26
「ごちそうさまでした」
寮でとる夕食をいつものようにどんぶり三杯分のご飯と共に平らげ、空になった食器の前で手を合わせる。食べ終えたばかりということもあり身体の奥から自然と長い息が漏れた。
おおきく存在を主張するおなかに手を添えながら、湯飲みに半分ほど残っていたお茶を啜る。熱いお茶に一息つき、湯飲みの中に落としていた視線を正面へと向ければ、どんぶりを抱えこんだ江崎と杉の姿が目に入った。
恐る恐ると言った手つきで白米を口に運ぶふたりは、いつその喉元が決壊してもおかしくないほど険しい顔をしている。
二分ほど前の俺も同じ顔をしていたんだろうな。そう思うと同時に平らげたばかりの白米が腹の中にまだいるぞとばかりに息苦しさを主張した。自然と漏れる溜息はそこかしこで起こっている。食事後の風景として見慣れつつある景色に、俺もまた気兼ねなく大きく息を吐いた。
口元で湯飲みを傾けたままぼんやりと現状に思いを巡らせる。試験期間に突入してもなお、練習がある日と同じ食事量を求められる状況は結構苦しいものがあった。
身体を動かさない期間に得たカロリーはそのまま身体に蓄積される。身体が資本だからこそ、無理めの食事をとる必要性は理解できた。だが現実はそううまくいかないもので、いくらたくさん食べたところで、先輩方に比べて幾分もひょろっこい体つきがマシになったようには思えない。
――勉強と同じく、やった分だけ身につくのは変わらないはずなんだけどなぁ。
空になった湯飲みを唇から離し机の上に置いたものの、なんとなく指が離れない。湯飲みに指を添えたまま空になったどんぶりに視線を落とし、またぼんやりと思いを巡らせる。
5日間。みっちりと予定を組まれた期末試験も今日でようやく4日目の行程を終えた。月曜日から始まった期末試験もようやく明日、最終日を迎える。それを思えば安堵に偏りそうなものだが、どうしてか心は塞ぎ込んだままだった。
――どうして、なんて白々しいか。
自分の心の声に内心でツッコミを入れる。またひとつ、漏れた溜息が満腹である証明ではないことを自分が一番知っていた。
試験準備期間も合わせれば、部活が休みになってすでに10日以上経過している。早く部活がしたいという気持ちは間違いなくあるが、自分にとってのタイムリミットを思えば明日が来なければいいのにとすら思えた。
――部活が始まったら、ちゃんと満足に話が出来るチャンスはきっとこない。
そう気付きながらも、行動に移せていない理由はただひとつ。「時間が欲しい」とちゃんが言ったからだ。その言葉の効果は抜群で、残された時間が無いと焦る今でさえひどく俺の行動や判断を鈍らせている。
試験期間中は勉強に集中したいと言われた以上、まさか無理強いするわけにもいかず、や鳴さんに背中を押された俺の決意なんてまるで初めから存在しなかったかのように淡々と日常は過ぎていった。初めのうちは悶々としていたが、いざ試験が始まってしまえば全力で試験に取り組んだ。だが、そんな日々も明日までなのだと気付けば、急に不安が頭をもたげ始める。
夏が始まれば、俺の生活は野球一色になる。その前に想いを伝えたい。フラれること前提の告白なんてちゃんの負担になるだけだと知ってなお、その想いだけは揺るがなかった。
――たったそれだけでいいのに、なんで叶わないんだろう。
ままならない現状を憂い、強く目を瞑る。この日、何度目かわからない溜息を吐きこぼすと、目の前で叫び声が上がった。
「だぁー! やっと食い終わったァ!」
突然の大声にびくりと肩を震わせる。慌てて目を開き、落としていた視線を上げれば、天井を仰いだ江崎が空になったどんぶりをテーブルに叩きつけたところだった。一方、その隣の杉はと言うと食べ終えたことで脱力したのかどんぶりに指をかけたままテーブルに突っ伏している。
ふたりとも今日のノルマを無事にやり遂げた達成感に浸っているようだった。いつもならほとんど同じタイミングで食べ終えるふたりがやけに苦労している姿に思わず苦笑する。
「だいぶお疲れみたいだね」
「おぉー。いや、もうマジで失敗した!」
椅子の背もたれに身体を預けたまま叫ぶ江崎の腹は目に見えて膨らんでいる。仰け反っている分を加味しても、いつもよりも苦しそうに見えた。
「失敗って?」
「さっき勉強してる間にうっかり炭酸飲んじまったからさぁ。腹が膨れて膨れて!」
「俺は頭良くなるってクラスで噂になってるチョコ食っちまった……」
こなれない腹を支えるように手のひらで押さえた江崎も、なんとか身体を起こそうとするものの手のひらをテーブルに押し付けたまま力尽きた杉も、それぞれに事情があったらしい。頭がよくなるチョコに興味は引かれたが今から腹に何かを詰め込める気はしなかった。
「お茶いる? いるなら持ってこようか?」
「いや、さすがにもう入んねぇよ」
「右に同じ……」
呻き声を上げるふたりの助けになるのなら、と提案してみたものの色よい答えは返ってこない。この状況を見る限り、食器を下げるのももう少し待った方が良さそうだ。
「なぁ……樹もこの後、一緒に勉強するだろ?」
先程は額を押しつけるように突っ伏していたはずの杉が、顔だけをこちらに向けて話しかけてくる。限界を突破した表情の杉を目にするとほんのりと眉尻が下がった。
「あぁ、うん。そのつもりだよ」
「じゃあ。またあとで集合しような……」
「今すぐじゃなくていいの?」
「今は無理……動いたら腹がはち切れる……っていうか出る」
なにがどこから、とは明確に口にしないものの杉の惨状を目の当たりにすれば自ずと見当は付いた。やはり夕飯前の間食は控えるべきらしい、なんてふたりの行動を反面教師にしながら黙って指先同士を付き合わせていると大仰に江崎が溜息を吐きこぼした。
「つーか明日の科目厳しくね? マジ今から憂鬱なんだけど……」
顔を顰めて言う江崎の言葉に俺も杉も神妙な顔つきで頷いた。
明日の試験は、江崎の言うとおり今回の期末試験における最大の山場と言っても過言ではない。英語の筆記と数学A。解き方のコツを掴んだ手応えはあるが、教師のさじ加減によっては苦戦を強いられることが否めないラインナップだった。
「樹は? 自信ある?」
「どうだろう……。それなりに真面目に授業は受けてきたつもりだけど」
実直な江崎の問いにほんの少しだけ言葉を濁してしまう。
正直に言うと、今回の試験に限っては事前に想定した以上に手応えを感じていた。まだテストが返ってきたわけではないから慢心するわけにはいかないが、この分だと中間試験の時よりも全体的に成績が上がりそうな予感すらある。
授業の後、分からないことをそのままにしなかっただけとは言え、塵も積もれば山となるというやつなんだろう。との勉強は間違いなく身についている。
実感すると同時に、ふと「何かお礼をすべきだろうか」という考えが頭に浮かぶ。例えば、さっき杉が言っていた〝頭のよくなるチョコ〟なんていいのかもしれない。
詳細を聞けないか杉に視線を伸ばしてみたが、相変わらず机に頬を押し付け呻く姿に何かを尋ねるのは酷な気がし、開きかけた唇を閉ざした。
肩で息を吐き、杉へ転じた視線を江崎に戻せば、腹の上に置いた手の指先が忙しなく動いているさまが目に入る。表情もまだ険しさを残しているあたりお腹が苦しいのもあるが試験前の不安も少なくないのだろう。
自主勉の効果を肌で感じているが、自慢だと捉えられても困るし伝えない方が良さそうだと結論づける。
苦しんでいるふたりを前に「俺は余裕だしー?」なんて言えるのはきっと鳴さんくらいだ。想像の中の鳴さんの言動に軽く眉尻を下げながら頭を傾けてみせれば、江崎もまた苦い笑みを浮かべた。
「あーぁ。いっそ今すぐ試験受けて楽になりたいくらいだぜ」
「はは。玉砕覚悟の特攻でもする気?」
「今更足掻いたところ結果がよくなるとは思えないしなぁ……それもいいかも」
はは、と力なく笑った江崎の目はかなり荒んでいる。ゆうべも遅くまで勉強してたと言っていたし、投げやりなことを口にする程度には判断能力が低下しているのだろう。
追い込まれた様子を隠しもしない江崎を黙って見守っていると、ちらりとこちらに視線を転じた江崎はぎこちなく口角を上げた。
「ま、最善を尽くさねぇまま追試になっちゃたまんねぇしちゃんと勉強するけどさ」
ぼやき続ける江崎は話している間に少し回復したらしくほっぺたを膨らませて大きく息を吐いた。一方の杉はと言うと、いまだテーブルの上に上体を投げ出したままだ。時折漏れ聞こえる苦しそうな声を思えば、もう少し放っておいた方が良さそうだ。
壁に貼り付けられた時計に視線を伸ばす。時刻は19時半を少し回ったところ。明日の試験に向け、最後の悪あがきをする時間はまだ十分に残されている。
先に筆記用具でも持ってきておこうかな。そう考えた途端、ふと、今日の試験中にシャーペンの芯が切れかかっていると気付いたことを思い出す。
「ねぇ、ふたりともまだ少し休憩しておくなら一度抜けてもいいかな」
「あぁ。いいけど。なんか用事あったか?」
唇の先を尖らせて小刻みに息を吐き出していた江崎が軽く首を傾げた。目線の動きだけでこちらを振り仰いだ杉を横目に俺はひとつ頭を揺らす。
「うん。勉強始める前にコンビニに行って来ようかなって。シャーペンの芯を買っておかないといけないの思い出してさ」
「なんだ。それくらいわけてやろっか? 俺、こないだ買ったばっかりだし」
「明日の試験中に足りなくなったら困るし、必要なものだからいいよ。ありがとう」
江崎の申し出をやんわりと断り、テーブルの上に広げたままだった食器類を重ねて立ち上がる。ふたりの分も下げようと手を伸ばせば「俺らも後で片付けるから早く行ってこいよ」と江崎に制された。
「それじゃ。ちょっと行ってくるね」
「おう。また20時頃ここに集合な」
「うん」
江崎の言葉に頷いて返し、食器を下げた俺はそのままふたりに手を振って食堂を出た。
***
遠い夜空に星が瞬いている。つい先日まで感じられていた梅雨の気配はすでに鳴りを潜め、今ではすっかり夏めいた空気を醸し出していた。まだ気温はそこまで上がっていないものの、近くのコンビニまで駆ければ当然のように身体から汗が滲み出る。
コンビニに入ればひんやりとしたクーラーの風が全身に降り注いだ。火照った身体で涼しさを味わったのも束の間で、引いたばかりの汗が肌に馴染む前に冷えていくのを感じ取る。
身体を冷やさないようにしなくちゃ、と手のひらで腕を摩りながら店内を軽く見回った。まずは目的のものを、と文具コーナーでシャーペンの芯を手にし、ついでに勉強する間に飲むドリンクを見繕う。何にしようかと棚の前を行ったり来たりしていると、ふと横目に雑誌類が並ぶ棚が目に入った。
――そう言えば今週のマガジンはまゆゆがグラビアだったんだっけ。
先週号の誌面で知った時に「絶対買わないと!」と意気込んだのが嘘みたいにすっかり忘れていた。雑誌を手に取り、数ページ捲れば〝夏を先取り!〟という見出しと共に水着姿のまゆゆが惜しげもなく素肌をさらしていた。
笑顔の推しを目にしても、いつもなら簡単に浮き立つはずの心がちっとも動かない。ほんの少し唇を尖らせ、それでも一応買っておくかとシャーペンの芯とマガジンを重ねた。
――あの日はいろいろあったもんなぁ。
先週の水曜にあったことを順番に思い返していると、昼休みにと話したり鳴さんに尻を叩かれたりした記憶に行き当たる。そして、ちゃんに話し合いを拒否されたことも――。
あれから満足にちゃんと話が出来ていないことに思い至っては辛気くさい溜息が口から漏れた。気にしないようにと心がけていても、ちょっとしたきっかけですぐに思い返してしまう。
記憶というのは本当に厄介だ。俺が望む、望まないに関わらず、ひとつのことをきっかけに良い記憶も悪い記憶も分け隔てなく引きずり出してくる。
今、頭に思い浮かんでいるのは、以前、コンビニに行こうとこの辺りをランニングしていた際に、偶然ちゃんと出会ったときの記憶だった。今日と違ってコンビニには行けなかったけれど、あの日、初めてちゃんと歩いた夜道は本当に楽しかった。
――仲良くなれたと思ったんだけどなぁ。
野球部の寮とちゃんの家が近いと知って、また出会えたら、と何度も願った。だけどそもそもオフという概念がほとんどない野球部がそうおいそれと外へ出られるはずもなく、結局、あの日一度会ったきりで、偶然出会うことも無いままもうそろそろ3ヶ月が経とうとしている。
校外で会えなくとも学校で会えるからいいや、と自然体でいられたのはいつまでだったか。長い時間をかけて積み重ねたはずの想いは、ある日を境にぷっつりと行き場を失ったまま俺の胸の内に燻り続けていた。
うまくいかないときは何をやったってうまくいかない。まるで恋愛の神様が邪魔しているみたいにチャンスを尽く潰される。
何度かあった告白チャンスを棒に振った経験が脳裏を過ぎると自然と唇が尖った。目に見えた不満を出し続けるわけにはいかないと唇の先を内側に巻き込み、きゅっと噛みしめる。漏れ出てきそうな溜息を飲み込んで、ペットボトルの棚からポカリスエットを手に取るとこれ以上何も考えまいとレジに並んだ。
「ありがとうございましたー」
事務的な店員さんの声を背にひとまとめにされた袋の中からペットボトルを取りだし、雑誌の裏表紙側に移しながらコンビニを出る。早く帰って勉強の続きをしないと、と息を吐き出すと同時に、正面から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「――樹くん?」
「え?」
袋の中に落としていた視線を正面に向けた途端、目に映った姿に身体が硬直する。
「、ちゃん……」
強ばった唇が条件反射のようにちゃんの名前を紡いだ。だが唇が動いたからと言って緊張に包まれた身体がまともに動くようになったわけじゃない。
ぎこちない動きで惹かれるままにちゃんと向かい合う。何か声をかけなければ。そう思いながらも言葉が出てこない。
――普段どうやってちゃんに声をかけていたっけ。
一度も会えないと嘆くことにすっかり慣れてしまっていた俺は、いざ現実にちゃんを前にすると、情けなくも慌てふためくことしか出来ないでいた。