獪岳02:毛布

毛布


 干していた布団を取り込み、寝間へと運び入れる途中、縁側に腰かける獪岳を見つけた。
「獪岳?」
 その背中に向かって声を掛けてみる。反応が薄いのはいつものこと。だが舌打ちひとつ返ってこないことは珍しい。
 一呼吸分、返事がないか待ってみたが、獪岳は身動ぎひとつせず黙り込んだままだ。
 無視されているというなら鼻持ちならない。なにか一言言ってやろうかと息巻きかけたが、「そうでは無いのでは」という考えが頭を掠めると反射的に開きかけた口を閉ざした。
 抱えていた布団を畳の上に下ろし、足音を忍ばせ、そっと獪岳に近づく。彼の座る正面へと回り込んでも反応が返ってこないことに、今しがた過った懸念が確信に変わっていく。
 音を極力立てないように、と正面に膝をつき、顔を覗き込んでみれば、両の瞼がぴっちりと閉ざされているさまが見てとれた。
 右腕で刀を抱え込み、立てた右膝に預けるように頭を傾けた獪岳は、高いびきをかくでもなく、またうつらうつらと船を漕ぐでもなく、染み入るように眠っている。
 ――珍しいこともあるものね。
 声を出さないように自分の口元を掌で覆い隠し、おとなしく眠る獪岳をまじまじと見つめた。
 油断して寝姿を見せるなんてことは、今までほとんどなかったと記憶している。長く修行を続ければ求められる結果も多くなる。桑島様の教えを実践すべく努力を続ける獪岳の姿はどこで見かけても目にしていた。
 ――よっぽど疲れているみたいね。
 いつも気を張っている獪岳の穏やかな表情にほんの少しだけ、胸の内が温まるような心地を覚える。眉間のシワが取れているさまに、まだ少年なのだという主張とあどけなさを感じとり、愛らしいようにさえ見えてしまう。
 じっと惹かれるままに見つめていた。だが、ふと我に返ると、随分と恥ずかしい真似をしていたように感じる。妙な照れくささから逃げるように、獪岳から目を逸らした。
 逸る心臓を抑え込むようにそっと呼吸を繰り返す。指の隙間から細く紡いだ息の白さを横目で追うままに、獪岳の手元に視線を落とす。板張りの上に、こぼれ落ちるままに薄く開かれた左手のひらはいくつもの傷を抱えていた。
 久方ぶりに顕にされた手のひらを見つめていると、必然的によく見る手のひらが頭をよぎる。いつも泣きじゃくりながら手当をねだる善逸の手は、いつも血にまみれていた。だが、そんな彼のものが些細なものに思えるほど、獪岳の掌に残る傷跡は幾分も深く、数もまた多かった。
 以前見た時よりも、随分と荒れている。実情を目の当たりにし、うっすらと眉をひそめる。
 もちろん、獪岳の方が善逸よりも、早く修行に入ったというのも理由のひとつだろう。
 だが、痛いとも言わず、嫌だともこぼさない、彼の矜持がそこにあるのだと思うと、胸の奥に鈍い痛みが生まれた。
 ――風邪をひくといけないわね。
 キュッと唇を結び、その場から立ち上がる。
 干したばかりの毛布を抱えて戻ると、余計な物音を立てないようにと気を配りながら、そっと獪岳の肩に掛けた。規則正しい寝息に乱れは生まれない。もしかしたら起こしてしまうかもしれない、という考えが杞憂に終わったことに安堵の息を吐く。
 獪岳の正面に、膝を揃えて正座し、じっと彼の表情を見つめた。
 ――本当に疲れてるみたいね。
 眠りが深いのはいいことだ。だけど、束の間の休息だというのに、そんなに深く眠りにつくほど疲労困憊しているのはあまりいいことだとは思えない。
「――貴方は弱音を吐く姿すら見せてくれないのね」
 せめてここにいる間だけでも彼の助けが出来たら、と思う。だが、望まれない手を差し出すことは難しい。相手が獪岳なのであれば尚更だった。
「……獪岳。私は――」
 鬼殺隊に入るため修行に励む彼の目指す先は、遠く、険しい。微力ながら携わる家に生まれたからこそ、獪岳の力になれることが決して多くはないこともわかりきっている。
 それでも、願ってしまうのだ。目が眩むほど輝く星を得ようと遠い夜空に手を伸ばすかのように、届かない願いであっても、少しでも獪岳を支えられたら、と――。
 頭の中にだけあるはずの願望が、身体につたわり、行動へと遷り変わる。
 腰を浮かせ、膝立ちのまま身を寄せ、獪岳の頭に手を伸ばす。
「んんっ」
 不意に、目の前の獪岳が咳を払った。驚いて目を丸くし、びくりと肩を震わせると、獪岳の手のひらが翻る。伸ばしかけた右手を捕まれたことを感知し、反射的に腕を引いたがそれ以上の力でもって引き寄せられる。
 結果、獪岳の懐に飛び込んだかのような距離に収まってしまった。
「……なんだよ、。お前、俺に弱音を吐かせてぇのかよ」
「聞いていたの?!」
「聞こえてきたんだよ。独り言のつもりかもしれねぇが……バカでかい声でしゃべりやがって」
 いつもより低い声は、寝起きによるものなのか、それとも機嫌を損ねたのか。
 判断しようにも、いつもと同じように眉根を顰めてしまった獪岳からは、手がかりを得ることは困難のように思えた。
「で、なんだよ、この手は」
 掴まれたままの手のひらをぐいと更に引かれる。これ以上、倒れこんではたまらない。左手を獪岳の肩口に置き、抵抗を試みたが、更に強く引かれればそんな抵抗は呆気なく消えてしまった。
 こちらが顔を顰めたところでお構い無しに腕を強く引き続ける獪岳は、私の腕をもいでしまおうとでも考えているのではないだろうか。こんな仕打ちを与える相手に、まさか頭を撫でようとしただなんて言えるわけが無く、歯痒さに下唇を噛みしめることしか出来ないでいる。
「なんでもないわよっ!」
「なんでもなくて俺に触ろうとしたのかよ」
 思惑のほとんどを見透かされていることに、羞恥に頬が赤らんだ。顔を隠そうと身を捩ったが、獪岳がそれを許さない。刀を抱えていた腕までも、こちらに差し向けられると、さらに動きは制限された。
「おい、なんとか言えよ。
「だから何も無いって言っているでしょう?」
「チッ」
 抵抗を続けていると、獪岳の肩からはらりと毛布が落ちた。それに意識を取られた途端、獪岳の左手がさらに強く私の腕を引く。
 痛みに眉を顰めたのも束の間だった。力がするりと腕から抜けたと思った瞬間、獪岳の手が翻り、落ちたばかりの毛布で乱暴に包まれる。
「えっ?! なに?」
 視界が奪われると自然と声が大きくなった。布一枚とはいえ、閉じ込められた空間に、声は思いのほか響いた。
 毛布をめくって視界を確保しようと腕を動かすよりも先に、その上から動きを押さえ付けられると身動きひとつ満足に取れなくなる。
「うるっせぇんだよ、このクソが。何もねぇなら少し黙れよ」
「黙る努力はするわ? でもその前に放してくれないと困るのだけど!」
 強く身体を捻っても、先程以上の力で押さえ付けられるだけだった。
 頭と肩周りにかかる圧力の正体を確かめられないまま、私は唸り声を上げる。胸の前に置いた手の底で押し返そうとしたところで、ちっとも獪岳に響いた気がしなかった。


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