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部活の練習も一段落したころ。休憩を挟んだ後はそのまま投球練習に入ろうとグラウンドからブルペンへと移動していると、ふと聞き覚えのある音楽が耳を掠めた。運んでいた荷物を抱え直しながら、夕焼けに包まれた校舎を振り返る。
微かに聴こえるその音は、ブラスバンド部が奏でる音楽に違いない。そして、今、演奏されている曲名は――。
「アフリカン・シンフォニー……」
ぽつりと言葉を零すと、隣を歩いていた原田先輩の視線が落ちてきた。左肩にかけた鞄の紐を指先に引っかけ位置を調整した原田先輩は、一瞥を校舎に流しその場に足を止める。抱えていた荷物をブルペン脇に並べ、プロテクターを身に付けはじめた原田先輩にならい、俺もまた自分の防具に手を伸ばす。
「なんだ。お前にも聴こえてるのか」
「あ、はい。少しだけですが」
距離があるからそんなにハッキリとは聞こえない。そんな意図を含み、親指と人差し指の間を1センチほど開いて示せば原田先輩はほんのりと口元を弛めて頷いた。そっと俺から外した視線を、原田先輩は校舎へと真っ直ぐに差し向ける。
その後ろ姿に、ふと記憶が閃いた。目の前の光景と、この前の練習試合で見かけた原田先輩の姿が重なる。そのことに気が付けば原田先輩が遠くの景色に誰の姿を思い描いているのか自然と浮かび上がってくる。
――彼女がいるって言ってたもんな。
鳴さんからの一方的な暴露で知った情報を頭に浮かべる。真実かどうかを確認してはいないが、時折、原田先輩の視線に交じる熱は鳴さんの言葉を裏付けるだけのものがあった。
「この時期になるとよく耳にするから頭の中で鳴ってるだけかと思ったが……やっぱり演奏してたか」
「はい。甲子園でも人気ありますよね。この曲」
たしか応援曲として最初に使い始めたのは大阪の伝統校だったが、その後、別の強豪校が主に使うようになって全国に広まっていたとか。夏の甲子園特集を組まれた雑誌に書いてあった豆知識が頭の隅に蘇る。
今、流れているアフリカン・シンフォニーは、広めた強豪校が奏でる曲とアレンジこそ違えど、音の持つ力は遜色がないほど強さを持っているように聴こえるのは自分の高校への贔屓目だけではないはずだ。
「そうだな。〝打てる打者〟の時に流れるイメージが強いな」
「わかります。この曲が流れると不思議とこっちも力が湧いてくる思いがします。――威厳があるというか、迫力があって、いい曲ですよね」
甲子園のテレビ中継を見ていれば、1日に1回聴かない日がないほどに馴染み深いアフリカン・シンフォニーという曲は、原田先輩の言うとおり強打者が打席に立つタイミングでよく演奏されているイメージがあった。この打者ならきっと、ランナーを帰すことが出来るはずだ。テレビ越しの観客である俺にさえもそう思わせだけの力がこの曲にはあった。
「そう言えば、この曲は誰のリクエストなんですかね? 原田先輩、知ってますか?」
先日の練習試合の時は、イニング中ずっと同じ曲を流したり、チャンステーマに絞ったり、限定された曲目で演奏されていたため、誰がどの曲を選んだのか知りようがなかった。もし先々、自分がブラスバンド部にお願いするときの参考になればと尋ねると、原田先輩はほんの少しだけ唇を尖らせた。
「……俺だ」
「え! そうなんですか?!」
言葉を詰まらせた原田先輩は、顎の下に右手を添え、左頬を抓ることで表情を誤魔化しているようだった。強打者のための曲だという話題に照れたんだろうか。だが、実際に原田先輩はうちの4番なのだから謙遜する必要は微塵もない。
――相変わらず、できた人だな。
感心の意を含んだ息を吐く。そんなに照れたりしなくても、このチームの誰もが原田先輩をチームの柱と認めているというのに。
そもそも原田先輩が頼られているのはなにもバッティングに限ったことじゃない。性格もよく体格にも恵まれた原田先輩はキャッチングやリードの幅も広く、俺なんて入学して以来ずっと勉強させてもらいっぱなしだ。
同じポジションを争ううえで、この上ないほど強大な壁。なにかひとつくらい欠点があったっていいのに、それさえ思いつかないほどだった。
そっぽを向いてしまった原田先輩を見上げ、合わなくなった視線を伸ばしたまま口元を引き締める。
――この人から正捕手の立場を奪うことなんて、きっと出来ないんだろうな。
残された時間がわずかだということを差し引きしても、挑戦することすらおこがましいような気さえする。
主将として、四番打者として、正捕手として。常にチームを背負う原田先輩を見上げたまま、来年、再来年のことを考える。自分が三年になった時、原田先輩のように振る舞うことが出来るんだろうか。2つしか年の変わらない偉大すぎる目標を前に思わず尻込みしてしまう。
――まだぶつかってもいない壁に怯んでどうする!
原田先輩を尊敬するあまり、気弱な考えが頭にチラついた自分を叱咤する。
負けて当たり前じゃない。いつか、その背中に追いつくと、走り続けなければ俺が稲実に入った意味が無くなってしまう。技術で劣っている分、気持ちまで折ってしまうものか。
気持ちを新たに、きゅっと下唇に噛みついた。つられて引きしまった表情を一瞥した原田先輩は、ほんのりと口元を緩める。
「まぁ、俺はあまり流行ってる曲は知らないから定番曲から選ばせてもらっただけだがな」
「なるほど……そういう選曲方法もあるんですね」
「そういえばこの前の練習試合の時にも聞いたが、多田野はそろそろ決めたのか?」
「いえ、実はまだ決めかねていて……」
頭を横に振って否定すると、原田先輩は「そうか」と頭を揺らした。
「まだ期限まで日はあるとはいえ、ブラスバンド部にも練習してもらうんだ。悩みすぎて決めれないなんてことにならないよう気をつけろよ」
「はい!」
原田先輩の忠告に頭を大きく揺らすと、原田先輩はこちらを一瞥し、腰を下ろして足にレガースを巻き始めた。
背番号をもらった際、原田先輩だけでなく福井さんにも打席に立った時のテーマを決めておくよう言われたことを思い出す。
――矢部さんが「俺は絶対に〝会いたかった〟にする!」って言ってたし、それ以外で選ばないとだよなぁ。
最近では結構、アイドルソングも応援歌として選ばれているからこそひとつ選択肢が潰れたところで困ることはない。だが、どうせ選ぶならまゆゆのソロ曲か、今流行っているアニメの主題歌化でいいのがあれば、と探してはみたものの、まだどれもピンと来ていないのが実情だった。
ひとつ息を吐き、レガースに手を伸ばす。片膝をついてしゃがみ込み、ふくらはぎにバンドを回していると、ふと、ちゃんに宣言された言葉が蘇る。
――でも多田野くんが好きな曲なら絶対に探し出してみせるから!
実際に聞こえたわけではないのに、あの日の声が耳に触れた気がして、その気恥ずかしさを誤魔化すように耳の裏を指先で引っ掻く。
――あの時はまだ〝さん〟だったっけ。
まだ今みたいに毎日話すような仲ではなかった。だけど、ちゃんは入学式以来、ずっと変わらない笑顔を俺に向けてくれる。
それがちゃんにとっては〝命の恩人〟に対する対応だとしても、好意的に振る舞われれば、俺もまたちゃんに対してどんどん親しみを感じていった。〝気兼ねなく話が出来る女子〟から〝好きな女の子〟へと移り変わったのは、俺にとっては自然な流れだった。
そっと、記憶を辿る。初めて学校の外で出会った夜。偶々、ランニングに出た先で鉢合わせたちゃんとのやりとりを鮮明に思い出す。
友だちと一緒に帰っていたのに、俺と喋るからって残ってくれたちゃんを思い出しては身悶えするような心地に陥った。あのとき、〝友だちじゃなくて俺を選んでくれたんだよな〟だなんて自分の都合のいいように考えてしまう。
特別な話なんてしてないのになんだか無性に楽しくて、別れ道が名残惜しいだなんて想いに後押しされて振り返ったら、ちゃんもこっちを振り返ってくれた。
布団の中に入った後も、何度もその日のちゃんとの会話が頭を掠めた。余計なことを考えないようにとバットを振り込んだのにまったく意味が無かった。頭の中はちゃんでいっぱいだった。
いいこだな。また喋りたいな。そんなことを思いながら眠りについた朝は、いつもよりもすっきりと目が冴えたんだっけ。爽やかな朝だなんてガラにもないことを考えては、また今日も話が出来たらいいな、だなんて胸を温めた。
好きだなんて自覚してなかっただけで、あの夜にはもう、きっとちゃんのことが好きだった。きらきらとした思い出を胸に抱くと、簡単に口元は綻ぶ。
――自分が指定した曲を、もしスタンドでちゃんに演奏して貰えたら。
想像しただけで胸の奥が熱くなる。普通に応援してもらえるだけでも嬉しいのに、打席にいる時にちゃんが俺を応援するための曲を奏でてくれるなんてこんなに心強いことはない。
もちろん、他の人が応援してくれることも心強いことに変わりは無いが、好きな女の子からの応援を特別視してしまうのは仕方の無いことだ。そんなことを口にしたらまた鳴さんに「女子がいるからって張り切んなよ!」なんて罵声を浴びせられるんだろうけど、俺が勝手に胸の内を暖めているだけなら問題は無いだろう。
胸の奥が詰まるような心地に後押しされ、ふ、と息を吐く。そのまま視線を原田先輩に流せば、身支度を調えてなお腰掛けたまま校舎へと視線を向けていることに気付く。きっと原田先輩は、遠くから聞こえてくるアフリカン・シンフォニーの音色に耳を傾けているのだろう。
俺と同じように、原田先輩もブラスバンド部にいるという彼女のことを思い浮かべているのだろうか。
先輩相手に恋バナを仕掛ける度胸はないが、一度頭に思い浮かべるとそわそわと気にしてしまう。話題に出したところで、「お前もいるんだろ」だなんて返り討ちにされる未来が目に見えているからこそ口には出せないが、原田先輩と校舎を見比べてはいっそ聞いてしまいたいような心地に陥った。
――原田先輩には、ブラスバンド部に好きな子がいるってバレてるんだもんな。
ちゃんとふたりでいるところを見られて以来、鳴さんからはちょくちょくからかわれるようになってしまったが、基本的には俺をイジることに徹しているためちゃんの話を聞かれることはほぼなかった。
一方、原田先輩はというと、話題に出されることはほとんどないが、「そろそろ告白したか」なんてド直球な確認をされたことがある。もちろん答えは「いいえ」だったが、確認されるとどうしても焦ってしまう。
もしかしたら原田先輩には俺があの日、ちゃんに告白しようとしていたことさえもバレているのかもしれない。経験の差というか、年の功というか。打席に立つ俺が待っている球を読まれるように、原田先輩には何もかもお見通しなのではと勘ぐってしまう。
――告白、したいなぁ。もう本当に、ちゃんのことが大好きなんだもん。
今、思い返せば一緒に写真を撮った時に気持ちを伝えることは出来たのだが、あの時は写真を撮ることで頭がいっぱいで告白どころじゃなかった。
そのあとも、移動教室やゴミ捨ての帰りにふたりきりになるタイミングがあるにはあったが、何となく「今じゃないな」という予感を前にしては口を閉ざしてしまい、運良く朝練後に教室でふたりきりになったとしても口にするタイミングを伺っているうちに中間試験を目前に登校時間を早めたがやって来たりと、小さなチャンスを目の前にしてはそのどれをも逃してしまっていた。
一度逃してしまうと「あの時よりももっといいタイミングで」なんて欲張ってしまい、結果、ふたりきりになっても口に出来ないでいる。
――また前みたいランニングの途中で偶然会えるのが理想なんだけどなぁ。
ランニング中なら他の人の邪魔が入る可能性も低いし、もしちゃんが誰かと一緒に帰っていたとしても〝また俺と話すことを選んでくれたら告白しよう〟だなんて小さな賭けを挟みやすいという利点があった。
とは言え、特に寮を出る用事もないので、自主練でランニングをするにしてもグラウンドの中を走り回ることを選ぶほかないのが現状だ。ままならないなと嘆いてみたところで何も変わらないのなら、次の機会を虎視眈々と狙い続けていくしかないと自らを奮い立たせた。
そうこう考えているうちに、防具のすべてを身につけ終えたことに気がつき、ふぅ、と肩から力を抜くように息を吐き出した。
今まではタイミングがなかっただけで、俺の想いはすでに決まっている。いつか必ず想いを伝えてみせる。その気持ちはとりあえず胸の奥に仕舞い込み、今は部活に集中しよう。
いくら休憩中とはいえ、部活中に浮ついたことを考えてしまった。自らをたしなめるように頬を打てば、音に反応して振り返った原田先輩はぎょっと目を丸くしてこちらを見つめた。
「急にどうしたんだ、多田野。虫でもいたか?」
「いえ、少し自分がたるんでいるような気がしたので気合いを入れ直しました」
「真面目だな。だが今は休憩時間も兼ねているんだからあまり気負いすぎるなよ」
「はい!」
原田先輩の労いの言葉を、頭を揺らして受け入れる。手近においたペットボトルに手を伸ばし、一口、水を口に含んだ。喉を鳴らして飲み込んで、そのまま視線を校舎へと向ける。
いまだ流れ続けるアフリカン・シンフォニーに耳を傾ける。時折、混じる高音はトランペットの音色だろうか。音色の種類に詳しくないが、きっとこの音のどれかにちゃんの奏でる音が混じっている。
そうだといいな、という思いが強いだけなのは重々承知している。だけど、普段のちゃんの生活態度を思えば、部活に手を抜くような子じゃないと知っている。きっと今、この瞬間もちゃんは部活に精一杯取り組んでいるはずだ。
ちゃんがトランペットを吹く姿を想像する。ただそれだけで心の奥に熱が生まれた。今日の練習も後半に差し掛かり疲れていたはずなのに不思議と活力が生まれてくる。
練習が終わったらメールを打とう。聞こえた音に、ちゃんを感じて励まされたことを伝えたい。
以前、練習試合でちゃんがメールをくれた時に抱いた感情を思い出す。俺が野球を頑張っているのだと認めてくれたちゃんの言葉がどれだけ励みになったか。その一端でも伝えることが出来たなら、少しはちゃんの力になれるんじゃないか。
俺が送るメールにそんな力があると過信は出来ないが、ちゃんとはそうやって励まし合っていける関係になりたい。ただ、そう願った。