春恋17

17


 起床時間を告げるアラームが鳴る。耳元で緩い振動と共に鳴動する携帯電話を手繰り寄せアラームを解除すると、溜息をひとつ吐きこぼした。仰臥したまま、携帯電話を握った腕を目の上に当てると、目元が隠れたことでカーテンの隙間から射す陽光による痛みが和らいだ。
 腕を額へとずらし、薄ぼんやりと二段ベッドの天井を眺める。板と板の繋ぎ目を見つめながら、もうひとつ溜息を吐きこぼした。
 ――全ッ然眠れなかった。
 一睡も出来なかったというほどではないが、普段の眠りに比べたら浅いってレベルじゃないほど寝付けなかった。
 深夜を過ぎ、みんなが寝静まったころようやく眠気が来たかと思えば、浅い眠りの中、ちゃんが夢に出てくる度に跳ね起きた。
 シチュエーションは様々だった。教室で、廊下で、帰り道で。変化する場面を背に、いずれも俺とちゃんがふたりで話しているシーンから始まることだけが共通していた。
 和やかに向かい合っていたはずなのに、ふと、気がついたらちゃんの姿が目の前から忽然といなくなる。慌てふためき探してみれば、ちゃんがこちらに背を向けてどこか遠くへと歩いていた。
 遙か遠くにある姿が次第に遠ざかっていくのを目の当たりにした途端に目が覚めたのもあれば、その背中に辿り着くまで追いかける中で力尽きた瞬間に手のひらを伸ばしたまま夢から覚めたものもあった。
 どちらにせよ、結末はすべて同じだ。どんなに走っても、どれだけ手を伸ばしてもちゃんには届かない。走る夢を見たせいだろうか。身体中から大粒の汗が滲んでいる。
  
「……寝汗、ひどいや」

 ぽつりと言葉をこぼせば自然と自嘲の笑みが浮かび上がる。

「なにか言ったか、樹」
「あ、いえ! なんでもありません!」

 同室の先輩の声が頭上から落ちてきた。慌てて取り繕えば「そうか」とあくび混じりの声が返ってくる。追求されなかったことに安堵の息を吐き、冴えた目をこすりながら朝練の準備をするべく二段ベッドから這い出た。

* * *
 
 俺が落ち込もうが失恋の憂き目に遭おうが容赦なく日常は過ぎていく。いつも通り朝練をこなし、朝ご飯を胃に流し込めばすぐに登校時間がやってきた。
 鳴さんの罵声ともからかいともつかない暴言から逃れ、のろのろと着替えては杉や江崎に先に行くよう促し、用もないのにコンビニに立ち寄り、それでも遅刻する選択肢だけはとれなくて観念して教室へと向かった。
 閉ざされた扉を前に、大仰な溜息を吐き出した。最終関門を目の前に身体が硬直する。このドアをくぐればちゃんと対峙しなければいけないと思うと、どうしても容易にくぐることが出来ない。
 つい先日、ちゃんとふたりきりになったことを思い出しては胸の奥が喪失感に震えた。泣きそうなのか次第に険しくなる表情を手の甲で拭い感情の立て直しを試みたが、一向に気持ちは晴れなかった。 
 ドアの前に立ち、なにかを思い出した素振りを演じては教室の前から立ち去った。だが、根本的な解決に至るはずがなく、二回も繰り返せば周囲の目が気になり始める。
 ――本当に、そろそろ踏ん切りつけないとな。
 いくら抗ったところで授業をサボるわけにはいかないのだから、適当なところで見切りをつけるしかない。ひとつ息を吐き、意を決して教室のドアを開いた。
 自然と俯いていた顔を起こし、そっと視線を伸ばすと難なくちゃんと視線がかち合った。ドキ、と胸の奥が締め付けられる感覚が走る。失恋を自覚してもなお、簡単にちゃんに心が傾いた。
 諦めの悪い自分の本心と向かい合うことが出来ず、唇を噛みしめる。控えめに手のひらを振ったちゃんに、いつものように同じ動作を返せず逃げるように視線を逸らした。
 顔を上げられないままのろのろと自分の席、つまりちゃんの隣の席へと足を運ぶ。
 席替えでちゃんの隣になったことを喜んだのが嘘みたいに気が重い。こんなことになるならと席を替わらなければよかったと嘆いてしまいそうだ。
 だが、俺が替わらなかったとしてもの方はそうはいかない。視力という折り合いのつけようがない事情がある以上、きっと別のやつと席を替わったはずだ。そうなれば、今、俺の座る席に別の男が座り、ちゃんと親しくなる未来があったかもしれない。
 ――それだけは、絶対にいやだ。
 フラれてもなお、ちゃんが他の男子と仲良くしている姿を見るのは死んでもごめんだと思っているあたり、本当に往生際が悪い。偽りのない本心にほとほと嫌気が差すが、浮かび上がる心境は制御できない。重い溜息を吐いて頭を抱えたところで、ちっとも誤魔化せた気がしなかった。
 いつもの二倍近くの時間をかけてようやく辿り着いた自分の席に腰掛けると、いつものように明るい声が飛んでくる。

「おはよう、樹くん」
「ああ、うん。おはよ」

 気兼ねなく差し出される挨拶が今だけは苦しい。昨日までは心置き無く受け止めることが出来た笑顔を〝ちゃんは鳴さんが好き〟という情報がひとつ加わるだけで真正面から向かい合うことを恐れてしまう。
 ぎこちない返答になってしまった俺とは裏腹に、ちゃんは普段と変わらない笑顔を浮かべている。むしろいつもよりも嬉しそうに見えるのは、自分の気持ちがこのうえなく落ち込んでいるからこそ、その差を感じているからだろうか。

「ねぇ、樹くん――」
「……ごめん。俺、ちょっとに聞きたいことがあって」
「あ、そうなんだ……。うん、それじゃ、いってらっしゃい」

 話を遮って立ち上がった俺を見上げたちゃんはほんのりと眉尻を下げた。
 感じが悪い対応をした自覚がある。落ち込んだように見えるちゃんの表情に心がじくりと痛むままに、自然と腕が持ち上がった。だが、ちゃんに触れる寸前で自分の方へと引き戻す。
 ――ごめん、違うんだ。ちゃんを傷つけるつもりはなくて、ただ、今は少しだけ自分が情けなくて……。
 差し出せない言葉が胸を詰まらせる。結果的にちゃんを避けるようになってしまったのは、今朝見た夢のかけらが頭の奥に残っているせいだった。
 遠く離れていくちゃんの姿を思い出すだけで心が締め付けられる。今、ちゃんに触れてしまったら、腕を引くだけでは済まない。どこにもいかないでと抱き寄せて、縋り付いてしまいそうだった。

「それじゃ、行ってくるね」

 視線を合わせられない分、極力、優しい声になるようにと気を払い言葉をかける。ちゃんがどんな表情をしているのか確認しないまま、カモフラージュに掴んだ数学の教科書を片手に教卓の前へと足を運んだ。
 駆け足に近い速度での席へと向かうと、頬杖をついて参考書を眺めていたは俺の出現に驚いたように目を開く。
 
。ちょっと、いい?」
「多田野じゃん。なんだよ、珍しいな。いっつもこの時間、としゃべってデレデレしてるのに」
「デレデレとかしてないから……」

 遠慮のないの先制パンチに肩を落とす。だが少ない交流の中でも存分に振るわれたの軽口の鋭さには慣れている。想定の範囲内だったからこそ、必要以上に傷つくことはなかった。

「昨日、ちょっと予習してたらさ、わからない問題あって」

 の冷やかしを難なく躱してみせれば、はへの字に曲げた口元をニヤリと上げた。

「そういうことか。――まぁ、いいか。お前の学力がどれほどのものか知らねぇけど教えるならとことんだからな」
「はは。お手柔らかにお願いします」

 眼鏡の縁を抑えながら、背後を振り返ったちゃんの姿を確かめたのかもしれない。そう勘付くと同時にどうしてもちゃんのことが気になってしまう。
 の隣の席に腰掛けながらそっとちゃんへと視線を伸ばすと、カバンの中身を検めていたちゃんが不意に顔を上げた。今朝、彼女の姿を探した時と同じようにすんなりとかち合った視線に、また胸は鈍く痛むだけだった。

 ***

「ちょっと野球部のやつに呼ばれてて……」
に質問の続きがあったんだった」
「ト、トイレ行かないと!」

 ちゃんに話しかけられそうになる度、苦しい言い訳を重ねた。普段ならほとんど席を立たない俺が休み時間の度に席を外すことをそろそろちゃんも不審がっているかもしれない。
 避けないでいつもどおりを装わないと、と思う。だけどまともに恋をしたことが初めてならば、フラれるのも初めてで、ついたばかりの傷の生々しさを直視することがうまく出来ない。ちゃんが普段通りいろいろ話しかけてくれるのも、〝もしかして〟と特別に感じていた分、胸にぽっかりと穴が開いたような心地に陥った。
 自分から逃げ出したくせに席を離れれば、ちゃんの様子が気になってしまう。後ろ髪を引かれる思いでちゃんを振り返れば、ちゃんは前の席の女子と談笑を始めていた。
 ひとつ、息を吐き出した。その溜息が安堵によるものなのか、失意によるものなのか。今の自分には判別がつかなかった。
 とりあえず、と宣言通りにトイレに行き用を足す。普段以上に丁寧に手を洗うことで時間を稼いだが、それもせいぜい1、2分の悪足掻きだ。10分ある授業間の休憩は、まだまだたっぷりと5分以上を残している。
 またにでも声をかけようと教室に入ると、隣の席の男子に真摯に数学の解説をしている姿が目に入る。前の休み時間にも教えてもらったばかりだが、俺も参加させてもらおうと口を開きかけた瞬間だった。

「なぁ、――」
「何回言ったらわかんだよ! この系統の問題はこっちの公式だってさっき言っただろ!」
「ひえっ……ごめん……」
「謝る必要ねぇから覚えろや!」

 突然の罵声に続けるべき言葉を見失う。中途半端にあげた手を背中に隠し、声をかけたことをなかったかのように振る舞いつつも、横目でらの姿を盗み見る。
 青筋を立て怒鳴るにビビるクラスメイトは少なくない。あまりの剣幕に言われていない俺までも首を竦めてしまうほどだった。
 朝、同じように教えてもらった時はそこまで言われなかったが〝やるならとことん〟というのは、俺をビビらせるための方便ではなかったらしい。
 あの場に割って入る勇気があるはずもなく、早々にへの接近に見切りをつけ、ぐるりと教室内を見渡した。他にもよく話す男子はいるが、それぞれがなんだか忙しそうで話しかけることに気後れしてしまう。
 次の時間にある数学を担当している先生は厳しいし、前もって対策を講じているのだろう。俺の方は予習がバッチリとは言えないものの、に教えて貰った分、ある程度の余裕はある。
 首の裏に手をやりどうしたものかと思案するものの、休み時間の過ごし方に悩まされることに慣れていないからそう簡単には代替案が出てこない。
 ――の言うとおり、それだけいつもちゃんにデレデレしてたんだな。
 自虐の意味を込めて、の前では否定した言葉を頭に思い浮かべる。〝ちゃんと話す〟という選択肢をひとつ手放しただけでこうも所在ないものかと溜息を吐き出した。
 なにか理由をつけて自分の席では無いどこかに留まらなければと逃走ルートを探したが、思い浮かぶ言い訳はすべて出し尽くした感がある。
 ――今はタイミングが悪い。こんなに周りが集中しているんだ。俺もみんなを見習って予習でもしよう。
 思い至った結論に抗うことなく自席へと戻ると、前の席の女子と話をしていたちゃんの視線がチラリとこちらへと向けられる。教室を出る前に話しかけられたことを思えば、俺からちゃんに声をかけるべきなんだろう。
 ――だけど、今は他の子と話をしているみたいだし、俺が割って入るのもよくないよね。
 あたかもちゃんのためであるかのように自分自身に言い聞かせながら、視線を交わらせないまま席に着き、すかさず数学の教科書を開いた。真剣に問題に向き合っているのだと装えば、注がれていた視線が外されたことを肌で感じ取る。
 ひとつ、息を吐き出した。溜息に含まれたものが安堵だったのか落胆だったのか。その答えは、きっと誰も知らない。





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