃんからのメールに目を通す。
そこには応援に徹した俺への労りや、野球の演奏が楽しかったことなどが、ちゃんらしい言葉で綴ってあった。
結局、試合に出ることは適わなかったが、それでも応援する声は絶やさなかったことに、ちゃんが気づいてくれたような内容も書いてあり、そのことだけで胸の奥が熱くなる。応援されていると知る度に背筋が伸びる思いがした。もっと応援して欲しい、なんて強欲な祈りを抱いてしまう。
次、ブラスバンド部が応援に入ってくれるのは関東大会でも準々決勝辺りまで勝ち進まないと実現しないはずだ。それまでにもっと練習して、監督が試合に使ってもいいと思えるような選手にならないと。
貰った背番号は20番。捕手としては三人目。いつ、ほかの選手に取って代わられてもおかしくない。
背水の陣。そんな言葉が頭をよぎると同時に携帯電話を握る手に自然と力が入る。Bチームに合流すれば試合に出るチャンスは増える。だけど、目指す背番号は〝2〟だ。今は石にかじりついてでも、この境遇に食らいつく。
決意が胸に沸き起これば、先程まであったはずのうとうとした心地が消える。眠りにつく前に野球のことを考えるといつもこれだ。気合いの入れすぎは身体に良くないと、福井さんに言われたばかりなのにな。
長く息を吐き、肩に入ったばかりの力を抜こうと努める。バットを振り込んだ身体はへとへとなのに、それでも一度昂ぶった意識は簡単に鳴りを潜めることをしない。
こういう時、アニメでも見てリラックスできれば違うのだが、さすがに同室の先輩がいる中で就寝時刻を目前にテレビをつけるわけにはいかないよなぁ。
唇を尖らせ、どうしたものかと逡巡する。手にしたままの携帯電話に視線を流し、おもむろに操作した。画像フォルダを探し、一枚の写真を開く。パッと表示された写真が目に映れば、きゅっと胸に甘い痛みが走った。
画面には、ちゃんと俺と、ふたりで撮った写真が写り込んでいた。
何日か前に、ふたりきりになったタイミングでちゃんが声をかけてくれたんだっけ。
眠れないのなら、と、そっと、記憶を呼び起こす。あれはたしか水曜日、掃除が終わったあとのことだった。
* * *
「樹くん!」
掃除の時間も終わりかけたころ、ゴミ捨てへと向かう俺の背中に明るい声がかかる。振り返れば片手にゴミ袋を持ったちゃんがこちらへ駆け寄って来る姿が目に入った。
「ゴミ捨て場、一緒に行ってもいい?」
「いいけど、もう一個くらいなら持てるよ?」
「ううん。そうじゃなくて。白状するとね、樹くんと話したいことがあったから追いかけてきちゃったんだ」
そっと差し出した手をやんわりと押し返したちゃんは、そのまま俺の隣に飛び込むように並んだ。一連の動作を見守っていた俺を見上げたちゃんは、はにかむように笑う。
向けられた笑顔に、思わず反射的に視線を逸らしてしまった。
ちゃんへの恋心に自覚してからというもの、時折、妙な緊張感が襲いかかってくる。もう後は自分としては告白するだけだと思っているからこそ、意図せぬところでちゃんが接触してくるとなおさらだった。
「そっか。じゃあ、一緒に行こ」
「うん。ありがとう!」
緊張感が身体を支配すると、簡単に声はうわずった。ちゃんは変に思っていないだろうか。気になって一度外した視線を戻せば、ちゃんはいつものように緩やかな笑みを口元に浮かべていた。ただそれだけで、安心感にむずむずと口元が緩む。
並んで歩くのなら、と両手でひとつずつ持っていたゴミ袋を片手にまとめ、空いたスペース分の距離を詰める。同じことを考えたのだろうか。ちゃんもまたこちらへと近づいたため、思ったよりも接近してしまう。
近づいた距離を反射的に離すことは簡単だ。だが、働きかけた理性を本能が抑え込む方が早かった。今はちゃんの話を聞くためだから、と誰にも聞かれていないことを頭の中で釈明し、縮まった距離を保ちながらちゃんへと声をかける。
「は、話したいことって?」
「……えっとね」
「うん」
俺の言葉にほんの少しだけ躊躇うような表情を浮かべたちゃんは、きゅっと口元を引き締め、こちらを見上げた。
「約束を、果たしませんか?」
「約束?」
曖昧な言葉を紡いだちゃんの意図はつかめない。だけど、その真剣な眼差しにいち早く心臓が反応した。ぎゅっと締め付けられるような胸の痛みに促され、ごくりとひとつ息を呑む。
目を瞬かせ、じっとちゃんの言葉を待っていると、ちゃんの頬がほんのりと色づいていくのが目に入った。
――あ、ヤバい。
目に見えた熱が、こちらに倍以上の威力でもってなだれ込んでくる。焦燥は期待に代わり、いとも簡単に鼓動を早めた。
もしかして、ちゃんの言う約束は、写真を一緒に撮ろうってことなんじゃないだろうか。ぱっと頭に思い浮かんだのは、初めて言われたときからずっと頭の中にあった言葉だった。
「その、写真のことなんだけど。前に言ったじゃない? 今度一緒に撮ろって」
「あぁ、うん。覚えてるよ――約束、したもんね」
とうとう、来た――。
漠然と予兆はあった。いつになく言葉を濁すちゃんに、〝もしかして〟が頭を掠めた。言われる前から期待に膨らんでいた胸の奥でファンファーレが鳴り響く。
江崎のからかいの言葉が発端だったからこそ、実現するのかしないのかそわそわとしてしまい、何度もちゃんの姿を目で追った。いつもほかの女子に囲まれているちゃんに、声をかけることはできても誘い出すことなんてできるはずもない。だから、今、こうやってちゃんの方から声をかけてくれたことが嬉しくてたまらない。
ドギマギとした心境を抱えたまま、ちゃんの表情をじっと見つめる。ただ次の言葉を待つ。それだけなのに、必要以上に目に力が入っていくのを自覚した。
「だから、樹くんがひとりになったら声かけてみよって思ってて、今かなって」
横髪を指先で整えるちゃんの耳があらわになる。いつになく赤く染まった耳元に、ドキリと心が跳ね上がる。
――照れているんだ、ちゃんも。
同じクラスの男子ってだけの相手と写真を撮ることを気恥ずかしく思うちゃんが、それでもこちらに踏み込もうとしてくれている。そのことに気がつくと、嬉しい、と飛び上がってしまいそうな心地がした。
だけど、その熱を目にした途端、ひとつの懸念が頭をよぎる。ちゃんの恥じらいを無視してことを進めるのは違う気がする、と――。
自分が浮かれているからと言ってちゃんが同じ気持ちだとは限らない。だからこそ、ちゃんとちゃんの本心を聞いておきたい。
「そう、だったんだ。でも本当にいいの? 江崎の悪ふざけなんだからこっちで対処するし、嫌なら無理して撮らなくてもいいんだよ?」
「樹くんは、イヤ?」
自分ひとりが喜んでいるだけで、ちゃんが無理をしているのなら、と逃げ道を用意したつもりだった。だけど、ほんの少し困ったように眉を落としたちゃんは、俺が建前で承諾しているのであって本当は断れないのだと誤解してしまったらしい。
こんな顔をさせた責任は自分にあるのだと思うと、途端に慌てふためいてしまう。
「イヤじゃないよ!」
「ホント? 樹くんの方こそ無理してない?」
「無理なんてしてないよ! 俺もちゃんと写真撮りたいし! だから、こちらこそお願いします、だよ!」
これ以上無い本音を曝け出す。正直、自分の必死さに自分で引いたし、ちゃんも驚かせてしまったことだろう。
――そんなものがなんだ。
俺が、嫌々ちゃんと写真を撮ろうとしていると思われるよりもよっぽどいい。
意気込んで伝えた俺をまん丸な瞳が見上げる。数度、まばたきを繰り返したちゃんは、良いよって言われて初めて〝ちゃん〟と呼んだときと同じようにふにゃふにゃとやわらかく笑った。
「ありがとう、樹くん」
「――うん!」
別に告白をして恋が実ったわけじゃない。だけど、今、この瞬間に向けられた笑顔は格別だった。
今、俺はちゃんと同じような顔をしているんだろうか。いや、むしろもっとだらしなく笑っているかもしれない。それでも、さっきみたいに妙な気を回して取り繕って、自分の本意とは違う意図で伝わるよりはいい。
ちゃんを前にすると自然と笑顔になってしまうのはもう隠しようがないのだから、ここは素直に自分の心に従おう。
「じゃあ。ゴミ捨て終わったらお願いしてもいい?」
「もちろん! どの辺で撮ろうか。俺、いつも部活ですぐに帰っちゃうからあんまり学校の中のこと詳しくなくて」
「ふふ、そうだよね。樹くんが駆け足で校舎出るところたまに見かけるよ。私は逆にパート練で校内うろつくから結構詳しいかも。そうだなぁ……次、昼休みだし家庭科室とかある方の校舎ならひと少ないかな?」
「あぁ、たしかに。後で見に行ってみよう」
「うん!」
次の行動が決まると並んで歩く足が自然と速まった。それは俺だけではなくちゃんの足下にも現れる。気が急いているのは、自分だけじゃないのだと思うとそれだけで口元が緩むようだった。
ゴミ捨て場に袋をまとめて放り込み、ちゃんと連れだって別校舎へと足を進める。人の流れに逆らって歩いているむず痒さに当てられてちゃんへと視線を流せば、同じタイミングでちゃんがこちらを見上げた。
目が合うと、自然と笑いあう。その反応の良さが心地よかった。
「このあたりなら、大丈夫かな?」
別校舎の中までは入らず、外側を窓伝いに歩くちゃんが、柱の出っ張りを前に足を止めた。くるりとこちらを振り仰いだちゃんに、いいよ、という代わりに頷いて返す。
ポケットを探るちゃんが携帯電話を手にしたのを目にし、またひとつ心臓が疼いた。
「じゃあ、ちょっと失礼します」
「あ、うん。じゃあ俺も」
窓を背にふたりで肩を並べようとしたが、くっついて立つと結構身長差があることを思い知る。さっきまで並んで歩いていたというのに、あまりの近さに浮かれて気づけなかったらしい。改めてその現実を受け止めるとなんだかそわそわしてしまう。
――パーソナルスペースって言うんだっけこういうの。
最初の出会いからそんなもの無視して触れ続けているけれど、こうやって明確な目的と共に落ち着いた状態で近づくのはまた違った感覚が降りかかる。居心地が悪いわけではない。むしろこの状況が続けば良いと願っているほどなのに、落ち着かない心境に唇の端がむずむずとする思いがした。
「ちょっとしゃがんだほうがいいかな」
「あ、うん。お願いします」
膝を曲げることでちゃんとの身長差を縮めれば、当然ちゃんとの距離感も近くなる。それでも必要以上に近づいて、朝の教室でふたりきりになった時みたいに暴走してはいけない。戒めが頭をよぎれば〝あともう少し詰めた方が良いよな〟と思いつつも、それ以上踏み込むことは出来なかった。
携帯電話を掲げたちゃんは、インカメラを鏡代わりに使って自分たちの姿を確認する。収まりの悪い姿を目にし、きゅっと唇を結んだちゃんがこちらを振り仰いだ。
「もうちょっと、くっついてもいい?」
「え? ――あ、うん」
写真を撮るんだから俺も協力しないといけない。先程の遠慮は捨てるべきだと判断し、総動員した理性と共にちゃんの方へと身を寄せた。結果、髪の毛がふれあうほどに距離が詰まる。思ったよりも近づきすぎてしまったことで反射的に腰を浮かせば、俺がしゃがみ足りない分を埋めようとしたのか、隣でちゃんが背伸びをした。
一層、縮まった距離に身体が硬直する。だが、その距離感に慣れるよりも早くバランスを崩したちゃんが俺の左肩にぶつかった。
「わ、ごめんね? ぶつかっちゃった!」
「ううん! それより大丈夫? 頭、痛くなかった?」
「平気だよー」
「そっか。よかった」
ぶつけたばかりのこめかみを指先でさするちゃんは、照れくさそうに笑う。その笑顔を、つい最近も間近で見たことを思い出せば、ドキリと胸の奥が響いた。こちらを横目で見上げたちゃんは、ほんのりといたずらっぽく口角を上げる。
「肩と頭をぶつけるのは縁起悪くない?」
「ッ――! 悪くないよ!」
俺が今、思い浮かべたばかりの記憶とまったく同じものを思い出してくれたらしいことをちゃんの言葉で知る。不意に仕掛けられた駆け引きは簡単に俺の胸の内を穿つ。
「ほら、写真撮ろ。ちょっとしゃがむね」
「ふふ。はーい」
頬に差す熱を誤魔化すように手の甲で拭い、やけっぱちにも似た宣言を口にする。だって背伸びさせて、またちゃんが転びかけたらよくないし。そうやってまたひとつ言い訳を重ねて、改めて腰を落とした。
インコース高め。ここがホームベースなら投手にデッドボールを要求していると思われてもおかしくないほどちゃんに接近する。
あまりの距離の近さに顔を動かすことも出来ない。目の端でちゃんがこちらを確認するのが目に入ったが、身体は硬直したままだ。
「じゃあ、撮ってみるね」
「うん。お願いします」
ぎこちない言葉を返せば、手のひらを翻したちゃんがインカメラから外側のカメラへと持ち替える。画面も見ずにどうやって撮るんだろうと内心で首を捻る俺とは裏腹に、ちゃんは慣れた手つきでカメラを操作した。パシャリ、という高い機械音と共に、下げていた腰を戻す。
「撮れた?」
「うん。でももう何枚か撮ってもいい?」
「念のため?」
「そ、念のため」
ふふ、と笑うちゃんに照れくさいような、それでいて浮き立つような心地が沸き起こる。またカメラを掲げたちゃんを横目に、先程と同じように膝を曲げた。腕の角度を上げながらこちらへと身を傾けたちゃんにならい、俺もまたカメラに収まろうとちゃんの方へと頭を傾ける。肌が触れたわけじゃない。それでも人が近づけば熱は伝わってくる。意識がちゃんの方へと傾いているせいか、なおさらその熱を強く感じた。
言葉の通り、念のためと何枚か写真を撮ったちゃんが、ひとつ身じろぎを挟んで腕を下ろした。こちらを振り返ったちゃんと、至近距離で視線がかち合う。
「これだけ撮れば大丈夫かな? ありがとう、樹くん」
「いや、うん。どういたしまして」
頭を揺らして応じながら、そっと口元を手のひらで覆い隠す。カメラを前にして緩みきっていた表情を今更取り繕ったってどうしようもないのだが、曝け出したままではいられなかった。
写真写りの確認を始めたちゃんがこちらに携帯電話を傾けたのを目にし、俺もまた横から覗き込む。数枚の写真。そのどれもにちゃんはいつもの笑顔で映り込んでいた。
一方の俺は、睨むような視線になっていたり、必要以上に唇を引き締めていたりと散々な有様だった。唯一、最後に撮った写真だけは、まともに見られる仕上がりと言えた。
――ちゃんと一緒にいるときの俺は、こんな顔をしているのか。
そこに写っていたのは、朝、鏡の前で顔を洗う時とはまるで違う表情だった。もちろん、学生証用の証明写真や、シニアの集合写真とも違う。紅潮した頬を隠しもせずちゃんの隣で笑う俺を、きっと誰が見ても隣に立つ女の子に恋をしている顔だと判断することだろう。
こんな写真が出回ったらとんでもないことになる。だが、せっかくちゃんと写った写真を消してと頼むのは惜しい気がして、結局なにも言えず悶えることしか出来ない。身内に生まれた熱を飲み下し、それでも足りない分を手のひらで拭うように首元に押しつける。
俺の心の中での騒乱なんて気付かないちゃんは、こちらへと携帯電話を差し出した。
「樹くんもちゃんと見る?」
「ん、あぁ。横から見たから大丈夫だよ」
「そう?」
「うん。でもさすがだね。ちゃんはどの写真も安定して、か……」
――かわいいね。
言いさした言葉を慌てて飲み込む。ドギマギとした心境に後押しされ、素直な感想を口にしそうになった。中途半端に言いかけた俺を不思議に思ったのだろう。ちゃんがきょとんとした顔でこちらを振り返った。
「や、その、安定してるなって」
「友だちと撮ること多いから慣れてるんだ。――樹くんだってどの写真も樹くんらしいよ」
「味があるとかそういうのでしょ?」
照れくささに負けて自虐めいたことを口にすると、ちゃんは眉尻を下げ、「あー……」と間延びした声を発した。否定はしてくれないのかとやさぐれかけた俺に、ちゃんはいつものように相好を崩した。
「ふふ。でも私は好きだよ。樹くんのそういうとこ」
その言葉はすべて耳に入っていた。だが、ちゃんの〝好きだよ〟という言葉だけが強く耳に残る。好かれた内容は二の次に、つい先程まで沈みかけた心地がいとも簡単に有頂天へと導かれた。
高揚した気持ちに促されると、腹の底から熱が生まれるようだった。膝を伸ばし、ちゃんから距離を取る。それだけでは足りず、顔を背けた。
「あのさ、ちゃん」
「なぁに?」
「その、写真さ。よかったら、もらってもいい? あ、ほら、もしかしたら江崎に見せろってまた絡まれちゃうかもしれないし、その時、ちゃんとこ直接押しかけるよりはいいかなって」
「うん、大丈夫だよ」
「そっか。じゃあ……」
浮かれた心地を制御できないままに捲し立てた言葉をちゃんはすんなりと受け入れてくれる。逸る心境を抱えたままズボンの後ろポケットに入れていた携帯電話を取りだし、赤外線で送って、と言いかけたところで、ちゃんの携帯電話が差し出された。
「じゃあ、メールで送るから樹くんのアドレスここに打ってくれる?」
「え?」
「ん?」
目を丸くした俺を見上げたちゃんは軽く首を傾げた。俺の動揺を知らないちゃんは、不思議そうな顔をしたままだ。
――いいんだろうか。こんなにもあっさりとちゃんのメアドを手に入れても。
ちゃんからのメールが俺に送られてくるということは、当然メアドもついてくる。いつか聞けたら、なんて思わなかったわけではない。だけど、今じゃないな、もう少し仲良くなってからだな、と遠ざけていた。
一緒に写真を撮っただけでなく、ここまで踏み込んでしまっていいんだろうか。突然差し出された僥倖を受け止めかねた俺はちらりとちゃんへと視線を向ける。ほんのりと浮かんだ困惑を目にしたちゃんは、あ、と小さく言葉をこぼした。
「先に連絡先ごと交換した方が早いかな?」
「う……そ、そうだね。直接打ち込むよりはね、簡単だと思う」
「だね。ちょっと待ってね。先にそっちの準備するから」
俺の抱えた困惑は、まったく違う意図でちゃん伝わった。どうやらちゃんはクラスメイト相手に自分の連絡先を知られることに抵抗がないタイプらしい。
――女子ってもっと警戒心が強いものだと思っていたんだけどな。
中学のころ、友人が好きな女子に勇気を出して聞きに行っては玉砕する姿を幾度となく見てきた俺は、勝手にそんな偏見を抱いていた。だが、それもひとそれぞれ、ということなんだろう。ちゃんが気にしていないのなら、俺も気にするまい。
「送ったよー」
慣れた手つきで携帯を操作するちゃんはさらりと俺と連絡先を交換すると、そのまま撮った写真をすべてこちらへと転送してくれた。いつも耳にする初期設定の通知音が、このときばかりは特別な音のように聞こえる。
でも、これはあくまで今〝写真を送る〟という理由があったからこそ送られてきたメールだ。これから先、そんな特別な理由がしょっちゅう生まれるとは限らない。次の約束を手に入れることが難しいのであれば、後から悩むよりも今のうちに別の提案をするべきだ。
「ちゃん!」
「ん?」
携帯電話に落としていた視線を俺へと差し向けるちゃんの真っ直ぐな視線に怯んでしまう。だけど、踏み込むと決めたからには進まないと男じゃない。
「その、俺、あまりマメな方じゃないんだけど……たまに、メールしてみてもいいかな?」
「ホント? じゃあ私もなにか話したいことができたら樹くんにメールするね」
俺の意気込みを意に介することなくちゃんはあっさりとした態度で〝いいよ〟と口にした。自分にとってはかなり勇気を出したアプローチだったのに、と拍子抜けしてしまう。
――でも、まぁ、断られるより全然いいや。
ちょっとだけ沈んだ気持ちを立て直し、うん、とひとつ頭を揺らした。これでいつでもちゃんにメールをしてもいいという免罪符を得たことには変わりない。
送られてきたばかりのちゃんからのメールに目を落としていると俺を見上げるちゃんがほんのりとはにかむように笑ったのが横目に入る。
「ん? どうかした?」
「うん。……私もね、樹くんにメール送ってもいいかなって聞こうと思ってたから。樹くんに言ってもらえたの、すごく嬉しい」
口元に手の甲を押し当てたちゃんは眉をふにゃりと下げて笑う。それを見た途端、一瞬で体中に火がついたような錯覚に陥った。胸の苦しさは簡単に息も出来ないほどに膨れ上がっているのに、その理由を作ったちゃんから目が離せない。
目の前で笑うちゃんを、好きだと思った。その笑顔に、自分の言葉がそうさせたのだと思うと誇らしいようなむず痒いような気持ちでいっぱいになる。胸を突き上げるような愛おしさは初めての経験で、漫画やアニメで知った気になっていた初恋の正体を、身をもって知る。――そしてこれから、きっともっと知っていく。
一方的に勇気を出して踏み込んで、ちゃんが嬉しいと言ってくれた。その成功経験はまたひとつ俺に勇気を出させる理由となるはずだ。
身体に生まれた熱を逃がそうと首の裏に手をやって、襟足をなでつけ風を送る。照れるあまり言葉が出てこず「そっか。よかった」だなんて、気のない返事をしてしまうが、忙しない様子を見せる俺を目にしたちゃんの表情が曇ることはなかった。
「そろそろ教室に戻ろうかな。お互いお昼食べ損ねちゃう」
「あぁ、うん。俺はこのまま食堂に行くよ」
「そっか。樹くん寮だもんね」
「ちゃんはお弁当?」
「そうだよー。じゃあ、途中まで一緒に行かない?」
「うん、そうしよっか」
いつもの校舎の前まで歩いた俺たちは、階段の前で手を振り合って別れた。階段の一番上まで登ったちゃんがこっちを覗き込み、小さく手を振ったのを見送って食堂へと足を向ける。
先程までちゃんと歩いていた名残もあり、いつもよりも緩やかな足取りで食堂へと向かう道すがら、片手に握ったままだった携帯電話をそっと開いた。送られてきたばかりのメールと写真とそれぞれに目を通し、こっそりと保護マークをつけて消えないようにとロックをかける。ただそれだけで体温が上がるような心地がした。
* * *
――やっぱり、かわいいな。
ベッドに横たわったまま、ディスプレイを眺めているとようやくうつらうつらとした心地がやってきた。眠くなると頭の回転が鈍くなる。そんな状態では素直な感想ばかりが頭に思い浮かんだ。
本人を前にしても思うが、写真を目にしても率直にそう感じた。学年でベスト5だと江崎が言っていたが、俺にとっては仲が良いというのを差っ引いてもちゃんが最推しだ。もっともほかの4人の顔は見たことがないので比べようがないのだが、知りたいとすら思わないのだからしょうがない。
写真を眺めていると、じんわりとした熱が左肩に蘇った。左手を畳み、首筋に手をやるとほんの少しだけ首を傾ける。写真の中の俺と同じ角度だな、なんて、思い出すと胸にむず痒さが走った。
江崎に写真を撮ってこいなんて言われた時は絶対に無理だと思ったのに、まさか実現するとは。発案してくれた江崎には感謝しかない。だけど、なんとなく見せるのがもったいない気がして見せられないままでいる。
――まぁ、江崎もちゃんとちゃんの顔は認識しただろうし今更見せなくてもいいよな。
自分の中にそう結論づけて、携帯電話を折りたたむ。手の中にそれを握りこんだまま、深く瞑目し息を吐き出した。
――慣れてるってちゃん言ってたよな。
友人と写真を撮ることに慣れているとちゃんは言った。その友人のひとりに並んだことでひとつの考えが頭をもたげる。その友人の中に、ほかの男も含まれているのだろうか、と。
嫉妬や不安というほど強い気持ちではない。だけど、一度気になってしまうとその考えを無視することは出来なかった。まるで夕飯で食べた魚の小骨がのどに刺さっているのでは、という小さな違和感が拭えない。
痛くはない。だけど気になる。その程度だと流すことさえ出来ず、無意味に咳を払うような、杞憂。
――例えば、はちゃんと写真を撮ったことはあるんだろうか。
小学校のころからの知り合いなのであれば、今よりもっと気軽に写真を撮っていたとしてもおかしくはない。俺が知り得ないちゃんの姿を見たことがあるというだけでも羨ましくて仕方が無いというのに、長い付き合いがあることがいっそ妬ましい。
意味もなくぐるぐると考え出した自分をたしなめるべきだとは思うが、普段のちゃんの姿を思い返すと悩みは尽きなかった。
ちゃんは、よく笑う。相手が以前からの友人であっても、俺のように高校に入ってからの知り合いであっても、変わらない笑顔を差し出した。
江崎も言っていたが、自然に相手に対して笑顔を向けられるようなところが〝ちゃんはモテる〟と思わせる要素なんだろう。ちゃんが言うには、人見知りだからこそ笑って誤魔化しているらしいけれど、それでも無愛想にふるまわわれるよりもよっぽどいい。
入学以来、幾度となく挨拶を交わしてきた。その度に差し向けられる笑顔ややわらかな言葉に、自然と心惹かれた。
目で追うようになって、初めて笑顔も言葉も自分にだけ向けられているものではないと気が付いたが、仲の良い友だちだけでなくクラスの男子相手でも物怖じせず、よく笑って、おはようやバイバイと挨拶をかわすちゃんをいいこだな、と思った。それと同時に〝好きだな〟とも――。
――ベスト5当確、か。
小さく息を吐き、かつて江崎が口にした言葉の意味を考える。アイドルであれば人気に応じてセンターや前列でパフォーマンスができるようになる。だけど学校内で人気があればなにかいいことがあるんだろうか。そのあたりの情報に疎いせいか、いまいちピンとこない。
――単純に競争率が上がる、ってだけならがんばるしかないんだけどなぁ。
きっと、俺みたいに好きになっちゃう男なんてザラにいる。だからといって、勝手に負けた気になって卑屈になるのもおかしな話だ。
そもそも、俺がちゃんを好きだということと、ほかの男子がちゃんを好きなことはあまり関係が無い。ライバルがいても、それ以上に自分ががんばればいいだけの話だ。
ポジション争いと同じような感覚で考えてしまうのは間違っているかもしれないけれど、俺はそうやって戦ってきた。ほかの相手に負けないように、気持ちも、行動も、後悔しないためにいつだって邁進する。俺がちゃんに選んでもらうために、やれることはすべてやる。
深く瞑目し、長い息を吐く。身内に溜まった澱んだ空気を押し流すと、改めて携帯電話を操作した。
遅い時間にごめんね。
今日は練習試合なのに応援に来てくれてどうもありがとう。残念ながら試合に出ることは出来なかったけれど、ちゃんも頑張ってるんだなと思ったら、俺も気合いが入りました。
次、応援してもらえる時は必ず、試合に出ます。
おやすみ!
少し悩んで打ち込んだメールに、誤解をはらむような要素はないかと目を通し、意を決して送信する。もう遅い時間だから、と付け足したおやすみの一言に、身震いするほどの恥ずかしさが襲いかかる。だが、そのおかげか、先程まで体中に張り付くような存在感を示していた緊張は代わりにどこか遠くへ行ってしまったようだ。
――明日、ちゃんと今日の試合のこと話せるかな。
小さな願いが、ふわりと頭を掠めた。いつだって、顔を合わせれば話は出来る。だけど少しでも長く話が出来たら、と思うのは欲張りだろうか。
メールの返事がくればいいのに、と思いながらも、ウトウトと閉じようとする瞼には抗わず、そっと眠りについた。