18
苛烈を極める数学の授業が終わると、教室に張り詰めていた緊張が一気に和らいだ。どこからともなく聞こえてくる安堵の息に混じって、俺もまた詰めていた息を吐きだした。
知らず知らずのうちには気を張っていたのだろう。身体から力が抜けると同時に、ゆうべあまり眠れなかったせいか、じわりと眠気が襲いかかってくる。
「ふぁ……」
口元を手のひらで覆い隠し、噛み殺せなかったあくびを零すと、隣の席から控えめな笑い声が聞こえてきた。
「珍しいね、樹くんが眠そうにしているの」
不意に話しかけられたことで心臓は簡単に跳ね上がる。
反射的に左を向けば、両手で頬杖をついたちゃんとすんなりと視線が交差する。いつもと変わらない笑顔で俺を見つめていたちゃんは、かち合った視線を歓迎するように更に笑みを深くさせた。
その変遷を目の当たりにしただけで胸の内がじくりと痛む。成就しなかった恋の欠片がまたその存在を強く主張しはじめると、自然と下唇に噛みついていた。フラれてもなお感じとれるちゃんからの好意を前に、諦めの悪い恋心が募っていく。
「そ、そうかな?」
「うん。樹くんがあくびしてるの、初めて見ちゃった」
首の裏に手をやり恥じるように応じれば、ちゃんはいたずらっぽく口角を上げる。差し向けられる好意の欠片に気付けば、否応なしに胸の奥が甘く疼いた。
――このまま、会話を続けるべきだろうか。それともまたなにか理由をつけて席を立つべきだろうか。
話しかけられて嬉しい反面、逃げ出したいような心境が根底に潜んでいる。前の授業までは、終了のチャイムが鳴る前にはもうすでに頭の中にはちゃんと向き合わずにすむ方法の模索に励んでいたが、予断を許さない数学の授業ではさすがに意識をよそに傾けることは出来なかった。
完全に油断していたせいか、上手い躱し方が頭に思い浮かばない。昨日までなら喜んでその会話に乗れていた自分との落差に胸の奥が詰まる。これ以上、ちゃんのことを好きになったって辛いだけだという自己保身が働けば、気持ちは後者の選択を取りたがった。
――もう一度、トイレに行くとでも伝えてみようかな。
一瞬、頭に浮かんだ選択肢を取ろうかと足の裏に力を込めた。だが、立ち上がる動作には至らず、机の上に投げ出した手のひらをぎゅっと握り込めるだけに留める。
――だけど、もうこれ以上ちゃんを無視するなんて、できないよ。
たった数度、ちゃんからの接触を拒んだだけで、罪悪感が胸の内にパンパンに詰まっている。
いや、罪悪感というよりも後悔に近いかもしれない。ちゃんが話しかけてくれる度に、後ろ髪が引かれる思いで振り切った。それだけ気にしているくせに逃げる選択を取り続けることは困難で、フラれてもなおちゃんに惹かれる想いが尽きないことを自分自身に知らしめるだけだった。
――もう諦めないといけないのに。
ちゃんの好きな人が鳴さんである以上、俺からの好意なんて差し向けられたところで迷惑に決まっている。
もう俺には諦める選択肢を取る道しか残されていない。それでも、わかりきった答えを、どうしても選びたくないと抗ってしまう。
喋るのが辛いのと喋りたくないのとはまったく次元が違うことを身をもって知る。いくら足掻いたところで無駄なのだと悟れば苦い笑みが浮かんだ。
一度視線を外し口元を引き締めると、改めてちゃんへと視線を合わせる。軽く首を傾げたちゃんは口元を弛めたまま俺の返答を待っているのだろう。中途半端で定まらない覚悟を胸に、きちんとちゃんに応じるべく硬い表情を取り繕う。
「あぁ、うん。その、ゆうべは少し、眠れなくて」
見咎められたわけではないと理解しつつも、みっともない顔を見られたかもしれないと思うと自然と言葉が詰まった。作り出したばかりの笑みは、眉を下げればすぐさま浮かないものへと変貌する。
暗い顔をした俺を目にしたちゃんも同じようにほんのりと眉尻を下げたが、瞬きひとつ挟めば緩やかなカーブを口元に描いた。
「練習厳しそうだもんね、野球部。たしかもうすぐ関東大会なんだよね? 早く樹くんの応援したいなぁ」
目を細めたちゃんは、一度顎から離した手のひらを組みなおし、頬に宛てがってはにかんだ。幼い子どもを甘やかすような優しい声音に、性懲りもなく胸は高鳴る。
胸がじくりと痛むのは辛いせいなのか、喜んでいるのか。複雑に絡み合った心境は簡単にほどけそうにない。
返す言葉が見つからないまま、胸のうちに折り重なる恋慕の影が鳴りを潜めるのを待っていると、ちゃんは目を細めてこちらを見つめた。
「私もね、ゆうべはあまり眠れなかったんだ」
「え、そうなの?」
「うん」
ほんのりと口元を緩めたちゃんの真摯な瞳がこちらを見上げる。長い睫を縁取る瞳は、きらきらと惜しみない輝きを放って俺の姿を捉えていた。
――同じ話だといいなぁ。
不意に、ゆうべのちゃんの声が耳に蘇る。同時によぎったのは、それを耳にした際に感じた「確信」だった。
甘い夢を思い描いた。その欠片を思い出すと、途端に胸の奥が疼く。鈍い痛みはゆうべの甘ったるさの欠片もなく、行き場を失った恋心がどこにも行けないとのたうち回り、胸の内を引っ掻くだけだった。深い穴の底を覗き込んでも何も見えないように、展望のない未来への喪失感だけを自分の心に刻みこむ。
もうダメなのだと知っているのに、それでもちゃんの笑顔を前にすると〝もしかして〟を懲りもせず考えてしまう。
期待や妄想は自分にだけ優しい夢を見せる。ちゃんは鳴さんに告白したという事実を知ってもなお、未練がましく誤解したがる自分を戒めるため、握った拳の中に爪を立てた。
「そっか。じゃあ、今日はなるべく早く眠れるといいね」
「うん! でも私だけじゃなくて樹くんもだよ?」
「はは。自主練もしなきゃだけど、できるだけ努力するよ」
努めて冷静に、ちゃんの体調だけを慮る言葉を差し出した。自分の本心をすべてひた隠しにして差し出すことを正解だと思わなければやっていけない。
にっこりと笑ったつもりだったけれど、顔全体が引きつったよう感覚が残る。口の端がぎこちなく歪んではいないか心配になり、口元を手のひらで隠した。
ちゃんは変に思っていないだろうか。ちらりと視線を向けたが、いつも通り相好を崩したちゃんから、何かを感じ取ることは出来なかった。
「あっ、そうだ。私、いいもの持ってきてるんだ」
「ん?」
「眠たいときは甘いもの食べるといいんだよ」
机の横にかけていたスクールバッグを膝の上に載せたちゃんは中を探り、少し大きめの袋を取り出した。赤いパッケージには大きくチョコレートと英語で書かれている。
手にしたばかりの袋を手にしてこちらに掲げたちゃんは、人気アイドルがCMで見せるような笑顔をこちらに向けた。
「チョコ、嫌いじゃない?」
「あぁ、うん。普通に、好きだよ」
「よかった――あ、ちょっと待ってね。アーモンド入りのとイチゴ味と何も入ってないのとあるから……。あった。はい、どうぞ」
「うん、ありがとう」
袋の中を覗き込んで宣言通りの3つを取り出したちゃんに差し出されるがまま、それらを受け取った。同じように揃えたものを前の席の女子にも渡したちゃんの横顔を見つめていると、ふと、女子の視線がこちらに向けられた。
一瞥に対し何らかの反応を示すよりも先にさらりと外された視線に安堵の息を吐き、受け取ったばかりのチョコレートに目を落とす。
プレーン、いちご、アーモンド。異なる味を示す文字を目で追っていると、ちゃんと前の席の子がなにやら話し始める声が耳に入ってきた。
ひとつ息を吐き、肩の力を抜く。もらったばかりだけど、眠気を払うためにもどれかひとつ食べておこうかな。どれを食べようかと手のひらの上で指を迷わせていると、ふと、耳に流れ込んでいた会話が途切れた。
「多田野も」
不意に名前を呼ばれたことで顔を上げると、ちゃんの前の席の女子がこちらに視線を向けていた。ちゃんに渡した流れなんだろう。前の席の子は飴の袋を軽く掲げてこちらに示した。
初めて話しかけられたこと、初の接触が飴をもらうこと、という流れに若干戸惑ってしまう。ちゃんがこちらを振り返っているさまが目に入るとなおさらだった。
「飴、食べない?」
反応を返さない俺に対しさらに言葉を投げてよこした彼女は、早々にこちらから視線を外し、手にした飴の袋に視線を落とすと中身をがさがさと探った。もらったばかりの飴を頬張るちゃんに縋るように視線を向ければ、「もらっておきなよ」と口にする代わりだろうか。ちゃんは口元を緩めながら頭を縦に揺らした。
「ごめん。俺、何も持ってないや」
「いや、気にしなくていいから」
ほんの少し顔を顰めた彼女は、手にした飴を下から投げてよこすと、さっさと自分の席に身体を戻してしまった。もらったばかりの飴を握りこめ、その背中に「ありがと」と投げかければひらりと手の甲が踊った。
――なんか、態度がと似てるなぁ。
ぼんやりと頭に浮かんだ考えに促されるようにへと視線を伸ばせば、また隣の席の男子に怒鳴り散らす姿が見て取れた。
今度は何を揉めているのか見当もつかないが、俺よりもアイツの方にこそ甘いものが必要なんじゃないだろうか。でもカルシウムバーなんて渡そうものなら今度はその矛先が俺に向いてしまいそうだ。
小さく苦笑しの激怒する様から視線を戻せば、自然にちゃんと視線が交差する。意図せず交わった視線は、身体に染みついた習慣のせいだった。
飴が入っているのだろう。右頬を膨らませたちゃんの見慣れない顔つきに、胸の内に暖かな熱が点る。
――甘いもの、好きなのかな。
もらってすぐに飴を頬張ったちゃんは、意外と食いしん坊なのだろうか。まだ知らない彼女の一面を知れたことに思わず口元がほころぶ。手のひらに載せたチョコレートと飴に視線を落とせば、点ったばかりの熱が身体中に広がっていくような心地がした。
もらってばかりじゃ悪いし、今度、何かお菓子を買ってこよう。ちゃんは何が好きなんだろう。やっぱり大袋で買うくらいだしチョコレートなのかな。あ、でもブラスバンド部って人数多いから大きいの買っただけなのかもしれない
ふと、興味が湧くままにとりとめのないことを考えてしまう。だが、それも長くは続かない。フラれたことを思い出せば、ちゃんへの関心は独りよがりな詮索へと成り下がる。
未練がましい想いを抱えたところで報われないと知っているにも関わらず、どうして諦められないのか。自分ですらままならない心境を持て余し、ひとつ溜息を零した。
「ねぇ、樹くん」
「うん?」
呼びかけに顔を上げれば、膝を揃えてこちらに身体を向けたちゃんの指先がこちらへと伸びる。トン、と腕をつつかれれば、抵抗なんて出来るはずが無かった。
「樹くんは、チョコだったらどういうのが好き?」
「どういうのって?」
「えっと、ナッツが入ってるのとか、抹茶味とか。最近だとオレンジが入ってたりとかおしゃれなのもあるじゃない? 樹くんはどういうのが好きかなって」
「あぁ、うん。なるほど」
尋ねられて、改めて普段の自分がどんなチョコレートを買っていたか考える。だがここ最近は自分の意思で甘いものを買った記憶がほとんどなく、咄嗟に思い出すことが出来ない。
店頭で見かけて「美味しそう」と感じた食べものを買うことはあるが、腹が膨れるものを選ぶことの方が圧倒的に多かった。パンや肉まんならどこのコンビニのものが美味しいと提案できるが、それはちゃんの望む答えでは無いと思うと口に出すことがはばかられる。
――疲れてるときには甘いもの、か。
ちゃんの弁を頭の中で反芻しながら頭を傾ける。首を捻ったところでいい案が出てこないのは、自分が疲れたと感じた際に食べようと思うものが主食かおかずなどがっつりしたものが多かったからだ。
特に寮に入ってからは疲れているときこそタンパク質を肉体に変えるチャンスだとばかりにプロテインまでも飲む習慣をつけられた。食育が徹底しているからこそ、甘いものを口にする隙が無い。
「……チョコレートなんて滅多に食べなくなったもんなぁ」
口元を指先で隠しながら視線を机の上に流すと、ぽつりと言葉を零した。子どものころと今との差を思い返してはしみじみと想い耽ってしまう。ちゃんの何気ない会話でもきちんと応えたいと思うのに、なかなか答えが見つからない。
――よく考えたら、最近買ったのはコンビニでコラボがあったときくらいだな。
季節ごとのイベントに起用されたアイドルのキャンペーンだとか、アニメの新クールに合わせてだとか。〝このマークのついた商品を3つ買えば推しのクリアファイルが貰えます〟という謳い文句に引かれてチョコレートを買ったきりだ。
それだって鳴さんに目敏く見つけられればその場で献上するしかなかったが、目当てがクリアアフィルだった俺にとっては〝望まれて食べてもらえるならチョコレートも浮かばれる〟くらいの感慨しか湧かなかった。
好きなチョコレートの話だったはずなのに、チョコレートそのものに深い思い入れがなさすぎて、ないがしろにするようなことばかりを頭に浮かべてしまう。
――甘い卵焼きは好きだけど、チョコレートとはまったく関係ないしなぁ。
自分が一番好きな食べものと関連付けるとしたらどんな料理になるのか。卵焼きの上からチョコレートをかけるのか。あるいは卵焼きを巻く際にチョコレートを流し込むのか。考えただけであまりおいしくなさそうな組み合わせに思わず身震いしてしまう。
改めて他の組み合わせを、というよりもちゃんとちゃんの質問に答えようと考えを巡らせたが、一度思い浮かんだコンビネーションのあまりの強烈さに他の選択肢が霞んでいく。
「……うーん。やっぱり、あまり意識して考えたことなかったからよくわからないや」
「どちらかというと、ってのもない?」
「んー……どちらかというとだったら、シンプルな方が好きかな」
珍しく食い下がるちゃんに驚きつつも、頭の奥で卵焼きとチョコレートの熱いバトルに思いを巡らせていた俺は、やっぱり普通のチョコレートが一番だと結論づける。
「そっか……うん。教えてくれてありがとう」
俺の答えに満足そうに目を細めたちゃんの頬に口の中に残っているであろう飴の形が浮かび上がる。見慣れないあどけなさをまとった表情を目にすれば、ただそれだけでどうしようもない感情が募っていく。
「じゃあ、今度から何も入ってないの買ってこようかな」
「え、どうして?」
「せっかく一緒に食べるなら樹くんが好きなものの方がいいかなって」
耳に髪の毛をかけながらはにかんだちゃんの言葉に心は簡単に翻弄される。喉の奥が詰まるような心地に苛まれれば自然と眉根が寄った。
昨日までならその言葉を手放しで喜べたことだろう。だけど、ちゃんが鳴さんのことを好きだと知ってしまった今では目に見える好意でも真正面から受け止めることができない。
――その言葉だって、友だちとして、なんだよね。
卑屈な考えが頭を過ぎる。初めて経験した失恋にどう向き合っていいかわからなくて、ただひたすらに感情を持て余す。子どものように泣いて暴れることも出来なければ、一晩で受け入れられるほど大人じゃない。
ちゃんが笑いかけてくれる度に募った期待は、折り重ねられた重みに耐えかねたかのようにひびが入り、割れて、崩れていく。
どう応えるのが正解なのかわからないままきゅっと唇を結ぶ。友だちとして振る舞おうにも、ちゃんのことを単なる友だちと認識するよりも早く好きだと気づいてしまったからリセット地点がそもそもないのだ。
「いいよ。俺にあわせないでちゃんの好きなものを食べなよ」
とにかく、以前よりもデレデレしないように意識を傾けなければ。その一心で差し出した言葉は、随分とトゲのある言い方になってしまった。そのことに気付いた瞬間、思わず手のひらで口元を隠したが、一度口にしてしまった言葉を飲み込んでなかったことになんて出来るはずがない。
ごめん、と口にすることも出来ずちゃんの表情を窺えば、いつものように口元を緩めたちゃんはほんのりと眉尻を下げるだけだった。