19
昼ご飯を食べ終え食堂から出ると、空が分厚い雲に覆われているさまが目に入った。今にも降り出しそうな曇り空を目の当たりにすると、ぼんやりと今朝見たニュースが頭に思い浮かぶ。
――そういえば、もう梅雨入りしたんだっけ。
寮の食堂にあるテレビでは、決まって朝はニュース番組を流している。今朝のお天気コーナーでは、気象予報士が6月に入ってようやく東京も梅雨入りしたと宣言していた。
関東一帯に付けられた〝曇りのち雨〟のマークを思い浮かべながら溜息を吐きこぼす。一応、傘は持ってきているけど部活中に降られなければいいな。そんな望みを抱きながら教室へ戻るべく足を進めた。
階段を上る度に薄暗さを増す空を横目に、廊下へと足を踏み入れる。すれ違った野球部員と簡単な挨拶を交わしながら教室へと戻れば閉ざされた引き戸に行きあたった。
手を伸ばしかけた瞬間、指先にピリッとした痛みが走る。同時にいつかの記憶が頭を過ぎればドキリと心臓が締め付けられた。
背中を伝う緊張感に息を呑む。ふとした瞬間に蘇る記憶の残滓に翻弄されるのは何度目だろうか。関東大会中は野球に集中していたため失恋の痛みを思い出すことはなかったが、日常に戻ると途端にその存在が顔を出す。ちゃんと重ねた交流の記憶に触れる度、胸は痛いほどに締め付けられた。
――いい加減、もうそろそろ慣れないと。
間接的にフラれたことを知って既に二週間は経過しているんだ。いつまでも落ち込んでいたってしょうがない。
落ちかけた気持ちを立て直し、きゅっと唇を結ぶと、いつの間にか下がっていた腕を持ち上げる。意を決して引き戸に手をかけたが、力を加える前にスライドするさまが目に入った。
いつか体験したものとまったく同じ事象が起こったことににわかに心臓が撥ねる。期待か、それとも怯えか。両極端の心境のどちらに重きがあるかの判断がつく前に、こちらを見上げるちゃんの姿が目に入れば焦燥だけが身内に残った。
「ちゃん……」
「樹くん?」
驚いたように目を丸くしたちゃんは、呆然とした俺を見上げると同時にその目元をやわらかく緩めた。
「ふふ。樹くんとまたぶつかりそうになっちゃった」
過去に何度かあったハプニングを思い返したのだろう。軽く握った拳で口元を隠したちゃんはやけに楽しそうに笑った。薄く色づいた頬を目の当たりにすると、喉の奥がきゅうっと鳴る。
騒がしくなりそうな心音を抑え込むため視線を逸らすと、引き戸につけられた窓枠が目に飛び込んできた。
――もう少し、低い位置につけてくれてたらちゃんがいるのも見えたのに。
恨みがましいような感情が浮かび上がれば自然と唇は尖った。俺の目線の高さにつけられた窓枠は、ドアの正面に立たれるとたいていの女子の姿は隠れてしまう。
前にぶつかったときも、ちょうど死角にちゃんがいたんだよな。思い返すと同時に懐かしさと共にあの日の後悔がまたじんわりと胸に蘇る。暖かく鈍い痛みを伴う追憶にぎゅっと拳を握りこんだ。
「そうだ。ねぇ、樹くん。少し樹くんと話がしたいんだけど……今、時間もらってもいいかな?」
「え? うん、大丈夫だよ」
静かに積もる恋情から目を逸らすべく気を払っていたため、ついうっかりとちゃんからの相談を受け入れてしまう。
ちゃんが鳴さんに告白したという話を耳にして以来、ちゃんに話しかけないように、でも無視しているとは思われないようにと、バランスを保って接していた。大会期間中、顔を合わせない時期があったおかげでようやく近付きすぎない距離感に慣れてきたというのに、ここに来て以前と同じように距離を詰めてしまうのでは今までの努力が水の泡だ。
やっぱり無理だ、断るべきだと頭の中で警鐘が鳴る。だが、引き返す選択肢を前にしても、そこに手が伸びることは無かった。
「ありがとう。それじゃ、よかったら外に行かない?」
「外?」
思いのほか遠くへ連れ出されることを宣言されて思わず怯んでしまう。距離を歩くとなると、必然的にふたりきりになる時間は長くなる。ほんの少ししゃべるだけでまだちゃんが好きだと自覚し現実に打ちのめされるというのに、さらに長い時間を過ごすと確定してるのなら感情の揺り戻しが起こる可能性は高い。
「うん。ダメかな?」
二の句を継げず固まる俺の戸惑いを見抜いたらしいちゃんは眉尻を下げて頬を指先で掻いた。落ち込んだように見える表情を目の当たりにすれば、元気づけなければ、と気持ちが動く。
「ダメなんかじゃないよ! でも――えっと、もうそろそろ雨、降りそうだけど大丈夫かな」
「ふふ。そんな遠くまでは連れ出さないから安心してほしいな」
「そっか。じゃあ、行こうかな」
「うん。ありがとう、樹くん」
戸惑いの理由は別にあると誤魔化してみればちゃんは安心したように笑った。賛同の意を示すべく頷いて見せ教室に入りかけた身体を引けば、するりとちゃんが隣に並ぶ。
不意打ちで縮まった距離に目を瞠る。逃げ出したいのか留まりたいのか半々の想いが胸中で綯い交ぜになるのを感じながらただひたすらに身体を硬直させた。
「えっと……じゃあ、こっち行こ」
左右に視線を振って人の流れを確認したちゃんが先導するままに、黙ってその背を追いかける。時折、こちらを振り返るちゃんに「ちゃんとついてきてるよ」と言う代わりにぎこちなく口元を緩めて見せれば、ちゃんはほんのりと眉尻を下げた。
前を向いてまっすぐに歩きはじめたちゃんの背中をじっと見つめていると、自然と唇が引き締まる。
――こうやってちゃんの背中を見つめるのは入学式以来かもしれない。
まだ彼女を〝〟と認識するよりも前の記憶に思いを馳せれば、目の前で階段から落ちかけたちゃんを抱きしめた記憶に思い至る。その次の日は、一度は背中を見上げたが、話をしている内に隣に並んで教室へと向かった。
それ以来、ちゃんとふたりで歩くことがあれば、いつだってその隣を歩いてきた。偶然夜に出会ったときも。ふたりで写真を撮るために別棟に足を運んだときも――。
重ねた記憶は両手でも足りないほどの数になる。過去を思い返す度に、今、背中を追うことしか出来ない自分の不甲斐なさが際立っていく。あまりの歯痒さに下唇に噛みついた。
――振り出しに戻ったのか。それともそれ以上に後退したのか。
距離を置く、というのはこういうことの積み重ねなんだと思う。そうやって少しずつ、ちゃんへの想いが消えてしまうようにと努力する。
「――このあたりでいいかなぁ」
ふと、前を歩いていたちゃんがこちらを振り返る。校舎と校舎をつなぐ渡り廊下を過ぎ、別棟にある化学実験室の正面で立ち止まったちゃんは、俺の回答を促すように軽く首を傾げた。
ちゃんの正面で足を止め、頷いて見せればちゃんもまた同様に頭を揺らした。
「ごめんね。いきなり呼び出しちゃって」
「いや。特に謝るようなことじゃないから気にしないで」
耳の下に手をやり俯き加減で応じれば、ちゃんはきゅっと口元を引き締めて俺を見つめた。何か言いたげなちゃんの視線を受け止めかねて、一瞥だけを残して窓の外へと視線を流す。食堂から戻る途中で見かけたときよりも更にどんよりとした姿に変貌した空を目の当たりにし、一雨来そうだな、と漠然と思った。
「ねぇ、樹くん」
外したばかりの視線を戻せば、ちゃんの表情もまた曇り空のように晴れない顔つきになっていた。困惑と戸惑い。そのどちらかの判別はつかないし、それ以外のものなのかもしれないが、あまりいい感情に由来していないことだけはわかった。
「……うん」
躊躇いに躊躇いを重ねて頷くだけの返事をする。妙な緊張感が身に襲いかかって、うまく口を動かすことが出来ない。ちゃんの浮かない顔つきを見ているだけで不安になる。これから何を言われるんだろうという後ろめたさが不安に拍車をかけた。
「その、話したいことなんだけど……これはあくまで私が勝手に思ってるってだけだから違うなら違うよって言ってくれて全然いいんだけどね」
「――うん」
いつになく歯切れの悪いちゃんの様子に自然と口元が引き締まる。返す言葉が見つからず頷くだけの返答を繰り返す俺をチラリと見上げたちゃんは、軽く俯いて長い息を吐き出した後、意を決したように顔を上げた。
「なんとなく、ね。前と、その、最近の樹くんの雰囲気が違うかなって――私の勘違いならホント変なこと聞いてごめんねってなっちゃうんだけど……」
やんわりとしているのに確実に急所へと切り込んでくるような鋭さを持った言葉に、ちゃんへと差し向けていた視線が揺らぐ。狼狽えるあまり後退りしそうな足に力を込めてその場に踏みとどまるだけで精一杯だった。
軽く顎を引き、口元を引き締めたちゃんがチラリとこちらを見上げ、瞬きひとつ挟むと同時に視線を落とす。何か言いたげに開いた唇も、数秒待てば何も告げずに閉ざされてしまう。その動作を二度、三度と繰り返したちゃんは、おなかあたりで組んだ両手の指先を合わせたり弾いたりしながら「えっと……」とこぼした。
躊躇いがちに言葉を探すちゃんを、やりきれない気持ちを抱えたままじっと見つめる。一向に口を開かないちゃんを横目に、首の裏に手をやりうなじをほぐしながら言葉を探す。だが、どんな言葉を差し出すべきか考えあぐねたところで答えが出ることは無かった。
お互いに言葉を探し続ける中で、そっとちゃんの視線がこちらに向けられたことに気付く。軽く俯かせいていた頭を起こしちゃんの目を見返せば、胸の内に強い痛みが走り自然と眉根が寄った。
「なにか、困ってる?」
「……なにかって?」
「それは、ちょっと思いつかないけど」
ちゃんの質問を否定できなかったのはその指摘がもっともだったからだ。いっそのこと〝困ってるよ〟と正直に伝えようか。ちゃんにフラれたことじゃない。フラれてもなおちゃんを好きだと思う自分の諦めの悪さに、困ってる。
うなじに当てていた手のひらを耳の下へと動かし、掌底で口元を覆い隠す。右へと頭を向けることでちゃんの視線から逃げた。
自己保身にまみれた態度を見せる俺をちゃんがじっと見上げているさまが横目に入る。差し向けられた視線の熱を肌でヒシヒシと感じながら手のひらで口元を隠したまま言葉を紡いだ。
「正直に言うと、困ってないって言ったら嘘になるよ……でも、これは自分の問題だから。ちゃんが心配するようなことじゃないよ」
「……そっか」
だから、もう少し自分の気持ちに折り合いをつけられるまで待って欲しい。どのくらい時間がかかるかはわからないけれど、いつかちゃんと、ただの友人Aとして立派に振る舞ってみせるから――。
悔しいのか泣きそうなのか。自分の感情の行方がわからないままに口元を隠す手のひらに力が入る。親指の腹で顎の付け根を抑えながら漏れ出そうな呻き声と湧き上がる感情を制した。
「ごめんね。樹くんがしゃべりたくないの、わかってるんだけど一度だけ粘らせて」
「――え?」
うっかりしていれば聞き逃してしまいそうなほど小さな声でちゃんが言葉を紡ぐ。自分自身に向けていた意識をちゃんへと戻せば、実直な眼差しがまっすぐに差し向けられる。逃げるような態度を見せる俺とは真逆の視線に思わず怯んだ。
「私じゃ役に立たないのはわかってるけど、樹くんが困ってるの見てほっとけないの。なにに困ってるのかは言わなくてもいいから……私が樹くんの助けになれることがあるなら、教えてほしい」
迷いの無い瞳が熱を帯びていくさまに、思わず息を呑んだ。
――あぁ、これが最後なのかもしれない。
目に見えないはずなのに、自分の前に道が分岐しているのがハッキリとわかった。漠然と頭に浮かんだ考えに、崖の上に連れ出されたような恐怖が身体中に走る。これを断ってしまったら間違いなく、終わる。
〝一度だけ〟の言葉をちゃんがどういう思いで口にしたのか。ちゃんの意図する重さは計り知れない。だけど、本当の意味での最後なのだと直感が閃いた。
喉の奥に生じた緊張感を抑えるべく息を飲み込んだが、簡単に消えてくれるはずもなく、その存在を強く認識するだけだった。
――ちゃんの申し出を拒否すれば、こうやってちゃんが俺に笑いかけてくれることがなくなる。
入学して以来、ずっと重ね続けてきた交流がすべて断ち切られることを想像すると、氷水をぶっかけられたかのように一瞬で気持ちが冷え込んだ。
失恋した傷を癒やすためには時間が必要で、ちゃんと話をしなければ間違いなくその回復は早まる。そうすれば、今よりきっと楽になれるし、思い残すこと無く野球に没頭できるだろう。
得られる対価を並べ立てれば、いいこと尽くめだ。その道を行くべきだと冷静な自分は判断を下す。
〝拒絶した方がいい〟と結論づけた俺は、口に出す決意を胸にそっとちゃんへと視線を伸ばした。相変わらず揺るがない視線の強さを正面から受け止める。もう、向けられることがなくなるかもしれない視線を〝これが最後だ〟という気持ちで向き合った。
最後の悪あがきを試みる中、ふと視線を落とせばちゃんの身体の前で交差する指先が視界に入る。先程までは落ち着きなく指同士を弾き合わせていたちゃんは、今では縋るように手のひらを互いに握り混んでいる。指先に力が加わっているのか、抑え込まれた手の甲が白く色を失っていた。
それを目にした途端、諦めるのだと舵を切っていた気持ちが急速に反転する。
――違う。今のは俺じゃなくて、ちゃんが俺を諦めるつもりの言葉だ。
傲慢すぎる予測だが、緊張している様子のちゃんを前にすると、その想像が正解に限りなく近いようにしか思えなかった。
息を呑み、今一度顔を上げると、心配そうにこちらの様子を窺っているちゃんと視線が交差する。
「あ! ダメなら全然、その、断る! って言ってくれても大丈夫だよ!」
多分、それはちゃんなりの虚勢だったのだろう。強ばった表情を一変させたちゃんは、いたずらっぽく口角を上げて笑い、おどけるような言葉を差し出した。だが作り出した笑顔も、下がった眉尻が追いついてないせいで、今にも泣き出しそうな表情に見えてしまう。
自分の想像を裏付けるようなちゃんの表情に胸の痛みが強くなる。
――馬鹿か、俺は。
自分の情けなさに腹が立ち、悔恨に奥歯を噛みしめた。保身のためにちゃんを避けることに意識を向けすぎて、ちゃんがどう思うかを考えていなかった。
もしかしたらちゃんに、俺がちゃんを避けはじめたことに気づかれているのかもしれない。ちゃんから滲み出る戸惑いは、以前までは存在しなかった。自分の行動に負い目を感じているせいでもある。だが、それを差っ引いてもちゃんが俺に対して遠慮する様子を見せる他の理由は見当たらなかった。
――最近は、前と比べたらちっともしゃべらなくなったもんな。
前は休み時間の度に授業の話とか部活の話だとか絶え間なくしゃべっていたけれど、最近は俺が自然と席を離れることに慣れてきたせいもあり極端に話す機会が減った。以前との落差はあまりにも明確で、ちゃんが訝しんだっておかしくない。
口元に力が入るあまり下唇が押し上がる。ぐっと眉根が寄ったことを、鏡を見なくとも自覚する。ちゃんが俺に対して見せてくれる誠意がもどかしい。
だが、恋にはならない親切を受け入れれば、表面上は今まで通りに戻れるし、ちゃんを不必要に傷つけなくて済む。
俺の片想いが長引くだけならある程度は我慢できるはずだ。ただ、我慢しきれなくなったときどうなるかが見当がつかない。さすがに泣き喚いたりはしないはずだが、今このタイミングで関係性を断ち切る以上にひどい幕切れとなる可能性だってある。
――いっそ告白してしまえばこんな風に悩むことはないのかもしれない。
俺の行動はすべてちゃんへの片想いを拗らせたせいだと伝えればちゃんも納得してくれるんじゃ無いだろうか。その上で、ちゃんが鳴さんに告白をしたって聞いてどうしたらいいかわからなくなった、と、真実を話すことがちゃんの誠意への応え方に相応しいと思えた。
選択を迷い、諦めきれないのは、ちゃんから真実を知らされていないからだ。江崎や杉から聞かされた話で終われないというのなら、真正面から受け止めるしか道は無い。
――どうせ幕を引く恋だ。引導を渡されるのなら、ちゃんからがいい。
両手のひらを拳に変えて、交わったままの視線に熱を込める。
「ちゃんに、助けてもらいたいことは思いつかないけど……ひとつだけ伝えたいことがあるんだ」
「うん、なんだって聞くよ」
「あの、前に言った話したいこと、なんだけど」
「……え?」
「えっと――その、俺」
俺はちゃんのことが好きだけど、ちゃんは鳴さんのことが好きなんだよね。ちゃんと知ってるから、ちゃんの口から聞いたらちゃんと、諦めるから――。
決意したはずなのに口にしようとした途端、呼吸が苦しくなる。握ったままの拳をさらに握りこめば手のひらに昨晩整えたばかりの爪が食い込んだ。
――あぁ、今からフラれるのか。
ちゃんの想いを知ったとき、一度、失恋の痛みは経験した。今から味わうのは叶わないと知っている恋に挑み、そして玉砕する苦痛だ。ちゃんに嫌な思いをさせるくらいならこの身が砕け散ろうと構わないという気持ちは十分にある。だが、目に見えている破滅に飛び込む勇気は自らのすべてを奮い立たせてようやく足りるか足りないかという程度だった。
言葉にするのが怖い。だけど、もう、言わなくちゃ。
一度口を開き、言葉を差し出そうとしたが、喉が詰まって掠れ声が空気と共に通っただけで声の形にはならなかった。話しづらそうにする俺を、ちゃんが心配そうに見上げている。
咳を払い、喉の通りが良くなるようにと働きかけては改めて口を開く。
「ちゃん、俺――」
「樹ってばまたその子とイチャついてんの?! 毎日が青春なの?!」
ちゃんのことが好きだよ、と口にしようとした途端、背後から聞き慣れたからかい混じりの声が響いた。緊張に包まれていた身体から唐突に力が抜けたことで、膝から崩れ落ちそうになる。上体が傾くままにちゃんの方に倒れ込みそうになるのをギリギリで堪えたが、先程よりも距離を詰めてしまった感は否めない。
「……ごめんね」
話を中断してしまうこと、ぶつかりそうになってしまったこと。それぞれの意を含んだ謝罪の言葉を口にして身を翻す。ちゃんを背に隠すべく身体の位置に気を払いながら振り返れば、面白いおもちゃを見つけたと言わんばかりの鳴さんが色素の薄い瞳をきらきらと輝かせてこちらを覗き込んでいた。
次の授業が体育なのだろう。学校指定のジャージに身を包んだ鳴さんの他にも、カルロスさんや白河さん、山岡さんといった2年生レギュラー陣が同じ格好で足を止めていた。白河さんも山岡さんも普段の淡々としたさまからは想像が出来ないほど意外そうに目を丸くしている。中でも一番、興味深そうにこちらを見下ろしたカルロスさんは、俺と視線がかち合うと不敵に口元を緩めた。
「その子が例の彼女か? ……なるほど、樹が好きそうな感じだな」
「そう! 前に樹がチューしてた子! ね、いたでしよ! 俺、嘘吐いてなかったでしょ?!」
興奮した様子で捲し立てる鳴さんは、やっと同じ楽しみを共有できる相手が見つかったと言わんばかりにカルロスさんに熱弁を振るう。カルロスさんは「あまりはしゃいでやるなよ」と鳴さんをたしなめてはくれるが、原田先輩のようにきっちり手綱を握ってくれるわけではない。そもそも相手が原田先輩であっても、おとなしく鳴さんが従うはずもなかった。
カルロスさんの言葉も捨て置けないが、それよりも事実無根の話を吹聴する鳴さんだ。心底楽しそうな鳴さんを黙らせるのは至難の業だが、ちゃんの名誉を守るためにもきちんと否定しなければ。
「してませんって言いましたよね、俺」
「でもこーんなに近くにいたじゃん!」
俺の反論を頑として受け入れない鳴さんは「こんなに」と言いながら両手の人差し指と小指を立て、残りの指先を尖らせてキツネの形に変えるとその口先を付き合わせる。チュッチュと何度か弾き合わせる仕草を繰り返す鳴さんは自らの唇をも尖らせて俺とちゃんがキスをしたと強調した。
あまりのやり口に開いた口が塞がらない。俺をやり込めるためとはいえ、からかいの対象にちゃんを巻き込むのだけは我慢ならない。先輩であっても注意すべきところはきちんともの申すべきだ。
「鳴さん! いい加減に――」
「鳴。樹だけじゃなく彼女の方も困ってるみたいだぜ」
鳴さんに文句を言おうと歩み寄る途中でカルロスさんがこちらを手で制しながら言葉を挟む。そのまま手を翻したカルロスさんは、おおきく開いた手のひらで鳴さんの手元を隠した。
キスを示す仕草が見えなくなったことにひとまず安堵の息を吐く。だが、ちゃんが困っているのだという情報を得たままでは本当の意味での安堵にはほど遠い。
身体の真横に下げたままだった腕を広げ、少しでもちゃんを隠せるようにと働きかけながら首だけを後ろに捻る。困惑を絵に描いたような表情を浮かべたちゃんは眉間にしわを寄せて俺を見上げている。口元を手の甲で隠したちゃんは俺と視線が合うと、気まずそうに一度視線を落としたが、改めて視線をこちらに戻すと気にしないでと言う代わりだろうか、口元をほんのりと緩めた。
「えーっと。ごめんね?」
俺がちゃんを隠そうと気遣っていることなんてお構いなしの鳴さんは、こちらへと歩み寄ると俺の肩越しにちゃんを見下ろした。突然、顔を出した鳴さんに驚いたのだろう。ちゃんは目を白黒させて短い悲鳴を上げた。
「――いえ、その」
「君といるときの樹の反応がウブで面白くてさぁ。すげぇ好きなんだろうなって思うとついからかっちゃうんだよね。悪気は全ッ然ないから許してね!」
「ちょっと、鳴さん!」
謝罪めかしたからかいをぶっ込んできた鳴さんに思わず鋭く反応してしまう。
「余計なことを言わないでくださいよ! ただちゃんに謝ってくれるだけでいいですから!」
「ほら! 早速出たよー! いつもの彼氏面! 彼女のことは俺が守るってやつ? 好きだねー、そういう恋愛ドラマみたいなの!」
「だから違いますって! こっちは人としての対応の話をしてるんですよ!」
相変わらず俺をからかうことに余念の無い鳴さんは、俺が一返せば百返す勢いでとんでもないことを口にする。だがここで引いてしまうと、ちゃんの名誉を傷つけたままになってしまう。たとえ鳴さんが相手でもこの言い合いに負けるわけにはいかない。
まだ反論したりないというのならそのすべてを打ち返してでもちゃんを守り抜いてみせる。そう意気込んだものの「あの!」とハッキリと通る声で飛び込んできたちゃんの言葉に俺も鳴さんも目を丸くして口をつぐんだ。
「あっ、ごめんなさい。大声出しちゃって……えっと、その、からかわれたことは気にしてませんので。――樹くんも、怒ってくれてありがとう」
「ちゃん……」
「アララ。真っ赤になっちゃった」
鳴さんの言葉どおり、ちゃんの頬はこれ以上無いというほどに赤く染まりあがっている。耳さえもその浸食の餌食になっているのが見て取れると、胸の奥に鈍い痛みが走った。
――あぁ、とうとう見ちゃったな。
朱に染まる頬を目にしていると、いつかのとの会話が頭を掠める。が見たことの無い〝ちゃんが恋をする顔〟が今、目の前にある。
――鳴さんとしゃべっただけでこんなに真っ赤になるなんてよっぽど好きなんだな。
こんなにもわかりやすく反応するんだ。目の前で見せつけられた俺だけではなく、きっと事情を知らないカルロスさんたちもちゃんから鳴さんへと向かう恋の矢印に気付いたことだろう。
ちゃんの様子に気付かないのか。それとも一度告白された余裕からか。謝罪を口にして許されたと確信した鳴さんはケロッとした表情を浮かべ、頭の裏で両手を組んで胸を逸らした。俺をからかいたいがためにちゃんを巻き込んだことをまるで反省していないと全身で態度に表す鳴さんに自然と唇が尖る。
開いていた手のひらを拳に変えて握りこみ、歯を食いしばって湧き上がる感情に耐えていると少し離れた位置に立っていた白河さんが音に出して溜息を吐き出した。
「そんな風だから成宮には彼女出来ないんだよ」
「ハァ?! そんな風ってなんだよ!」
ぼそりと皮肉を零した白河さんに、鳴さんはすかさず噛みついた。人をからかうことには抵抗がないのに、自分がその対象にされたら腹を立てるのはいささか理不尽ではないだろうか。
眦を吊り上げて態度を豹変させた鳴さんは俺から距離を取るとすかさず白河さんの前に立ち塞がった。
「っていうか前提が違うし! 出来ないんじゃなくて作らないの! 野球一筋なの、俺は!」
白河さんの顎の下に立てた人差し指を突きつけて吠える鳴さんの弁明に、息が詰まるほどの衝撃が走る。今の口ぶりからすると、鳴さんはちゃんの告白を受け入れたわけじゃないらしい。初めて知った事実を前に、簡単に呼吸は乱れた。
――よかった。ちゃんは鳴さんと付き合ってるわけじゃないんだ。
駆け抜けた衝撃に紛れて、全身の力が抜けるような安堵が沸き起こる。だが、ひとつ息を吐き出した途端、自らの頭に浮かんだ考えに目の奥が眩むような嫌悪を覚える。
――よかった、ってなんだよ!
ちゃんの恋が叶わなかったことを喜んでしまった。自分の浅ましさに腹が立つままに、右手を額に強く押しつけ頭を抱える。奥歯を噛みしめても堪えきれない罪悪感はどろりと全身に降り注いだ。
俺のちゃんへの想いが届かなかったことを嘆くだけでは飽き足らず、告白できない自分の不甲斐なさを棚に上げて、同じ道に足を踏み入れたちゃんを歓迎した。
ちゃんの不幸を望む俺が、彼女に選ばれるわけがないじゃないか――。
目の奥が熱く滲む。涙が出そうなほど、自分に対する失望が強い。
彼女を作るつもりがないと鳴さんは言った。ひとつの証言が加わることでちゃんの失恋が確定したわけだが、失恋するだけに留まらず好きな相手から別の男との恋を揶揄されるのは相当に堪えたはずだ。もしかしたら先程の顔を赤くしたのだって、単純に照れたというわけではなく、泣きそうなのを我慢した表情だったのかもしれない。憶測に憶測を重ね、ちゃんの心境を想像する度に胸がどんどん苦しくなる。
――これ以上、話題の矛先をちゃんに向けられるわけにはいかない。
ぐっと強く瞑目し、呼吸を整えようと画策する。正面に先輩たちが立ち塞がっている以上、前みたいに先に帰ってとは言い難い。だったら、後は先輩たちの興味を逸らしてやるのが俺の役目だ。
バッキバキに折れた心の底に、微かに残った良心を掬い上げようと手を伸ばす。さりげなくちゃんの前に立ち塞がり、改めて4人と対峙する。落ち込んだ表情を隠すべく引きつる頬を緩ませながら、相変わらず白河さんに噛みついている鳴さんに声をかけた。
「それより、鳴さんたちはなんでこんなとこにいるんですか?」
わざと鳴さんの名前を呼んでこちらに注意を引きつける。ぎこちない笑みを少しでも自然に見えるようにと取り繕えば、鳴さんはほんの少し眉を上げて訝しんだようだったが、それをいちいち追求することはなかった。
「体育なんだよ、次。元々は外の予定だったけど雨降りそうだから体育館でって」
「そうなんですね。種目がなんであっても怪我しないように気をつけてくださいよ」
「わかってるって!」
いちいちうるさいなと言わんばかりの激昂に思わず首を竦める。収まらない怒りを遠慮無く撒き散らす鳴さんをなだめてくれるひともたしなめてくれるひともこの場にいない。これ以上の怒りを買わないようにと曖昧に笑みを浮かべたままでいると、チラリとこちらを見上げた鳴さんはフンと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「っつーかお前もカワイイ彼女とイチャついてないでさっさと次の授業の準備したらー?」
さっきから何度も否定しているというのに、鳴さんはいまだにちゃんを俺の彼女だと勘違いしたままだ。目の前にいる女の子が自分に告白した相手だと微塵も気付かない鳴さんは、告白してきた相手の顔なんて覚える気も無いのだろうか。
鳴さんからすれば誰かに想いを告げられることなんて日常茶飯事で、取るに足らないことだったとしても、ちゃんにとっては一世一代の告白だったに違いない。
――ちゃんと、向き合ってあげて欲しい。
無関心にほど近い粗末な扱いを目の当たりにすると自然と唇が尖った。
「樹? なにむくれてんの、お前」
「……むくれてないですよ」
「じゃあ、なに? なんか言いたいことがあるならハッキリ言えば?」
突き刺さるような視線と言葉に、喉の奥が詰まるような心地を覚える。だけど、これだけはハッキリと伝えなければ。何度も訂正し、その度にあしらわれたとしても、ちゃんの想いが誤解されないように俺が正しく振る舞わないと――。
「それじゃ、言わせてもらいますけど……」
「なに? 言ってみ?」
「ちゃんは……俺の彼女じゃありません。俺たち、ただのクラスメイトなんで」
真実を口にした。ただそれだけなのに、自らに刃を突き立てるような痛みを感じる。
「俺だけが冷やかされるのならいくらでも甘んじて受け入れますよ。けどちゃんが巻き込まれるなら話は変わります。だから……」
一度に言い切ってしまうことができず、言葉が詰まってしまう。不甲斐ない自分がみじめで下唇に噛みつくことしか出来ない。
眉間にしわが寄っていることを自覚しつつも、口をへの字に曲げたまま俺の言葉を待つ鳴さんに強い視線を差し向ける。
――知ってますよね、鳴さん。だってちゃんから好きだって言われたんでしょう?
俺が欲しくて欲しくてたまらない言葉を贈られたのに、鳴さんはすっかり忘れて、初めからなかったかのように振る舞っている。許せないのとは違う。歯痒いのかと尋ねられるとそうじゃない。ただ、悔しくて、泣きそうになる。
ちゃんがもし俺を選んでくれたなら、なかったことになんてしない。ずっと、大事にするのに――。
そんな未来はやって来ない。わかりきっているからこそ、俺に出来ることは限られている。ぐっと喉の奥に力を込めて握った拳を更に固めると、意を決して口を開いた。
「だから、――鳴さんだけは、ちゃんの気持ちを誤解しないであげてください」
ちゃんが傷つかないようにきちんと訂正しなければ。その一心で差し出した言葉は、想像以上に自分の胸の内を抉った。涙が落ちないのが不思議なほど、目頭に熱が走っている。
自覚している以上に悲痛な顔をしていたのだろう。俺の言葉に面食らった鳴さんはともかく、カルロスさんも白河さんも、果ては普段あまり表情の動かない山岡さんまでもが眉根を寄せてこちらを見つめている。
それぞれの視線に耐えかねて思わず頭を下げる。ローファーの爪先に視線を落としたまま歯を食いしばり、寄せては返す感情の波に耐えていると、正面に立つ人の影が揺らいだ。
――なんだろう。
疑問を思ったのも一瞬で、視界にもうひとつのローファーが入り込んできたことに意識を取られた途端に、頭上に衝撃が走る。
「痛っ! ――痛ぁっ?!」
不意の襲撃に目の奥がチカチカと光る。痛みの残る頭を抱えて顔を上げれば正面に立つ鳴さんが、握った拳を振り落としたままのポーズで俺を睨み付けていた。
奥歯を噛みしめてこぼれないようにと堪えていた涙が一粒だけ飛び出したのを察知し目の下を拭う。その間も鳴さんの威嚇するような瞳は離れない。
――わけがわからないよ?!
叩かれた理由が思い当たらない。ずっと口撃されていたのは俺の方なのに、反論したら殴られるのは割に合わないどころか理不尽が過ぎる。
混乱した頭を抱えたまま鳴さんを見つめていると、ムッと口元を引き締めた鳴さんの手がこちらへと伸びる。左手で顎を掴まれ、強制的に上を向かされると激昂した鳴さんの鬼のような形相が目に飛び込んできた。
「……あのなぁ、樹! お前、なに勘違いしてんのかしんねぇけど――」
「鳴……お前、また多田野たちに絡んでるのか。いい加減にしろよ」
吠える鳴さんの声を遮るように低い声がかかる。驚いて視線を伸ばせば、原田先輩が呆れたようにこちらを見下ろしていた。教科書と筆箱を重ねて手に提げた原田先輩もまた移動教室なのだろう。
ひとつ溜息を吐き出して呆れをありありと見せつけた原田先輩を目にした鳴さんは俺から手を離すとすかさず原田先輩に噛みついた。
「違うってば! 樹のやつがなんっにもわかってねぇからちゃんと言ってやろうとしてんの! 先輩として導こうとしてんの!」
「彼女できねぇからって僻んでるようにしか見えねぇぞ」
先程の白河さんの弁と同じような意味合いの言葉を繰り出す原田先輩に鳴さんは唸り声を上げる。
原田先輩のクラスメイトだろうか。廊下の先にある実験室へと向かっているらしい何人かの女子の先輩が通り過ぎざまに鳴さんと原田先輩のやりとりを目にしてはクスクスと笑って通り過ぎていく。「鳴くんカノジョできないんだ」という女子の先輩に「だから違うの! 作らないの! あえて!!」と鳴さんが叫べばその背後でカルロスさんはブッと声に出して吹き出した。
「カルロ! 笑うな!」
「いやいや、相変わらずぼうやだなと思うとおかしくてな」
「同い年だろ!」
「……精神年齢的には小学生レベルか、よくて中学生だろ」
「白河まで! なんだよ、もう!」
カルロスさんだけでなく白河さんからも横やりが入ったことで鳴さんはそちらに向かって歩み寄る。取りなすつもりなのだろう。鳴さんの肩を押さえる山岡さんだったが、鳴さんはお構いなしにさらに噛みつこうとしている。上級生の喧噪を傍目から眺めながらようやく話題が逸れたことを実感し、肩に入っていた力を抜いた。
「てかなんで雅さんこんなとこいんの?」
「あぁ? 次の授業、実験なんだよ。物理の」
「実験? 物理? あのバナナが上から紐で吊るされてるやつ? それともハシゴ登るやつ? ハシゴの方ならあと最低5匹はゴリラ呼んでこないと無理だよ?! ちゃんと先生に連れてこいって言われなかったの?」
「口が減らねぇ野郎だな」
怒りの収まらない鳴さんはターゲットを原田先輩に移してぎゃあぎゃあとお得意の舌戦を繰り広げる。口喧嘩を始めたバッテリーを前に、カルロスさんたちは溜息を吐きながらも仲裁するつもりなんてさらさらないようで、俺と同じく傍観者の立ち位置へと収まった。
野球部の主力の大半が揃ったことで、近くの階段を上り下りする生徒や実験室へと向かう生徒など、周囲からの視線が留まる機会が増える。背番号をもらったとは言え、所詮ブルペン捕手止まりの自分がいるのは場違いだよなあと気後れしているとコホンと小さく咳き込むような声が背後から聞こえてきた。
音を追うように背後を振り返れば、顔を真っ赤にしたちゃんの姿が目に入る。俯いてしまっているため落ちた前髪に隠された表情はほとんど見えないが手のひらを右頬にあてがい、湧き上がる感情を堪えているように見えた。
その姿が目に入ると自然と眉根が寄っていく。ちゃんの額と俺の左肩がくっつくほどの距離に収まったちゃんは、唇を引き締めて視線を俺とは反対側に逸らしたまま動かない。
ちゃんの恥じらいを前にすると、高揚と落胆が同時に襲いかかってくる。鳴さんへの想いが溢れた表情であっても、その横顔を〝かわいいな、好きだな〟と思う気持ちは止まない。そんな気持ちを抱いたところで報われないと知りつつも諦めの悪い恋心は終わりを知ってもなお募った。
惹かれるがままにそっと右手を動かし、自らを抱きしめるようにお腹に左腕を巻いたちゃんの手に俺の手のひらを重ねようとした。だけど、そんなことは出来ないと自制した瞬間、鳴さんの声がこちらへと飛んでくる。
「あ! またイチャついてるし! ……あーぁ。なんか教えてやんのが馬鹿らしくなってきた。もう行こうぜ。樹もちゃんと授業出ろよ!」
「さすがにサボりませんよ。鳴さんじゃあるまいし」
「俺だってサボったことねぇよ!」
部活をサボるまではいかないが嫌いな練習は避けがちな鳴さんの言葉を打ち返したが、火に油を注ぐだけだった。
最後まで俺に対する文句を並べ立てる鳴さんの背中を、カルロスさんが宥めるようにポンポンと叩きながら去って行く。階段を下りる間際にチラリとこちらを振り返った白河さんと山岡さんに頭を下げて見送った。
4人が階段を下りていく足音が遠くなり、やがて聞こえなくなったことで嵐のような喧噪がようやく終わったのだと知る。思わず安堵の息を吐けば、近くに立っていた原田先輩が吐いた溜息と重なった。
「まったく、鳴のやつは……多田野ももっと言い返してやっていいからな」
「そうですね……まぁ、最近は割と慣れてきましたけど」
「そうやって甘やかすとつけあがるからな。これから先、苦労するのはお前なんだぞ」
「はは。肝に銘じておきますね」
秋以降の体制につてほのめかす原田先輩に返す言葉が見つからなくて、咄嗟にまともに受け入れる言葉を選んでしまう。まだまだ精進する立場にある俺が正捕手になることを確信しているのは生意気に思われることだろう。だが、その心構えも持っていないと思われるのも違う気がして、あえて言葉を取り繕わなかった。
納得したようにひとつ頭を縦に揺らした原田先輩は、口元を緩めて手にした教科書類を持ち替えた。
「じゃあ、俺もそろそろ行くとするか。もうすぐチャイムも鳴るだろうし、お前らもなるべく授業には遅れるなよ」
「あ、ハイ! お疲れ様です!」
手のひらを翳して去って行く原田先輩の背中に一礼を返し見送った。顔を上げ、またひとつ息を吐き出すと、ちゃんとふたりきりで残されたことにようやく思い至る。不自然なまでに近付いた距離を、どうしていいかわからず次第に身体が硬直していく。
とりあえず、話をするなら顔を合わせた方がいいよね。思いつくままにほんの少しだけ身じろぎすると、ちゃんは詰めていた距離を半歩分退いてこちらを見上げた。目元にほんのりと残る熱は、鳴さんへの想いの残滓なのだろう。直接告白をして、振られてもなお鳴さんに恋い焦がれるちゃんの姿が、俺のちゃんへの想いを映す鏡のように思えて胸の奥が硬い岩で塞がれたようにつかえた。
「ごめんね。話してる途中だったのに……ホント、鳴さんには困っちゃうっていうか、驚かされるっていうか……」
予期せぬ先輩たちの襲来に驚いたのは俺も同じだったが、きっとちゃんの戸惑いはそれ以上だろう。こんな場所で俺と話をしていたから鳴さんの目に留まってしまった。その結果、俺とちゃんが恋仲であるかのように鳴さんに誤解されたのは、ちゃんにとって最悪な結末なはずだ。
違うと訂正したが、鳴さんの誤解はきちんと解けただろうか。叩かれた頭の痛みはもう消えてしまったが、気がかりが頭にあるせいか自然と手が伸びる。二度、三度と撫でつけながら視線を落とせば、困ったように眉尻を下げたちゃんが口を開いた。
「ううん、いつもの樹くんが見れて安心したよ。先輩たちといる樹くんってあんな感じなんだね」
「うん。まだ入部したばかりだけどいろんなひと……特に鳴さんにはよくしてもらってるよ」
今日の鳴さんの仕打ちはあんまりだったけど普段は頼りになるいい先輩であることは自分が一番知っている。フォローするべく弁明の言葉を差し出せば、ちゃんは微かに口角を上げた。
いつもより幾分もぎこちない笑みを浮かべたちゃんの思惑は口にされずとも伝わってくる。きっと、鳴さんに誤解されたことが気になって俺と話をするどころじゃないんだろう。
「――鳴さんのことも……ごめんね。俺と一緒にいるところなんて、ちゃんは見られたくなかったよね」
冗談めかして言うつもりだった言葉は、申し訳なさが先に立つと悲壮感に塗れたものとなった。自虐的にしか聞こえない言葉を耳にしたちゃんは、うっかり口を滑らせた俺以上に顔を顰めている。
――そりゃそうだ。こんな情けない言葉なんて聞かされても困るに決まってる。
みっともない姿を見せてしまったことに悔恨が胸を占めると自然と自嘲の笑みが口元に浮かび上がった。いたたまれない心地に後押しされるままちゃんから目を逸らせば、小さく息を呑む音が正面から聞こえてきた。
「あのね、樹くん」
「――うん」
「そのことなんだけど……誤解しないであげてください、ってどういう意味?」
呼びかけられてもなお逸らしたばかりの視線を戻せず、頷くことで応じる俺にちゃんは浮かない声で言葉を続ける。質問の意図は見えていたが、どう答えたらいいかわからず戸惑ってしまう。
「え……どういうって――そのままの、意味だけど」
恐る恐る曖昧な言葉を返す。廊下の喧騒は遠く、今の言葉がちゃんに届かなかったとは思えない。だが、問いかけたはずのちゃんからの反応は返ってこなかった。
押し黙ってしまったちゃんは今、何を考えているのだろう。泳ぐ視線を差し向けるか否か逡巡しながらも行動に移せない。あと一歩を踏み出せない自分の臆病さを棚に上げ、ちゃんが何か言ってくれないかと審判のときを待つ。居心地の悪さを抱え、ただどうしようもないという感情だけを募らせた。
視界の端にちゃんが身動ぎしたさまが映り込む。脇にやった視線をそっとちゃんの方へと戻すものの、その顔を見つめる勇気はまだなくて、ちゃんがお腹の辺りで手のひらを組むさまを横目で見つめるだけに留めた。
「もしかして……樹くんは、私が成宮先輩に気があるって思ってる?」
「え?」
ちゃんの声は震えていた。どうして、と思わず顔を上げれば、ぐっと下唇を押し上げたちゃんの表情が目に入る。いつになく硬い表情を浮かべたちゃんは、俺を見上げたまま動かない。
――違うの?
確信していたことをあえて尋ねられたことに、「もしかして俺の勘違いなのでは」と一縷の望みを抱いてしまいそうになる。十中八九確信しているとはいえ、今はまだ俺の中では確定に至っていない。だが、聞いてしまってちゃんの想い人が鳴さんであると知らされたら、そこで俺の片想いが本当の意味で終わる。
つい先程まで、「好きだ」と口にすればもうこんな想いをしなくても済むのだと思っていた。だけど、鳴さんを前にして顔を赤らめるちゃんを見てしまった今では、その勇気を奮い立たせることが出来そうもない。
目の前に立つちゃんの表情を、暗澹たる思いで見下ろした。胸の内を蝕むように、言葉が詰まる。呼吸さえもままならないような心地に、首元を詰めている元凶とも言えるネクタイに人差し指を突っ込んだ。指先を動かし、軽く押し下げて緩めてみたが呼吸が楽になることは無かった。
「――樹くんだけは、誤解しないでほしかったな」
喉元に意識を傾けていたせいか、ちゃんのか細い声はほとんど聞こえなかった。「え?」と首を捻ってみせたが、ちゃんはほんのり目を細めて首を横に振るう。きゅっと口元を引き締めたちゃんの真摯な瞳が、揺れて、落ちる。
俯いてしまったちゃんの表情が隠れると同時に、ぞわりと肌に戦慄が走る。身に覚えの無い悪寒は、虫の知らせというやつなんだろうか。たった今、自分の取った選択が間違いであったのだと確信する。
「ちゃ――」
「ごめんね、変なこと聞いちゃった」
首元に差し込んだままだった手を翻しちゃんの方へと伸ばそうとしたが、顔を上げた途端、いつものように口元を緩めて笑ったちゃんにすべての行動を制される。目に見えない壁に遮断されたような拒絶を感じれば、空中を泳がせた手のひらを自分の方へと戻すほか無かった。
緩いカーブを描く口角を更に上げたちゃんの頬が、耳が、また目に見えて赤くなっていく。その様子を何も言えないまま見つめることしかできない俺を、ちゃんは首を傾げて見上げた。
「樹くんの方こそ私といたせいで先輩にからかわれる羽目になっちゃったのイヤじゃなかった?」
また頬に浮かび上がり始めた熱をなんとか誤魔化そうとしているのだろう。開いた手のひらをパタパタと動かし自らに風を送り込むちゃんは、努めて明るい声を出そうとしているようだった。
続かなかった恋バナに照れているだけなんだろうか。ひとつの仮定が頭に浮かび上がったが、しっくりこない考えに自然と唇の先が尖る。
いつもどおりに見える笑顔だが、微かに眉尻は下がったままだ。困っているのか、嫌がっているのか――泣きそうなのか。誤魔化すように笑ったちゃんから、その気持ちをくみ取ることは難しく、また今の心境を尋ねようにも先程感じた拒絶を思い出せば聞き出すこともまた容易ではなかった。
――やっぱり、なにか選択を間違った気がする。
恋愛シミュレーションゲームのように3択の中から会話や行動を選べるなら、不正解を選んだってすぐにわかるしリセットして再チャレンジが出来る。だが、現実にそんな機能は当然ない。今の俺に出来ることは、ちゃんから差し出された質問に対し、真摯に向かい合うことだけだろう。
「ちゃんと一緒にいてイヤだったことなんてないし、これからもきっとないよ」
握った拳に更に力を込める。ちゃんと一緒にいることで、苦しいだとか寂しいだとかマイナスな感情を抱くことはあったし、これから先もあるかもしれない。だけど、イヤだと感じる日はきっと来ない。未来を断言することは普通なら憚られるが、それだけは確信していた。
「だから、今までみたいに――」
――傍にいたい。
その言葉だけは形にならなかった。俺が望む未来は、ちゃんの描く未来と違う。目の当たりにしたちゃんの恋する表情が脳裏をよぎると、そんな願いを口に出せるはずが無かった。
胸に詰まる息を溜息に変えて押し出したが、それだけで気持ちの立て直しが出来るはずも無く、脱力するままにその場にしゃがみ込む。立てた膝に肘をつけ、そのまま手のひらで顔を覆う。
「ごめん、俺、今ちょっと……ううん、だいぶかっこわるい――」
「樹くんがかっこわるかったことなんて一度も無いよ」
正面に立つちゃんが距離を詰めてくるのを肌で感じ取った。手のひらに埋めた顔を軽く上げれば、不安そうに眉根を寄せるちゃんが膝に手をつきこちらを覗き込んでいた。スカートを抑えながら俺の正面に膝をついたちゃんの姿を目で追う。足下に気を払っていたちゃんは俺とかち合った視線を一度脇へとずらすと、まばたきひとつ挟んでまたこちらへと視線を戻した。
「そういえば叩かれたとこ、大丈夫?」
叩かれた箇所に触れるか触れないかの距離に手を伸ばしたちゃんの言葉に頷いて返せば、寄せられていた眉根がほんのりと緩むさまが目に入る。心配してくれるのは嬉しいけれど、どこか寂しさに似た気持ちがにじみ出る。
複雑に絡み合った感情をどう処理すべきかわからないまま、眉尻を下げてちゃんの視線に応じていると、頭の上にちゃんの手のひらが乗った。そのまま、二度、三度とゆるやかな手つきで労られると、とっくに引いていた痛みの代わりに撫でられる感触が頭に刻まれる。
「腫れないといいね……って今度は私が心配する側になっちゃった」
「はは、そうだね」
過去に何度かあった俺との会話を懐かしむように目を細めたちゃんに、俺は力なく笑って返すことしか出来ないでいた。胸の苦しさに耐えかね、合わせた視線を遮ろうとぎゅっと強く目を瞑る。
――もう叶わないって知ってるのに。
ちゃんが俺との思い出を口にしてくれた。ただそれだけで好きという気持ちが根深い雪のように降り積もる。
「――……ぱり、……なぁ」
何事かを口にしたちゃんの言葉はほとんど聞こえなかった。ぽつりと零された言葉はおそらく独り言だったのだろう。そっと目を開け、聞き逃したことを伝えるべくちゃんに視線を合わせたが、やんわりと首を横に振るう姿を目にするとそれ以上を追求することは出来なかった。
「それじゃ、そろそろ教室に戻ろうか」
「うん、そうだね」
甘く優しい手のひらの感触が離れると同時に告げられた提案に頷いて返す。
俺の頭に乗せていた手を自分の膝へと乗せ、屈伸の要領で立ち上がったちゃんにならうように落としていた腰を上げる。合わない視線を互いに追いかけることもできないまま、教室へと戻るべく足を向けた。
一歩前を歩くちゃんの背中を、来たときと同じように見守って歩き始める。
――結局、また何も変わらなかったな。
頭の中にひとつの考えが浮かぶと同時に燻るような心地が胸に沸き起こる。鳴さんを見て顔を赤らめるちゃんを目の前にしても気持ちが変わらないどころか、少し優しくされただけで更にちゃんに惹かれる始末だった。
――諦めるのも難しいものなんだな。
一方的にちゃんの想いを知った俺が取った行動は間違っていたんだろうか。失恋の痛みは時間が癒やしてくれるなんて定石に則って、ちゃんとの距離を置いてみた。前みたいに積極的に話しかけないようになれば、いずれちゃんへの想いを忘れることができるはずだと考えたからだ。だが単純な行動と結果のように見えるのに、どう足掻いても〝諦められない〟というゴールに辿り着いてしまう。
話をしなくても――否、話をしない分、ちゃんのことを気にかけてしまう自分に気付くだけだった。それどころか俺の態度を訝しんだちゃんになにか悩みでもあるのかと心配された。これじゃまるでちゃんがどこまで俺のことを気にかけてくれるか試したみたいだ。
ちゃんはやさしいから、友人である俺の変調に気付いたんだろう。細やかな気配りと惜しみなく注がれる友愛が今は苦しくて仕方が無いはずなのに、好きだという気持ちだけが容赦なく折り重なっていく。
――やっぱり、好きだなぁ。
声には出さず唇の先だけで言葉を紡ぐ。
いつまで不毛な恋が続くかなんて知らない。だけど、多分、俺はちゃんの傍にいる限り、ちゃんに恋をし続ける。たとえ、今から進む道が自分にとって茨の道であっても、ちゃんと話が出来なくなるくらいなら今のままがいい。
「――俺は、ちゃんが好きだよ」
ちゃんの背中に向けて何度か口にしようとした言葉を紡いだ。だが言葉になりきれなかった声が届くはずが無く、いつの間にか降り出した雨が窓を叩く音だけがその場に響いていた。