22
との約束をした週の頭の月曜日。朝のうちは晴れ間を見せていたが、まだ梅雨は明けていないのだと証明するかのように昼前から雨は猛烈な勢いで降り始めた。放課後に入ってもなお止まない雨を、廊下の窓越しに見上げる。
――今日から試験準備期間に入るのは不幸中の幸いなのかもしれない。
期末試験が目前に差し迫ったことで野球部も他の部活同様に休止期間に突入し、否応なく野球から引き離された。
例年以上に長い雨が降ったこともあり、グラウンド整備もままならない状況が続いたため最近ではまともな練習ができる日はほとんど無かった。身体を動かせないストレスと共に鬱屈した気持ちが幾重にも折り重なって胸の奥を苦しめたが、試験準備期間となればもう諦めるしかない。逃れようのない予定があることで、ほんの少しではあるものの気持ちが楽になった。
――とは言え、帰ったら素振りくらいはやっちゃうんだろうけど。
さすがにグラウンドを使っての大々的な練習は無しになったが、寮内設備での筋トレや室内練習場での自主練までは禁止されていない。ルールの抜け目を突くみたいで体裁は悪いが、試験に影響のない範囲で野球に勤しむ程度なら監督たちだって目を瞑ってくれるはずだ。
中間試験の時も自主練程度なら許されたし大丈夫だろうと見当をつけながら、窓の外へと向けていた視線を戻す。止めていた足を再び踏み出し、職員室を目指す道すがら片手に携えた日直日誌を抱え直す。これを出せば今日の任務も終わるのだと気を引き締めた。
およそ一ヶ月ぶりに回ってきた日直の仕事は、特別な提出物や別棟へ資料を取りに行く用事がなかったこともあり、授業の合間の黒板消しさえやっていればOKという緩いものだった。
同じ当番だった女子はと言うと「日誌は書いたから職員室に持っていってね」と俺に預けるとさっさと帰ってしまっていた。書いてくれた感謝はもちろんあるが、「ちゃっかりしてるよなぁ」という感心は沸き起こる。
――ちゃんとペアだったらよかったのに。
つつがなく日誌を提出し、職員室のドアを閉めながらぼんやりとそんなことを考える。
それぞれの出席番号順に回ってくる当番は男女の人数差により同じペアが続くことは無い。このままずれこんでいけば二学期中には俺とちゃんのペアになる日が来る算段だった。
いずれ叶う願いを胸に、アニメや漫画でよく見るシチュエーションのひとつに自分とちゃんの姿を重ねる。
夕陽の差す教室の中にふたりきりで残って日誌を書くシチュエーション。ちゃんが俺の名前を書き、俺がちゃんの名前を書く。ベタだけど、王道な展開への憧れは止まない。
現実は俺もちゃんもお互いに部活に遅れないようにと走って教室を出るはずだし、そもそもちゃんは鳴さんのことを好きなんだからふたりきりになったところで進展は無いのだけど。
空想に対してさえ現実を突きつけようとする己の卑屈さに思わず溜息を吐きこぼす。そうこうしているうちに辿り着いた教室の前に立つと自然と口元が引き締まった。
閉ざされた教室のドアを前にすると今も少しだけ緊張する。
――さすがにもう帰ってるよね。
話し声も漏れてこないし、きっと誰も教室には残っていないだろう。
落胆にほど近い溜息を吐き、教室のドアをスライドさせる。鞄を取って早く寮に戻ろうと気を取り直したところで目に入ってきた光景に思わず足を止めてしまった。
「……ちゃん?」
「え、樹くん?」
無人の教室に踏み込んだ、はずだった。話し声が聞こえない、という憶測の元の判断だったが聞こえなくて当たり前だ。
今、この教室にはちゃんしか残っていない。
広げた教科書に視線を落としていたちゃんがこちらを振り仰いだ途端、自分の席へと向けるはずだった足がその場に縫い止められたように硬直する。あからさまに怯んだ俺を目にしたちゃんはほんのりと眉尻を下げた。
――まずい。変に思われたかもしれない。
きゅっと眉根を寄せたちゃんの表情を目の当たりにすると、途端に不安が身体中を駆け抜ける。現状を打開するには止まった足を無理やりに動かすしか道は無い。
緊張に強ばった身体をぎこちなく前進させながら、どうにかして場を取り繕おうとちゃんへと言葉をかける。
「どうしたの、こんな遅くまで」
「えっと……私は他のクラスの授業が終わるのを待ってるんだけど――樹くんの方こそ、どうしたの? 忘れもの?」
「俺は今日、日直だったから」
「あ、そっか。そうだったよね」
ちらりと俺の席へと視線を流したちゃんは、スクールバッグが朝から変わらず机にかけられていることを確認したようだった。
外された視線が戻ってくることを期待してちゃんの動向を窺ったが、右隣の席を眺めていたちゃんは、机から視線を外すとそのまま反対を向いてしまう。窓の外に視線を向けてしまったちゃんが右手で頬杖をつくとその表情のほとんどが隠れてしまう。
所在ないような気持ちにほんのりと唇の先を尖らせる。喉の奥に詰まった感情を誤魔化すようにひとつ咳を払い、改めて自分の席へと足を伸ばした。
迷いなく歩みを進めているつもりでも胸の内には目まぐるしく思惑が駆け巡る。日誌を職員室に提出しに行ってる間に他の生徒は帰ってしまっていた。当然、誰もいないものとして戻って来たからこそ、不意打ちでちゃんとふたりきりになると戸惑いばかりが胸に沸き起こる。
ふたりきりというシチュエーションに心が躍る思いがしたのはいつまでだったか。懐かしい記憶を羨んでは口元に苦い笑みを浮かべた。今はもう気まずさばかりを感じることが歯痒くて堪らない。
――そう言えば、他のひとって誰だろう。
誰かを待っているのだとちゃんは言った。今、1年の廊下を通って帰ってきたが、どのクラスもすでに終礼を終えていて、生徒は疎らにしか残っていなかった。
補講があるとすれば受験を控えた3年か、大会での欠席を補填する2年か。
――もしかして、鳴さんを待ってる、とか?
不意に浮かんだ考えに自然と眉根が寄る。時折、寮へと戻る鳴さんを門の前で待ち伏せしている子や、練習見学に来ている女子を見かける事がある。
その中にちゃんの姿が混じったことは無かったと記憶している。ちゃんがブラスバンド部に所属している以上、きっと部活のある期間では鳴さんとすれ違うことすら難しいはずだ。出来たとしても部活の休憩時間に校舎からグラウンドを眺めるくらいのものだろう。
だからこそ部活の無いこの期間、たとえ付き合うことができなくても一目だけでも鳴さんの姿を見ることが出来れば、なんてちゃんが考えていたとしてもおかしくはない。
勝手な想像を巡らせてはそのいじらしさに胸を締め付ける。思いのほか強く顔を顰めている自分に気付き、表情を取り繕うべくぐいっと手の甲で頬を拭った。
情けない表情を見られないように顎を引く。そのまま辿り着いた机に手をつき、身体を少し伸ばしてスクールバッグを手に取った。
そのまま左肩に掛けようと身体を起こせば自然と爪先がちゃんに向けられる。染み付いた習性に内心で苦笑しながらも、いまだ外を眺めたままのちゃんへそっと視線を落とした。
距離が近づいたことでちゃんの視線が空へと向けられていることに気付く。釣られるように顔を上げると、分厚い雲が空を覆い、間断なく雨を降り注ぐさまが見てとれた。
当分止みそうにないな。
肩を落として息を吐けば、間近で溜息が重なった。俺の吐いたものより幾分か重みを感じる息遣いに、何か悩みでもあるのだろうかとちゃんの様子を窺う。先程よりも愁いを帯びた横顔にひとつの仮定が頭をよぎった。
「もしかして――ちゃん、傘、忘れた?」
「すごいね、樹くん。大正解」
びっくりしたように目を丸くしたちゃんは、頬杖をついた手から頭を浮かして俺を見上げる。
「天気予報も微妙だったし、朝は晴れてたもんね」
「うん……夕方からって予報だったからちょっと油断しちゃった。それにいつもは折りたたみ傘を入れてるんだけどこの前、友達の家に行く時に別の鞄に入れ替えてたみたいで」
「あー……そっか。それは災難だったね」
今朝の天気予報では、たしか午後の降水確率は30%の予報だったと記憶している。降るか降らないか微妙なラインに、俺はつい癖で傘を手にしていたが、折り畳み傘でいいかと妥協する気持ちはわからなくもない。
「うん。それでお姉ちゃんが置き傘してるって言うから貸してもらおって残ってたの」
眉尻を下げたちゃんは困惑を目元に浮かべながらも口元を緩めた。久しぶりに真正面から目にした自然な笑顔にグッと喉の奥が詰まる。
――やっぱり、かわいいな。
素直な感想が頭をよぎった。他ならぬちゃんから待っている相手が鳴さんではないと告げられたこともまた安堵に拍車をかける。最近上手く話せないだとか、もしかして避けられているのかもしれないだとか。杞憂は探さなくともいくらでも思いつく。だけどちゃんの笑顔ひとつ前にすれば条件反射のように染み付いた感情が湧き上がり、胸は簡単に高鳴った。
耳に熱が走ったのを察知し、掴んだままだったスクールバッグの紐から反射的に耳へと手を移動させる。照れ隠しに髪の先を掴んでいるのだと装いながら持て余した熱を逃がした。瞬きを挟み、一度横に逸らした視線をちゃんへと戻せば懐かしささえ感じるやわらかな笑みが目に入る。自分に都合のいい錯覚ではなかったのだと知ると共に、ますます胸の奥が心地いい温度で満たされていく。
ふと、杉の言葉が耳に蘇る。片想いでもいいと言った杉は、俺に対してもちゃんへの想いを貫いてもいいと背中を押してくれた。
下ろしたままの右手を握り込み、きゅっと口元を引き締める。ちゃんがひとりで残る教室に踏み込んだ偶然に手を伸ばすか否か。考えたところで答えはとっくに決まっている。
そもそも「残念だったね。じゃお先に」なんて踵を返すつもりならとっくの昔に帰ってる。この場に踏みとどまっているのは、滅多にないチャンスを手繰り寄せるべきだと自分でも気付いていたからだ。
今日は雨で、ちゃんは傘を持ってないと言う。お姉さんを待つのも傘がないからで、その理由が無くなれば今すぐに帰る選択肢を取ってくれる可能性がある。きっとこの先、試験準備期間中という限定されたシチュエーションの中で、ふたりきりになれるチャンスなんてない。勇気を出すのなら、今だ。
ちゃんの笑顔を目にした途端、最近では遠くに感じていた距離が以前のように近づいた気がした。この直感を、信じたい。
窓を叩く雨音に紛れて長い息を吐き出し、一歩前に踏み出した。
「じゃあさ。その、今日は一緒に帰らない?」
さらりと誘うつもりだったのに思いのほか言葉は詰まった。「え」とこぼしたちゃんは、ぱちりと開いた瞳を俺へと差し向ける。ちゃんの目元に赤みが差した、ように見えた。だけど、俺が確信を抱くよりも先に、瞬きをひとつ挟んだちゃんはほんのりと眉根を寄せてしまう。
「ううん、悪いよ」
首を横に振ったちゃんの髪が肩の上で揺れる。明確な拒絶に気持ちが怯んだが、さらに一歩身を乗り出して離れていきそうな感触に手を伸ばす。
「大丈夫だよ。ちゃんの家も寮の近くだったよね? そのくらいの距離なら別に遠回りじゃないし。傘も割と大きいからちゃんひとり増えたってなんてことないよ。だから――」
「……樹くんは、優しいなぁ」
一緒に帰ろう、と言いさした言葉はちゃんの独り言にも似た言葉により飲み込まれる。ふんわりと緩められた目元を目にすると簡単に心は弾みそうになる。だが、ひそめられた眉が添えられるとガラリとその表情のもたらす意味が色を変えた。
ちゃんを困らせているのだと気付くと、取って欲しいと願って差し伸べた手のひらの行き場を見失ってしまう。
「でも、ダメだよ。そんな風に女の子に優しくしたら勘違いされちゃうよ」
「勘違いって……」
眉尻を下げたちゃんの瞳が真っ直ぐに注がれるさまを暗澹たる想いで見つめた。
――勘違いなんかじゃないのに。
もし、ここにいるのが他の女子であっても声くらいはかけただろう。だけど、一緒に帰ろうだなんて誘ったりはしない。
俺が特別な想いでちゃんに対して優しくしているのだと伝わらないことがもどかしい。悔しさに紛れて浮かび上がる絶望に似た悲しみにぎゅっと眉根が寄った。
「勘違いじゃないよ。――俺が優しくするの、ちゃんにだけだよ」
「そんなことないよ。樹くんが色んな人に優しいの、ずっと前から知ってるもん」
切羽詰まった感情に押し流されるままに揺るぎない真実を吐露したところでちゃんには届かない。誰にでも優しいことは決して悪いことじゃないはずだ。だけど人に親切にすることで、他ならぬちゃんへの親切も特別な意味を持たないと思われてしまうとなると、途端に無駄なもののように思えてしまう。
紛れもない褒め言葉のはずなのに、ちゃんに優しい人だと認識されていることがこんなにも歯痒い。返す言葉が見つからず、かと言って諦めきれるはずもなく、唇を薄く開いたまま佇んでいると、ちゃんは更に眉根を寄せて俺を見上げた。
「だから……そんな軽薄な言葉、樹くんに相応しくないよ」
寂しげに寄せられた眉を取り繕うように明るい声を出したつもりだったんだろう。弾みながらも微かに震えるちゃんの声は、ひどく耳に残った。喉の奥に言いようのない感情が閊える。
――もう、間に合わないんだろうか。
杉に背中を押され、片想いでもいいと踏み出した。だけど、もう一度頑張りたいと抗ったところで、積み重ねた言葉は肝心なところだけちゃんに受け止めてもらえることなくこぼれ落ちていく。
立て直したばかりの気持ちは強固なものとは言い難い。少し思い通りにいかなかっただけでほろほろと簡単に砕け散っていく。
泣きそうなのか自然と顔が顰められた。涙がこぼれないようにと目元に力を込めると、ちゃんを睨んでいるように思われているかもしれない。そうと気付きながらも浮かぶ表情を取り繕えるほどの心の余裕はなかった。
「――それより、樹くんも早く帰った方がいいんじゃない?」
窓の外へと視線を転じたちゃんの動きに釣られるように俯いていた顔を上げる。遠くまで広がる雲はどんよりとした暗さに包まれていて、朝方はたしかにあったはずの晴天なんて欠片も残されていなかった。朝の予報は大幅に外れているさまを目の当たりにすると、空模様同様に気持ちまでもが落ちていく。
「夜まで降り続けるらしいよ。さっき携帯でニュース見て驚いちゃった」
残念そうにこぼしたちゃんは、教室にひとり残されることを不本意のように思っているのだろう。頬杖をついたままこちらへと視線を戻したちゃんに、今一度、手を伸ばす。
「じゃあ、やっぱり遅くならないうちに送っていくよ。だから――」
「ううん、大丈夫だよ。家近いし、あと30分もしたらお姉ちゃんの授業も終わるから」
黒板の上に張り付けられた時計に視線を向けたのであろうちゃんの動きにならい、俺もまた時計を振り仰ぐ。帰りのSHRを終えていつの間にか30分近くが過ぎていた。課外授業が通常の授業と同じ時間で行われるのなら、ちゃんの言う通り、お姉さんの授業も間もなく終わることだろう。
「心配してくれてありがとう。樹くん――また明日ね」
――あ、まただ。
目の前にいるちゃんはたしかに目を細めて笑っているというのに、どうしようもないほど踏み込めない距離を感じる。押しても引いても越えられそうにない壁はちゃんの意思が滲んでいて、近づかないでと直接言われるよりも強く拒絶を感じた。
「また明日」とちゃんは言った。以前ならその言葉ひとつでまた明日会えるのだと高揚していたはずなのに、今では「もう今日はおしまい」と線を引かれたようにしか思えない。
引き下がる選択肢しか俺には残されていない。そうと気付きながらも立ち去りがたい想いだけが静かに降り積もっていく。
だが、拒絶されていることを知りながら「じゃあ、お姉さんの授業が終わるまで話し相手になるよ」だなんて言って居座る勇気はもっとない。望まれない行動を起こして、ちゃんに嫌われるのが、怖い。
窓を叩く雨の音が静寂を強調させる。何も言えず、ただ立ち尽くす俺を見上げるちゃんは相変わらず口元に綺麗なカーブを保っていた。
邪険に扱われるでもなく、無視されるわけでもなく、ちゃんはただひたすらに優しく俺を拒絶する。もう一度説得したところで、ちゃんが翻意してくれる気がしない。
ままならない現状を前に、拳を強く握りこむ。好きなのに、好きだからこそ――辛い。
だが、いくら俺が辛いだの悲しいだのと胸を痛めたところで答えは変わらない。物わかりのいい振りをして立ち去る選択肢しか、はじめから俺には用意されていないのだ。
「……わかった。また明日」
「うん。バイバイ、樹くん」
顔を見ることが出来ず俯いた視界の端でちゃんの手のひらが揺れる。歯痒さに下唇を噛み締めたまま、「バイバイ」とだけ残してそっとちゃんに背を向けた。