獪岳01:心臓

貴方の心臓が欲しい


 灼熱の夏が過ぎ去ってもなお、残暑厳しい晴れの日。汗が滲む難点はあるが、絶好の洗濯日和だと思えばいつも以上に仕事は捗った。日が高いうちに、と、縁側に干した布団を元鳴柱である桑島様の御屋敷内へと運び入れる。
 その次は、物干し場だ。取り込んだ洗濯物を抱えて御屋敷へと戻る途中、曲がり角で誰かとぶつかった。
 出会い頭の衝突に、短い悲鳴と共に反射的におもてを上げると、その相手が獪岳だと知る。
「……チッ」
「あら、獪岳。ごめんなさい、痛かったかしら?」
「アァ? 誰がお前の体当たりなんかで痛がるもんか」
 不機嫌さを取り繕いもせず、再度舌を打ち鳴らした獪岳は微かに顎を上げ、心底嫌そうな顔で私を睨めつける。
 だが、剣呑とした空気を纏っているにもかかわらず、さっさとこの場をあとにしようとしない獪岳は、じっと私を見下ろしたままだ。いつもなら、鈍臭いだとか邪魔をするなだとか、吐き捨てて去って行くというのに。
 内心で疑念を抱きつつも、私もまた、獪岳を一心に見上げた。
 修行の最中だからだろうか。額に汗を滲ませた獪岳の表情は固い。怖い顔をしているのは、真剣に修練に励んでいる証拠だ。態度の悪さの奥に、ひたむきさがあることを私は知っている。ただそれだけで、私を邪険に扱う獪岳を好ましく思っていた。 
 まじまじと見上げる私に、苛立たしげな視線が落とされる。首にかけた手拭いを口元に押し付ける獪岳の手には、いつものように刀が握られていない。それを目に捉えた瞬間、今、彼がなぜ修行場ではなく御屋敷内にいるのか。その理由が脳裏に閃いた。

 あぁ、そういえば、今くらいの時間って、いつも休息に入るんだっけ。
 お茶をお出ししなければ。それに今日は熟れ頃の桃をもいできたから、一緒に食べてもらおうと思ってたのよね。

 洗濯物を置いたらすぐに取り掛からなければ、と頭の中で算段をつける。
 次の段取りが決まったのなら、いち早く行動を起こすべきだ。鬼殺隊を志す彼の邪魔をするわけにはいかない。そう思い、身を引こうとした。だが足元に違和感を覚え、引きかけた身体を縫いとどめる。
「オイ、。何やってんだよ。早く離れろよ」
「待って。下駄が脱げちゃったから」
 足元を探っていると、頭上からまた舌打ちが落ちてきた。これでもう、3回目だ。疎んじているのだと隠しもしない獪岳は、「早くしろよ」と言葉を重ねた。
 ぶつかったはずみに脱げたのだろう。幸い下駄は足元のすぐ側に転がっていたため、難なく見つかった。だが洗濯物を抱え込んだままでは履きづらい。
 だからと言って、獪岳に代わりに持ってもらうのも申し訳が立たない。すべて獪岳と桑島様のものとはいえ、これは私が運ぶべき仕事だ。
 どうしようかと逡巡する間も、足元を動かし続ける。爪先が触れてはいるが、うまくねじ込むことができない。数度試みたが、それでもダメだった。こうなってしまっては、やはり助けを求めるほかないようだ。
「ごめんなさい、獪岳。不躾なお願いなんだけど、少し肩を、貸してくれるかしら」
「……」
 返事はない。だけど、獪岳はかすかに前傾した。私が捕まりやすいように、ということだろう。不服そうにしながらも、獪岳が応じてくれたことに口元を綻ばせる。
 獪岳の親切を受けるためにも、まずは洗濯物を片手で持てるようにまとめなければ。左腕にうまく乗せられないかと試行錯誤する中で、荷物を抱えた手に、乱雑に獪岳の手が重なる。
「貸せ」
「え?」
「俺の着物だろ? 少しの間なら持ってやるから早く下駄を履けよ」
「あ、りがとう……」
 思ってもない提案に呆気に取られてしまう。今までを振り返っても、素っ気ない態度を見せられることはあっても、進んで親切にされることはなかった。普段との格差に、驚いてしまうのも無理のない話だ。
 眉間に皺を寄せた獪岳は、不本意極まりないという顔で私を見下ろしたままでいる。おおよそ、これから人に親切に振る舞おうとする人の顔ではない。だけど、差し出された肩も、重ねられた手のひらも、すべて、私のためを思っての行動だ。
 たとえ、さっさとこの場を後にしたいがためというのが獪岳の本音であったとしても、受け止める私が獪岳の親切なのだと捉えたのだ。なんの問題があるだろうか。
 洗濯物から手を離そうと力を緩めれば、獪岳の手のひらがするりと私の手の甲から抜けていった。修行を重ねた手のひらの、ざらりとした感触に、もう少し触れていたかった。
 そんなちっぽけな願いを頭の隅に追いやりながら洗濯物を預けた私は、獪岳の肩に手を置き、下駄に爪先をねじ込んだ。思ったより上手く履けないことに、内心で首を捻る。鼻緒が緩んでしまったのだろうか。踵を上げ無理矢理に押し込んでやると、先程よりはしっくりと収まった。
 安堵の息を吐き、身なりを整える。
「オイ、履けたのならさっさと離せよ」
「えぇ、そうね。……うん、大丈夫そうだわ。ありがとう、獪岳」
 肩を借りるためとはいえ、目と鼻の先に獪岳の胸があるほどの距離は、あまりにも近すぎる。身を起こそうと、足元に向けていた注意を解き、一歩分退こうとした。途端、履いたばかりの下駄がするりと抜ける。
 ――鼻緒が、ほどけた?
 突如として生まれた足下の違和感に、目に見えて均衡を崩した私を、獪岳が目を見開いて見やる。
 ぞくりと背筋が粟立った。このままでは背中から倒れ込む。その覚悟とともに来たるべく衝撃に耐えようと強く目を瞑った。
 だが、傾いだ体は、強く引き留められる。腰が支えられた。そう気づいたときには、すでに体を起こされていた。
「何やってんだよ! グズがっ!」
 罵倒が頭の真上から浴びせられる。それと同時に、ぎゅう、と、体全体を潰すような力が加わった。左頬にかかる圧力に何度も目を瞬かせる。動かない体の代わりに、必死に視線を巡らせた。あまりにも近すぎてはじめは何かわからなかった。だが、額に触れる勾玉は、獪岳の首に巻かれたものだ。
 気づくと同時に、潰れた頬を擦り付けるように顔を上げれば、至近距離で視線がぶつかる。この日一番、顰められた表情は、呆れと怒りを有り余るほど綯い交ぜにしたものだった。
 呆気なく倒れかけた私を、獪岳が助け起こしてくれたのだと知るのに、そう時間はかからなかった。
 渋面を刻んだままの獪岳は、自らの身体に押し付けるように、強く、私を抱きしめている。
「ごめんなさい。でも、おかげで転ばずにすんだわ。ありがとう、獪岳」
「……気をつけろよ、このタコ!」
 焦りが安堵に変わっても、逸る心臓は鳴り止まない。足下にある不安を埋めるため、反射的に獪岳の腰のあたりの衣服を掴んだ。幼い子供が母親にしがみつくような、つたない抱擁だった。
 縮こまった心を落ち着けようと、浅い呼吸を繰り返していると、聞き慣れない音が耳に飛び込んでくる。
 耳をそばだてなくても聞こえてくる音は獪岳の心音だった。トットッと、とめどなく走るその音を聞いていると、次第に自分の胸の内も跳ね始めた。
 近づきすぎた距離に、今更、羞恥を感じてしまう。だけど、こんな機会はもう二度とないかもしれないと思うと、逃げ出すことは出来なかった。
 獪岳の胸を打つ脈動は、もしかしたら修行を終えたばかりで息が上がっているせいなのかもしれない。でも、そうではなく、今、私が感じているものと同じものなのかもしれない。
 頼りない笹舟の上に放り投げられたような心地に、薄い緊張感を纏う。

 きっと、私たちは今、どちらに転んでもおかしくない。

 きらめき始めた心を確かめるために、獪岳の腰を掴んでいた手を背中へと回す。
 ――もし〝はしたない〟なんて、罵られたらさすがに傷つくわね。
 最悪を想定することで保険をかけつつ、獪岳の反応を待つ。きゅっと口元を引き締めて、獪岳の胸に耳を押し当てたまま沸き起こる感情を堪えていると、鳴り響く心音はますます加速した。同時に、頬に触れる獪岳の肌の温度が上がっていく。
 まるで、熟した桃の皮をつるりと剥くように、獪岳の本音が顕になったみたいだ。
 もう少しの間、聞いていたい。そう思うと同時に腕に力が入った。私の体が緊張に塗れたからだろうか。同じものが返ってきた、ような気がした。
 だが、その頼りない感覚を追いかけるよりも早く、ぐいっと強く肩を押し出された。獪岳の腕の長さ分、きっちりと距離をとられる。
 拒絶されたことを知ると同時に、失態が恥ずかしいのか、報われなかった悲しみに泣きそうなのか、顔中に熱が集まっていく。
 眉根を引き締め、生まれたばかりの熱を隠しもせずに顔を上げると、いつもと同じく、愛嬌の欠片もない表情の獪岳と視線がかち合った。真一文字に結ばれた口元に、不満であるという思いが刻まれている。
「なんだよ、。妙な顔で見やがって。ブスになってるぜ」
「心外ね! かわいい顔が台無しってことかしら!」
「減らず口叩いてんじゃねぇよ。この顔だけ女がッ」
 売り言葉に買い言葉。憎たらしい獪岳の言い分に、反射的に、かわいげのない言葉を返してしまう。つい先程まであったはずの揺らめきは、今は欠片も見当たらなくなってしまった。
 眉根を寄せ、じっと獪岳を見上げる。私を助けたことでいくつか散らばってしまった洗濯物を心底嫌そうに見やる獪岳の視線が、こちらへと戻った。
「なぁ、おい。。お前、下駄結んだらさっさとこれ片付けて来いよな」
「そうね。すぐ、お茶の準備して戻るから、先に御屋敷に上がっててちょうだい」
「いいから早くなおせよ、グズ。テメェ、俺に着物を持たせたままだって忘れてるんじゃねぇだろうな」
 忘れてないわよ、と反論したところでいいことなんてひとつもない。ここは黙って受け入れるべきだ。追い打ちをかける獪岳に促されるままに、袴の裾を払い、外れた鼻緒を結ぶべくその場に腰を落とした。
 下駄に紐を通す傍らで、自らの頬に手の甲を押し当てた。すっかり消えてしまった熱は、追いかけても見つかりそうもない。だけど、胸の内にははっきりと残っている。
 いまだ落ち着かない心音が、その証拠だ。胸に手をやらなくてもわかる。いつも以上に脈打つ心音が、体全体に伝わっていた。
 ――この感情は、もう、私だけが抱いているものなのかしら。
 釈然としない心地で、落ち着きなく膝を揺する獪岳を見上げる。への字口でどこか遠くを見る獪岳から、先程の熱は微塵も感じられない。交わらなくなった視線を、どうにかして捕まえたい。だけど鼻緒を止める間、待ったところで、獪岳はこちらを振り返ることをしなかった。
「できたのかよ。じゃあさっさと行こうぜ、ノロマ」
 散らばったままの洗濯物を拾い集めると、待ち構えていたかのように洗濯物を渡される。上から落とすようにかぶせられたため、今度は手のひらが触れることはなかった。ほんの少しだけ尖りかけた唇を引っ込め、獪岳にお礼を言うと、御屋敷へと足を向けた。
 その横を、すんなりと歩き始めた獪岳は、きっと私がねじれた感情を抱いていることになんて気づきもしていない。重くこぼれ落ちそうな溜息を飲み込み、唇を結ぶ。
 自然と落ちていた目線を上げ、気を取り直すべく前を見据えて歩いていると、隣を歩く獪岳との距離がいつもよりも近いことに気づく。洗濯物を抱えた肘に、獪岳の腕が触れているのがその証拠だった。
 その距離を確かめるべく、なぞるように横目で見上げる。肘も、肩も、触れていることを確信すると、ぐっと喉の奥がつまるような感覚が走った。まるでゆうべ食べた秋刀魚の骨が今更、その存在を主張し始めたかのような違和感を飲み下せないままじっと獪岳を見上げる。
 私の視線を感じたのだろう。獪岳はこちらを見下ろし、目が合うといつもと同じように顔をしかめた。
「だからさっきからなんなんだよ。変な顔で見やがって。何か言いたいことがあるならとっとと言えよ」
「……特に何もないのだけど――言っても仕方のないことだから、言わないわ」
「ハァ? 気持ち悪い言い方しやがって」
 今、身内にある違和感を口にしたところで、獪岳はきっと否定するだろう。むしろ、並んで歩くこの状況さえ放棄されてしまう可能性がある。ならば、口にしないことが上策だ。
 誰に知らせるでもなく、うん、とひとつ頷いてみせる。そんな私を獪岳は不審そうに睨めつけた。
 おおよそ、先程、私を抱きしめたばかりとは思えない男の顔だ。やはり、この恋を確かめるのは早計らしい。
 溜息混じりの息を吐き出し、視線を外しながら高い空を見上げる。届かない雲を視界に捉えたまま、もう一度息を吐いた。

 嘘のないあの音を、今度は真正面から聞けたらいいのに。そう、思った。


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