23
ちゃんの拒絶を目の当たりにし、憂いに塗れた火曜日を過ごした翌日。そろそろ梅雨は明けるという天気予報どおり、夏の訪れを間近に感じるほど空はよく晴れていた。
午前中の授業も終わり、久々の青空を横目にしながら教科書を机の中に片付けていると昼休みを知らせるチャイムが鳴り響く中、約束通りが声をかけてきた。
「よぉ、多田野。ちゃんと昼飯買ってきたか?」
「あぁ、うん。一応」
スクールバッグからサンドイッチと惣菜パンを取り出せば、コンビニの袋を手に提げたは満足そうに頭を揺らした。
「じゃあ、あとは飲み物だな。昨日にはもう晴れてたし……もう地面も乾いてんだろうから購買に寄って、それから屋上にでも行くか」
窓の外に視線を向け、晴天を確認したの言葉に思わず目を丸くする。
「屋上、入れるの? 前に先輩から鍵が掛かってるって聞いたことあるんだけど」
「何年前の話だよ。そんなもんとっくの昔に撤回されてるよ」
「えっ?! そうなんだ?」
「まぁ、さすがに昼飯の時間だけで授業中は施錠されてるらしいけどな。……って、こんなところで無駄話してる場合じゃねぇだろ」
「はは。それもそうだね。それじゃ、そろそろ行こうか」
財布と昼ご飯を抱えて席を立ち、話しながら歩き始めたの隣に並ぶ。聞けばは晴れている日はほとんど屋上で昼食をとっているらしい。どうりで学食で見かけないはずだと言えば、は「インドアだから昼の内だけでも日を浴びるようにしているんだ」と笑った。
それなりに話に花を咲かせながら足を進めるの背中を追いながら屋上へと続く階段を上っていると、ふと、ちゃんたちが階段を下りてきた場面が脳裏を過る。
あの日の朝に限らず、ブラスバンド部は練習で屋上を使ったりするんだろうか。朝練の掛け声に紛れてたまに聞こえる楽器の音色に思いを馳せる。あの音の中に、ちゃんの奏でる音があるのなら。そのことを考えるだけで胸の奥がむずむずとする。
――今度、聞いてみようかな。
そう思いついたのも束の間で、ちゃんの態度がどことなく疎遠になってしまった現状を思い出せば浮かび上がったばかりの考えはそっと沈めるほかなかった。
「多田野?」
「え? ――あぁ、うん」
気持ちが沈むままに自然と俯かせていた頭を上げれば、数段先を行くが屋上の扉を手にかけてこちらを振り返っていた。俺と視線を合わせたはほんの少しだけ目を細めたが、何かを言うでもなくそのまま扉を押し開いて先を行ってしまう。その背中を追い、屋上へと足を踏み入れれば思ったよりも人の数がいると気付く。軽く周囲を見渡せば、それぞれが談笑しながら昼食を楽しんでいる様子に思わず面食らってしまった。
「どうした? さっきからぼうっとして」
「いや……意外と和やかでちょっと驚いた。てっきり不良の溜まり場になってるかと思ってたから」
「なんだそれ。偏見が過ぎるだろ。漫画やアニメの見過ぎってやつじゃないのか?」
「それは否定できないかも」
苦笑しつつも肯定すれば、は「サボりの温床にならねぇようにたまに教師が見回りに来るけどな」と油断のならない場所であることを口にした。俺の困惑を無視して先を行くの背中を追う。適当に開けた場所で足を止め、屋上の柵に背を預けるように腰を下ろしたの隣に俺もまた座り込む。
胡座を組んだ膝の上にパンと牛乳を乗せて食べ始めると、隣でが単語帳を開いた姿が横目に入った。話に来たのではなかったのかと驚いたが、わざわざ呼び出すほどの話だ。ご飯を食べながらされても気が気じゃないと思えば咎める気にはなれなかった。
押し黙ったままパンを口に運び続けたが、ひとつめのパンを食べ終えるのを機にぽつりとの有様に対する感想を漏らす。
「――昼ご飯食べながら勉強なんてよく出来るなぁ」
行儀が悪いとたしなめるつもりはなく、心底感心しての言葉だった。俺の声に反応したのか、一瞥をこちらに流したはまた単語帳に視線を落としながら口を開く。
「五感を使って勉強することは案外理に適っているんだよ。多田野と一緒にクリームパン食ってるときに覚えた英単語、なんて、記憶の引き出しにラベルが貼られて思い出しやすくなる」
「ホントには勉強に関しては効率重視だね……」
説明を続けながらも単語帳を捲る手を止めないに思わず苦笑する。とりあえずお互いに食べ終えるまでは何も言うまい。心の中でひとつの考えを浮かべると共に口を閉ざし、ふたつめのパンに手を伸ばした。
流れ始めた沈黙は周囲の喧騒に紛れれば取り立てて気にするものではなくなった。ぼうっとした視線を空へと向けたままパンを頬張り続ける間にも、隣に座るは単語帳を捲っている。一緒に昼飯を食べる中で会話を遮断されると途端に手持ち無沙汰になったが、喋らなくても苦にならない程度にその場の空気は肌に馴染んだ。
食べ終えたパンの袋をまとめてビニール袋に入れながらサンドイッチを手に取った。包みを開き、口に運ぶタイミングで、ふとちゃんの姿が頭を掠める。その途端、無意識のうちに重い溜息を吐き出してしまう。
俺の溜息を聞き咎めたのだろうか。それとも心配してのことだったのだろうか。顔をしかめたは手元に落としていた視線をこちらに向けた。
「なんだよ、辛気くさいな。期末試験、あまり準備出来てないのか?」
「いや、それはおかげさまで問題なく乗り切れそうだよ」
始めはちゃんから距離を取るためにの元へと足を運ぶようになったのだが、今では授業終わりにお互いに理解の及ばなかった問題を教え合う習慣が根付いていた。とは言え、学年一位のに俺が教えられることはほとんどなく圧倒的に俺が教わることが多いのだが、意外と面倒見のいいところのあるが俺の質問に対し難なく答える日々が続いている。
隣の席に座る男子の覚えの悪さに激昂したの姿が頭にあるせいである種の緊張感を纏ったこと。授業中でわからなかった部分を放ったらかしにしなかったこと。それぞれの状況が重なったことで、中間試験の時よりも期末試験の方が幾分も余裕をもって臨めそうな予感があった。
――試験への余裕も時間もあるからこそ、今はただ、ちゃんのことが気がかりでしょうがない。
「ふぅん。じゃあやっぱりアレか。と喧嘩でもしたのか」
目下の悩みどころであるちゃんの名前を紡いだに、心の中を読まれたのかと焦ってしまう。ドキリと撥ねた心臓を隠すように胸元に手を押し付け、曖昧な笑みを浮かべて見せたが怜悧なの瞳を前にするとすべてが無駄な抵抗に思えた。
「やっぱりってひどいなぁ。そんなこと……ない、から」
さらりと否定するつもりの言葉は思いのほか詰まってしまう。何かあったのだという証明になり得るほどの動揺は、の目にどのように映っただろうか。
いつもの一口よりも幾分か大きく残ったサンドイッチを口の中に押し込んで飲み下す。いやに詰まった喉元を牛乳と共に流し込んだが、質量が流れても形のない憂いだけがその場に根強く留まった。
俺と同じく大口を開けてパンに噛み付いたは、頬を膨らませて咀嚼しながら開いていた単語帳をポケットにねじ込む。少しの沈黙の後、口元を手のひらで隠したの膝がこちらに向けられた。いよいよ本題に入るのだと察知すると自然と背筋は伸びる。
喉を鳴らしてパンを飲み下したは、眼鏡の奥から鋭い視線をこちらへと差し向けた。
「そんなことあるからここのところのお前らは無駄にギクシャクしてんだろ」
「いやいや。そんなのの勘違いだし、そもそもちゃんとは喧嘩するほどの仲じゃないから」
「そうか? まぁ、最近見た感じだとお前らの間で多少の意見の食い違いくらいはあるみたいだけどな」
一向にこちらの意見を受け入れないは視線を動かさずじっと俺の反応を窺っている。眉根を寄せて唇を尖らせた俺の表情を、がどのように判断したのかはわからない。だが、不服であることを隠しもしない表情を目にしているだろうに、が追求の視線を外すことはなかった。
「傍目から見てる方が気付くこともあるだろ。もうお前ひとりが考えて解決できる域を過ぎてんだ。第三者としての意見っての言ってやるからなに悩んでんのか言ってみ?」
もっともらしい言葉を紡ぐに苦笑する。はじめて勉強を教わったときに言っていた〝やると決めたならとことん〟というのはどうやら勉強に限ったことではないらしい。お節介だと突っぱねることも出来るが何もかもにお見通しと言うことならば、今更隠し立てしたところで意味は無い。
降参のような気持ちが強くなると自然と肩に入っていた力が抜けていく。俺が抱える悩みを打ち明けよう。それで気が楽になれるとは思えないが、過去に失恋していることを正直に教えてくれたの誠意に応えることにはなるだろう。
「まぁ……その、前と比べたらってだけなんだけど、ちゃんとそんなに話が出来なくなってさ」
「あぁ、そんな感じだな」
「わかる?」
「見てればな。前まではお前が避けてるだけだったが、最近じゃの方もぎこちねぇ」
訥々と悩みを打ち明けると、は俺が話す前から状況を正確に把握しているのだと口にした。前に相談したことがあったっけ、と訝しんだが、こんな情けない話を伝えておいて忘れるはずはないと思い直す。
立てた2本指で眼鏡の縁を押さえたは、からかうように目を細めてこちらに視線を送る。
「好き避けでもしてたのか? アレはには通用しないから止めたほうがいいぞ」
「別にそんなにつもりじゃないよ。……ちょっと色々あって気まずかったってだけ。それより効果がないって知ってるってことははやっちゃったの?」
「そんなヘマするわけねぇじゃん。中学ン時の同級生の話だよ」
「へぇ……じゃあ、その人ももしかして……」
「おぉ。告った時に〝嫌われてるって思ってた〟って、見事に玉砕してたわ」
拳から突き出した親指を下に向け、自ら首の前を横切らせたは、バッドエンドだと口にするよりも強く主張する。知らない人の失恋とは言え、ちゃんが3人目の相手に告白され、そして断ったことを知り、胸の内にやりきれないような想いが満ちる。
両思いかもしれないと感じ、告白しようとチャンスをうかがっていた日々を思い返す。なによりも、教室でふたりきりになって額を重ねたあの日、想いを伝えていたら今、こんなにも塞ぎ込んだり悩んだりしなかっただろう。
繰り返す後悔はもはや癖になったみたいに脳裏に染みついている。の目から見てもちゃんが俺を避けていることが明らかになった今、間に合わなかったことを思い知り、折り重なった後悔がさらに募るようだった。
やり場の無い想いが胸の内に巣くう。募る後悔に後押しされるように溜息を零せば、が立てた膝に肘を置き、頬杖をつきながらこちらに視線を向けた。
「だからお前みたいに素直に好きだよってツラに書いて話しかけんのが一番いいんだろうなって思ってたよ……なのにちょっと目を離した隙ににあんな態度取らせてっからビビったわ」
「でもビビることあるんだ」
「予想にないことなら多少はな」
てっきり何事にも動じない男だと思っていたので動揺を口にしたに驚いてしまう。それだけ予想外だったってことなんだろうか。
――俺だって、こんな結末は予想していなかった。
以前、からは毎朝ちゃんの前でデレデレしてるとからかわれたことがあるが、ちょっと前までの俺はこの上なくちゃんと仲良くしてた。最近ではちっともそんな気持ちになれていない。そのことに気付くと過去と今の落差に嘆き、またひとつ溜息を重ねた。
「俺もと一緒だよ。フラれちゃったんだ、ちゃんに」
「――ハ?」
端的に訪れた結末を口にすると、は顔を歪めて俺を睨めつけた。自分を引き合いに出されたことを怒ったのだろうか。ほんの少し尻込みしたが、それ以上の反応を返さないに言葉を続けるべきだと判断する。
さて、どこから伝えようか。はじめに結末を口に出した以上、どうしてそう思い至ったかの説明が必要だ。だが、いざその状況に立たされると相応しい言葉が見つからない。
細かい事件はいろいろあったが、フラれたと実感した一番の理由はちゃんからのやわらかい拒絶にある。感覚的にもうダメなのだと悟ったのだが、たとえ正直に「なんとなく」と伝えたとしてもは納得してくれないだろう。
ならば最初にこの恋が叶わないと知った理由を伝えることから始めればいいだろうか。少し判断に迷ったが、差し向けられるの視線から逃れる術はそれしかないように思えた。
胡座をかいた膝の上に肘を置き、そのまま指先を絡めて握りしめる。手元に視線を落とせば、血の巡りが悪くなったことで日に焼けた肌の色がほんの少し薄らいだのが目に入った。
「ちゃんさ、野球部の先輩のことが好きなんだって」
「……それは、が言ったのか?」
指先を動かしながら続きを伝える俺に、は苦々しげな声で応じる。手元に落としていた視線を上げると、待ち構えていたかのように渋面を刻んだと視線が交差した。
ちゃんへ長い片想いをしているは、ちゃんに好きなひとがいる事実を受け止めかねているのだろうか。今まで見てきたは、怒ったり笑ったりしてもどこか余裕の感じられる表情を浮かべることが多かった。そんなの取り繕ったところの無い顔つきに、俺の予想以上にショックを受けたのでは無いかと訝しむ。
これ以上、真実を伝えてもお互いに辛い思いをするだけだ。もうこの件は口にしない方がいいのでは、と気付きながらも、離れないの視線が先を促しているのだと主張する。
「いや、同じ部活のやつがちゃんが――その先輩、鳴さんって言うんだけど。鳴さんに告白してるの見たって」
「が? 本当に?」
「だから、ホントだって」
眉根を寄せたが頑なに信じようとしない姿にここ1ヶ月の自分の姿が重なった。にわかには信じられないのも無理は無い。俺だって信じたくなかった。実際の告白現場は見ていない。だから信じない。そう強く思えたらどれほどよかったか。
だけど、あの日、目にしてしまったんだ。鳴さんを前にして顔を赤らめた恋するちゃんの表情を――。
あんな表情を見た後に、ちゃんが鳴さんに恋をしていないと否定することなんてできるはずがないよ。
「あーぁ。俺ももうみたいにさんって呼んだ方がいいかもな。鳴さんに誤解されちゃちゃんも困るだろうし」
前傾した身体を後ろに反らし空に向かって溜息を零した。晴天に目を細めながら、滲み出そうになる落胆を飲み込む。おどけて口にしたのはかねてより考えていたけど、実行に移せないまま長い間、胸の内に留めていた案だった。
鳴さんに誤解されないようにと距離を取ると決めた後も、ずっとちゃんと呼んでいたのはそれが最後の砦のように感じていたからだ。だけど、ちゃんから滲む拒絶にも似た態度を前に、呼び続けてもいいのかどうか迷いが生じている。
俺の片想いを知ったうえでライバル宣言を突きつけてきたなら冷静な判断をもって判決を下すか、怒鳴って「止めちまえ!」と言ってくれるような気さえする。そんな気持ちに突き動かされ、ぽろりと零してしまった弱音だった。
ちらりと横目での表情を窺うと、先程よりも頬杖の角度を傾けたが心底嫌そうな顔でこちらを睨んでいた。
「別にそのままでいいだろ」
キッパリと明言したに思わず目を瞠る。止めろと言われると思っていたからこそ、の答えが意外だった。
「いくらちゃんのこと諦められなくても名前で呼ぶのは迷惑だよ、きっと」
「に呼ぶなって言われたわけじゃないならそこは保持しろよ」
「ちゃんが嫌でも呼ぶなって言いにくいだけかもしれないじゃん」
「あいつ、嫌なことはちゃんと嫌って言う女だからそれはねぇよ。お前だって見たろ。俺のことも名前で呼べよっつってもはキッパリ嫌だって言ったんだぜ」
べっと舌を突き出しておどけて見せたは〝てもでも〟を繰り返す俺の言葉を簡単に打ち返す。説教にも似た言葉を繰り返していたは、傾けていた体勢を起こすと肩に入れていた力を抜くようにおおきく息を吐き出した。
「お前、絵に描いたようなお人好しだな」
「それはどうも?」
皮肉なのか褒め言葉なのか。判断に迷う言葉遣いだが、の為人を思えば十分なりの褒め言葉のようにも聞こえる。だが、礼を口にしつつもやはりあんまりな言い草だと思えば素直に感謝する気にはなれず首を捻ってしまう。
「だけどちょっと視点が一方通行すぎる」
褒めたと思えば貶してきたにムッと口元をへの字に曲げる。言われっぱなしは癪に障る。何か言い返すべきだと開きかけた口は更に言葉を重ねたによって閉ざされた。
「あのさ。さっきから聞いてたら全然、お前が悩んでる意味がわからねぇんだけど」
「そりゃ、にしてみれば些細な悩みかもしれないけど俺にとっては――」
「そうじゃねぇ。お前の話にが登場してないんだよ」
真剣そのものだ、と言いさした言葉を遮ったは、突拍子も無いことを口にした。目を瞬かせた俺を見るの表情に、いつものからかいの色は含まれていない。実直な眼差しが真実を口にしたのだと言うよりも強く印象づけられる。
「ちゃんの話しかしてないじゃん」
「のことを話す周りのやつの話だろ。そんなもん、噂話以外のなんでもねぇよ」
俺の反論をものともせず、は簡単に否定する。揚げ足を取るための意見にも思えるが、ちゃんから真実を告げられてない以上、噂話だと言えなくも無い。
だが、それは俺がちゃんの鳴さんへの想いを否定したい気持ちが、の言葉に納得したがっているだけだ。噂話だと一蹴できないのには明確な理由がある。
「でも俺、見たんだもん」
「何を?」
「――ちゃんの、恋する表情」
口にした途端、ぐっと喉の奥が詰まるような心地がした。不意に泣きたくなるような喪失感は、強い存在感をもって俺の心を折ろうとする。
「ちゃん……鳴さんとしゃべっただけで顔を真っ赤にしてたんだ。あんなの、好きだって言ってるのと同じだよ」
ちゃんから明確に想いを聞いたわけじゃない。だけどちゃんのあんな顔を見て、単なる噂話だと言い訳するには苦しすぎる。
たとえ諦めきれなくても、事実は事実として粛々と受け入れるべきだ。そう主張するべくに見たままの景色を伝えたが、は半眼でこちらを睨めつけるだけだった。
「アイツ、ガキのころから人見知りだから知らねぇやつと話しただけで顔を赤くしたっておかしくねえぞ」
俺の主張を意に介さないは、フン、と鼻を鳴らしてすげなく撥ねつける。無意味だと口にしたは「そのくらいで弱気になってんのかよ」とばかりにこちらに挑戦的な視線を差し向けた。それだけじゃないし、という反発心が頭をもたげると自然と唇が尖った。
「それに、俺がこの前一緒に帰ろうって誘ったら断られたし」
「先約があったとかそういうオチじゃねぇだろうな」
「あったけど……」
「じゃあ気にするほどのことじゃねぇだろ。先約よりお前を優先するような女が好きなら咎めやしねぇけどよ」
ちゃんが約束を守る女の子かそうでないか。そんなの、答えは分かりきっている。江崎の悪ふざけを受け入れたちゃんは「一緒に写真を撮りませんか」と約束を守ってくれた。口約束では終わらせず、ふたりで並んで撮った写真がその証明だ。
約束を反故にするような女の子じゃない以上、断られたことには納得している。だけど、ちゃんから滲んだ拒絶が気がかりで仕方ない。
「違うんだよ。そうじゃなくて……」
「なんだよ。まだあるのかよ」
「これで最後だよ。でも本当に、これは感覚的なものだから伝わらないかもしれないんだけど」
違和感はたしかにあった。だけど明確な言葉にすることが難しい。優しくされなかったと恨み節を言うつもりも無ければ、アイドルの握手会で噂されるような塩対応とも違う。
「また明日ね」と、ふわりと笑ったちゃんを、きっと他の誰が見てもかわいいと思うことだろう。だけど、どうしてか俺には、目に見えない壁を作られたようにしか思えなかった。
「さっきも言ってたけど……ちゃんが笑ってても距離を感じるんだよね」
組んでいた手のひらを解放しそのまま両手を額にあてがった。前髪を上げるように抑えた手のひらの下で、強く瞑目する。
あの日、感じた違和感はうまく飲み込むことの出来なかった魚の骨のようにいつまでも喉元をチクチクと苦しめている。ちゃんが鳴さんに告白したと聞いた時に感じた殴られたような衝撃とはまた違う。時間が経つごとにじわじわと効く猛毒のように全身を痺れさせた。
「笑顔な分、踏み込めないというか……言葉は優しいままで、やんわりと拒否されてるというか……とにかく、前と違うんだ」
「ふぅん……そういう顔は見たことねぇからわかんねぇけど、最近のお前の態度にもなにか思うところがあったってことだろ」
ほんの少し声のトーンを落としたの言葉に、俯かせていた顔を上げる。目が合うと、はそっと口元をへの字に曲げる。不服そうに見える表情だったが、寄せられた眉根も併せればこちらに同情しているようにも見えた。
「よくわかんねぇけどお前らが弱気になるのに十分なバイアスがかかっただけだろ。ちゃんと話し合えばその辺も解消するんじゃねぇか?」
「話なんて……してもらえるのかなぁ……」
の提案は、最近のちゃんの態度を思えばとてもじゃないが、簡単に受け入れてもらえるようなものでは無いように思えた。思えばいつからちゃんと話をしていないのか。ちゃんの想いが鳴さんにあることを知って、俺が態度をおかしくさせたのが発端だっただろうか。
もう1ヶ月も前の話だ。あの夜、伝えたかった言葉は今も吐き出せないまま胸の内で燻り続けている。
「じゃあどうすんだよ。ずっと、妙なよそよそしさを抱えたままのこと好きでい続ける気かよ」
「それは……」
先のことなんて考えたところでわからない。でも今のままではいたくない。ハッキリしているのはそれだけだ。
きゅっと唇を結んだ俺を視界に捉えたは、何も言わず俺の言葉を待っている。交差した視線を外し、開いた手のひらの中に落とす。
胸の内に燻る想いはちっとやそっとのことでは動きそうもない。多分、何も起こらなければこのままトゲを孕んだ片想いを続けることだろう。
明るくない未来を想像し、何度目かもわからない溜息を吐きこぼす。顔を上げれば、先程と1ミリも変わらない視線がこちらに差し向けられていた。
「なんか、もう弱音しか口から出てこなさそうなんだけど……」
「おぉ、いいじゃん。聞いてやるよ」
縦に頭を揺らしたは、前のめりになってこちらに身を寄せた。そんなに楽しい話じゃないことはわかりきっているだろうに、それでも聞くと断言してくれたに感謝の年が湧くと自然と口元が綻んだ。
「正直に言うと……俺、ちゃんに告白しようとした時期があってね」
「へぇ……」
訥々と話し始めた俺に、は軽い相槌を打っくる。なにかツッコミが入るだろうかと待ってみたが一向に口が挟まれないのを察知し、改めて言葉を続けるべく口を開いた。
「割と、その……今になって言うの恥ずかしいんだけど両想い、なんじゃないかなって結構自分の中じゃ確信があって」
「……あぁ、割と仲良くしてたもんな」
正直に、最高潮に浮かれていたことを伝えると、「調子に乗るな」と諫められるかと思いきやは控えめに頷くだけだった。開いた両手のひらの指先同士を突き合わせ、「これを言ってもいいものか」と躊躇いながらも言葉を続ける。
「ぶっちゃけ、今度告白するね、みたいなことも言っちゃってて……」
「……マジかよ。それでなんで今こんなにこじれてんだよ」
顔を顰めたの追求に、思わず下唇を噛みしめる。
――そんなの、俺が一番聞きたいよ。
何がいけなかったのか。どこで道を間違えたのか。募る後悔に押しつぶされるような心地を抱えて運命の分岐点を何度も探った。だが、答えを探したところで運命は覆らず、現実をいつまでも受け止めきれないでいる自分の弱さを痛感しただけだった。
「その直後にちゃんが鳴さんのに告白したって聞かされて、実現しなかった……」
「……なるほどな」
神妙に頷いたはさらに眉根を顰める。なにか言いたいことがあるような素振りだったが、余計なことを言わないようにと徹してくれているらしいと知るのはそれだけで十分だった。その優しさに負けて、またひとつ溜息を重ねる。
「――あの時、ちゃんと告白できてたらなぁ」
ひどく落ち込むあまり、自然と頭が下がった。項垂れた頭を支えるべく立てた膝に左腕を回し、右腕で膝頭に埋めた頭を抱える。深い溜息と共に押し出された言葉は後悔に塗れていた。
繰り返す後悔に唇を噛みしめながら、思う。やはりこの恋の分岐点は、教室でふたりきりになった朝だったんじゃないか、と。
ちゃんのことを好きだと自覚して、初めて想いが溢れかけた。鳴さんに遮られなければ、きっとあのまま想いを伝えていただろう。そうすれば、もしかしたらあの後、ちゃんが鳴さんへの告白を躊躇ってくれたかもしれない。
踏み込めなかった未来を思い浮かべては、また溜息をひとつ重ねた。
甘い未来とは異なり、現実はひどくしょっぱい。ちゃんが俺に告白してくれるような奇跡もなければ、ちゃんが俺を好きになるような魔法もない。ただ、粛々と、伝えることなく潰えた想いを受け止めるほかない。
もっといろんな顔をするちゃんのことを知りたかった。このまま交流を重ねていけば知っていける予感さえあった。だけど、俺が一番知りたかったちゃんの恋する表情は、もう横顔でしか知り得ない。
――同じ気持ちだと、思ったんだけどな。
教室でふたりきりになったときも、練習試合の後にメールを交わしたときも、俺の想像を遙かに超えてちゃんがこちらへと踏み込んできてくれた。あとはもうこの想いを伝えるだけだと意気込み、きっと受け止めてもらえるはずだと期待した。だからこそ、唐突に訪れた現実との落差に打ちひしがれている。
あの夜、電話で「きっと、同じだよ」と言ってくれたちゃんの真意を、もう聞くことはできないだろう。
逃した魚の大きさを憂うような心地に溜息はこぼれるばかりだった。むしろ言葉にしたことで初めて落胆の大きさを実感したような気さえする。
「――だいたいさ、なんでこんなに悩まないといけないのかわかんないよ。俺はただ、ちゃんのことが好きなだけなのに。鳴さんに告白したのなんて知りたくなかったよ……」
「結構言うじゃん」
「ごめん、思ったより鬱憤が溜まってたみたいで……」
の指摘に、膝に回した腕に力が入る。ずっと吐き出せないまま抱えていた想いを口に出した途端、堰を切ったように後悔が口を突いて出た。考えていた以上の言葉を口にしてしまったことを申し訳ないと思いながらも、紛れもない俺の本心が溢れたことは否定しようが無い。
それでも恋敵であるに対し、〝落ち込んでいます〟というアピールをしてしまった自分が情けない。手のひらで後頭部を撫でつけながら俯かせていた頭を起こすと、そっとに視線を流した。
「なんか……すごく、ひどいことしてるね、俺」
「は? なんでだよ?」
「だっても、その、ちゃんのこと好きなのに」
「いや、俺はその辺の感情に割と折り合いついてるからな。それに言えってけしかけたのは俺の方だし気にするなよ」
立てた指で眼鏡の縁を押さえたは、いつもと変わらない様子を見せることで問題が無いと主張した。悩んでいる俺を気遣ってる癖に自分がけしかけたのだというは、自分がいい人間では無いのだとわざと口にする。捻くれたところのあるの優しさに、胸にあった気まずさが少しずつ引いていく。
「ねぇ、ついでに、って言ったらアレなんだけどもうひとつだけ聞いてもいい?」
「ん、なんだよ」
胡座をかいた膝の上に肘を乗せたは、肩で息を吐きながら頬杖をつく。差し向けられた視線に躊躇いながらも、俺は質問を続けた。
「は……その、ちゃんに告白したあと、別に傷つかなかったって言ってたよね?」
「あぁ、言ったな」
「やっぱり最初から諦めてたから、平気だったの?」
「お前なぁ……それを恋敵に聞くのかよ」
「ごめん……でもどうしても知りたくて」
躊躇はしたものの、どうしても気がかりだったことを聞いてしまえばは呆れたように眉根を寄せた。踏み込みすぎた質問を投げてしまったと身体を小さくさせて反省の意を示す。デリカシーがなかったと謝りながらも質問を撤回しない俺を見かねたのか、は「別にいいけどよ」と大仰に息を吐き出した。
「そうだな……俺の場合はにフラれるって確信があったから、っていうのもあるだろうけれど――多田野との一番の違いはちゃんとに気持ちをぶつけたってとこにあるだろうな」
頬杖をついた手のひらを動かし、口元を覆い隠したの視線が外れる。遠くを見るような目つきのまま、普段のハッキリとした口調よりも幾分も途切れ途切れに言葉を紡ぐは、当時の記憶を思い出しているのだろう。自分の失恋に対する傷の度合いを口にせず、俺が今抱える心境との違いを分析するあたり、「折り合いがついている」というのが強がりでは無く正しい言葉だったのだと初めて知った。
「お前だって言ってんじゃん。〝告白できてたらな〟って。要はフラれたショックよりも、言えなかった後悔が強いってことだろう。そこクリアしない限りはいつまでも悩み続けてしまうんじゃないのか」
「でもちゃんは――」
「メイさんってやつのことは一度忘れろ」
きゅっと唇を結んだ俺を捉えたは、小さく肩で息を吐き、「あのな」と言葉を紡ぐ。
「お前の中で何が気がかりなのかはわかったろ? だけどそれはもう多田野だけじゃ解決できない話だ」
「でもに話せて結構スッキリしたよ?」
「俺に話してスッキリしてどうすんだ。話をすんのはだ。と、ちゃんと話せよ」
目つきを鋭くさせたは、人差し指をこちらに突きつけて言い放つ。差し迫る指先に視線を向けたまま、俺は息を呑んだ。は、俺にちゃんへ告白しろと言っている。そのことを理解すると背中に冷や汗が滲むようだった。
「だいたいが言ったのか? そのメイさんに告白したとか、メイさんと話して照れたとか」
「そんなこと俺に教えてくれるわけないじゃん」
「じゃあそれ全部、お前の勘違いだとしたら?」
唐突なの言葉に思わず目を瞬かせる。思っても見ない角度で切り込んできたは、例のごとく眼鏡の縁を二本の指で押さえながら口を開く。
「そのお前の部活の仲間ってやつが、勘違いしてるだけとは思わなかったのか? に似た女が告白したのを見ただけかもしれないし、もしかしたら別のって名前の女かもしれねぇじゃん。そこんとこちゃんと確かめたのかよ」
「うん。ちゃんと聞いたよ。それもふたりから聞いたんだから間違いないよ」
ブラスバンド部で、学年でも指折りのかわいい子だと江崎も杉も言っていた。そんな女の子は、ちゃん以外にいるはずがない。
確信を持って頷いた俺を見たは大仰に溜息を吐き出した。右手の指先をずらして額に当て、頭を左右に振ったはちっとも納得していないのだと口にするよりも強く態度で主張する。
「どうもそこが引っかかるんだよな……」
「でも、本当のことだもん。ふたりが俺に嘘つくメリットなんてないし、それでも頑張れよって応援してくれてるし」
俺の主張が聞こえてもなお、は顔を顰めたままだ。眉間に縦のシワを刻んだまま唸るは、とうとう胸の上で腕を組んでまで考え込んでしまった。俺と違い、はちゃんと小学校から一緒だし、彼なりの〝ちゃん像〟があるのだろう。理想と現実の差異に惑う姿は、俺がアイドルのスキャンダルを耳にした際に悩む姿とよく似ていた。
「――俺が思うに、やっぱり鍵はにあると思う」
考え込んだ挙げ句、堂々巡りになったのだろう。先程出した答えに帰結したらしいは、改めてちゃんに聞けと俺に促してきた。
「部活の仲間が嘘ついてないにしてもよ、お前それちゃんとから聞いたわけでもねぇじゃん。お前が勝手に噂信じて、勝手に傷ついて、勝手にお前の憶測だけで色眼鏡かけてから距離取ったってだけの話にしか思えねぇんだよ」
「全部俺が悪いってこと?」
「そこまでは言ってねぇよ」
ムッと表情を引き締めた俺を、は手のひらを翻すことで一蹴する。
「お前、あんまりしゃべんないような俺から見てもわかるくらい一筋だったじゃん。それをいきなり引いたりしたらだってどうしたらいいかわかんなくなるだろ」
「だから、ちゃんも俺のこと避けるようになったって意味?」
「まぁ……うーん。そこはの場合はハッキリお前に聞きそうなもんだけどな」
頭を捻って悩むを前に、以前、一度だけちゃんから今の状況に困ってるかどうか確かめられたことを思い出す。ちょうど俺の方からちゃんを避けている時期だったから、の憶測は正しいのかもしれない。だけど、それを伝えるには俺の願望が強すぎるような気がして口ごもってしまう。
――樹くんは、私が成宮先輩に気があるって思ってる?
ふと、ちゃんの声が耳に蘇る。あのとき、結局俺はなにも答えられなかったが、「そうだと思ってるけど、違うの?」とでも聞いていたら何か変わっていただろうか。
「だいたいそのメイさんってなに?」
「うちの部活の先輩だけど」
「いや、それはさっき聞いたよ。俺が聞きたいのはそいつがのこと好きかどうかって話だ」
「鳴さんは夏大が終わるまで誰とも付き合わないよ。……でもちゃんのことかわいいって言ってたから」
――来年の夏はわからない。
そう言いかけた言葉は声にならなかった。口ごもる俺を見たは、一度、視線を斜め上へと外し、それから改めてこちらをまっすぐに見つめる。
「いや、見たら誰だってかわいいって思うだろ」
ふざけてなんかいない。大真面目な顔をしては言う。だから取り立てて問題視するべきではないと言いたいのだろう。そう割り切れたらいいのに、と思いながらも憂いが喉元を締め付ければ反対の意見が頭を掠めた。
「でも、もしかしたら来年落ちついて誰と付き合おっかなって考えたときに、鳴さんもちゃんのことを好きになるかもしれないじゃん」
「仮に向こうが惚れたからなんなんだよ。俺の方が先に好きになったんだから邪魔すんなくらい言えばいいじゃん」
あっけらかんと言ってのけたに思わず目を丸くした。
「……それは、が俺に言うべき言葉じゃないの?」
瞬きを繰り返し、言葉を紡ぐ。はっきりとライバル宣言されたのは春の話だ。初めて喋った日からずっと、俺たちは同じ女の子が好きで、お互いその想いを知りながら負けないように頑張るだけだと過ごしてきた。
邪魔をされたことも、邪魔をしたこともない。むしろにはこうやって相談にまで乗ってもらっている。フェアどころか、俺の恋を応援しているような素振りさえ見せるが、更に俺の背中を押すような言葉を吐いたことが意外でならなかった。
「アホか。俺はちゃんとにフラれてんだよ。お前みたいな根性なしと一緒にすんな。クソッタレ」
「根性なしって勝手に決めるなよ」
戸惑う俺に、ムッと顔を顰めたは鋭利な言葉で斬りかかってくる。突然くっつけられた罵倒に、俺も思わず言葉尻が強くなった。
「どう見たってそうだろ。お前、自分が傷つきたくないからって勝手にのこと見限ってんじゃねぇか」
「見限ってないよ! まだ好きだもん!」
売り言葉に買い言葉を続けたに更に言葉を返せば、面食らったように目を見開いたは「あぁ、もう」と唸り声を上げて乱雑に自分の髪の毛を掻き乱す。
「めんどくせぇ! ホントお前、折れねぇな。頑固者ってよく言われんだろ」
「別に……そんなには言われてないし」
「ちょっとは言われてんじゃねぇか。……その折れない気持ちをどうしてに向けねぇんだよ」
ちゃんを諦められないと口にしながら一向に行動に移さない俺を責めるは、肩で大きく息を吐く。
「さっきも言ったけどよ。お前、ちゃんとにぶつけろよ、自分の気持ち。言ってねぇからぐだぐだ悩むんだろ」
「迷惑になるってわかってるのにそんなこと伝えてどうするんだよ」
「お前が決めるんじゃねぇ。が決めるんだよ」
「そんなむちゃくちゃな」
先程までは納得できる話が多かったのとんでもない理論に思わず顔を顰めた。
同じ立場になっていないと責めるの言いたいことはわかる。たしかに直接フラれたわけじゃない。けれど、もう答えは見えているんだ。ちゃんが困るってわかってるのに、伝えられるわけがないよ。
ぎゅっと唇を閉ざした俺を見つめるの視線は険しい。きっと今もまた「頑固者」と内心で罵っていることだろう。膝に立てたままの腕で顎を支えたは、カチカチと歯を鳴らして威嚇するような仕草を見せる。数秒間、鳴らしていた歯をようやく止めたは唇を真一文字に引き締めると、半眼でこちらを睨み付けたまま口を開いた。
「そう言えば多田野はなんでのこと下の名前で呼んでるんだ? 割と奥手そうなのに意外と積極的だよな」
「奥手って勝手に決めつけないでよ」
「なんだよ。手が早いのかよ」
「早くないけど」
相変わらず極端な二択しか用意しないに反論しながら、どうして彼女のことを名前で呼ぶようになったかの記憶に思いを馳せる。あの日の思い出は今もなお、きらきらと輝きながら舌が焼けるほどの甘さをもって胸の内に少なくない存在感を刻んでいた。
「――ちゃんが呼んでって言ってくれたから」
〝もしさんがアイドルならば〟なんて妄想に耽った俺がうっかり夢の続きで「ちゃん」と口にしたことがはじまりだった。慌てふためく俺に「いいよ」って笑って、その上で俺のことも名前で呼びたいとちゃんは言ってくれた。
あの日、初めて〝ちゃん〟と呼びかけたとき、ちゃんが浮かべた笑顔が忘れられない。ふにゃふにゃとやわらかく笑ったちゃんを、いつの間にか好きになっていたのだと初めて自覚した。
状況が変わり、ちゃんの想いが鳴さんにあることを知った。この想いは叶わないのだと気付きながらも未だ諦めきれないのはひとえにちゃんが好きだからだ。
「それだ。それなんだよ、違和感」
「え?」
ちゃんとの思い出を噛みしめていると、唐突にが声を上げた。こちらを指さし、顎を支えていたはずの手のひらで額を覆ったは自らの頭にある考えを言葉にしかねると言った表情で呻いている。屈めていた背を伸ばし、の言葉を待っていると、目を細めたは躊躇いがちに口を開いた。
「が気のない男に対してそこまで許すとは思えねぇんだよ……」
まるでちゃんの想いが俺にあるかのような言い方だった。アイドルはトイレに行かないばりの幻想ではないものの、おかしな前提でもって考えを進めるに思わず「はぁ?」と顔を顰めてしまう。頭の上にクエスチョンマークを並べ立てる俺を横目に、苦悶の表情を浮かべたは自分の考えているちゃんとのギャップに苦しんでいるようにも見えた。
「いや、だからちゃんが好きなのは鳴さんなんだって。俺はたまたま名前が、その、かっこいいから呼ばれてるってだけで……」
「そんなの方便だろ。自分が呼びてぇなら勝手にしろって話だけどわざわざ多田野に名前呼びを強要する必要ねぇじゃん」
「それは俺がちゃんのことをうっかり名前で呼んじゃったから、気にしなくてずっと呼んでいいよって言われただけだよ」
「おい、この頑固者。一回ちゃんと否定せず受け止めろ」
「ぐぅ……」
名前呼びでもお前でもなくなった呼びかけに今度は俺が唸り声を上げる番だった。
意固地になっているのは自分でもわかっていた。だが、口の立つのペースに乗せられると、うっかり自分が有頂天だったころの気持ちを呼び起こしてしまいそうになる。自分を律するためにも反論するべきだと意気込んだのすら、きっとには見抜かれているんだろう。
黙り込んだ俺を睨むは、俺がおとなしく口を閉ざすかどうかを待っているようだ。ぎゅっと口元を引き締めれば、は尊大な顔をして頭を揺らした。
「じゃあ、視点を変えるぞ。そのメイさんってやつのことをも名前で呼んでるのかよ」
「……成宮先輩、って呼んでたと思うけど」
「メイって名前は基準だとかっこよくなかったんだ?」
「聞いてないから、知らない」
「ほら、お前だって知らねぇことあるじゃん」
否定しないように、自分の主観を入れないようにとと心がける。そんな会話を繰り返せば、はひとつの結論を俺に提示した。諭すような言葉遣いであっても、挑発めいた言葉に抑えていた反発心が頭をもたげる。
「知らないに決まってるじゃん。俺はちゃんじゃないんだから」
「だからお前がから聞いてない話を信じる必要がねぇって話だよ」
――屁理屈だ。
正直、そう返してもいいほどのことをは言っている。俺のことを頑固だと口にするこそ意地っ張りだ。そもそもちゃんは鳴さんを好きだと知っている俺と、そうじゃないと思っているとの話が交わるはずがない。
ぎゅっと手のひらを握りこむ。何度も何度も、俺に想いを告げるべきだとけしかけるの真意なんて知らない。だけど、そのすべてを否定しても、いつの間にかのペースに振り回されている理由ならわかる。の言葉が、全部俺の背中を押すために紡がれる言葉だからだ。
眉根を寄せ、下を向く。風に飛ばされないようにと膝の下に敷いたビニール袋がはためく様をじっと見つめた。黙り込んだ俺に、はひとつだけ溜息を零した。
「なぁ、多田野。一度、他のやつから聞いた話は全部忘れて、お前が見てきたを思い出せよ」
「俺が見た、ちゃん……?」
その言葉と同時に脳裏に描かれたのは、困ったような顔でもなければ、こちらから視線を外したちゃんでもない。俺が一番見てきた、真正面から俺を見上げ笑いかけてくれるちゃんだった。
「お前だって、に特別扱いされてるって気付いてるから両想いかもしれないって思ったんじゃねぇの?」
「それは……」
即座に否定しない俺を見たは、またひとつ肩で息を吐き、伸ばしていた背筋を丸めて頬杖をついた。
「別にいいじゃねぇか。フラれたって死ぬわけじゃねぇんだから」
「……心が死ぬ気がする」
きゅっと目を瞑り苦悶の表情を浮かべた俺を、はからりと笑い飛ばす。
「そんなもん気にしてたら今みてぇな死んだ魚の目を続けるはめになるだけだろ」
「ちゃんだって俺のこと避けてるってのに、意味ないよ」
「それも聞けばいいじゃん。テメェ、俺のこと避けてんだろって」
「いやいや、そんなキャラじゃないから」
「まぁ、それは冗談だ」
頬杖をついたまま角度をつけたは、口の端を引っ張ってニヤリと笑う。だが、嫌味ったらしい笑顔はすぐに引っ込めてしまい、まばたきひとつ挟むうちに真面目な顔つきに戻っていた。
「……自分の心を守ってるうちは多分、うまくいかねぇよ」
「だから、当たって砕けろってこと?」
「そういうことだ。お前も一度ちゃんとぶつかってみろよ。案外違うものが見えてくるかもしれないぜ」
終始一貫として、の態度はブレない。悩むくらいならぶつかれと何度もは繰り返す。そこにはちゃんの想いや周りの噂なんて端から頭に入れていない。自分の想いだけを尊重し、気持ちに正直になるべきだという気持ちしか存在していなかった。
その主張は人によっては自分勝手に見え、眉をひそめられたり、敬遠されたりすることもあるだろう。だが、その考えを俺に対しても口にされると、「自分を大事にしろ」と言われるより、強い思いやりを感じた。
ひとつ、溜息を吐きこぼす。
――俺を説得するメリットなんてないだろうに、ホント、何を考えているんだか。
正直、心底呆れている。だけどそれ以上にありがたさを感じていた。
「……なーんかに背中を押されたってのが釈然としないなぁ」
「俺だって恋敵の背中なんて押したくなかったつーの」
照れくささに負けて憎まれ口を叩けば同じものが返ってくる。眉尻を下げて苦笑する俺を横目で睨めつけたは、また頬杖をついてこちらから視線を外した。
「……誰だって好きな女が浮かねぇ顔してんの見るのはイヤなもんだろ」
口元を手のひらで覆いボヤいたの言葉はほとんど聞こえなかった。なんだろう、と視線を差し向けたまま待ってみたが、は口を開かない。伝えるつもりのない言葉だったのかと気付けば、それ以上追求する気にはなれなかった。
「わかったよ。今度、ちゃんときちんと話してみるよ」
「今度と言わず、今呼び出せばいいじゃん」
物憂げな表情を一変させたは明るい声音でとんでもないことを言い出した。
「いや、その前に、打倒鳴さん! かな」
はは、と笑っての発言を躱した途端、視界に影が差す。雲が太陽を遮ったのかと顔を上げれば、憮然とした表情で仁王立ちする鳴さんが目の前に立っていた。
「なんだよ、樹。俺がどうしたって?」
「め、鳴さん……」
食堂前の自販機で買ってきたのだろう。牛乳パックから伸びたストローを口にしたまま鳴さんはこちらを睨めつけた。
思わぬタイミングでのラスボス登場に弁明の言葉すら出てこない。思わず口を噤んだ俺の隣でが身動ぎする。こちらに距離を詰めてきたが手のひらを口元に添えたのを目にし、耳をそばだてるべく体を傾ける。
「おい、多田野……もしかしてメイさんって……」
「あ、うん。……この人が」
いつになく言い淀んだの質問を肯定すれば、は「マジかよ……」と絶句した。放心したようにあんぐりと口を開けたは、眉根を寄せて無言で肩を叩いてくる。その同情を撒き散らしたかのような表情で初めて翻意した姿を見せたを、俺は心の中で「裏切り者」と罵った。