25
昼休み終了10分前を知らせる予鈴が学校内に響く。その音を機に、鳴さんと別れて以降も試験問題の出し合いしていたと俺は屋上を後にするべく立ち上がった。時間ギリギリまで屋上に残っていた生徒は案外多かったようで、出入口付近に結構な人数が詰めかけている。
――久々に天気も良かったし、日光浴をするにはいい気候だしなぁ。
真夏を迎える前の気候は、たしかに暑さはあるが梅雨の時期に比べると眩く心地よい。今日は風も強いから実際の気温より幾分も過ごしやすかった。
「早く期末試験、終わらないかなぁ」
「まだ始まってもねぇじゃねぇか。自分の実力を試したい気持ちは十分わかるが焦んなくてもすぐだぜ」
「うーん。それもあるんだけど……」
どちらかと言うと、俺の興味はその先だ。それをわざわざ伝えなくてもに通じたのだろう。「本当に野球好きなんだな」とは口角を上げた。
呆れられたのか感心されたのか。その半々といった表情を浮かべたは、スラックスのポケットに手を突っ込んで、ゆったりと流れ始めた集団に足を踏み入れる。俺もまたその横に並んで階段を下りる中、あと少しで野球が出来るのだと改めて考えていた。
日々の自主練は欠かさずやっているが、個人練習では補えてない領分は少なくない。一週間。野球と離れただけで焦燥に似た心地が居座っている。
身体がなまってはいないかと肩の動きを軽くチェックする。ふと前方に視線を向ければ、階段を下りきった鳴さんたちもまた俺と同じような動作を繰り返す姿が目に入った。天気がいいと身体を動かしたくなるのはどうやら運動部の性らしい。
苦笑混じりで先輩たちの背中を眺めながらタンタンと足音を鳴らして階段を下りていると、渡り廊下の先にちゃんたちの姿を見つけた。腕の中にお弁当箱の包みを抱えている彼女らは食堂か中庭でお昼を食べていたんだろうか。
ちゃんと、話がしたい。
不意に浮かび上がった願望は、いつも胸の内にあるものだ。実行に移すかどうか。逡巡すると同時にと鳴さんに押されたばかりの背中に緊張が走る。
――躊躇っても仕方ない。
手のひらで瞼を覆い、その下できゅっと目元を引き締めた。怖じ気付きそうな心に蓋をする。目元から離した手を握りこみ、鋭い視線のままを振り返った。
「ごめん。ちょっとちゃんのところ行ってくる」
「あぁ。怯むなよ」
「――うん!」
の手のひらがポン、と俺の背中で跳ねた。その行動ひとつで勢い付いた気持ちがさらに後押しされる。人とぶつからないように気を払いながら階段を駆け下りると、教室へ続く廊下の角を曲がろうとするちゃんを呼び止めた。
「ちゃん!」
「……樹くん? どうしたの、そんなに慌てて」
突然駆け込んできた俺に驚いたのか、ちゃんは目を丸くして俺を見上げた。
「今、ちょっとだけ時間もらってもいいかな?」
「えっと、……うん。少しなら」
弁当箱が入っているであろう袋を右手に提げたちゃんは、反対の手で親指と人差し指の間を2センチほど開いて応じた。
状況を見守っていたらしいちゃんの友人らは、ちゃんに「またね」と言ってはちらりと俺の顔を盗み見る。随分と顔なじみになってきたとは言え、好奇心にまみれた視線を簡単に受け止めるほどの慣れはない。
うっすらと感じる居心地の悪さを飲み込んで彼女らに会釈を返していると、奥にいた女子が突然大きく口を開いた。
「あ! じゃん! ねぇ、今度の試験どこが出るか教えてよ!」
目敏くを見つけたらしい彼女の叫びに階段を振り返れば、いつになく顔を顰めたがこちらを睨みつけていた。
「はぁ? 俺が知るわけねぇだろ!」
「またまた! どうせヤマはってんでしょ? 減るもんじゃないじゃん!」
「俺の勉強時間が減るだろうが!!」
ちゃんの友人らの興味は俺からへと移ったようだ。階段を下りきったはこちらに視線を向けることなく教室へと足を向けたが、彼女らは躊躇うことなくの腕や背中にひっついてでも引き留めようとしている。
強引な女子の姿に気後れしながらも、騒がしい様子で去っていくらの動向を見守ってしまう。次第に遠ざかる喧噪は、やがて彼らが教室に入ったことで見えなくなった。
自然と肩に入っていた力が抜けるままにひとつ息を吐く。ちゃんへと視線を戻せば、ちょうどちゃんもまたこちらを振り返ったところだった。ずれることなく重なった視線。あっけにとられるがまま、ぽかんと開いていた口を思わず引き締めるタイミングまで重なると、身体の奥に自然と熱がこもった。
俺が呼び止めたというのにすんなりと言葉を差し出すことが出来なくて、思わず喉を鳴らしてしまう。向き合うのだと決めた。だからこそ、生まれた熱を持て余す。
途端に生まれた沈黙にどう対処すべきか。逡巡するままに首の裏に手のひらを当て、そっとちゃんの顔を覗き込んだ。
「予鈴鳴っちゃったし、とりあえず歩きながらでもいい?」
「うん、いいよ」
一度目を伏せたちゃんは、再びこちらを振り仰ぐと同時に、ひとつ頭を揺らした。緩んだ口元を目にしてもやはりどこか以前とは違う空気を感じてしまう。
漠然とした差異。無視しようと思えば簡単に流せる程度の違和感だ。だが、他の子なら気にならない程度の変化でも相手がちゃんなら話は別だ。逐一気にしては落ち込んでしまう。
それでも踏み込むって決めたのなら、それさえも受け止めて前へ進むしかない。口元をまっすぐに結び、気持ちを立て直す。そのまま教室へと足を向ければ、ちゃんもまたゆったりとした速度で隣に並んだ。
「急に呼び止めてごめんね。その、最近、ちゃんとはきちんと話が出来てなかったから」
「……うん」
「って言っても、もう授業も始まっちゃうからそんなに長く話はできないんだけど」
ほんのりと眉尻を下げたちゃんの相槌に、にわかに緊張が走ってしまいマイナスな言葉を繋げてしまう。ちゃんの想いが鳴さんにあることを知って以来、染みついた逃げ癖は思いのほか根深いようだ。
困ったような表情を浮かべるちゃんを見ていられない。そっと視線を外すと同時に、自嘲するような笑みが口元に浮かぶ。
――やっぱり、嫌がられてるのかなぁ。
以前のようにちゃんから歓迎されてない様子を目の当たりにすると、立て直したばかりの心が折れてしまいそうになる。
「樹くんも、前に比べたら……その、忙しそうだもんね。もう話すチャンス逃しちゃったんだろうなって思ってた」
「え?」
か細く紡がれた声に、進行方向へと向けていた視線をちゃんへと戻す。先程までの俺と同じようにまっすぐ前を向いたちゃんの横顔は、やはり眉尻が下がったままだ。だが困惑のように感じていた印象は、添えられた言葉によってガラリと色を変える。
普段よりも幾分も元気の無い様子は、俺に話しかけられたことによる戸惑いではないのかもしれない。
寂しいだとか悲しいだとか。そんなことを言われたわけじゃないのに、勝手にちゃんの気持ちを決めつけるのは傲慢だ。だけど俺と話すチャンスを逃したなんて言われて、心が浮き立たないはずがない。抑えようと意識を払えば払うほど、浅ましい期待はどんどん膨れ上がっていく。
ちゃんの足が不意に止まる。そっと周りを見てみれば自分たちのクラスに入るための扉の前まで辿り着いてしまったことに気付いた。まだ話し足りないような心地に誘われるがままに窓側へと歩み寄ると、ちゃんも俺に合わせて移動してくれた。
「あの、ちゃん」
「うん」
ちゃんの表情で奈落の底に叩きつけられたばかりの心を簡単に天空まで突き上げるのもまたちゃんの言葉だった。翻弄されているだなんて被害者ぶるつもりはない。ただ俺はきっとこの先も、ちゃんの態度ひとつで天国へも地獄へも行くんだろう。
むしろちゃんの気持ちが鳴さんに向かっている以上、辛い気持ちに傾くことが多いと確信している。
――それでも、踏み出す勇気だけは失いたくない。
「ひとつだけ、お願いがあるんだけど」
「……うん、なぁに」
「その、今は、さ。試験準備期間中だし、部活も強制的に休みになったしさ。今だったら、時間は割と融通が利くんだ。だから、その、今日……よかったら一緒に帰らない?」
先日のように〝雨が降っていているのにちゃんが傘を忘れたから〟だなんて理由もない。ちゃんとじっくり話す機会が欲しい。ただその一心で言葉を差しだした。
言葉にした途端、期待と不安が胸の内に綯い交ぜになる。どちらかというと不安に気持ちが寄っているのか、焦燥が喉の奥を締め付けた。
――ちゃんの想いを知る前ならばもう少し楽な気持ちで誘えたかもしれない。
いつか一緒に帰れたら。そんな願いは偶然、ちゃんと道端で出会った日からずっと密かに胸の中に抱き続けている。だけど現実は甘くない。そんなチャンスが簡単に転がってくるはずもなく、今日まで実現することはなかった。
ただ待つだけでなく中間試験の時にでも誘えば良かったと嘆いたところで過去には戻れない。ならば、頑張るべき時は今しかない。
通りの悪くなった喉を、咳を払うことで誤魔化しながら調子を整える。それだけの行動で心が落ち着くはずもなく、意味もなく自分の腹の前で手のひらの指先同士を突き合わせた。右手、左手と、交互に力を入れたり緩めたりしていると、手首に通したコンビニの袋がかさりと鳴る。何か言ってくれないだろうかとちゃんの言葉を待つ時間は、いたたまれなさに塗れていた。
「えっと……」
さっきよりも更にちゃんの声音に戸惑いが混じる。あまりいい返事は貰えなさそうだと勘づくにはそれで十分だった。
「ごめんね。今日から友だちと勉強して帰る約束してるから……」
「そっか……そうだよね」
期末試験は来週からだ。よくよく考えてみれば試験まであと1週間も残されていない状況で誘うのは唐突すぎたかもしれない。
試験準備期間中の放課後、学校に残って勉強する生徒はかなり多いと聞く。中間試験の際に教室や図書室で見掛けた光景を思えば、あの集団の中にちゃんが混じっていたとしても何もおかしくない。まして、ちゃんは普段から友だちらと一緒にいることが多いのだから、誘い合って勉強会を開くことなんてちょっと考えればわかることだ。
きゅっと唇を結ぶ。断られたことにショックを受けている自分の心を切り替えようとすぼめた唇の先から長い息を吐いた。
――だって言ってたじゃないか。ちゃんは先約を断るような女の子じゃない。
断られる理由があった。ならば必要以上に落ち込んでる姿を見せてちゃんの心理に負担をかける訳にはいかない。
「約束があるなら、仕方ないよね」
物わかりのいいフリをして、普段よりも声のトーンを上げた。それと同時に表情を取り繕おうと試みる。だが、目元を緩めることには成功したが、下がった眉尻を上げることは出来なくて中途半端な笑顔を作ってしまう。
俺の情けない表情を見上げたちゃんは、困ったような顔つきで「ごめんね」と口にした。
「ちゃんが悪いわけじゃないから謝らないで。俺の間が悪かっただけだから」
慌てて場を取りなしたところで、一度漂った気まずさを即座には追い払えない。
思い返せば、ちゃんとは期待したところで思い通りにはいかないことが多かった。告白しようとすれば鳴さんに邪魔され、最高潮に気持ちが高まったと思えばちゃんの鳴さんへの想いを知らされた。上手くいかない恋というやつはどう足掻いてもバッドエンドに進むらしい。
ひとつ息を吐き出す。詰めていた呼吸に落胆の色が滲むのをどうしても抑えられなかった。
――溜息なんて吐いて、ちゃんに感じ悪く思われなかっただろうか。
気がかりが胸に生じると同時に、自然と落ちていた視線をちゃんへと戻す。いつものように口元に描かれた緩いカーブは、俺と目が合ったところで崩れない。だが、笑っているとは言いがたい曖昧な表情に思わず口元を引き締めた。
怯むような心地が沸き起こる。だが、このまま目を逸らしてちゃんの前から立ち去ってしまったら、今までと何も変わらない。
「俺のわがままだってのは十分わかってる。でもね、どうしてもちゃんとちゃんと話がしたいんだ」
「樹くん……」
「だから、その……俺もか誰か誘って学校で勉強しながら待ちたいなって思ってるし、それがイヤなら一度寮に帰ってちゃんの勉強が終わるころに迎えに来てもいいかな?」
諦めきれない往生際の悪さが、開き直りにも似た覚悟を呼び覚ます。落ち込んだところでなにも変わらないのであれば足掻き続けるほか道はない。だが、踏み出すと決めたところでそのさじ加減が難しい。
言ってしまった後で〝これはストーカーと思われても仕方が無いのでは〟と気付いたが、一度飛び出した発言を引っ込めることは出来ない。羞恥と後悔で体温が上がる心地が沸き起こり、ちゃんと視線を合わせていられなくなる。咄嗟に窓の外を眺めようと顔を背けたが、ちゃんの反応を見ないこともまた怖くて、恐る恐る視線だけを戻した。
付き合ってもないのに一方的に待ち伏せると言い出した俺を見上げるちゃんの表情は困惑に塗れていた。ひそめられた眉根が目に入ると、居たたまれなさが全身に襲いかかってくる。
「何時になるかわからないし、わざわざ来てもらうのも悪いよ」
「だよね……。ごめんね。俺の都合ばかり押しつけちゃって」
至極真っ当な断りに思わず呻く。頭を揺らして謝罪の意を示すと、ちゃんは「ううん」と頭を横に振った。そのまま俯いてしまったちゃんに、更に声をかける勇気は湧くはずもなく口元をきゅっと引き締めた。
――失敗した。
勇気を出して踏み込むことと、相手の都合を顧みず突き進むことはまったく違う。前提を見誤った結果、ちゃんを困らせてしまった。
――この恋はやはり詰んでしまっているんだろうか。
ちゃんと向かい合ったとき、前はもっと上手くやれていた。手応えにも似た感覚を掴んだと確信したことだってある。だが、たしかに手の中にあったはずのものは、いつのまにか指の間をすり抜けて跡形もなく消えてしまっていた。
気落ちすると同時に、自然と視線が落ちる。目に入るローファーは互いに向かい合っているのに、ちゃんの心は決して俺に向かわない。そのことが歯痒くてたまらなかった。
「ごめんね、樹くん」
そっと耳に入ってきた声に伏せていた顔を上げる。先程よりも眉尻を下げたちゃんを見ると、また胸の奥が鈍く痛んだ。
「都合を押しつけられたとか思ってないよ。樹くんが話したいって言ってくれるのは、本当にイヤじゃないの」
おなかの前で両手を組んだちゃんが訥々と言葉を紡いでいく。いつになく歯切れの悪い言葉なのに、それでも実直さが含まれているように聞こえるのはちゃんの視線がまっすぐにこちらに差し向けられているからだ。
「多分、樹くんも気付いてたと思うんだけど……私も樹くんとちゃんと話したかったんだ。けど、今はもう――」
一度、言葉を切ったちゃんはきゅっと口元を引き締めて俯いた。長い睫毛に縁取られた双眸が伏せられると同時にどうしようもない焦燥が胸の奥を締め付ける。
何か声をかけなければ、と思う。だけど、まだちゃんの言葉を遮ってまでかけるべき言葉が見つからない。じりじりとした焦りを感じたまま、ちゃんの細い指がぎゅっと互いの手の甲を押さえつけるさまを見守る。
ひとつ、重い息を吐きだしたちゃんは、伏せていた顔を上げると眉根を寄せたまま俺を見上げた。
「今は、もう少し時間が欲しいな」
「時間って……?」
「えっと……。ほら、試験期間中だし、その、勉強に集中したいなって」
思わず聞き返せば、ちゃんは俺から視線を外して横髪を耳にかけながら応じた。そっと外された視線に、今の言葉にほんの少しの嘘が混じっているのではと勘ぐってしまう。
身内に渦巻く焦燥は嫌な考えばかりを頭に思い巡らせる。〝またしても距離を置かれた〟だなんて考えたくもないのに一度頭に浮かび上がると、もうそれが真実なのではとさえ思い描いてしまう。
時間が欲しいとちゃんは言った。試験が終われば、また俺は野球に明け暮れる日が続くようになる。その時、表面上は仲良く出来ても、大事な話は出来ないんじゃないだろうか――。
もしかしたら、ちゃんの言う〝時間〟は俺と深い話をしないための猶予期間のつもりなのかもしれない。考えたくはないが、煮え切らないちゃんの態度を見ていると、どうしても悪い方へと考えが傾いてしまう。
奥歯を噛みしめて、吐き出しそうな溜息を堪える。ちゃんの気持ちを蔑ろにするつもりは毛頭ない。だけど、本当の想いを口にしないままではいられない。
「わかった。今回は諦める。だけど、俺、もうちゃんと話すことに躊躇いたくないんだ」
今までならばわかったと言って、聞き分けのいいフリをして引き下がった。だけど、もう踏み込むのだと決めたからには、自分の意思はハッキリと伝えたい。
「だから、また折を見て声かけるし、誘ったりもすると思う」
彼女でもない相手に執着して気持ち悪いと思われるかもしれない。傲慢で身勝手な男だと嫌われるかもしれない。それでも俺はちゃんに想いを伝えたい。
そのためには、たった一度でいいから、ちゃんと話をするチャンスが欲しかった。
「本当に嫌だったら断ってくれていいから」
――狡い言い方をしてしまった。
きゅっと体の真横で拳を握る。たった一度だけ、と縋り付くだけで心の内に罪悪感が押し寄せる。
本当に嫌なことはいやだって言う女の子だとは言っていた。だけど、ちゃんは優しいから、ちゃんと話をしたいのだと伝えれば話くらいなら聞いてくれることを知っている。でなければ、が同じシチュエーションで二回も告白できるはずが無い。
そんなちゃんの為人をわかった上で無理を押し通そうとしている自己嫌悪は止まない。不貞不貞しさする感じる自分の行動を理解してもなお、踏み出した一歩を引けるはずもなく、ただただ祈るような気持ちが沸き起これば自然と頭が下がった。
「どうして?」
「え?」
不意に聞こえてきた疑問の声に俯きかけていた頭を起こす。眉尻を下げたちゃんは戸惑いの視線でこちらを見上げていた。
「どうして、そんなこと言うのかなって……」
「それは……」
心は既に決まっている。だけど今この場で想いを口にすることはさすがにはばかられる。
うまい返答を見つけられず質問に窮する俺を見上げたちゃんは、困ったような表情はそのままでほんのりと口元を緩めると首を横に振った。
「ごめんね。変なこと聞いちゃった」
「変なことじゃないよ!」
思わず声が大きくなった。本心を隠したまま話を進めているのは他ならぬ俺自身だ。曖昧な誘いに乗れないちゃんが当惑したっておかしくない。
大きな声を出したことで弱気に傾いていた気持ちに勢いがつく。背筋伸ばし、拳を握った。「どうして」というちゃんの質問には答えられそうもない。だけど、せめて嘘偽りのない想いの欠片だけでも伝えたい。
「今、この場では詳しくは言えないけど、前にも言ったとおり、俺……ちゃんに伝えたいことがあるんだ」
俺の言葉に、ちゃんはきゅっと眉根を寄せた。困らせているのだと気付きつつも、口にした言葉を撤回するつもりはなかった。
「大切な話なんだ。だから、ずっとちゃんと話がしたかった」
「樹くん……」
きゅっと唇を結んだちゃんはまばたきをひとつ挟んで視線を脇にやるとそのまま俯いてしまった。手の甲で口元を隠されると、ちゃんの表情がほとんど見えなくなる。
今、ちゃんが何を思っているのか。表情で推し量ることが出来なくなると途端に不安になる。
今の言葉は、ほとんど自分の想いを口にしたようなものだ。実りのない不毛な告白だと知っている。それでも、差し出した気持ちの行方をどうしても気にしてしまう。
奇跡が起こらないか。祈るような気持ちでちゃんを見つめた。廊下から差す光に透けていつもより赤みがかった髪がさらりと揺れる。その変化を見つめていたせいだろうか。俯かせていた顔をちゃんが上げるとすんなりと視線が交差した。ただそれだけで、血の巡りが早くなる。
ちゃんが薄く唇を開いた。なにか言葉が返ってくるのだと気付いた途端、期待と焦燥が身に降りかかる。
喉を鳴らして、ちゃんの言葉を待った。固唾を飲んで見守る俺を見上げるちゃんの視線が揺れる。躊躇い、躊躇いながらも一度きゅっと唇を結んだちゃんは、ほんの少しだけ目元に力を込めた。
それに釣られるように、今度はこちらの全身に力が入る。ぎゅっと拳を握り、ちゃんから紡がれるはずの言葉に耳を傾けた瞬間、無情にも本鈴が鳴った。
音の在処を探すべく反射的に顔を上げていた俺は鳴り止まないチャイムを耳にしながらちゃんへと視線を戻す。同じように上を向いていたらしいちゃんが目線を下げれば瞬く間に視線が交差する。
交わったばかりの視線を、目を伏せることで外したちゃんはまばたきをひとつ挟んで横髪を耳にかける仕草を見せた。
「とりあえず……もうすぐ先生も来ちゃいそうだし教室、入ろっか」
「――うん」
頭を揺らして同意を示す。だが、そのまま元の位置に戻すはずだった顔が上げられない。
俯いたままちゃんの背中を追うように後ろのドアから教室へと入った。すでにクラスの俺たち以外のひとたちは席に着いており、誰が入ってきたのかと探るような視線が向けられる。その中にの視線もあるかもしれないと気付きつつも反応を示すことが出来なかった。
喉の奥にやりきれなさが詰まる。納得のいかない幕切れに自然と眉根が寄った。
――いつもこうだ。肝心な時に邪魔が入る。
俺はちゃんに告白できない運命にあるのかもしれない。自虐的な考えが頭をよぎると自嘲の笑みが口元に浮かんだ。
暗澹たる想いを抱えたままそっと顔を上げる。一歩先を行くちゃんの背中が果てしなく遠い。手を伸ばせば届く距離なのに、心は一向に近づける気がしない。
届かない気持ちが執着に変わったのか。それとも遠い憧れに惹き付けられているのか。
報われないと知っている恋を手放す気にもなれず、ちゃんの背中をただじっと見つめた。