春恋28

28.エピローグ



「応援、ありがとうございました!」
「したぁっ!」

 原田先輩の号令と共に、野球部員一同は一斉に頭を下げた。鳴り止まない拍手と歓声の中、顔を上げればたくさんのひとの喜ぶ顔が目に飛び込んでくる。在校生やOB、父兄の方々がみんな一様に、稲実野球部が夏の全国高等野球選手権大会――甲子園出場の切符を手に入れたことを祝福してくれていた。
 割れんばかりの拍手を身に受けていると、試合に出ていない俺でさえも高揚感が沸き上がる。誇らしさと、多幸感。そしていつか自分もグラウンドに立つんだという決意が身体中に満ちていく。強い気持ちの中に、かつて慣れ親しんだ劣等感は含まれていなかった。
 とりわけ、原田先輩への声援が多く飛び交っている中、ふと、インタビューのためこの場にいない鳴さんのことを考える。ちやほやされるのが好きな鳴さんのことだ。もしいたとしたら機嫌良く手を振って応じるんだろうな。誇らしげに笑う姿が目に浮かぶようだ、と思いながら途切れない拍手の音に聞き入った。
 拍手が重なる度に身内に溜まる高揚感を抑えきれず、ひとつ溜息を吐きながらそっと視線を正面から左へと動かした。在校生の並ぶ集団。その一角にブラスバンド部員の姿があった。先頭に立つ部長らしきひとが涙を浮かべて原田先輩を見つめる斜め後ろに、ちゃんの姿を見つける。視線を動かしただけですんなりと交差した視線に、ちゃんがずっと俺のことをみていてくれたのだと知ると、照れくさいような心地とあたたかな熱が胸の内に生まれた。
 横並びに伸びた部員の列。幸い、俺の前には誰も立っていない。引き締めていた唇をほんの少しだけ緩め、下げたままの手のひらを立て、そっと指先を揺らした。手のひらの動きだけで伝わった合図に、ちゃんは横髪を耳にかける仕草の合間に指先を揺らして応じてくれた。

 ***

 球場の正面から移動し、駐車場の近くでバスを待っていると、いろんなひとが声をかけてくる。席替えをする前に近くに座ってた男子たちが去って行った後、小さな溜息をこぼすと、またひとりこちらへとやってくる気配を感じた。

「よぉ、多田野。おめでとさん」
「あれ、も来てたんだ。応援ありがとー」

 原則、都大会の応援は自由参加だったはずだ。わずかな隙を見つけては勉学に勤しむが応援に来てくれるとは思わなかったからこそ、意外だと口にしてしまった。驚きを隠しもせずに目を丸くした俺を、は苦い顔を浮かべながら眼鏡の縁を抑える。

「まぁな。お前の応援もだけど鳴さんが来ないとぶっ飛ばすってうるせぇから」

 大仰な溜息と共に愚痴を吐き出したに、ここ最近、学校内で鳴さんとが一緒にいる姿をよく見かけるようになったことを思い出す。
 単純に〝ふたりが顔見知りになったから〟というのもあるが、事態はそれだけでは収まらない。と屋上で話をした日以来、晴れた日は一緒に昼食を取る習慣がついたのだが、その中にいつのまにか鳴さんが勝手に混じるようになったのだ。
 この前なんてうちのクラスにまで鳴さんが遊びに来たものだから教室はパニックに陥った。まだ慣れぬ一年生が遠慮しつつも憧れの視線を向けてくるのが気持ちいいのか。そんなシチュエーションの中であっても構うと嫌そうにされるのが面白いのか。鳴さんはよくに絡んだ。
 鳴さんの矛先がだけに向けられるのかと期待を抱いたのも一瞬のことで、残念ながら俺へのからかいが減ることはなかった。結局〝被害者が増えた〟という結果に俺も溜息を零してしまう。
 
「まぁ、鳴さんはあぁいうひとだから……」
「俺の雄姿をちゃんと見たかね? くん!」
「げっ」

 噂をすれば影がさすとはよく言ったもので、俺との悪口大会に花が咲きそうなところに鳴さんの声が飛んできた。振り返って視線を彷徨わせれば、たった今、試合後のインタビューを終えたであろう鳴さんが泣きはらした顔を誤魔化すでもなく浮かれた足取りで近付いてくる姿が目に入る。
 機嫌良さそうに笑っていた鳴さんだったが、の心底嫌そうな顔を目にしたことでその表情を一変させた。

「なにその態度! エースの俺が! 試合後の疲れ果てた身体で! わざわざ部活も違う一年坊に声をかけに来てやったってのに!」
「ハイハイ……生意気言った俺が悪かったですよ。甲子園出場決定オメデトウゴザイマス」

 不満の滲む声音であっても、に頭を下げさせたことに満足したのか、鳴さんはまたしても機嫌良さそうに笑った。 

「んっふっふ。圧巻だったでしょー? エースの力投! 俺のこともーっと尊敬していいんだよ?」
「してます。……してますよ」
「ホントにぃ?」
「もう本当に! 心の底から!」

 ネチネチ絡まれることに段々腹が立ってきたのか言葉尻を強くするに、鳴さんはお構いなしでふんぞり返っている。そろそろ助け船を出すべきか否か逡巡するものの、俺の躊躇を待ってくれるような鳴さんじゃない。

「よし、じゃあ今度アイス食いに行こうぜ。のオゴリで!」
「ハァ? マジで勘弁してくださいよ……今日応援に来るだけでも予定狂ってるってのに」

 本心からの拒絶だと傍目から見る俺にさえ伝わるほどげんなりと呻いたに、鳴さんは「ハァ?!」と語気を荒らげる。
 
「おめでとうって言ったじゃん! 今!」
「そんくらいは言いますよ、普通に」
「誠意は形にしないと伝わらないよ?!」
「もうそれ強請りじゃねぇかよ」

 掴みかかる勢いでに詰め寄った鳴さんは、の反論をものともせずぎゃあぎゃあと喚く。ついにはタメ口で話してしまったの言葉を鳴さんが見逃すはずもなく、今度はそこを徹底的に突き始めた。
 攻撃の糸口を与えてしまったことに悔恨の表情を浮かべたの表情は、面倒くさい上司に絡まれたサラリーマンのようだった。鳴さんの放つ罵声は永遠に続きそうなほど流暢に紡がれる。真正面から受け止めるほかないは、その言葉を耳に入れているのか、いないのか。

「ほんっとに樹とって生意気なとこそっくりだよね!」
「そうっすね。全面的に俺と多田野が悪いです」

 いつの間にか俺も槍玉に挙げていた鳴さんの怒鳴り声の合間、げんなりとしたの視線がこちらへと流される。「コイツをどうにかしてくれ」と描かれた表情に苦笑しつつも、俺は鳴さんたちへと一歩近付いた。
 
「ホラ、もう鳴さん、諦めましょうよ……だってちゃんと祝福してくれたじゃないですか。その気持ちだけで十分って、鳴さんもわかってるんでしょ?」
「いいじゃんか! 俺は今日死ぬほど頑張ったの! いろんなひとに祝われたいの!」

 とんでもない理論でわがままをふりかざす鳴さんは言外に以外にも奢らせるつもりだと口にする。そういう平等性はいらない。言葉を失った俺に、鳴さんがドスドスと足音を鳴らして近付いてきた。今度は俺が喚き散らかされる番だと気付くと、少しでも迫力から逃れたい気持ちが働き、思わず顔の前で腕を交差させてしまう。
 防御一辺倒な俺の姿を見た鳴さんは、その表情にますます怒りを滲ませた。

「なんだよ樹! 別に殴ろうとしてないよね、俺!」

 執拗に絡まれるよりも殴られて終わりの方がまだましだと鳴さんに言ったらどうなるんだろうか。提案した瞬間、殴られたうえでネチネチ絡まれるに一票。自分自身の問いに一瞬で答えてしまえるほど、鳴さんの行動は予想が立てやすい。
 辟易とした心地で目を細めるのと、鳴さんが俺の正面に立つタイミングが重なった。

「大体、樹はさぁ! 俺のこともっと労う気持ちとかないわけ?!」
「試合中ドリンク作ったりタオル持ってったりしたじゃないですか」
「それだって俺が言わなきゃ用意もしなかったじゃん!」

 ――すっごくめんどくさい。
 たった今、優勝したばかりとは思えないエースの姿に俺もも閉口する。祝われてないと不貞腐れる鳴さんを前に溜息なんて吐き出そうものならますます執拗に絡まれることになるだろう。
 下唇と突き上げたまま黙って鳴さんの言葉を受け入れながら、一体どうやって鳴さんを宥めるべきか考える。ちやほやして欲しいならファンの女の子たちのところに行けばいいのに、それだけでは足りないとばかりに祝福しろとせがむ鳴さんは、インタビューなんて受けてないであの歓喜の輪の中に混じっていればよかったんだ。
 もっとも、そのインタビューがテレビで流れれば、また全国区の規模で鳴ちゃんフィーバーとやらが溢れかえるはずだ。それでも目先の祝福が足りないと感じれば祝えとてらいもなく言い募る姿に、呆れにも似た、だけどある種の尊敬も含まれた溜息が漏れた。
 ――本当にしょうがないエースだなぁ。
 
「ちょっと、樹! 聞いてんの?! ってかなんなの、その変な顔!」
「聞いてますって……それより生まれつきのものを悪くいうのはやめてくださいよ」
「生意気!」
「鳴! ちょっと、こっちに来い!」
 
 更にこちらへと詰め寄ってきた鳴さんの動きを制するように、遠くから原田先輩の声がかかった。助け船が出されたことに安堵の息を吐き、声のした方を振り返れば、原田先輩が胸の前で腕を組んで鳴さんを睨み付けていた。
 漂った剣呑な空気に、これから鳴さんは原田先輩にも絡むのかと一抹の不安を覚える。だが予想に反して、肩に入っていた力を抜いた鳴さんは首の裏で両手を組んで唇を尖らせるだけだった。
 
「ちぇー。雅さんってばすーぐ一年をヒイキするんだから」

 ぼやきつつも素直に従うつもりらしい鳴さんは、原田先輩が同級生っぽい女子たちに囲まれているのを目にしたことで機嫌が直ったのだろう。今からちやほやされる予感に喜んでいるのが背中越しにも見て取れる。
 原田先輩たちの方へと一歩踏み出した鳴さんは、駆け出そうとした足をその場に縫い止める。どうしたんだろうと首を捻る間もなく、くるりとこちらを振り返った鳴さんは、さっきまでの激昂なんてはじめからなかったかのようにニィっと口の端を引っ張って笑った。
 
「じゃあな、! 31のダブルで我慢してあげるからね!」
「全ッ然、遠慮してねぇよ……」

 捨て台詞にも似た言葉を残して去って行った鳴さんに、はげんなりと呻くだけだった。俺も多分、ハーゲンダッツあたりを奢らされるんだろうなぁ……。
 まだ見ぬ未来を嘆いてみては溜息をひとつ吐き出した。まぁ、その分、普段から余ったお菓子とかわけてくれるけど、多分それも女の子からのプレゼントだったりするんだろうな。
 嵐のように去って行った鳴さんを尻目に、俺もも大きく肩で息を吐く。せっかく応援に来てくれたを鳴さんの暴虐に巻き込んでしまったことを謝ろうと口を開きかけた途端、今度は女子の声が飛んできた。

「ちょっと、! アンタ成宮先輩と仲いいの?!」

 きれい系の女の子が血相を変えて駆けてきたことに驚いて目を丸くしてしまう。美人な分、迫力があるな、と唇を引き締めたまま一歩退くと、その少女はするりとその間に割って入ってきた。

「んだよ。2号……。お前、相変わらず抜け目ねぇな」
「仲いいかって聞いてるんだけど! ねぇ、どうなのよ!」

 鳴さんと違い、きれいな女子に迫られているにも関わらずげんなりとしたスタンスを崩さないは、舌を打ち鳴らして顔を背ける。煩わしげに耳に小指を突っ込んで聞く気がないと示したの腕を〝2号〟と呼ばれた彼女は 遠慮なく引っ張った。
 
「ねーぇ! ーっ! 私のこれからの高校生活がかかってるんだから教えてよ!」
「俺はお前の人生に関わる気はねぇよ」
「アンタじゃなくて成宮先輩の話が聞きたいだけなの!」
「っせぇな、ホント。……アイス奢れって言われただけだよ」

 言うまでは引かないという彼女の迫力に負けたのだろう。は観念したように呻いた。

「えっ……成宮先輩にアイス食べてもらえるの……? っていうかアイスが好きなの……? かっわいい……」

 の答えを聞いた彼女は、自らの口元を両手のひらで覆い隠して言葉を零す。少女漫画で見るような紅潮した表情は、全力でときめいているのだと雄弁に語っていた。
 
「食べてもらえるって……食わせる俺の気にもなれよ。しかも31とか指定しやがって……」
「31?! えっ、、アンタ成宮先輩と遊びに行ったりするの?!」
「行ったことはねぇし、行くつもりもねぇよ」
「行ってきてよ! そしてアイス食べる成宮先輩の写真撮ってきてよ! むしろ今持ってる写真全部ちょうだいよ!」
「んなもん撮るわけねぇし持ってるわけねぇだろ!」

 要求がどんどんおおきくなる彼女の剣幕に、あのが圧されている。珍しいものが見れたな、と友だち甲斐のないことを考えていると、はビシッとこちらを指さして叫んだ。

「だいたい俺に聞くよりそこにいる多田野に聞けばいいだろうがよ! 同じ野球部なんだからよ!」

 俺に矛先を向けるよう誘導したに驚き目を丸くしてしまう。言われた彼女の視線がこちらへと伸びる。ほんのりと怒りの残滓を孕んだ視線が差し向けられると思わずたじろいだ。

「多田野くんってあなた確か、の……」

 ちゃんの名前が出た途端、思わずきゅっと唇を引き締める。ちゃんの、何だと思われているんだろう。走り出した心音に紛れて彼女の思考が読めないかと見下ろしていると、ふと、記憶がひとつ閃いた。
 ――横顔を見ているときは気づけなかったけど、多分、この子、いつもちゃんと一緒にいる子だ。
 以前、帰り道できっちりと俺の顔を確認した一団の中にあった顔だと気付くと、面映ゆいような気持ちがわき上がる。〝の大好きな樹くん〟だなんてまだ認知されているんだろうか。そんな自惚れにまみれた考えが頭をよぎると、身内に熱が膨れ上がっていく。
 じっと俺を見上げていた彼女が口元にカーブを描く。何か企んでいるのかと疑いたくなるような笑顔なのに、ほくそ笑むというよりも鮮やかに見えるのだから美人は得だ、なんて考えてしまう。

「多田野くん、よね? あなたも成宮先輩について詳しく知ってたらに伝えてもらえる? 全部聞くから」
「えっと、はぁ……俺でよければ」

 ちゃんの友人ならば悪いようにはしないだろうという信頼のもと、承諾の意を込めて頭を揺らした。同意した俺を信じられないという顔で睨めつけたは一度眼鏡の縁を抑えた後、彼女の肩を掴む。
 
「おい、2号。まで巻き込むのは止めろ」
「なによ、あんたが多田野くんに聞けって言ったんでしょ? を通さないほど私は野暮じゃないわよ」

 筋の通らないことは嫌いだと毅然とした様子でに伝えた彼女はフン、と鼻を鳴らす。歯をカチカチと鳴らして彼女を威嚇し始めたと、べっと舌を突き出して抵抗する彼女の気の置けない様子に小さく苦笑した。
 喧嘩するほど仲がいいっていうのはこういうのかもしれないなぁ、なんてのんびり考えながら首の裏に手をやると、想った以上に熱が集まっていることに気付かされる。
 ――さっきからちょいちょいちゃんの名前が出てるからなぁ。
 この場にいないちゃんの話を、名前すら知らない女子の口から聞かされるのは、なんていうか心にクるものがある。それも俺とちゃんが両想いであることを前提とした話しぶりに、囃し立てられるよりもずっと気恥ずかしさが募った。

「っていうかいい加減2号って呼び方やめなさいよ。悪い意味もあるのよ? 誤解されたらどうしてくれるのよ」
2号って言う方がめんどくせぇ。それに変な意味で受け止めそうなやつの前じゃ言ってねぇから安心しろ」

 聞く気のない素振りで執りなしたを心底呆れた顔をして睨めつけた彼女は「こいつと友だち止めた方がいいよ」と俺へと標的を変えた。苦笑しながら応じていると、ふと、の言葉が耳に蘇る。
 
「え? ?」

 他ならぬちゃんの苗字だ。そう気付いた途端、頭の中に疑問符が散らばった。混乱した様子の俺を横目で見上げたは「あぁ」と頭を揺らす。

「こいつもって苗字なんだよ。同じ中学にふたりもいてめんどくせぇからこいつが2号」
「へぇ……」
「まぁ、こんな失礼な呼び方するのはだけで他のひとは大体名前で呼んでくるんだけどね!」

 刺々しい言い方で反論する彼女――さんは腰に手を当ててに凄んでいる。おそらく、の中ではちゃんが優先されたため彼女が2号なんだろう。垣間見えた中学時代のの姿に、きゅっと口元を引き締める。
 沸き起こりかけた感情を、頭を横に振るうことでねじ伏せる。同情も申し訳なさも、俺が抱いていい感情じゃない。
 ふっと短く息を吐き出し、ふたりの剣呑な空気をどうにか宥めようと口を開く。

「まぁまぁ。もきっとさんのこと名前で呼ぶの恥ずかしかったとかそういうのだから……」

 さん、と口にした瞬間、違和感を覚える。入学当初、ちゃんのことをさんと呼んでいたが、それ以外でも耳にしたことがあるような――。
 なんだったっけ。遠い記憶を探るように考えあぐねたが、外れかけた記憶の蓋をこじあけるより先に、またしても大きな声が外から飛んできた。

さん!」

 そう言って駆けてきたのは杉だった。その後ろからやけにニヤニヤした江崎がついてくる様子を眺めていると、こちらに辿り着いた杉は俺に目を向けることなくさんの前に駆け込んだ。

「あ! 杉くん! 優勝おめでと!」
「あぁ、うん。ありがとう……っても、俺も試合には出れてないんだけどさ!」
「そっかそっか。まぁ、落ち込まないの! 来年も成宮先輩はいるんだから、レギュラー獲っちゃえばいいじゃん! きっとまた甲子園に連れてってくれるよ!」
「あ、あぁ!」

 いつも以上に声がうわずった様子で話す杉の頬がみるみるうちに赤らんでいく。じっとその様子を見守っているとひとつの考えが脳裏を過り、おやおや? と首を捻る。多分、今、さっきの江崎と似たような表情になっているだろうと気付きながらも緩む口元を抑えるには至らなかった。

「樹、樹!」

 短い間隔で肩を忙しなく叩いてきたのは江崎だった。声を潜めつつも興奮した様子を隠しもしない江崎に耳を欹てる。

「知らねぇかもしれないから言っとくけど、前に言ってた杉の好きな子ってこの子な」
「あ、やっぱりそうなんだ」

 目の前で繰り広げられる恋の予感が的中したことにますます口元が綻んだ。たしか、杉の話では鳴さんに告白してフラれたけどまだ鳴さんのことが好きとかそういう話だったはずだ。
 あの日、諦めないと俺の背中を押してくれた杉の恋が実るか実らないのか。傍目から見ても十分仲のいい様子に、いつか杉が粘り勝ちするといいのに、と思う。
 ――さっきの約束はなかったことにしてもらわないとだな。
 鳴さんのことを教えて欲しいと言われたけれど、杉の想い人なら話は別だ。ちゃんの友だちとは言え秤にかける相手が杉では、はじめから勝負になんてならなかった。

「しっかし杉も頑張るよなぁ……」

 顎の下に手をやり、まじまじと杉の様子を観察していた江崎がぽつりとぼやく。呆れているのか。それとも感心しているのか。どちらとも取れるような表情を浮かべた江崎に、俺はそっと言葉を添える。

「そりゃ片想いだもん。頑張るしかないよ」
「いやいや、それにしてもよ。学年ベスト3……しかも好きな相手が成宮さんだってのにさぁ。……よく挑んでるよ、本当に」
「え?」

 経験則に則って応じた俺に、江崎は聞き捨てならない言葉を発した。ギョッと目を見開いた俺はしたり顔で頷く江崎を黙って見つめることしか出来ない。
 その情報に合致する人物像に、聞き覚えがあった。かつて、ちゃんだと信じて疑わなかった。だからこそ、悩み、戸惑い、一度は諦めようとした。今でこそ想いが報われたが、あのままタイミングが合わなければ諦めてしまう未来も充分有り得ただろう。
 見えている答えを問いかけるか否か。聞かぬが花のような気もしたが、この機を逃せば気になってしょうがない日々が続くだけだ。

「もしかして……前に江崎たちが見たって言ってた鳴さんに告白した子って……」

 ごくりとひとつ喉を鳴らし、恐る恐る江崎に問いかける。控えめに上げた人差し指でそっと彼女の背中を指さすと、江崎は顔を顰めた。

「もしかしてもなにも。さんに決まってんじゃん」
「……えぇー」

 あっけらかんと言ってのけた江崎に目の前が真っ暗になる。思わずその場にしゃがみこんでしまいそうになるのはすんででこらえたが、肩が落ちるのを止める術はなかった。
 謎はすべて解けた、だなんて決め台詞を口にする余裕もないほど脱力した俺は痛む額を抑えて瞑目する。
 
「てか今更なんで? ちゃんと言ったろ?」
「……」

 怪訝そうな声で追い討ちをかけてくる江崎に返す言葉が見つからない。
 誰か江崎にあの時の説明は不十分だったと言ってくれないだろうか。いや、早合点した俺も俺だから責められないか。
 胃がねじ切れそうな心地に一瞬で陥ってしまった俺に江崎が「なんだよ、樹」と声を掛けてくるが今しばらくは応じられそうにもなかった。
 口元を引き締めたまま湧き上がる感情を堪えていると背中にドン、と体当たりをされる。軽く背後を振り返れば顔を顰めたが眼鏡の縁を抑えて俺を睨みつけていた。
 
「おい、多田野……。お前、まさかと2号を勘違いしてたとかいうオチじゃねぇだろうな」

 ――そのまさかだ。
 随分と長い間、盛大な人違いをしてしまっていたことを白状するにはいささか恥ずかしい結末に、何も言えなくなった俺は口元をへの字に曲げることしか出来ない。涙目で睨み返す俺に、すべてを察知したらしいは、俯きながら大きく溜息を吐き出した。
 ちゃんに「好きな人は鳴さんじゃない」とハッキリ言ってもらうまで、ずっと落ち込んでいた日々を思うと本当に言葉が出ない。
 以前、には「勝手に噂信じて勝手にちゃんを見限った」だなんて散々なことを言われたことを思い出す。当初はあんまりな言い草にムッとしたが、まさかそのすべてが正しかったなんて。
 穴があったら入りたいほどの羞恥に打ち震える俺の背を、呆れた表情を浮かべたはポンと叩いた。

「おい、頑固者。今の心境はどうだ?」
「心境も何も……」

 眉根を寄せ苦笑いを浮かべるの顔が、猫がネズミをいたぶるような表情に見えてくる。そのくらい、今の心境は情けないほど地に落ちていた。しょげかえる俺の表情を目にしたは片眉を上げて口元を歪める。

「まぁ、これに懲りたならもう少し柔軟な対応を心がけることだな」

 ポンポンと二回、俺の背中を叩いたは詰めていた距離を取り、胸の上で両腕を組む。飄々とした態度の崩れないに自然と唇の先が尖った。
 
こそ、ちゃんの友だちにもうひとりさんがいるなんて知ってたなら教えてくれたらよかったのに」
「他のクラスにもってのがいるって言わなかったか?」
「ぐぅ……はっきりとは言われなかったと思うけど……」

 たしかに別のさんの可能性はないのか、なんてに提案された記憶はなきにしもあらずだ。言われた記憶がかすかに残っているからこそ強くは反論できない。だが、もしちゃんと聞いていたとしても落ち込んでいる間は、常にネガティブな発想に引きずられていたから、たとえから聞かされたとしても正常に判断できたかどうか危うい。
 起こるべくして起こった誤解だったのかもしれない。これからはもっと頭から否定せずに柔軟な対応をしないとな、と自省する。
 肩から力を抜くのと同時に、深い溜息が口から漏れる。いつの間にか江崎と一緒に他の女子らと話を始めていたらしいは、俺の溜息を聞き咎めるように眉根を寄せてこちらを振り返った。

「なんだよ、辛気くせぇな。泣くのか?」
「泣きはしないけど……なんか、随分誤解してたんだなぁって」
「誤解って、なにかあったの?」

 その声が誰のものなのか。頭で考えるよりも先に心が反応する。ようやく慣れてきたドキドキは、心地よく胸の内を満たしていく。
 いつでも気持ちはウェルカムなんだけど、気に病む姿はあまり見せたくない。下がってしまっているだろう眉尻を人差し指で押し上げて背後を振り返る。そっと目線を下げれば、心配そうな顔をしたちゃんが俺を見上げていた。

ちゃん!」
「心配事? 何か私で役に立てそうなら相談に乗るけど……あ、もちろん言いたくないなら聞かないけど!」

 拳を握って懸命に訴えかけてくるちゃんの目は真剣そのものだ。俺の味方でいるのだと口にされるよりもずっと強く伝わってくる。やっぱりかわいいな、だなんて頭に浮かぶと自然と目尻が下がるようだった。口元が緩むままに笑いかけると、ちゃんは微かに口元にカーブを描いたまま首を傾げた。
 ちゃんの顔を見ていると、落ち込んでいた気持ちが簡単に晴れていく。
 ――だって、ちゃんが俺を好きだって言ってくれたんだもん。
 その事実が目の前にある以上、過去の自分の失態や誤解による遠回りも、どうだってよくなってくる。すべてこの結末を迎えるための障害ってやつだったんだ、なんてポジティブに考えてしまうほど浮かれた気持ちが顔を出した。
 つい先程、心配はかけたくないと取り繕った表情は戻せない。だが、ちゃんが気にかけてくれるなら、何を今まで俺が誤解していたのか正直に伝えようと、自然に思えた。

「ううん。今やっと鳴さんに告白した〝さん〟の正体を掴んだとこ」

 きょとんと目を丸くしたちゃんは、「あ」と声を漏らすとさんに一瞥を流し、ほんのりと頬を赤らめて俺を振り仰いだ。

「そういうこと? それで樹くんに誤解されちゃったんだ」
「うん……だから、これからはちゃんと人の話は最後まで聞くように気をつけようって反省してたんだ」

 思い込みは誰にだってあるけれど、素直に耳を傾ける姿勢は取るべきだ。人として当たり前のことを疎かにしないよう気持ちを改める。その当たり前のことがちゃんに対して出来ていなかったのは恋をすることへの臆病さが濃縮された結果だとしても、言い訳にしてはならない。想いが通じあった今、これから少しずつちゃんと話し合える間柄になれたら、と思う。

「私も誤解されてるなって気付いたらちゃんと言うし、なんか変だなって思ったら樹くんに聞くね」
「うん。はっきり言って貰えた方が俺も助かるよ」

 誤解していじけた態度を取った俺が、過去の反省を踏まえ行動を改めるのは当然だ。だけど俺の決意に対し、誤解された側のちゃんも当たり前のように歩み寄ってくれる心根がたまらない。口元がほころぶままにちゃんを見つめていると、ちゃんもまた機嫌良さそうに笑った。

「ん? どうしたの?」
「なんで誤解されちゃったんだろーって不思議に思ってたから聞けてよかったなって」
「そっか。ちゃんがそう思ってくれるなら言ってよかったよ」

 ちゃんに優しい言葉をかけられると、しょうもない誤解を打ち明けた羞恥がうっすらと引いていく。それでも完全に消えた訳ではなく、ほんのりと熱が残る首の裏に手をやって誤魔化した。照れ笑いを浮かべた俺に、ちゃんが安心したように笑うと、引いたばかりの熱がまた浮かび上がってくるようだった。

「……それにしても、いくら江崎たちに言われたからってなんでそんな誤解したんだろうなぁ」

 さんが鳴さんに告白したと聞いた時の記憶を思い出しながらぽつりとぼやくと、ちゃんは不思議そうな瞳でこちらを見上げた。
 あの夜、電話越しではあったもののちゃんに対して告白寸前まで踏み込んだ。想いを伝えたいと最高潮にまで想いが達していた。大事な話があると伝えた瞬間、両想いだったのかどうかはわからない。だが、はじめからあの空気さえ信じていれば江崎たちの言葉に惑わされることはなかっただろう。
 ひとつ、溜息がこぼれる。肩が落ちるような心地を抱えたまま、それ以前に、と更に頭を巡らせれば、さんが告白したであろう日の記憶に行き当たる。

「その……噂話程度に聞いただけだから、違うかもしれないんだけど。さんが告白したのって、あの、俺とちゃんが……その、」

 ちゃんと教室でふたりきりになって、ぶつけたおでこをまたくっつけた日のことだと江崎たちからは聞いている。状況は鮮明に覚えているものの、続けられる言葉が出てこない。苦し紛れにこめかみに触れて俺が考えていることが伝わらないかと示してみれば、ちゃんもまたほんのりと頬を赤らめて自らのこめかみを手のひらで包み隠した。

「……ここ、ぶつけちゃった日のことだよね」
「そう! その日!」

 あの日がさんが鳴さんに告白した日であってるかどうか。ちゃんに真っ直ぐに向けた視線は、答えを確かめるような視線になったんだろう。ちゃんは一瞥を左に流し、もう一度俺の目に合わせると控えめに頷いた。

「――あの時さ、ちゃんはまだ鳴さんの顔も知らない感じだったのになって今ちょうど思い出してて。誤解する必要なかったなって」
「うーん……でも誤解されてたの気付いてたのに、私もちゃんと違うって言えなかったから……樹くんだけが悪いんじゃないよ?」

 眉尻を下げたちゃんは、俺の誤解もまた自分の責任であるように認識しているらしい。罪悪感にも似た後悔をちゃんも抱えていることに気付くと、自然と眉根が寄った。

「俺も訂正させるような余裕がなかったというか……ちゃんのこと、結構避けちゃってたからなぁ」
「ううん。それだけじゃないの。私が樹くんに踏み込めなかったのもそうなんだけど……やっぱり友だちの告白が、その……うまくいかなかったって話をおおっぴらにするのも、ね」

 言いにくそうに言葉を詰まらせるちゃんは、指先を突き合わせながらそっと視線を外した。
 鳴さんに告白したのがちゃんではないと俺に知らせることは単純には終わらない。じゃあ誰が告白したんだ、となれば、間接的に友だちの失恋を指摘してしまう。その状況をいやがったというあまりにもちゃんらしい答えにほんのりと口元が緩むようだった。

「今はもう、あの子も吹っ切れてるみたいだから白状しちゃうんだけどね」
「ん?」

 外したばかりの視線を杉と話すさんへと伸ばしていたらしいちゃんがこちらを振り仰ぐ。流れた前髪を指先で整えながら、ちゃんは言葉を紡ぐ。

「今更だからもう忘れちゃったかもしれないけど……教室で一緒になる前の、朝練終わった直後くらいかな? 昇降口で会ったのも覚えてる?」
「忘れるわけないよ!」

 身を乗り出すようにして応じた俺を見上げたちゃんは、ほんのりと眉尻を下げて笑った。

「うん。あの時ね、なんで私が昇降口で待ち伏せしてたかって言うと……成宮先輩が来たらあの子に教えるって約束であそこにいたの」
「えっ? そうなの?!」

 確かに、昇降口にいたちゃんは誰かを待ってる風だった。俺とちゃんがキスしたなんて騒ぎ出した鳴さんが執拗に絡んでくるという一悶着があったせいで先に教室に向かったちゃんの姿が脳裏を過る。教室で鉢合わせして再び別れたあと、入れ替わりで女の子が駆け込んできた記憶は根付いている。
 江崎らの証言であれがちゃんだったんじゃないかと危ぶんだが、冷静に振り返ればありえない。もし、鳴さんを待っていたのだとしたら、俺を見つけてとやかく言い出した鳴さんにさっさと話かければいいのだ。
 誤解の原因がひとつ紐解かれるごとに胸の内にあった疑念と嫉妬が晴れていく。だが、俺が疑いをかけた行動が友だちのために起こしたものだったと聞かされると、誤解してしまった自分の落ち度を知り、居た堪れない心地も同時に湧いてくる。
 両手で頬を覆い、迫る羞恥に耐えていると「それでね」とふたたびちゃんが口を開いた。

「他の子じゃなくて私だった理由なんだけど……樹くんも来るかもって思ったから私が行く! って立候補したんだ」
「えっ」

 ちゃんの言葉に簡単に心臓は跳ねた。また都合のいい幻聴を耳にしたのではと自らへの疑いの気持ちと共にじっとちゃんを見つめる。
 突き合わせたままだった指先をするりと交差させ、口元の前まで掲げたちゃんは、ほんの少しの気まずさをはらんだ瞳でこちらを見上げた。

「その……だから、結構狡いとこあるんだ、私。……幻滅、した?」

 狡いところがあると自らを評したちゃんは、俺に合わせていた視線を外したり、また合わせたりといつになく視線を泳がせている。どうやら俺の反応を探っているらしいと知ると同時に喉の奥が鳴る。
 
「幻滅なんてするわけないよ! むしろ知れて嬉しいよ!」

 友だちに頼まれたことが前提にあるとは理解している。それでも、俺がいたらいいな、なんて思って行動を起こしてくれたちゃんのいじらしさ。そして、そんな時期から気にかけてくれていたという告白。幻滅なんてありえない。この場で飛び跳ねて喜んでしまいそうなほど気持ちは有頂天に達した。
 俺の答えに対し、ちゃんは目を丸くした後、安心したように息を吐き出した。

「……よかった。そのくらいの時にはもう、樹くんのこと大好きだったから誤解といてくれたら嬉しいです」

 照れ笑いを浮かべたちゃんは、先程の証言が俺の独りよがりな勘違いではなく真実だと改めて口にした。横髪を耳にかけながらはにかんだちゃんに俺ももっと前からずっと大好きだったと口にしようとした。深呼吸をひとつ挟み、おおきく口を開いたが声を発するよりも先に衝撃が叩き込まれる。

「……見せつけてくれるじゃん」

 左腕に走った痛みと共にボソリと声が紡がれる。身を捩って追撃を逃れようとすると、苦虫を噛み潰したような顔つきのがこちらを睨めつけていた。肘打ちを放たれたのだと気付くと同時に、この場にちゃんとふたりきりではなかったことにようやく思い至る。
 いくら事実とは言え、こんな場所でちゃんへの想いを叫ぶなんてとんでもない。そんなことをしてしまえば、去ったばかりの鳴さんが駆け寄ってくるや否やのからかい祭りが開催されるに決まっている。
 言わなくて良かった、と自らの口元を両手で覆いながらチラリとちゃんへと視線を戻す。ほんのりと頬を赤らめたちゃんは、視線が交差すると目元を緩めて肩を竦めた。みんながいるのに恥ずかしいことやっちゃったね、なんて言葉が聞こえてきそうな表情に、また胸の内が熱くなっていく。今度改めてちゃんと伝えようと心に誓っていると、俺の顔を睨んでいたらしいは大仰に溜息を吐きこぼした。

「お前ホンットになんでも顔に出すよな」
「えぇ? 何か出てた?」
「どうせのことかわいいとか好きだとか考えてたんだろ。しまりのない顔しやがって」

 すっとぼけた俺に対しは明け透けな言葉を口にする。そんなこと考えてないと否定したいのはやまやまだが、的確な指摘であると同時にちゃんを前に嘘を吐けるはずもなく、黙って唇を引き締めるだけに止める。
 否定しないのは肯定の証だと受け止めたのだろう。は、またしてもこちらに肘打ちを放った。先程よりも随分ゆるめだったが、抵抗しないのも癪に障る。もうしないで、と言う代わりに俺もまた軽く肘でを小突いた。
 小競り合いに発展するかと思いきや、意外にもは俺の反撃をさらりと流した。俺から外した視線をちゃんへと伸ばすしたはニィっと口の端を引っ張るように笑う。

「っつーかさぁ。お前、地味にハッタリ噛ましてんじゃねぇよ」
「え?」
「中学の卒業式ん時に気になるやつがいるって言ってたじゃねぇか」
「えっ……えぇ?! ちょっ……くん!」

 挑発するように首を斜め後ろに傾けたはとんでもないことを口にした。突然の発言に驚いたのはちゃんだけじゃない。ぎょっと目を丸くした俺はちゃんの顔を交互に見比べてしまう。
 ニヤついた表情を浮かべたままのに対し、ちゃんは目を白黒とさせて慌てふためいている。この上ないほどの動揺を見せるちゃんに、の発言が真実だと雄弁に語っていた。
 中学の時なんて俺が出会うよりも前の話だ。その時、ちゃんが他のひとに想いを寄せていたとしてもおかしくはない。わかっていても、心の底にひりつくような痛みが走る。
 俺にはどうすることも出来ない過去の話を、なぜ今になっては言い出したんだろう。言われたちゃんだってあんなにオロオロしてるんだ。きっとそんなこと言われたくなかっただろうし、俺だって聞きたくない。
 2回フラれた意趣返しのつもりだろうか。たしかにの性格はあまり褒められたものじゃないが、こんなひどいことをするような男じゃないと信じてたのに。
 裏切られたなんて大袈裟なことを言うつもりはない。だが、これ以上ちゃんを困らせるなら黙ってやるもんか。きゅっと唇を引き締めて、を止めるべく肩に手を伸ばす。だが、俺が止めに入るよりも先に手の甲で俺の手を遮ったは返す手で眼鏡の縁を抑えながら口を開いた。

「アレ、多田野のことだってちゃんと言ってやれよ」
「えぇ?!」

 いい加減にしろよ、なんて割って入るつもりだった声が裏返る。二段構えの爆弾発言に、先程のちゃん以上に狼狽してしまった俺は、真っ白になった頭の中で言葉を整理する間もなく口を開いた。

「そんなわけないよ! だって俺ら、入学してから知り合ったんだし! ねぇ、ちゃん!」

 へと詰め寄っていた俺はくるりとちゃんを振り返った。俺と同様にの嘘を糾弾してくれるはずだと思っていた。だが、予想に反してちゃんは顔を真っ赤にして黙り込んでしまっている。手の甲で口元を隠したまま俺らから視線を外したちゃんに心臓が駆け出した。
 誤解なんてするもんじゃないと身に染みて理解しているはずなのに、の言葉に惑わされていまいそうになる。いい話も悪い話も、ちゃんから聞くまでは信じたくない。その気持ちは変わらないのに、ちゃんの反応に真実なのではないかと期待を募らせてしまう。

ちゃ――」
「おーい! 一年! バス来たぞ! 荷物運ぶから手伝え!」

 お願いだから本当のことを聞かせて欲しい。そんな想いを込めてちゃんの名前を呼んだ。だが、俺の言葉にちゃんが振り返るよりも先に高らかに上がった声に反射的に視線を転じる。
 視線を巡らせれば矢部さんがこちらに向かって手を掲げていた。その肩にすでにいくつもの荷物が掛かっていることに気付くと同時に、ピンと背筋を伸ばす。

「はい! すぐ行きます! 江崎! それに杉も、もう行くぞっ」
「おう!」
「あ、あぁ。そうだな……」

 ちゃんの言葉も気になるけれど、もう行かなくちゃ。傍らに置いたままだった自分のエナメルを拾おうと腰を曲げながらそっとちゃんを振り仰ぐ。

「じゃあ、俺らもう行くね。今日は応援に来てくれてありがとう。後でメールする!」
「うん! 待ってるね」

 慌ただしさを隠しもせず走る準備を始めた俺に、ちゃんは頭を揺らして頷いた。当たり前のように返ってくる笑顔に愛おしさが胸に募っていく。
 熱くなる心を抱えたまま少し離れた位置にいた江崎と連れ立って駆け出すと、不意に背中に声がかかった。

「樹くん!」

 加速する足を止め、振り返ると、少し離れた場所から口の横に両手を添えたちゃんがこちらに向かって叫んでいた。

「優勝おめでとう! 甲子園も絶対に応援行くからーっ!」

 言い切ると同時におおきく手を振って見送ってくれるちゃんがきらきらとひかる。目映い太陽の光が反射しただけだとしても、その言葉と姿は大きく俺の胸を打った。
 口元を綻ばせながら拳を掲げて応じると、ワンテンポ遅れていた杉が俺に追いついた。杉と共に江崎の背中を追う間にも、の爆弾発言が頭の中を駆け巡る。春に始まった恋が、夏に実を結んだ。そう思っていた矢先に伝えられた言葉に簡単に胸は躍った。
  ――今度、その話を聞いてもいいかな。
 以前のように単なるクラスメイトじゃなくなった今も、ほんの少し遠慮してしまう。嫌じゃないかな、迷惑じゃないかな。そんな風に考えるのは前と同じなのに、心ひとつ違うだけで不安はちっとも感じない。両想いになれた今、ひとつの会話を迷うことさえも楽しかった。
 鳴動する心音につられるように体温が上がっていく。照りつける太陽がアスファルトを焦がす熱も合わさればなおさらだ。
 湧き上がる熱に自然と唇は綻んだ。きっと、俺だけじゃなくちゃんも今、笑ってくれているはずだ。顔を見なくてもわかるなんて傲慢なことをいうつもりはないけれど、どうしてかその予感は当たっている気がしてならない。
 
 浮き立つ気持ちを抱えたまま、夏のまぶしさに思わず目を細めた。強い日差しはこの先、さらに厳しさを増すだろう。

 それでも俺は、きらきらした夏に向かって駆けていく。




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