春恋20

20


 先日報道された梅雨入り宣言を証明するかのように、雨は連日降り続けた。朝起きた際は小降りだった雨足は時間が経てば経つほどに強くなり、朝練を終え朝食を取ったころにはグラウンドを痛めつけるかのように叩きつけていた。
 グラウンドが使えない場合は、室内練習場で朝練が執り行われるため、練習中止ということにはならない。だが、練習場は広く設備も多岐にわたってはいるものの、どうしてもできる練習が偏っている感は否めない。
 梅雨の時期は練習できるメニューが限られているから嫌いだという旨を鳴さんが朝から叫んでいたが、アンタは嫌いな練習は晴れてたって嫌がるじゃないかと溜息をこぼした記憶は毎日のように更新されている。
 俺を含むほとんどの部員は割り切って身体を作るメニューに取り組んでいるが、設備に限りがあるため自分に回ってくる順番は普段よりも格段に少ない。物足りない日々が続くなかで、肉体的な疲れが足りないせいだろうか。頭を働かせる余裕が生まれると、部活を終えて着替えてる途中や、食事中のふとした瞬間に、ちゃんとのままならない現状をどうにか出来ないかと模索するようになった。

 ***

 いつもより幾分も軽い身体とは裏腹に、心は雨にぬかるんだ泥よりも沈んでいた。
 傘をさして登校する間に何度も溜息を繰り返す。それは俺だけではなく隣を歩く江崎や杉にも顕れた兆候で悪目立ちすることは無かったが溜息が重なれば更に気持ちは沈むようだった。
 寮から学校は見えているが、敷地の外を半周しなければ正門まで辿り着かないこともまた俺たちを悩ませる。昇降口に辿り着く頃には傘は濡れそぼり、畳もうと絞れば先端からしとどに水が滴った。
 玄関マットで靴を拭い、江崎らと連れだって階段を上っていると、ブラスバンド部と思しき女子生徒がそれぞれの楽器を片手に階段を下りていく場面に鉢合わせた。
 見たことの無い顔触ればかりだったが、〝もしかして〟の可能性が捨てきれなくて目で追ってしまう。すれ違いざまに横目で確認したが、輪の中にちゃんの姿がないことを確認すると自然と詰めていた呼吸を吐き出した。溜息に安堵よりも落胆が色濃く滲んでいることに気付くと同時に、きゅっと口元を引き締める。
 
「そういえば樹、この前見たぞー」
「え?」

 落ちたばかりの気持ちを立て直す間もなく、江崎の弾むような声がかかった。顔を上げれば、一段先を行く江崎がこちらを振り返って機嫌良さそうな笑みを浮かべているさまが目に入る。

「やっぱさ。お前、とイイ感じだろ」
「えぇ?」

 不意打ちに近い言葉だった。自分の現状と江崎の感じた印象の違いに思わず変な声を出してしまう。以前と比べたらまったく話ができなくなったというのに一体なにを見てそう思ったんだろうか。
 目を瞬かせて固まった俺は知らず知らずのうちにその場に足を止めてしまっていたらしい。一段下を歩いていた杉に背中を軽く叩かれたことでようやくそのことに気付く。
 ひとこと「ごめん」と詫びを入れ、歩みを再開させればこちらを振り返ったままの江崎が手摺りに手を添えながら階段をのぼっていた。にんまりと笑う表情に苦笑して返し、江崎の思惑を否定するべく口を開いた。

「なんで江崎がそう思ったか知らないけど、全然そんなことないからね」
「またまた、この前見たぞ。お前がに頭撫でられてるとこ」
「見てたの?!」

 核心を突く江崎の言葉に簡単に心臓ははね上がる。飛び出した大声を飲み込めない代わりにきゅっと唇を結ぶ俺と入れ替わるようにテンションの上がった杉がこちらに身を乗り出してきた。

「何それ! 俺知らねぇ!」

 背中に体全体をぶつけてきた杉はそのまま腕を回しぐいっと肩を組んでくる。口元に人差し指を立てたところで杉の声が収まることはなかった。悪いことじゃないんだと言わんばかりに俺の肩をポンポンと叩いた杉はしたり顔で頷いている。満足そうなその顔は杉だけではなく、江崎の表情にも顕れていた。

「詳しく聞かせろよ、な!」
「詳しくもなにも、全然たいしたことじゃないから……」
「たいしたことないスキンシップがあって溜まるかよ!」

 やんわりと拒絶したが、またもや声を大きくした杉は肩に回した腕に力を込めて俺の言葉を封殺する。助けを求めるべく江崎に視線を差し向けたが、ニッと口の端を上げた江崎に嫌な予感しか生まれない。この場に味方はいないのだと悟るにはその顔つきだけで十分だった。

「じゃあさ、江崎が見たまんまを教えてくれよ」
「ふっふ。ならば教えてやろう! あれは次の授業のため、化学室に向かおうとクラスのやつらと歩いている時だった……」

 胸を逸らして語り出した江崎の話を聞き逃さないようにという心境が働いたのだろうか。「回想風じゃ無くていいから」と軽い笑いと共につっこんだ杉がますます身を乗り出すものだから俺の首周りにかかる圧力が更に強くなる。

「廊下歩いてたら樹がしゃがんでたのよ。で、どうした? って声掛けようとしたら向かいにもしゃがんでんの。それでの手がさ、樹の頭の方にのびて……」
「おぉ……やるじゃん、樹」

 ジェスチャーを交えて話す江崎も楽しそうに続きを促す杉にも悪気はない。ふたりはありふれた恋バナを見たまま話している。ただそれだけなのだ。
 逆の立場であれぱ、俺だって江崎や杉が女の子とふたりきりで楽しそうにしゃべっているところを見かけたら「この前の子と仲いいの?」なんて何の気なしに聞いたりしたはずだ。
 ただ俺がふたりにちゃんに想いを寄せていることを伝えてないから、こうやってからかわれる度に「そんなんじゃないよ」とやんわり跳ね除けることしか出来ないだけだ。フラれたうえで片想いの延長戦に入った今、大手を振ってちゃんを好きだと言えない立場がもどかしい。

「で、どうなんだよ? 脈アリってやつなんじゃねーの」
「ホントそんなんじゃないから」
「謙遜すんなって。いいじゃねぇか、少しくらい浮かれても」
「いや、浮かれるとかできないってば……」

 散々浮かれ倒してちゃんと両想いだと確信した夜の記憶が頭をよぎる。告白寸前まで気持ちが高まったあの日、目の前のふたりから既に失恋しているのだと突きつけられた。
 ほんの少しの接触で浮かれたところで、また痛い目を見るに決まっている。弁明の言葉を差し出したが、言葉尻が弱くなるに伴い釣られるように眉がひそめられていく。江崎を責めるつもりはないのに咎め立てするように聞こえたかもしれない。こちらを振り返る江崎の眉尻が心配そうに下がったのを目にし、一抹の不安が杞憂では無いことを知る。

「悪ぃ。悪ノリしすぎた。怒った?」
「ううん。怒ってるとかじゃなくて……」

 目に見えてしょげた顔をする江崎に、今の心境をどう言葉にしたらいいかわからなくて口ごもる。怒るほどのことでなければ、傷ついてると言うには浅い。ただ戸惑いだけが胸中にぼんやりと付きまとっている。

「そうだなぁ……その場で言ってくれたらよかったのになって」
「いやいやいやその場って! さすがに邪魔するわけにいかねぇじゃん!」

 今ここで噂されるくらいならその場で否定させて欲しかった。素直な気持ちを伝えると、焦ったことを微塵も隠さない江崎は口元を引きしめ顔の前でブンブンと手を振って否定する。
 ――鳴さんには思いっきり邪魔されたけどなぁ。
 鳴さんから見たら俺とちゃんが立ち話をしているだけに見えたかもしれないが、あの瞬間、俺はやけくそながらもちゃんに想いを伝えようとしていた。そんな大一番に割って入ってこられたんだ。邪魔されたと称しても差し支えないだろう、
 だが、もしも江崎に見られたのと同じタイミングで鳴さんがやってきたとしても、鳴さんなら話しかけてきただろう。間が悪いというか、空気を読まないというか。やはり傍若無人な先輩というのは扱いに困る。
 鳴さんの辞書に〝遠慮〟という文字は無い。勝手に結論づけた考えにひとつ溜息を吐きだした。
 ――というか、鳴さんに告白の邪魔をされたのあれで二回目なんだよな。
 この前と、その前は教室でふたりきりになったときだった。あの日、想いを伝えることが出来たなら少しは違う未来が待っていたんじゃないだろうか。
 普段は考えないようにいしているけれど、眠る前やふとした瞬間に思い出してしまう。じわりと滲み出た後悔を振り払うべく頭を横に振ると、いまだ肩を組んだままの杉が「どうした?」と声をかけてくる。
 
「いや、鳴さんには話しかけられたんだよなって思い出して」
「あー……成宮さんな……」

 ほんの少し顔を引きつらせた杉は、同情するように眉根を寄せる。労うように肩を叩かれたことに、うん、と頭を揺らすと、そこでようやく肩に掛かる圧力から解放された。
  
「で、何やったら単なるクラスの女子に頭撫でられるようなシチュエーションに巡り会えるわけ? 今後の参考のために教えてくださいよ、センパイ」

 からかうような口調と共に、すかさず背中を叩いてくる杉に苦笑する。間近に現れた恋バナをいの一番に知りたいという気持ちはわからなくはない。だけど、聞かれたところでもうこれ以上の進展を望むことは出来ないのだから勘弁して欲しいと思ってしまう。
 いっそフラれてるから深く立ち入らないで欲しいとでも言った方がいいだろうか。だが、告白もしていないのにどうしてフラれたなんて言うのかと聞かれたら答えに窮してしまう。
 ちゃんが鳴さんにフラれたことをふたりに伝えるのは、どこか心苦しい。それを知った上で俺の気持ちがまだちゃんに向かっていることを鳴さんに知られて、いつか届くかもしれないちゃんの恋の芽が潰れる可能性を考えると尚更だった。
 だが、元はといえばふたりが俺にちゃんが鳴さんに告白をしたって俺に教えたんだ。鳴さんが誰とも付き合わないと公言してはばからないのなら、いずれちゃんが失恋してしまったことだけは知られるのではないだろうか。
 どうしたものかと首を捻る。ぐるぐると考えたところで答えは出ない。堂々巡りになりはじめた考えをかなぐり捨て、やはり俺に出来ることはふたりの追求をのらりくらりと躱すだけなのだと結論づけた。

「別に特別なことは何も。ただ――さんの目の前で、鳴さんから頭叩かれて、それを見かねて慰めてくれたってだけだから」
「えぇ……。成宮さんに殴られるって……お前、なにやったの?」

 ドン引きした様子を隠さない江崎は顔を青くして言葉をこぼす。その反応を見あげながら、俺は「はは」と力なく笑った。
 経緯を頭に思い浮かべたが、やはりあの瞬間に殴られたのは理不尽以外の何物でもなかったように思える。
 ――あぁ、でもあの時、鳴さんなにか言いかけてたな。
 先輩として導いてやるとか何とか言っていた鳴さんは果たして何を言おうとしていたんだろう。結局、原田先輩が来てうやむやになってしまったけれど、多分、もう鳴さんに尋ねたところで忘れたと言われるのがオチだろう。
 思い出したところでどうしようも無いことを悟れば自然と落胆の溜息がこぼれた。いまだこちらを振り返ったままの江崎を見上げ、首を横に振ってみせる。

「別に何もしてない、と思う」
「何もして無くて殴られるか?」
「まぁ鳴さんだし」
「あー……」

 普段から割と横暴なところのある鳴さんを思い出したのだろう。江崎は苦い笑みと共に唸り声を上げた。ポジションが違うから関わりが薄いだろうに、江崎にも鳴さんの傍若無人さが伝わっているのだと思うとなんだかおかしくて笑ってしまった。

「にしても……順調そうでなによりだな」

 振り向かせていた身体を前に向け、踊り場を過ぎ、階段に足をかけた江崎の言葉に「え?」と聞き返す。

「樹と
「それはないってば」
「いやいや。何も知らない俺から見ても順調そうって思ったんだから間違いないって。自信持てよ」
「自信も何も、むしろ前より話せなくなったくらいだもん。それにもうすぐ席替えだし……多分、もっと話せなくなるよ」

 だからこれ以上の進展は望めないと言外に含ませたが、眉根を寄せた江崎は納得しないとその表情に刻んでいた。

「なんで? クラスは同じなんだしそのまま頑張りゃいいじゃん」
「いやいや、さすがに――」

 鳴さんには敵わないよ、と言いかけて思わず口をつぐんだ。言葉が続かなかった理由は明白だ。口に出してしまうと、本当に負けを認めることになりそうで怖かった。
 散々気が無い素振りを見せながら、最後の最後のとどめを刺すことが出来ないどころか僅かな抵抗を試みるあたり、まったく諦めがついていないことを自覚する。
 前みたいに気兼ねなく話しかけることは出来そうもないけれど、それでもちゃんを好きな気持ちは募り続けている。自覚しているからこそ、ふたりに悟られるわけにはいかない。来年、日本の頂点に立ち鳴さんが誰かと付き合ってもいいかなと考えた時に、俺が理由でちゃんがフラれるなんてことがあってはならないのだから。
 喉が詰まったのだと装うため咳を払うと、若干ぎこちないながらも口元に緩いカーブを描いた。

「それにもうすぐ夏大じゃん。このままだともっと忙しくなるし、恋愛どころじゃないよ」
「そこはこう、うまいこと立ち回ってだな」
「俺はそんなに器用じゃないし、向こうだって大会あるからなおさら合わないよ」

 丁寧に〝ない〟のだと言い聞かせる作業は江崎や杉にだけ向けられるものでは無い。諦めの悪い自分にこそ響くべき言葉だった。

「もったいねーなー。せっかくベスト5とイイ感じだっつーのに」

 胸を反らし頭の後ろで手を組んだ杉はひどく残念そうに呻いた。俺だってちゃんの想いを知らなければ、と思わなくはない。だけど知ってしまったからには、身を引かねばという気持ちが身を縛った。
 行動を抑えても想いが薄れないことは実証済みだが、少なくともふたりに俺の想いがバレないのであれば当面の問題は避けられるというものだ。

「でもさ、このまま夏休みに入っちゃって二学期になってさ。どうすんの? に彼氏出来てたら」
「どうするもなにも……」

 いくら夏休みに入るとはいえ、大会や練習で部活三昧になるのは目に見えている。むしろ野球部にとっては、夏こそが本番だ。気まぐれなところのある鳴さんだが、野球に対しては真摯に向き合っているのは入部したての俺でさえ知ってる。あえて彼女を作らないと言っていた鳴さんがいきなり翻意して、ちゃんと付き合うことは考えられない。
 ――だから、ちゃんも誰とも付き合うはずがない。
 そう信じることだけが唯一の救いだった。まさかそんな歪な願いを口にできるはずもなく、僅かに苦笑して返す。

「そもそも俺の出る幕じゃないし、それに俺はまゆゆ一筋だから!」
「はいはい。いつものね」
「出たよ。……ホンット好きだなぁ」

 場を取り繕うべくおどけてまゆゆにガチ恋しているのだと装えば、ふたりは呆れたように笑った。意外にもすんなりと通った言い訳は、俺が普段からまゆゆの話題を出すことが多いから信じてもらえたのだろう。「マガジンのグラビアがまゆゆだから」なんて言ってコンビニに立ち寄ったり、音楽番組に出演があれば矢部さんとテレビの前に陣取ったりと、常日頃からファンであることを隠しもしなかった成果というやつだ。
 ――これでちゃんとの恋をからかわれることが無くなればいいんだけどな。
 そう上手くはいかないだろうが、ひとまずの難を逃れた予感に内心で安堵の息を吐き、自然と強ばっていた肩から力を抜いた。その瞬間だった。
 
「よぉ。何突っ立ってんだ、

 階段を登りきったところで、廊下側からの声が聞こえてきた。〝〟という呼びかけに簡単に心臓は跳ね上がる。期待か焦燥か。判別のつかない心地を抱えたまま周囲を見渡せば、階段前の廊下にスラックスのポケットに手をねじ込んだが立っていた。
 こちらに気付く様子のないは最上階へと続く階段に目を向けたままだ。その視線を追うべく一歩前へと進み出れば、階段の真ん中あたりで佇むちゃんと、ちゃんがよく一緒にいる女子たちの姿が目に入った。目を大きく開き階段の途中で足を止めたちゃんは、隣を歩いていた女子に「?」と呼びかけられた途端、小さく肩を揺らす。

「あ、ごめん。……おはよう。くん」
「おう」
じゃん。おはよー、なんか久しぶりだね」
「あぁ。元気してたか……って聞く必要も無いな、お前らは」
「めっちゃ嫌そうな顔するじゃん」
「そういうとこ治しなよ、ー」
「あー、うるせぇうるせぇ」

 ちゃんだけでなく、その友人らも口々にへと挨拶と呼ぶには攻撃力の高い言葉を投げかけた。の大雑把な対応を見るに、彼女らも同じ中学出身なんだろう。以前、ちゃんから聞いた「いつも前から仲のいい子と一緒にいる」という話が予想を裏付けるべく頭に浮かぶ。
 心底嫌そうに顔を顰めたは「姦しいってレベルじゃねぇな、朝から」と悪態をついたものの、その場に足を止めたままちゃんらを見上げていた。

「行こう、
「うん」

 背の高い女子に促されたちゃんが階段を降り始めたのに合わせて軽い足音が廊下に響いた。数名の女子たちの足音に紛れても、なおその音だけを耳が拾い上げる。タンタンと一段ずつ近づいた高低差がやがてゼロになると、踊り場に立っていた俺とちゃんの視線が交差した。

「――ちゃん」

 習慣というものは恐ろしいもので、ちゃんの視線を受け止めた途端、その名前を口にしていた。江崎らの前では〝さん〟と呼んでいた努力が霧散する。ハッと口元を手のひらで押さえたが、一度飛び出た言葉は取り戻しようがない。
 ほんの少し眉尻を下げていたちゃんは、戸惑う俺を見上げ、緩やかに口元をほころばせた。

「おはよう、樹くん。今日も早いね」
「っ……あぁ、うん。最近、雨続きだから朝練そんなに出来なくて」
「そうなんだ……それじゃ、また教室で」

 さらに口角を上げて笑顔を強く印象づけたちゃんは、友人らを連れ立って俺たちが上ってきたばかりの階段を下りていく。先程と同じ足音を伴い去って行くちゃんの背中を目で追いかけていると、肩にかけたスクールバッグの紐を持つ手に自然と力が入った。
 ――なんだ、これ。
 いつもと変わらない挨拶のはずなのに、どうしてか心臓が締め付けられるような痛みが襲いかかる。不安と焦燥に似た心地が背中を這いずり回ると、唇の先がわなつくようだった。違和感なんてなかったはずなのに、なにか見落としたのではと胸が騒ぐ。
 憂いなど無いはずだ。そう祈るようにちゃんの背中を見つめたが、踊り場で曲がるタイミングでいつもみたいにこちらを振り返ってくれなかったちゃんに一層不安が募った。
 ごくりと喉を鳴らしてみたものの、そんなことで焦りを飲み下せるはずもなく、いつの間にか握りこんでいた拳の中にじんわりと汗が滲む感覚だけが残された。ちゃんの姿が見えなくなったあとも呆然と踊り場を見つめる俺に背後から声がかかる。
 
「よぉ、多田野。お前もいたのか」
「あ――おはよ、
「お前も朝練か?」
「まぁ、そんなとこ」
「朝からご苦労なこった。じゃあな。ちょっと便所行ってくるわ」
「……いちいち言わなくていいから」

 適度に雑な会話を残したはひらりと片手を上げてその場を立ち去る。スタスタと歩く背中を横目に溜息を吐きこぼした。
 の雑なところも味ではあるが、さっきの女子の言うとおり治した方が余計な軋轢を生まなくていいと思う。だが、爽やかなは想像できないし、そもそも頭も良くて性格もいいなんてことになるとその存在自体が嫌味に思えてくるかもしれない。結局、今のがベストな状態なんだろう。
 そう結論づけると同時に、先程まで身に降りかかっていた不安が鳴りを潜めたことに気付く。今度は安堵の意を含んだ溜息を吐き出せば、すかさず杉に背中を叩かれた。

「痛っ!」
「なんだよ。やっぱり仲いいんじゃん! 脈アリだろ、今の!」

 早口で捲し立てた杉は、バシバシと遠慮無く俺の背中を叩く。興奮混じりなのは杉だけではなく、喜色を露わにした江崎からも感じ取れた。

「いや、普通に挨拶しただけじゃん」
「普通の仲で〝樹くん〟はないだろ!」
「お前、浮かれたりしないのかよ?! 俺だったら女子に〝卓くん〟なんて呼ばれた日には一瞬で恋に落ちるぞ!」

 拳を俺の背中に突き立てグリグリと押してくる杉と、自信たっぷりに宣言した江崎は真剣な眼差しでこちらを見つめてくる。俺の恋愛宣言を待つ瞳から逃れることは出来そうもないが、せめてもの抵抗としてふたりから視線を逸らした。

「いや……たまたまだよ。――さん、割と誰とでも仲いいし」

 うっかりまたふたりの前でちゃんの名前を呼びそうになってしまった。言い淀んだ俺の言い逃れを許さないとばかりに背中側にいたはずの杉がすかさず正面へと回り込んでくる。

「ってかさっき樹ものことちゃん付で呼んでなかった?」
「なに?! やっぱり実はこっそり付き合ってたのか?!」

 杉の言葉に江崎までもが眼前に詰め寄ってくる。思わず一歩退いたが、背中が壁にぶつかるとそれ以上の後退は出来そうもなかった。
 爛々と輝くふたりの目は期待に満ち溢れている。RPGのボスキャラを前に〝逃げる〟のコマンドをいくら選択したところで逃れられないように、ふたりの追求から逃げおおせる気がしない。
 だが抵抗しなければ、今までちゃんへの想いをひた隠しにしてきた努力が水の泡となる。友だち甲斐のない選択かもしれないが、ちゃんの気持ちが鳴さんに向かっていることを考えると、やはりふたりに白状することは出来なかった。

「だから違うってば。ホント、これ以上はさんに迷惑がかかるからやめて」

 ハッキリと拒絶を示すと「えぇー」と落胆の声が重なった。進展が無いと口にする度に地味に傷付く俺以上にふたりは残念そうな顔を浮かべる。

「そんなこと言ってたら青春が逃げていくぞ」
「それ原田先輩のパクリじゃん!」

 胸の前で腕を組み、威厳に満ちた表情を作り上げて言い放った杉に江崎がすかさずツッコミを入れる。パシッと軽い音と共に叩かれた腕を擦る杉はニッと口角を上げて機嫌よさそうに笑った。

「いや、あれは真似したくなるって。かっこよかったじゃん!」
「だよなー。やっぱ三年生の貫禄は違うよなー」

 ウンウンとしきりに頷いてみせる江崎と、あの日の原田先輩に思いを馳せているだろう杉も原田先輩を尊敬しているのだと誉めそやす。部活中のキャプテンシーだけでなく、寮生活における面倒見の良さなどを上げながら原田先輩の良さを語るふたりを横目で見守る。続く会話に乗りながら、自分への追求から話題が逸れたことを知ると、ほっと安堵の息を吐いた。

「つーかさ、原田先輩の言葉じゃないけどさ。樹も別にそんなに頑なにならなくていいんじゃねぇの?」
「え?」

 もうすぐ教室の前に辿り着くと思った頃合いだった。逸れたと思ったばかりの矛先がまたもや杉によって自分に戻されたことに思わず目を瞠る。吃驚したことを隠しもしない俺を、杉は目を細めて笑った。

「いやさ、ここだけの話。俺もクラスにちょっといいなって思う子がいてさ。その子がこの間さ、成宮さんに告白したんだよね」
「え? でも鳴さんは……」
「そ。日本の頂点に立つまでは野球に全部賭けるってやつ」

 普段よりも幾分も声を潜めていう杉の話に耳を傾ける。言い回しは婉曲的だったが、杉のクラスの女子もちゃんと同じ理由で鳴さんにフラれてしまったのだと察しがついた。返す言葉が見つからず戸惑う俺を横目で一瞥した杉は、教室には入らず窓枠へと背を預ける。まだ話の続きがあるのだろうと近寄ってみれば、杉はほんのりと眉尻を下げて言葉を続けた。

「でもさ、フラれた後もやっぱり成宮先輩のことが好きって言われてもさ。かわいいもんはかわいいわけよ」
「いじらしいよな、そういうの」

 杉の言葉に江崎が胸の前で腕を組みしきりに頷くことで同意を示す。ふたりの様子を黙って見つめながらそっとちゃんへと思いを馳せる。鳴さんとちゃんが話をしているところを初めて見たとき、ちゃんの恋する表情を目の当たりにした。フラれてもなおあんな風に素直に顔に出すちゃんを目にした寂しさの奥に、ちゃんのいじらしさに対する愛情が募らなかったといえば嘘になる。
 足元に視線を落としきゅっと口元を結ぶと、杉の腕がこちらへと伸びる。労るように叩かれた肩に顔を上げれば、杉は片目をつぶって目配せをしてきた。

「あれから、もうすぐ1ヶ月経つんだけどさ……そろそろいいかなって、ちょっとこっちから勇気出して話しかけてみてもさ、部活の時の成宮先輩のこと教えてよ、とか言われんの」
「それは……きついね」

 もし、ちゃんに同じことを尋ねられたら俺はきちんと応えることが出来るだろうか。いつもの笑顔を浮かべたちゃんが鳴さんへの想いを俺に告げる。そんな場面を想像しただけでキャッチし損ねたボールが胸を突き刺すような痛みが走った。
 言い知れぬ絶望を考えると自然と眉根が寄せられる。そんな俺の表情を目にした杉は、ふ、と口元を緩めた。

「まぁな。でもさ、俺はアンタに興味あるとか言えるわけねぇし、たまにふざけんなって言いたくなる時もあるけどさ。まぁ男友達部門としてちょとずつでもさ、その子の信頼を得ていこうかなって魂胆なわけですよ」

 照れ隠しだろうか。ヒヒ、と口の端を引っ張って笑った杉は、自分の首の後ろに手を回し襟足を撫で付けながらそっとこちらから視線を外した。

「樹からみてどう? 俺のやってることみっともない?」
「まさか! 素直に頑張れって応援したくなったよ!」
「だろ? ――だから樹も頑張れって」

 ニッと笑ってこちらへと視線を戻した杉の激励に思わず目を瞠る。
 今、杉の片想いに対し抱いた感情に嘘はない。丁寧に自分の今の状況と心境を伝えてくれた杉の話は、自分の置かれた現状と合致する部分が大半だった。
 杉に対してなら素直に頑張って欲しいと思えた俺が、自分の想いを否定する理由なんてあるのだろうか。

「もちろんストーカーみたいになるのはダメだろうけどよ。普通に好きなら好きでいいじゃん、片想いでもさ。意地張ってたら手に入る未来も手に入らなくなっちまう」

 杉の言葉にきゅっと口元を引き締める。片想いでもいいのだと、杉は言った。
 ちゃんが鳴さんに片想いをしているように、俺もちゃんを好きでいればいい。ただそれだけのことを難しく考えていたのはひとえに両思いになりたいという欲があったからだ。それが叶わなくなった今も想いを寄せる自分が、ちゃんの想いを無碍にしているように感じて罪悪感を覚えていた。
 独りよがりに感じていた想いを肯定されたことで、胸の内に巣くっていた罪悪感が薄れていく。
 ――それでも、好きでいてもいい。
 杉の言葉を胸の内で反芻すると、ますます気持ちが軽くなる。感心したように呆けた俺を目にした杉は、更に笑みを深くさせた。

「どうだ? 俺の言葉、胸に響いたろ?」
「いや、ほとんど原田先輩のパクリだから」

 真面目な空気を一蹴し、わざとらしく勝ち誇る表情を浮かべた杉に、つい先程までの感心が吹っ飛んだ俺は思わずツッコミを入れてしまった。


 ***


 軽くなった心を抱えて教室へと足を踏み入れる。教室内にまばらにいたクラスメイトにそれぞれ挨拶を交わしながら自席へと向かった。椅子を引いて席につき、鞄の中の教科書を机の中に入れた後、そっと入り口へと視線を伸ばす。
 朝練を終えたちゃんが、早く教室に入ってこないだろうか。そんな期待が視線に乗ったのを自覚する。
 ――あぁ、なんか久しぶりだな。こういう気持ち。
 鬱屈した想いが晴れた今、目元がじんわりと緩んでいく。ちゃんが鳴さんに告白したと耳にして以来、どこか遠慮や引け目を感じて素直な気持ちでちゃんと向かい合うことが出来なかった。
 ――だけど、好きでいてもいいんだ。
 片想いを続けてもいいのだと杉に背中を押された。ただ俺は、ちゃんに想いを寄せるひとりの男としてやさしい気持ちで向き合うだけでいい。そんな当たり前の気持ちを取り戻すことができた今、ちゃんの登校を心待ちにしている時間は楽しかった。
 ちゃんを待つ間、近くの席の男子と昨日出された宿題の話をしたり、机の上に頬杖をついてのんびり過ごしたりしていると、いつの間にか始業前のSHRが始まるまで10分ほどしか残ってないことに気がついた。まだ来ないのかな、と視線を前方の扉へと向けると、横滑りしたドアの隙間からちゃんの姿が垣間見えた。
 ――来た!
 待ちわびていたちゃんが、同じクラスのブラスバンド部の子と共に教室に入ってくるのを目にした途端、鼓動が心地よく走り出す。
 話しかけようと気持ちが先走ると自然と足の裏に力が入る。さすがに立ち上がって迎えに行くのはやりすぎだと自らを諌め、ただ固唾を飲んでちゃんがこちらへと足を進める姿を見守った。
 程なくして自分の席へと辿り着いたちゃんは前の席の子と挨拶を交わした後、スクールバッグを机の上に載せると、くるりとこちらを振り返った。ちゃんの視線が落ちてくると同時に胸の奥に灯が灯る。

「おはよ、ちゃん」
「おはよう、樹くん。さっきぶりだね」

 ちゃんの名前を呼ぶだけでますます表情はほころび、口元を緩めたちゃんの笑顔に心は簡単に弾んだ。だけどその歓喜も束の間で、席に着こうと椅子を引いたちゃんの視線が外された途端、暗い不安に襲われる。
 ――え、どうして。
 意識すればするほど戸惑いは広がるばかりで、瞬く間に絶望感が全身に行き渡る。
 はっきりと浮かび上がりながらも理由がわからない不安を抱えたままちゃんの動向を目で追った。いつも通り、丁寧な所作で身の回りを整えたちゃんは、机の横にスクールバッグを掛けると、前の席の子と話し始める。
 目に入るのは何の変哲もない日常の風景に違いない。だけど、どうしてか先程とはまったく異なる感情で心臓が騒ぎ出す。焦燥にほど近い鳴動を抑えようと左胸を抑えたが、手のひらに伝わる心拍数の速さを更に自覚するだけだった。

「樹くん? どうかしたの?」
「え、いや。特にはなにもないんだけど……」

 俺の視線が外れないことに気がついたのか、前の席に座る女子との会話を断ち切ってこちらを振り返ったちゃんに驚き、反射的に誤魔化すような言葉を返してしまう。まっすぐに俺の目を見て笑顔を浮かべたちゃんだったが、どうしてか捨てきれない違和感を覚えてしまう。
 ――ちゃんの瞳に俺じゃなく、違うなにかが映っている。
 根拠も何も無い、漠然と感じた違和感を口に出せるはずもなく、はは、と頭の裏を掻いて応じれば「そっか」とまた口元を緩めたちゃんは、また前の席に座る女子との会話へと戻っていった。
 俺もまた捻っていた体を正面へと向け、ちゃんのことを気にしていないのだと装う。だが極力、気にしないようにと気を払ったところでまったく効果が無い。
 耳に入るちゃんの声を必死に拾い集め、〝ちゃんの元気が無かっただけなのでは〟と導き出した答えに縋ろうとしたが、楽しそうに笑うちゃんの声に自分を慰める道も瞬く間に閉ざされる。
 何も無視されたわけじゃない。だけど胸の奥がざわついて仕方が無い理由は何なのか。焦燥に塗れた心を抱えたまま一瞥を横に流したが、ちゃんの様子からは何もうかがい知ることが出来ない。
 焦りに空転する思考の奥に直近で同じような不安を抱えたことに思い至る。
 ――朝も、いつものちゃんっぽくないと感じたのは間違いじゃなかったんだ。
 なんてことない朝の挨拶を交わしただけなのに、どうしてか身に覚えの無い焦りが生じた。
 きゅっと引き締めた唇を内側に巻き込み噛みしめ、違和感の正体を探ろうと今度はちゃんへと膝を向ける。だが、俺の動向に気付いていないのか、ちゃんがこちらを振り返らない。ただそれだけのことで、簡単に呼吸が覚束なくなっていく。
 今までは俺が「話をしたいな」と思ったタイミングでいつもちゃんが振り返ってくれたことを思いだし、記憶と現実の齟齬に思わずごくりと喉を鳴らした。消えない違和感はちゃんの横顔を見つめれば見つめるほど募っていく。
 ――もしかして、嫌われたんだろうか。
 その考えが浮かんだ途端、血の気を失った指先にピリピリと電気が走っているかのような痛みが走る。痺れはやがて指先から腕を駆け上り肩へと浸食すると、身体全体が心臓になったように血の流れの速さを知らしめた。
 自分の方から避けておきながら、気持ちの立て直しが出来たからと関わろうとする俺に気付いて嫌気がさしたんだろうか。
 ――違う。ちゃんは、そんな子じゃない。
 アイドルに理想を押しつけるような根拠の無い自信では断じてない。この2ヶ月あまり、期間としては短いかもしれないがちゃんを見つめてきたからこそ、簡単に人を嫌いになるような子じゃないと知っている。
 だからこそ、今、ちゃんがこちらを振り返らない理由がわからない。ストレートに尋ねれば教えてくれるかもしれない。だけど、どうしてかそれが溜まらなく怖いと感じている。
 ――隣にいるはずなのに、ちゃんが遠い。
 今朝、江崎や杉の追求を躱すために選んだ言葉が今になってのしかかる。
 もうすぐ席替えだ。だからもっと話せなくなると思う。そうなると知っていることと、身をもって知ることの差は大きい。
 このままだと本当にちゃんと話が出来なくなりそうだ。漠然とした予感に奥歯を強く噛みしめる。今更ながらその恐怖に身が竦むような心地を覚えた。




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