春恋27

27


「えっと……」

 うまく反応できない俺につられたのか、ちゃんもまた戸惑うような声を漏らす。困惑に塗れた表情で髪を耳にかけたちゃんは、道路の脇に視線を逸らしたまま動かない。
 交わらない視線に狼狽し、視線を足下に落としてしまう。「なにか買いに来たの?」だとか「試験勉強の調子はどう?」だとか。当たり障りのない会話のとっかかりが頭に浮かんでは消えていく。
 焦れば焦るほど思い描いた考えは散り、それに取って代わるようにいくつものちゃんへの「どうしよう」が降り積もる。素直に会えて嬉しいという気持ちと不意打ちに近い巡り合わせに対する衝撃が胸の内でせめぎ合う中、いつのまにか手のひらは拳へと移り変わっていた。
 ――せめて、明日の夜だったらよかったのに。
 霧散する考えの中、しっかりと頭に浮かんだのは自分の間の悪さへの悪態だった。
 先週、ちゃんに話がしたいと持ちかけた際、試験が終わるまで時間がほしいと釘を刺されたことは記憶に新しい。そして、その試験の山場を明日に控えている以上、告白どころか次の約束を取り付けることも難しいだろう。
 今じゃないと及び腰になっているつもりはない。だけど、行動の選択肢がいくつか塞がれている現状を思うと「じゃあどこまでなら踏み込んでいいんだろう」と判断に迷ってしまう。
 ――こんなんじゃ告白のチャンスが巡ってきたってそんなタイミングなんてわからないだろうな。
 諦念に似た想いを抱えながらちゃんへと視線を戻せば、まったく同じタイミングでちゃんがこちらを振り仰いだ。寸分違わず交差した視線に思わず息を呑む。教室で目が合ったときだって簡単に心臓は跳ねる。だが、今感じている驚愕はそれとはまた違う種類のもののように感じられた。
 身に覚えのない緊張に戸惑い、自分の首筋に手のひらを添えながら微かに頭を傾けた。いつもよりも幾分も早い脈動が手に触れる。ざわめく心を落ち着けようと唇をすぼめて長く細い息を吐きだしたが、そんなことではまるで収まる気がしない。
 ――なんでこんなに、ドキドキするんだろう。
 つい先程、気落ちしたばかりとは思えないほどの動揺に自分でも面食らってしまう。いつになく強く感じる緊張感にまたしても全身が強ばっていく。試合で感じるものとはまた違った種類の動揺にすんなりと馴染むことは出来なくて、頭の中に心臓が移籍したかのように鳴動が耳の中に響いた。血の巡りが早くなると同時に体温がどんどん上がっていく心地さえする。
 身を焦がすような発熱に耐えきれなくてゴクリと喉を鳴らした。
 ――こんな風に学校外で出会うのは二回目だもん。落ち着けるはずがないよ。
 偶然、ちゃんの家が野球部の寮に近いと知った夜以来、外出する度にちゃんに会えないか期待した。だけどそんな期待が簡単に叶うはずもなく、今まで偶然出会うことはなかった。
 ――それがまさか、今になって叶うなんて。
 〝会えたらいいな〟という気持ちよりも強く〝会えるはずがない〟と思っていたからこそ突然の邂逅に驚いた。夜に学校の外で予定外に出会ったこと。初めて見るちゃんの私服姿。胸が騒ぐのも当然だ。
 多少、無理矢理ではあったが突如として降りかかった動揺に対し、自分なりに結論づける。だが、自分の心の中にある未知の部分がそれは正解ではないと主張するように胸の奥を締め付けた。
 内心で首を捻りながらもそれ以上の答えなんて考えられない。自分の気持ちなんて振り返らず、まずは目の前にいるちゃんへと向き合うべきだ。そう思い直した俺は身内に膨れ上がった焦燥を御しきれないまま、ただひたすらにちゃんへかける言葉を探した。だが、いくら気持ちを入れ替えたところでいい案が思いつかない状況はちっとも変わらなかった。
 戸惑う俺を見上げていたちゃんが手の甲で口元を隠し、俯きながらひとつ咳をする。喉の調子を整えるような仕草を見せたちゃんは、改めてこちらを見上げるとほんのりと口元を緩めた。

「春以来、だね」

 ちゃんが紡いだ不意打ちのような言葉に、一層強く胸が高鳴る。「何が」と口にされなくてもちゃんの意図するものが伝わってきたのは、今まさに、こうやって会うことが春以来だと自分も考えていたからだ。
 頭の中を読まれたのではと勘ぐってしまうようなタイミングに思わず頬に熱が走る。

「あぁ、うん。そうだね」

 必要以上に動揺した俺は、交わったばかりの視線を大きく逸らしてしまう。素っ気ない受け答えをちゃんは変に思わなかっただろうか。反射的に背けた顔を若干俯かせながらも元に戻せば、ちゃんはおなかの前で両手の指先をつつき合わせながらこちらを見上げていた。

「樹くんもお買い物……は、終わってるみたいだね」
「うん。今日の試験中にさ、シャーペンの芯が切れたの思い出して……明日の試験を乗り切れるか心許なくて買いに来たんだ」

 教室内で交わす言葉と遜色ない会話のはずなのに無駄に慌てふためいてしまう。落ち着かない心境は口だけでなく身体にまで現れ、身振り手振りを交えての説明となった。
 一通り伝える中で、何故か「シャーペンの芯を見せなければ」という心境に陥り、コンビニの袋の中に手を差し入れてみたが、ペットボトルと雑誌に阻まれて簡単には引き抜くことは出来なかった。

「あとは、今から勉強するからポカリと、まゆ――」
 
 シャーペンの芯に手が届かないことに焦った俺はうっかり「まゆゆのグラビア」と言いそうになり慌てて口をつぐんだ。江崎や杉相手ではないんだ。ちゃんに対してグラビアの話を持ちかけるのは御法度だ。俺は純粋にまゆゆのファンだけど、ちゃんに疚しいところがあると誤解されては溜まらない。
 口を閉ざしなにか取り繕える言葉はないかと逡巡するが、失態続きの中でいい打開策を思いつくはずもなく意味もなく視線を彷徨わせたり口元をまごつかせたりするだけだった。

「いや、えっと……マガジン買おうかなって。今日はさすがに読まないけど!」

 言いかけた言葉には繋がらなかったが、言い間違ったということにしてほしい。そんな一縷の望みに縋り付くように言葉を紡ぐ。言い淀む俺を変に思ったりしていないだろうか。
 反応が気になり泳がせていた視線を戻せば、ちゃんは俺以上に呆けた視線を空中に投げ出していた。

「……ちゃん?」
「ん?」

 訝しみながら名前を呼んでみると、ちゃんはほんのりと笑みを浮かべてこちらを振り仰いだ。綺麗なカーブを描く口元とは裏腹にぎこちない印象を抱いたのはこれが初めてのことじゃない。最近、慣れ始めてしまった違和感に胸の奥が鈍く痛んだ。

「実は私もシャーペンの芯切らしちゃったんだ。まだ残ってるといいんだけど」
「そうなんだ。さっき見た時はまだいくつかあったと思うよ」

 いつもと変わらない調子で言葉を続けたちゃんに戸惑いながらも、先程見た陳列棚の状況を思い返す。学校の近くのコンビニということもあり、文房具の需要が高いらしくたまに売り切れてることがあったが、今日はシャーペンの芯以外にもノートやペンもバッチリ揃っていた。
 まだ大丈夫だと伝えたことに安心したのだろう。ちゃんは先程の曖昧な表情とは違い、やわらかな笑みを浮かべた。

「よかった。それじゃ売り切れちゃう前に買っておこうかなぁ。――帰るところだったのに、引き留めちゃってごめんね。樹くん、また明日」

 バイバイ、と手を振ってすんなりと店内に入ってしまったちゃんの背中を見送る。軽快なメロディと共に閉ざされた自動ドアを見ていると自然と唇が尖った。
 偶然、ちゃんに出会えて、会話が出来た。結果だけを見れば手放しで喜んでもおかしくない出来事なのに、どこか納得できないような心地が胸の中に居座っている。やり切れない思いに押されれば、自然と重い溜息がこぼれた。首の裏に手をやり、軽く頭を傾けながらちゃんとの会話に思いを巡らせる。
 ――また明日、って言葉が嫌いになりそうだ。
 相変わらず、顔を合わせれば無視されることは無い。そもそも買い物に来たのだから目当てのものが売り切れる前に店に入ってしまうのは当然だ。だけど、やっぱりどこかちゃんの態度が素っ気ないように感じてしまう。冷たくされてるわけじゃないのに違和感が拭えない。
 ――俺の求めるものが多すぎるんだろうか。
 もっと笑って欲しいだとか。もっとしゃべりたいだとか。ちゃんに望むものは確かに少なくない。
 自分の認識が身の程知らずなほど遙か高みにあるのなら反省すべきだ。だけど、俺の望むちゃんとの距離感は、理想ではなくかつて現実にあったものだ。それこそ、一緒にいるのが楽しくてうっかり買い物を忘れて寮に帰ってしまうほど話が弾むような仲だった。
 たった2ヶ月前のことなのにずっと昔の話のようにさえ思える。そのうち、こっちの態度に慣れてしまうんだろうか。一抹の不安が過ると背筋に薄ら寒い感覚が走った。
 ――そんな未来なんて、望んでいない。
 抵抗めいた気持ちは胸の内だけでなく身体にも現れ、ビニール袋を持つ手に力が入った。奥歯を噛みしめ、胸にある正直な気持ちと向かいあう。ちゃんが鳴さんに告白したなんて知らされて、自分から態度をおかしくさせたくせに、鳴さんへの劣等感を克服したからと今更前みたいに話がしたいなんて望むのも虫が良すぎる。
 きっと、遠い日の思い出に縋っているのは俺だけだ。そう気付きながらも、どうしても諦めきれない。
 いつの間にか地面に落ちていた視線をコンビニの中へと向ける。外から見える範囲にちゃんの姿はない。もしかしたら奥側のレジで精算中かもしれないが、もう少し時間がかかりそうだと見当をつけると安堵とも落胆とも付かない溜息が漏れた。
 誰も通らない出入口を見つめていると、ふと、ひとつの考えが頭に浮かんだ。実行すべきか否か。相談するような相手はこの場にいない。自分ひとりで答えを下すしかない現状を目の前にすると思わず唇を結んでしまう。
 もう少ししたら、買い物を済ませたちゃんは店を出てくる。――待ってても、いいかな。
 浮かんだ考えの無謀さにきゅっと唇を結ぶ。彼氏でもない男が買い物帰りを待ち伏せているシチュエーションは、ちゃんにとっては恐怖以外の何物でもないかもしれない。そうとわかっているのに、思いついた考えをすんなりと手放すことが出来ないでいる。
 でも俺は一応クラスメイトだし、隣の席だし、多分今でも友達くらいには思っていてもらえてるはずだ。それにもう夜遅いし。前に帰り道が一緒になったら誘ってもいいって言われたし。それから、それから――。
 おためごかしな言い訳を頭の中に並べ立てる。自分の行動が正解なのかどうかわからないどころか、正当化しなければいけないほどのことをやろうとしている自覚はあった。 
 以前とは状況がまるで違うことを肌で感じているからこそ不安が過る。だけど、〝歓迎されないかもしれないから〟と逃げ帰ったところでまた落ち込んでうじうじする日々に戻るだけだ。
 ――もう後悔なんてしたくない。ちゃんに近付けるチャンスがあるのなら、迷わず突き進む。
 ひとつの決意と共にさらに拳を強く握る。緊張しているせいか、やけに喉が渇いていることに気付いた。買ったばかりのポカリスエットを取り出し、口をつけるとほんの少しだけ気持ちが落ち着いた。
 次第に上がる体温が夏の熱気によるものだけではないことを自分だけが知っていた。じんわりと滲む汗を、手のひらを押しつけて誤魔化していると、ふと自動ドアのメロディが耳に入った。反射的に振り返れば、音に遅れて涼しい風が腕に触れる。
 待ちに待ったというほどの時間が掛かったわけではない。だけど、待ち焦がれていたちゃんの姿が目に入ると鳴動がひときわ早くなった。

「――樹くん」
 
 俺の姿を目に入れると同時にその場に足を止めたちゃんの瞳は驚愕に塗れていた。驚かせたのがほかでもない俺であることに気付くと、途端に後悔が胸に押し寄せる。
 だが、選択を誤ったのかと焦ったのも束の間で、気持ちを立て直したらしいちゃんがほんのりと口元を緩めてこちらへと駆け寄ってきてくれると簡単に胸は躍った。我ながら単純だと呆れながらも、俺の正面で足を止めたちゃんを見つめるとほころぶ口元を止める術はない。

「どうしたの? 買い忘れでもあった?」
「え、あぁ。ううん。買い忘れとかはないんだけど」

 ストレートな質問に、交差したばかりの視線を思わず外してしまう。だが、照れくささに一度は負けてしまったものの、もとより言い逃れするつもりは毛頭ない。唇を引き締め、正直に今の想いを伝えるべくちゃんへと向き直ると、不思議そうな瞳が俺を見上げていた。
 目が合った途端、全身に熱が走り、ぎゅっと胸の奥が掴まれるような感覚を覚える。ちゃんを目の前にするだけで逃げ出したくなるような気持ちを抑えつけ、意を決して唇を開いた。

ちゃんを、待ってたんだ」

 ――言った。言ってしまった。
 自分の性質的にひねくれ者ではないと自負している分、素直に言葉を伝えることには慣れている。だけど、必要以上に自分の気持ちを曝け出すことにはいつまで経っても慣れる気がしない。
 一度は制したはずの気恥ずかしさに再び敗北を喫するがまま顔を俯かせる。顔を隠したくなる心境に押されて口元を手のひらで覆えば、首筋に至った小指からいつになく早い脈動が伝わった。
 ――俺の言葉を、ちゃんはどう思ったんだろう。
 すんなりと返ってこない言葉に、ちゃん自身も俺の言葉を受け止めかねているだろうと予測を立てる。怖いもの見たさな心境に誘われ、チラリと視線だけをちゃんへ向ける。
 少しは俺と同じ心境でいてくれたらと願った。だが、実際に目に入ったのは、見慣れ始めた困惑の表情だった。

「……どうして?」
「どうして、って……近くまで一緒に帰れないかなって。ホラ、もう夜遅いしさ」
「それで待っててくれたの?」
「……うん」

 質問に答える度にどんどん眉尻を下げていくちゃんに、早鐘を打つ胸の痛みがガラリと意味を変える。行動を間違えたと気付くにはちゃんの表情だけで十分だった。
 頭を揺らして応じた俺を見上げたちゃんが、ひとつ息を吐く。呆れられたのか、それとも迷惑がられたのか。その溜息の真意はわからない。だけど、困ったように笑うちゃんの顔を見ていると、よくない意味の溜息なんだろうなと思わずにはいられなかった。

「やっぱり、樹くんは優しいなぁ――でも、ダメだよ」
 
 やんわりとした拒絶は想定した通りのものだった。来るとわかっていても、やはり正面切って言われると堪えるものがある。言葉にできないほどの焦燥が胸の内に積み上がると、卑屈な考えばかりが頭に浮かんだ。
 ――やっぱり、もう間に合わないんだろうか。
 不安が胸いっぱいに広がると自然に下唇が押し上がる。不満げに見えるだろう表情を取り繕うだけの気力が、今だけは起こせそうもない。

「その、前にも言ったと思うんだけど……やっぱりよくないよ、樹くん。そうやって気を持たせるようなことしちゃ。女の子だって恋をしたがっているんだから、勘違いしちゃう子が増えても樹くんだって困るでしょ?」

 優しい言葉で断りを入れてくるちゃんは、横髪を耳にかけながら目を細めた。
 ――ちゃんが相手なら困らない。
 思い浮かんだ言葉を吐き出そうと口を開いた。だけど、ぎこちない笑顔を浮かべたちゃんが「だから、ダメだよ」と続けるものだから、それ以上何も言えなくなる。
 詰まる言葉を飲み下した。それでも堪えきれない感情が溢れ出しそうで奥歯を噛みしめる。期待してくれるならして欲しい。俺はそういうつもりでいつも声をかけている。ちゃんが俺の行動の意図を知って、同じ気持ちになってくれることを期待した。
 困ったりしない。嬉しいに決まっているのに、ただその想いだけが伝わらない。
 ――ちゃんと、伝えたら何か変わるんだろうか。
 ギュッと眉根を寄せ、胸のうちに折り重なる気持ちを差し出そうとした。だが、困ったように眉根を寄せたちゃんを見れば、簡単に「期待して欲しい」だなんて言ってはいけないような気がして、開きかけた口を噤むことしか出来なかった。
 押し黙る俺を見上げたちゃんは、今度は綺麗に口元を綻ばせる。

「だから、今日はまっすぐ帰ろう?」
 
 頭を軽く傾げて宣言するちゃんはいつものちゃんだった。清く正しく美しく。そんなキャッチコピーがよく似合う言葉と態度に、さらに喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。
 勇気を持って踏み出したとしても、はっきりとちゃんから一線を引かれる。決して厳しくはないのに強く骨身に染み渡る拒絶に、今はもう告白するなんてもってのほかで次の約束を取りつけることすらままならないと思えた。
 嫌なことはちゃんと嫌だって言う女の子だとは言っていた。それを思えば、今まさに俺が嫌がられている最中なのだろう。
 下げたままの手に力が入る。整えた爪が手のひらに刺さるほど強く握り込めると、釣られるように表情が歪んだ気がして慌てて顔を伏せた。歯を食いしばるほど悔しいのか。自分に問いかけたが、すり合わない感覚に内心で首を捻る。胸の内の感情を探るうちに、たったひとつの答えに辿り着いた。
 諦めないと足掻いたところで決して届かない恋心は、ちゃんにとっては迷惑にしかならない。それがただひたすらに悲しい。
 
「……わかった。じゃあ、次からはもう待たないようにするよ」
「うん。きっとその方がいいよ」

 抑えきれない苦い笑みを浮かべたまま顔を上げる。言葉が詰まりそうなのを無理矢理取り繕いながらも宣言すれば、頷いたちゃんの髪が揺れた。一度伏せた視線をこちらに向けたちゃんの瞳がどこか寂しげに見えたのはほんの一瞬で、まばたきひとつ挟めばいつものようにやわらかく緩む様が目に入る。
 喉の奥に詰まる愛の言葉はこれからもきっと吐き出せない。優しい雰囲気を纏ったまま、それでも目に見えて拒絶の意を示すちゃんに差し出そうとしてもきっとまた制されることだろう。

「だから、これで最後にするから……せめて、今日だけは一緒に帰ってくれないかな」

 遠回りするつもりも、これ以上引き留めるつもりもない。ただ、僅かに重なる帰り道を一緒に歩きたい。そんな最後の願いを、もう待たないという約束と引き換えに差し出した。
 俺を見上げたままだったちゃんは、一度眉根を寄せ、躊躇うような表情を浮かべる。またちゃんを困らせてしまったのかと胸の奥が鈍く痛んだが、発言を撤回しおとなしく引き下がれるほどの余裕はなかった。
 ぎゅっと口元を引き締めたままちゃんの反応を待つ。唇に指の甲を触れさせていたちゃんは一度目を伏せると、眉尻を下げたまま俺に視線を合わせた。

「……じゃあ、今日だけ、なら」

 小さく頷いたちゃんに、安堵に塗れた息を吐く。あまりにも身勝手なわがままを押し通そうとする自分の狡さはちゃんの負担になっているだろう。だけど〝最後だから〟を免罪符にしてちゃんに縋り付いて掠め取った優しさにあぐらをかいてはいけないこともまた重々承知している。
「ごめんね」と口の中だけでこぼした言葉を飲み込んで、ちゃんへと向き直る。

「ありがとう。じゃあ、帰ろうか」
「うん……」

 先を促すように一歩踏み出せば、ちゃんもまた歩き始めた。だが、隣を歩くと呼ぶにはいささか距離が離れている。軽く首を後ろに捻らなければちゃんの姿が目に入らないことを思えば、俺の勘違いではないはずだ。
 隣に並べないかと少し歩幅を狭めてみせれば、ちゃんもまた同じように歩みを遅くさせる。そんな動作を二度、三度と繰り返せば、この残された距離はちゃんの意図した距離感なんだと嫌でも気付かされた。
 半歩分ずらされた歩みに、これ以上ないほどの距離を感じる。結果、一緒に帰ろうと誘ったところで話を出来たのはわずか1、2分のことで、避けられていることに気付けばそれ以上口を開くことは出来なかった。
 黙ったまま歩みを進めていると、短いと感じていた帰り道が無限の彼方まで続くような心地に陥る。早く別れ道に辿り着いてしまいたいとまでは思わないが、それでも身の振り方に困るほどの距離に焦燥が降り募っていく。
 ――どうして、こんなことになっちゃったんだろう。
 月日を重ねるままに長く一緒にいられたら、もっと仲良くなれると信じてた。だけど、現実は違う。今にして想えば過ごした時間に比例するように積み重ねてきたのは、ちゃんへの躊躇ばかりだった。
 初めて一緒に歩いた日はあんなにも楽しかったのに、今ではあの夜の帰り道が夢だったのではと思うほど遠い。漫画やアニメで見る恋はあんなにも目映い輝きに満ちているのに、どうして俺は胸の苦しさばかりを味わっているんだろう。
 そっと首を捻ってちゃんの姿を確認する。煌々と照らされたコンビニの前とは違い、等間隔に並んだ街灯の明かりしか頼れない今、俯いてしまったちゃんの表情はほとんど見えない。頼りなさそうに両手のひらをお腹の前で組んだまま歩く姿を見ていられなくて、小さな溜息と共に前へと向き直る。
 寮へと向かう道を真っ直ぐに見つめながら、繰り返す「どうして」と向かい合う。
 ちゃんへの想いに迷いはない。だからこそちゃんと告白して、玉砕しようと思ってた。だけどいくら意気込んだところで明白にちゃんの拒絶を目の当たりにすると怯んでしまう。結果がわかっている恋に飛び込めないのとはまた違う。伝えたところでちゃんの迷惑にしかならないのであれば、自己満足のような告白はできなかった。
 ――もう俺には〝ただ諦める〟という選択肢しか残されていないのかな。
 告白できない以上、辿り着く先はそこしかない。今だって、自ら道を閉ざすように「最後だから」と一緒に帰る約束を取り付けた。
 これでひとつ、ちゃんに関わるきっかけが消えた。こうやってどんどん接点は減っていくんだろうか。これ以上の干渉は恋では無く執着になってしまうから、と自分の本心とは逆へ、逆へと進んでいく。
 ひとつ、息を吐き出した。苦しい胸の内を曝け出せないと思うならもう覚悟を決めるべきだ、と拳を握る。
 ちゃんと諦めきれるかはわからない。だけど――。
 諦める。その結論を出さなければ、と自分に言い聞かせても、最後の決定打を放てない。懊悩する頭を抱え、それだけでは足らず後頭部を掻き毟る。
 簡単なことじゃないか。ちゃんに伝えられない以上、自分に誓うだけでいいんだ。〝もうちゃんのことは好きにならない〟と――。
 仮定で考えただけだと言うのにその考えを頭に浮かべた途端、ぐっと喉の奥が詰まる。後悔に押し潰されそうな心地が胸を占めると、自然と眉根が寄った。
 縋るような思いでちゃんの気配を探る。真っ直ぐ前を向いたままでは、付かず離れずついてくる足音しか聞こえて来ない。
 近づき過ぎないように、離れ過ぎて距離を気取られないように。そんな風に注意を払いながらちゃんは歩いているのかもしれないと思うとますます気持ちが塞ぎ込む
 ――迷惑になるってわかってても伝えられたはすごいなぁ。
 嫌味ではなく本心からそう思う。自分の想いに正直に向き合った結果、はちゃんと行動を起こした。結果はどうあれ、さっぱりとした態度で失恋を受けいれ、それでも今も好きだというが心底羨ましい。
 だが、いくら羨んだところでには二回も与えられた告白のチャンスが俺に舞い込んでくることはきっと無い。
 ――泣きそうだ。
 伝えることすら叶わない失恋を目の前にすると、一気に心が脆くなる。目の周りが熱くなると同時に鼻の奥にツンとした痛みが走った。熱くなった口の中を息を吐くことで温度を下げようと試みる。だが、呼吸を繰り返す度に夏を迎えつつある熱気が入り込めば、さらに目の奥を滲ませるだけだった。
 浮かび上がりそうになる失意を誤魔化そうと奥歯を噛み締め、それだけでは足りないような気がして右手のひらで口元を覆い、指先に力を込める。
 熱くなる目頭に浮かび上がりかけた涙を堪えていると、スンと鼻をすするような音が聞こえてきた。
 確かに鼻は水っぽくなっていたが、今のは、俺の仕草じゃない。鼻の奥にある違和感がまだ取れていないことが証拠だった。戸惑いを手放せないまま視線をさ迷わせていると、またひとつ、音が耳に入る。
 ――後ろから聞こえてきた?
 音の位置を探るべく振り向くと同時に目に入った光景に息を呑む。ちょうど街灯の真下に差し掛かった頃合いだったため、ハッキリと見えたちゃんの表情は見たことないほどに悲痛に塗れていた。
 眉根を寄せ、下唇を噛みしめたちゃんは、不意に立ち止まった俺に合わせるように足を止める。頬を流れる涙のあとはない。だが、目尻に溜まった涙の粒はいつ決壊してもおかしくないほど膨らんでいる。
 ゆっくりと、ちゃんが瞬きを挟む。同時に頬を伝う涙を目にした途端、全身から血の気が引くような感覚が走った。

ちゃん?! どうしたの?!」

 反射的に声をかけたが、それ以上の言葉は思い浮かばなかった。言葉ばかりか、慌てふためく俺は咄嗟に相手を慰める術すら持っていない。幼い子どもじゃないんだ。痛いの痛いの飛んで行け、だなんて頭を撫でるのが有効ではないだろう。だが、それ以外に何が出来る? 咄嗟の状況に対し混乱に陥った俺はただ行き場のない手を動かしては、オロオロと戸惑うことしか出来ないでいた。
 ――いつから泣いていたんだろう。
 こんなにも苦しげなちゃんの表情は見たことがない。眉間に寄った皺もちゃんの我慢の表れなのだと思うとこちらの胸まで痛むようだった。

「……どうして?」

 不意にそんな言葉が漏れた。目の前で涙をこぼすちゃんに理由を問うことは間違っているのかもしれない。だけど、泣いている理由がわからない以上、対処のしようがない。何が嫌だったのか話を聞いて、一緒に考えて、ちゃんの涙の原因を解消できたら、また笑ってくれるだろうか――。
 そう考えた途端、胸の奥に重石がのし掛かったような痛みが走る。〝嫌だったこと〟なんてまるで自分に関係のない原因があるかのように考えてしまったが、今、この場には俺とちゃんしかいない。まさか「明日の試験が不安すぎて泣いた」なんてことはないだろう。
 ――じゃあ、原因なんて俺一択じゃん。
 ちゃんに「どうして?」なんて聞くまでもない。明白な答えを前に愕然と立ち尽くす。
 何か間違ったことをしたのだろうかなんて考えることすらおこがましい。偶然の出会いにかこつけて待ち伏せ、今だって無理を言って一緒に帰っている。泣くほど困らせるつもりはなかった、なんて言い訳が通用するはずもないほどの失態だ。
 降り積もる自戒の念に恥じ入るように俯いて、ギュッと拳を握る。悔恨に眉根を寄せたまま、声を絞り出した。

「ごめん……俺が無理に誘ったりしたから……」

 嫌だったよね、と続けようとした言葉は俯きながらもおおきく頭を横に振ったちゃんにより制される。
 
「――違うの。樹くんは、絶対に悪くない。急に、その、変なこと考えちゃっただけだから……ごめんね? 全然、気にしなくて、いいから」

 気丈にも声を弾ませようとしたのだろう。ちゃんの明るい声音は教室で話す時よりも高いトーンで紡がれる。だが、頼りなく震える声がより一層の悲痛を伝えた。
 悲しんでいるにも関わらず俺を気遣おうとするいじらしさに、後悔でいっぱいになった胸の奥が熱くなる。

「ほっとけないよ!」

 涙を拭おうとしたのか、それとも目元を隠そうとしたのか。顔を隠すように掲げられたちゃんの腕を思わず掴んでいた。勢いづくままに開いていた距離を詰めようとちゃんの真正面に立てば、ちゃんは弾かれたように顔を上げる。
 痛いほどに寄せられた眉根の下で、街灯の光を反射した双眸がきらきらと光っている。縁取られた長い睫毛が涙を纏うさまを目にすると足が竦むような心地に陥った。
 俺のせいではないとちゃんは言った。気を遣ってくれたのか、それとも俺とは無関係なことで傷ついたのかの判別は付かない。
 だがもし本当に俺が無関係であったとしても、自分が傍にいるときにこんな顔をさせてしまったのは紛うことなき事実だ。気にしなくていいなんて言われて「はい、そうですか」なんて到底受け入れられるはずがない。

「好きな子が泣いてるのを見て、ほっとけるわけがないっ!」

 慰めの言葉なんて分からない。だけど泣いているちゃんと向き合わずに逃げ帰るのなんて無理だ。絶対に見放したりなんかしない。そんな強い気持ちが溢れると同時に、伝えるつもりのなかった本音が零れ落ちた。
 だが、ちゃんの迷惑になるかもしれない、などと顧みる暇なんてない。今、目の前ので泣いているちゃんの涙を止める術を探る方が遙かに重要だった。
 いくらもうフラれているからといって、相手に優しくしないなんてことはできない。落ち込むようなことがあるなら心配だし、俺の手で救えることがあるのなら支えになりたい。何よりもちゃんにはどんなときも笑っていて欲しい。そのくらいのことは望ませて欲しい。
 俺の失言に近い告白を耳にしたちゃんは、目を見開いて俺を見上げた。一瞬、涙が引っ込んだかのように見えた瞳が、ぎゅっと細められると同時にまた涙を纏い始める。
  
「嘘ついちゃダメだよ……」

 弱々しく頭を横に振ったちゃんの言葉に唇を強く結ぶ。
 ――届かなかった。全然、届いていなかった。
 つい口から出てしまっただけの告白がまともに響くはずがないことは覚悟していた。だけど、まさか嘘をついているとまで思われているとは。
 俯いてしまったちゃんの横髪がするりと耳から滑り落ちるとほとんどの表情が隠れてしまった。不甲斐なさとやるせなさが同時に身に降りかかる。だが、気落ちするままに下げかけた頭をすんでの所で引き留めた。
 ――ダメだ。今、俺まで落ち込んでどうする。
 コンビニの袋を下げた手に力を込める。嘘じゃないだとか、信じてだとか。そんな言葉は今は伝えるべきじゃない。とにかく、ちゃんの涙を止めなければ。今、俺が抱くべき感情はその気持ちひとつだけでいい。

「あのね、ちゃん……」
「だって、勘違いしたくなっちゃう」
「――え?」

 何か慰めの言葉を、と差し出しかけた俺の言葉を遮るように紡がれた〝勘違い〟という言い回しににわかに硬直してしまう。もし俺の言葉が正しく伝わった上で、誤解してしまうとちゃんが思っているのであればそれは大きな間違いだ。
 訂正しようと口を開きかける。だが、こちらを振り仰いだちゃんと視線が交差すると同時に言葉が引っ込んだ。大粒の涙を流さないようにと堪えているちゃんは、これ以上ないほどに眉根を寄せて俺を見上げた。

「私が勘違いしても……樹くんは、困るでしょ?」

 以前、似たような会話を交わした記憶が頭を過る。その時もちゃんと否定したつもりだったのにちゃんには伝わってなかったらしい。ずっと誤解されていたのかと思うと胸を締め付けられるような痛みが走る。

「困るわけないよ!」

 浮かび上がる失意を振り払い、ハッキリと否定する。困るわけが無い。俺はちゃんが好きなのだと、ちゃんと知って欲しい。その想いひとつ、知ってもらえるだけで俺は報われる。
 一度、口にした想いをはばかることなんてもう出来そうになかった。ちゃんの腕を掴む指先に自然と力が入る。

「だって、俺――」
「ダメだよ。彼女いるひとがそんなこと言っちゃ」

 潤んだ瞳が俺を見上げる。だがその輝きに目を奪われるよりも先に、ちゃんの言葉に驚かされる。

「いないよ!? どうしてそんな話になってんの?!」

 身に覚えなんてない。デマでしかない話をまるで真実かのようにちゃんは言った。突然、我が身に降りかかった衝撃に目を白黒させる。混乱の極地に陥った俺は、驚愕に比例したのか思ったよりも大きな声で反論してしまった。

「この前、言ってたじゃない。彼女一筋だって……」
「いないのにそんなこと言うはずないよっ?! 何か、その、ちゃん、勘違いしてるんじゃない?!」
「誤魔化さなくてもいいよ。ちゃんと知ってるから」

 手の甲を口元に当て、控えめに、だがはっきりと言い切ったちゃんに思わず絶句してしまう。唇を薄く開いたまま硬直する俺を見上げたちゃんは、ほんのりと眉尻を下げて口元を弛めた。
 今にも泣き出しそうな笑い方をしたちゃんに、ぐっと喉の奥が詰まる心地を覚える。
 
「素敵だなって思ったの。まっすぐに彼女のことを大事にするって臆面もなく言える樹くんが、私、やっぱり――」

 上目使いでこちらを見る瞳が浮かび上がった涙でますます滲んでいく。迫り上がる涙が零れ落ちそうになる瞬間、ちゃんは頭を下げた。
 その涙は、落ちたのか。添えられた手の甲に塞き止められたのか。見えなくなった涙の行方はわからない。そして、俺に彼女がいるなんてちゃんに誤解させた要因もまた、わからなかった。

「ごめん。本当に身に覚えがなさ過ぎて……」
「身に覚えは、あると思うよ」

 つい先日、俺が鳴さんに伝えた言葉と似ている。そう気づいた途端、ドキリと胸の奥がざわめいた。結局、鳴さんは俺の弁を頑として受け入れなかったが、鳴さんも同じように戸惑ったのだろうか。少し逡巡してみたものの、戸惑うようなタマじゃないと思い直す。
 だが、今回の話は違う。事実無根だと俺自身が知っている。ちゃんに誤解させてしまったのなら、ちゃんと話をして違うと知ってもらわなければならない。
 だが、どう伝えたらちゃんに誤解だと知ってもらえるのか。口下手ではないが、のように弁が立つわけではない。それ以上に焦燥が胸にある今は、平常時よりも増して言動があやふやになりそうだ。

「身に覚えなんて本当にないから! お願いだからそんな誤解しないで!」
「隠さなくてもいいよ。さっきも言ってたじゃない?」
「……え?」
「その、まゆさんって子が彼女なんだよね……?」
「ええっ!?」

 ただ、俺に出来ることは真摯に訴えかけることだけだ。その考えのもと、必死に弁明した。だが、ちゃんはまだ信じてくれないどころか、更なる誤解を口にする。ちゃんの勘違いの在処に気付くと同時に血が燃えるほどの羞恥が全身を駆け巡る。

「違うから!」

 首の裏に熱が走る。一瞬で上がりきった体温は好きな人を言い当てられた恥ずかしさなんかじゃない。公言してない趣味をいつの間にかちゃんに知られ、その上でアイドルにガチ恋しているどころか彼女だと誤解をされていることによる羞恥だった。

ちゃん誤解してる! 訂正させてほしい!」

 顔から火が出るほどの恥ずかしさを抱えたまま買ったばかりのマガジンを袋から出した。ちゃんに誤解されたままでは帰れない。顔中から浮き出る変な汗を拭うこともせずちゃんの眼前に雑誌を掲げると、ちゃんはびくりと肩を震わせた。驚かせてしまったことに罪悪感は湧いたが、今はとにかく謝るよりも説得が先だ。表紙に書かれた文字を指さし、ちゃんへと向き直る。

「〝まゆ〟ってこの子だから! その、おおっぴらにちゃんにいうの恥ずかしくて伝えてなかったんだけど 俺が、前からずっとAKB好きで、その中で特に推してる子の名前だから!」

 目を白黒させたまま顔を上げたちゃんは、俺と雑誌との間で交互に視線を転じている。二度、三度と往復した視線が、俺と視線を合わせたまま止まる。唇を薄く開いたまま呆然と俺を見上げているちゃんに、俺の弁明は正しく伝わったのか。そうでないのか。判別できないからこそ、さらに言葉を重ねるほか道はなかった。

「その、一筋って言ったのは俺がまゆゆ推しで、それは好きとか、そういうんじゃなくて……いや、好きは好きなんだけど! 単なるファンで、彼女にしたいとかそういう意味じゃないから!」

 ここまで言う必要はなかったかもしれない。だけど、中途半端に説明して誤解を残したままじゃ意味がない。一度滑り出した言葉を勢いのまま捲し立てた俺を、ちゃんは変わらない瞳でまっすぐに見つめていた。

「……ひとつ、聞いてもいい?」
「どうぞ!」

 手の甲で口元を隠しながらひとつ鼻を啜ったちゃんは、一度目を伏せ、眉尻を下げたまま俺を見上げた。

「最近、樹くんが、その、なんとなく前と違ったのって彼女が出来たからじゃなかったの?」
「違うよ! 出来てないよ!」
「……そうなの?」

 これだけ説明してもまだちゃんの中に疑いが残っているらしい。歯痒さに下唇を噛みしめ、己の行動の迂闊さを省みる。どこで道を間違えたのか。どこまでなら、すぐに信じてもらえたのか。記憶を巡らせれば、一度、たしかにちゃんのいる場面でまゆゆが好きだと言ってしまった記憶に行き当たる。
 江崎たちの前でおどけて「まゆゆ一筋だ」と公言した日の朝、俺の取るに足らない話を耳にしたちゃんはその言葉をまるっと信じてしまったらしい。あの日から、ちゃんの態度に違和感を覚えたことに思い当たる。あの時、ちゃんと「今のは悪ふざけだから」と説明できていたらこんなことにはならなかったんだろうか。
 誰に聞かれてもおかしくないような場所で誤解されるような発言を放った過去の自分が恨めしい。後悔ばかりが胸に募る。だが、誤解されたと気付けたのなら訂正のチャンスがある今、解かなくてどうする。
 ――自分の心を守ってるうちは、上手くいかない。
 の言葉を胸の内で反芻しながら、唇をすぼめて長い息を吐き出した。緊張が身に降りかかると、自然と息が詰まる。本心を曝け出すことはほんの少しの恐怖を感じさせた。
 ――それでもちゃんの誤解が解けるなら。
 その気持ちひとつで、俺はどんな醜態だって晒せる。ギュッと拳を握りこみ、ちゃんに恋をして、失恋を自覚した中で、一番、俺の中でネックになっていたことを口にする決意を固める。

「……俺が、その、勝手にちゃんのこと避けていたのは……鳴さんに負けた気になってたからで……」

 自分の方が劣っているのだと好きな女の子の前で口にすることは、俺を酷く惨めったらしい気持ちにさせた。負けず嫌いな性分を自覚しているからこそ、負けを認めることに抵抗がある。湧き上がる劣等感に押されれば自然と頭が下がった。
 だけど、もう迷わない。自分なんて守らなくていい。伝えると決めた気持ちはひとつ残さず、ちゃんに伝えるんだ。

「俺の好きな子は、ずっとひとりだけだよ」

 顔を上げ、まっすぐにちゃんの目を見て宣言する。さっきどさくさ紛れで伝えたような曖昧な言葉じゃ意味が無い。

ちゃんだけだから! たとえ、ちゃんが鳴さんのこと好きでも……もう自分の気持ちに嘘なんてつきたくない! 俺はちゃんのことが大好きだよ!」

 きっと、世界で一番かっこ悪い告白だった。それでも紛れもない本心を曝け出す。とっくの昔に好きになっていた。いつかちゃんと好きだと伝えることを夢見てた。ちゃんが鳴さんのことを好きだと知ってからは抑え気味になってしまったが、いつだってちゃんのことだけを想っていた。
 ずっと前から覚悟は出来ていたはずなのに、いざ「好きだ」と伝えれば、心臓がこの上ないほどに走り出す。届かないと諦めた気持ちを伝えることが出来た高揚感なのか。これでもうこの恋が終わるんだという諦念なのか。自分でも判別できない心境が綯い交ぜになって降り積もる。
 ――それでも後悔だけは、ない。
 それだけは断言出来る。きゅっと口元を引き締め、心を奮い立たせてちゃんと向かい合う。
 ちゃんの答えは既に知っている。今、俺に出来ることは取り乱さないように、泣いて縋らないようにと心を整えることだけだ。
 大きな声で何度も叫んだせいで乱れた呼吸を、深呼吸を繰り返すことでなだめていると、ちゃんが一歩、こちらへと踏み出した。元々近くに立っていたこともあり、たった一歩分近付いただけで、距離がほとんどなくなってしまう。
 詰められた距離に驚いた俺を見上げないままのちゃんの額が俺の胸に寄せられる。触れるか触れないかの距離だ。俺が悪い男なら勝手に抱きしめられるほどの距離に収まったちゃんにさらに戸惑ってしまう。顔が見えないことに対する不安を感じると同時に、これ以上ないほどの距離感に心拍数が嫌でも上がっていく。
 
、ちゃん?」
「――じゃない」
「……え?」

 ぽつりと零れ落ちた言葉はほとんど聞こえなかった。反射的に聞き返し、それだけでは足りない気がして微かに前傾し耳をそばだてる。

「私の好きな人、成宮先輩じゃないよ」

 ほとんど鼻声で紡がれたちゃんの言葉は音としては聞き取りにくい部類と言っても差し支えないものだった。それでも聞こえてきた言葉はハッキリと耳に残る。
 ずっと、ちゃんは鳴さんのことが好きなのだと信じてた。勝手に負けた気になって、傷ついて、ちゃんと向き合わずに済むようにと理由を探しては避けていた。今、他でもないちゃんから明言されたというのに、自分にとって都合のいい聞き間違いなんじゃないかと危惧してしまう。
 だが、それよりも早く期待に心音が駆けていく。もしかしたらちゃんにも鼓動の音は聞こえているかもしれないが、膨れ上がる気持ちを抑える術なんて持っていなかった。

「樹くんが誤解してるの知ってたけど……樹くんに他に好きな子がいるんだって思ってて、迷惑だったのかなって……」
ちゃん……」

 何度も詰まりながらも紡がれた言葉にぎゅっと眉根を寄せる。
 期待しちゃダメだと自分を戒めるためとは言え、こんなにも真摯に訴えるちゃんの言葉を疑ってしまった自分が恥ずかしい。至らない自分を恥じ入るように俯けば、自然とちゃんとの距離が縮まる。
 身を引かなければ。咄嗟に頭を過った考えとは裏腹に身体は硬直したままだった。ちゃんの指先が拙く、でもしっかりと俺のシャツの裾を掴む光景が目に入ると尚更動けなくなる。
 脈動が直接注ぎ込まれたかのように耳の奥に響く。逸る心臓を持て余したまま、俯いてしまったちゃんの真ん丸な頭を見下ろした。
 本当に、ちゃんが鳴さんのことを好きでないのなら、今まで俺は何に遠慮していたんだろうか。過去の自分の空回り加減を思い出すだけで自己嫌悪に似た想いが滲み出る。
 でも、もういいんだ。これからは誰にも遠慮せず、ちゃんのことを好きでいてもいいんだから。
 長い間、暗い心に慣れ親しんでいたせいか、陰鬱とした気持ちが沸き起こりそうになったが、それももう今日までだ。これからは晴れやかな気持ちでちゃんに向き合える。
 ちゃんと想いは伝えたからこそ、今度からは前みたいに堂々と近付いてもおかしくないはずだ。好きだから、ちゃんに優しくする。そんな当たり前のことがいっそ新鮮に感じるほど、遠回りをして来た。感慨深いような、何やってんだって呆れるような心地が綯い交ぜになる。
 ――でも、本当に久しぶりにちゃんと向き合えてる。
 普段よりずっと早い心音はさておき、心の中は遠慮だとか敗北感のない穏やかな気持ちでいっぱいになった。未来への展望が拓けていくのと同時に、どんどん気持ちが晴れていく。悩んで迷って、また振り出しに戻っただけなんて嘆く必要は無い。今日、また片想いから始められる。
 これから俺に出来ることはちゃんに好きになってもらえるように努力することだ。与えられなかったチャンスがまた戻ってきた喜びに打ち震える。

「ごめんね――勇気、出せなくてごめん」
「……いいよ。こうやって誤解は解けたんだから。それに俺だってずっと勘違いしてたんだもん。ちゃんが謝る必要なんてないよ」

 落ち込んだ様子を見せたちゃんを慰めないと。そう思いずっと掴んだままだったちゃんの腕を解放し、頭を撫でようと手を掲げた。だが、ちゃんに触れるか触れないかのタイミングで、トン、とちゃんの頭が胸に触れた。
 ほんの僅かに残っていた距離がゼロになる。目に飛び込んできた光景に一瞬で熱が膨れ上がった。ずっと走っていた直後のように鳴動し続けていた心臓が更に加速する。

「樹くんが、好きなの」
「――え?」
「ずっと、好きだった……」

 混乱の中、耳に飛び込んできた言葉に翻弄される。その言葉の持つ威力に、思わず喉を鳴らした。これからはちゃんの言葉だけを信じるのだと思っていた矢先だというのに、どうしても信じられない。
 だが、信じられない心とは裏腹に、いち早く反応した心臓がこれ以上ないほどに加速していた速度を更に上げた。脈動が駆け出すと、夏の暑さも相まって身体全体に火をつけられたように熱くなる。

「え……今、好きって言った?」
「うん……言ったよ」
「……ホントに?」
「……こんなことで嘘なんて吐けないよ」

 相変わらずちゃんは額を俺の胸にくっつけたままだ。頭を撫でようと掲げた右手をどうしたらいいかわからない。いつのまにかコンビニの袋を握った左手さえも上げていて、傍目から見たら降参するような仕草のまま固まってしまう。

「ごめん。ちゃんの言葉を疑ったとか、そういうんじゃなくて……嬉しすぎて、自分に都合のいい幻聴を生み出したのかと、思っちゃって」
「ふふ。気持ちはわかるけど、ちゃんと、その……言ったから、信じて欲しいな」

 涙に震えていた声が笑いを含んだ音に変わった。小さく身じろぎしたちゃんは顔を上げ、俺をまっすぐに見上げる。眉尻を下げて笑うちゃんを困っているだなんて思う必要はなかった。
 ポロポロと落ちる涙を目にした途端、ぴくりと指先が反応した。
 ――拭っても、いいんだろうか。
 ずっと宙を泳がせたままだった手のひらを下ろし、落ちる涙に触れるか触れないかの距離を残したまま手を止める。最後の一歩を踏み込んでいいのかどうか判断に迷う俺の手のひらにちゃんがそっと頭を傾けた。
 跳ねる心臓に触発されたように喉の奥に力が入る。だがちゃんの目の前で叫ぶなんてもってのほかで、何の反応も返せないままただ硬直するしかなかった。やわらかい頬の感触に意識が集中する。ちょっとでも力を入れてしまえば潰してしまいそうな弾力に、もう手を離した方がいいのではと危ぶんでいるのに、放すことが出来ない。
 ドギマギとした気持ちを持て余していると、頬を伝う涙が指先を濡らした。それを目にした途端、先程まであった焦燥が嘘みたいに引いていく。
 ぎこちない手つきではあるもののほんの少しずつ指を動かし、ちゃんの涙を拭う。右手で拭える分をすべて拭い終わった後に、自分の首にタオルをかけていたことに思い至ったが、多分、今は使うタイミングではなかったはずだ。

「……ありがとう、樹くん」
「いや、別にお礼を言われるほどのことじゃ……」
「ううん。涙を拭ってくれたこともだけど、もっと別のこと」
「え?」

 頬に触れたままだった手のひらにちゃんの手が重なる。やわらかく包まれた手の甲に触れた熱が全身に拡がっていく。戸惑う俺を見上げたちゃんは、この日一番の鮮やかな笑顔を浮かべた。

「好きだよって、言ってくれてありがとう」

 その笑顔、その言葉、そして触れた手のやわらかさや温度。目の前に立つちゃんが、俺の目を見つめて笑っている。幻想ではなく、嘘でもない。本当に両想いになれたのだとようやく実感する。
 喜びに肌が粟立つ。泣きそうなのと歓喜の声を上げたいのと半々な気持ちが飛び出しそうになるのを抑えるべく下唇をぐっと突き上げた。

「そんなの! こっちのセリフだよ! ありがとう、ちゃん!」

 まさか、今日、告白できるなんて思ってなかった。それどころかちゃんに好きだと言われるなんて、まったく想像していなかった。奇跡が、今、目の前にあるのだと思うと堰き止めたはずの涙がじんわりと浮かび上がりそうになる。
 ――さすがにちゃんの前では泣けない。
 ぐっと首を後ろに反らし、滲み出そうな涙を目の中に戻そうと試みる。何度か瞬きを繰り返せば、その努力の甲斐もあって浮かび上がりかけていた涙はこぼれ落ちずにすんだ。上げていた顎を引き、ちゃんへと視線を戻す。すんなりと交差する視線に、また格別な喜びが胸を突き動かした。
 ひとつ、溜息を吐き出すことで心が緩んだ途端、今までの出来事が走馬灯のように頭をよぎる。何度、下を向いたかわからない。だけどその度に奮起したり背中を押されたりされながら突き進んだ結果が、このエンディングに繋がった。

「よかった……諦めなくて、よかった……」
「私も……」

 ぽつりとこぼれた本音にちゃんの声が染み入るように重なった。同時にちゃんが俺の手のひらに頬をすり寄せるような仕草を見せると、心臓が破裂しそうなほどの感覚が走る。高鳴る鼓動に紛れて、小さな独占欲が顔を出し始めた。この手のひらを、この距離を、手放したくはない。そのために、俺は何をするべきか。漠然と見えてきた答えを胸に閉じ込めたままではいられなかった。

「俺、これからも頑張るよ……もっと、ちゃんに好きって思ってもらえるような男になるから」
「樹くん……」

 ちゃんの瞳がまっすぐに伸びてくる。実直なこの瞳が、もう二度と逸らされないように。ずっと俺のことだけを見ていてくれるように。ちゃんに好きになってもらう努力が実った今、ちゃんへ望むことは何もないと思っていたのに、今まで以上の要求が生まれてくる。
 欲深いな、と自分でも呆れてしまう。でも、両想いになれたからと言って慢心して見限られるなんてあってはならない。
 どういう男がちゃんに相応しいかはわからないが、たとえ正解がなくとも俺がやることは決まっている。ちゃんに、ずっと好きでいてもらえるような男で居続ける。ただ、それだけだ。
 だが、いくら努力を惜しまないとは言え、間違った努力なら意味がない。ジャッジをしてもらうのならちゃんをおいて他にいない。だから、だから――。

「だから、ずっと……ずっとそばにいてください!」

 ちゃんとちゃんに相応しい男でいられるか。ちゃんに見ていて欲しい。この先、夏休み明けに席替えがあれば今以上に離れることになる。それどころか2年になったらクラス替えもあるし、卒業したら大学だって違ってくるかもしれない。
 遠い未来の話だと先送りにせず、今、掴んだ手を放したくないのだと、ちゃんと伝えておきたかった。
 俺を見上げるちゃんの双眸が、星のように煌めいている。薄い涙が浮かび上がったせいだろうか。瞬きひとつ挟んだ途端、輝きを纏ったまま弾けた。

「……はいっ!」

 頭を揺らして応じたちゃんは、俺の手の甲を包んだままだった手を翻すと勢いよく胸に飛び込んできた。背中に回され腕の強さに、大好きだと言われるよりも強くちゃんの気持ちが伝わってくる。

「樹くんはもう十分素敵だから……私も樹くんに相応しい私でいられるように頑張るね」

 夏の空にちゃん声が溶けていく。滲む汗も、逸る心音も否応なしに体温を上げていく。それでも、この腕を、この身体を離す理由なんてない。ちゃんの肩に腕を回し、強く、強く抱き締める。
 
 この熱さを、俺は大人になってからもきっと忘れない。





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