春雷:03

春雷の果てに咲く花 03



初日だからそんなに意気込まなくていい。そんな桑島様のお言葉に甘えた私は簡単な掃き掃除のあと、縁側で布団を干すと、昼食の準備に取りかかるべく台所へと足を踏み入れた。
今回のように長期ではなくとも以前から時折、御屋敷でのお手伝いはしていたから、ある程度の勝手は知っている。ぐるりと周囲を見渡し、以前と変わりないことを確かめた私は、備蓄された食糧を検分することから始めた。
今日の昼・夜、そして明日の朝、使うであろう分を検めた後、今後、必要になりそうなものを書き出していく。買い出しか、藤の家から運び込むかは父母に相談してから考えよう。そうやって区切りをつけると早速お昼ご飯の準備に取り掛かった。
研いだ米を羽釜に移し、かまどに据えると、薪をくべて火を熾す。火吹き竹で風を送って火加減を整える間、熱風による汗や煙のせいで滲む涙を手の甲で拭った。そうやって炊き上げた羽釜を近くの台に移すと他の作業にも手を伸ばした。
小さな胡瓜と茄子は塩揉みし、漬物鉢に移しておく。大根と人参は桂剥きにし、細かく刻んだ昆布とともに鍋に入れ、薄口の出汁で静かに煮含めた。
次に、家から持ち込んだ卵を割ると、出汁巻きを巻いていく。慣れない丸鍋では不格好にはなったが、巻き簀で形を整え、切りそろえた端を摘めばいつもと同じ味だったので良しとしよう。

「……っと、そろそろいい頃合いかしらね」

蒸らしておいた羽釜の蓋をそっと外すと、ふわりと白い湯気が立ちのぼり、炊きたての米の甘い香りが台所いっぱいに広がった。しゃもじを差し入れると、粒はふっくらと艶やかに膨らみ、底にはほんのりとしたおこげの層ができている。しゃもじで切るように混ぜて余分な蒸気を飛ばすと、桧のおひつへと丁寧に移した。
熱を帯びた米の重みを腕に感じながら、底の一粒までこぼさぬようにすくい入れる。つやつやとした輝きを見下ろしていると、自然と満足に似た気持ちが沸き起こった。
――この出来なら、獪岳だって文句は言わないでしょう。
いつもと勝手が違うなりにうまく炊けたことに得意げに口元を緩ませる。藤の家の女としての矜持も理由のひとつだが、獪岳に向かう負けん気の裏には姉に言われた言葉があった。
すでに藤の家で主力を担う姉の教え。「あたたかくて、美味しいご飯を食べてイヤな思いをするひとはいない」だ。
いくら折り合いが悪いとは言え、獪岳が鬼殺隊を志すのであれば、その生活を支えてあげたいと思いが根底にはある。獪岳にも私がここに来た意味はあると思ってもらわねばやっていけない。その一念を再確認した私は、固く口元を引き締める。

「……よし」

おひつに蓋をして気持ちを入れ替えた私は、残りの作業へと向き直った。平行して作っていた煮炊きも粗方終えたところで、残り火で湯を沸かす。鉄瓶が細やかに湯気を立てはじめた頃合いを見計らい、茶筒から煎茶を選び取ると、お茶の用意を携え、桑島様のお部屋へと向かった。

「桑島様」
「うむ、か」

戸の正面で正座をし、中にいる桑島様へ声をかけるとすぐに返事があった。「失礼します」と断りを入れ、障子戸を滑らせると、手紙を書く手を止めた桑島様と視線が交差する。

「お食事の準備が整いました。いつでもお召し上がりいただけますので、作業に一区切りつきましたらお声かけください」
「おぉ、もうそんな時間か」

目を丸くした桑島様の言葉にぎくりと身を固くする。桑島様たちの都合を聞かず、藤の家の慣例通りの時間で食事の準備を始めてしまったことを思い出し、思わず口元を手のひらで覆った。

「申し訳ありません。……早かったでしょうか」
「いや、そんなことはない。以前は獪岳が戻ってからふたりで用意することが多かったから、ちと驚いただけじゃ。獪岳も帰ってきた時、飯が用意されているのなら嬉しいじゃろう」

桑島様の言葉を元に、先程までいた台所で調理に取りかかるふたりの姿を想像する。その生活もきっと楽しいに違いない。そう思うまま口元に笑みを浮かべれば、桑島様もまたこちらの機嫌につられたように表情を緩めた。
コホンとひとつ咳払いをすることで気恥ずかしい思いを追い払った私は、横に置いたお盆を手に取ると、桑島様の部屋内へと足を踏み入れる。

「では獪岳が戻るまで、こちらをお飲みになってお待ちください。あたたかいお茶をお淹れしておりますので」

湯呑みを差し出し、お茶請けをお盆から文机へ移せば、噂をすれば影がさす、ということだろうか。折よく「ただいま戻りました」と落ち着いた声が玄関口から届いた。

「どうやら飯のにおいにつられて帰ってきたようじゃな」
「ふふ。それは食べてもらいがいがありますね」

冗談めいた桑島様の言葉に乗っかった私は、指の甲を口元に押し当てて笑い声を漏らす。

「では、獪岳の出迎えには私が向かいますから、桑島様もお茶をお飲みになったら居間までいらしてくださいね」
「うむ、そうしようかのう。……そうじゃ、今日からはも一緒に食べるんじゃぞ」
「いえ、私はあとでいただきますので、お気になさらないでください」

意外な申し出に目を丸くする。藤の家では決してあり得ない提案に、反射的に断りを入れた。だが、あっさり引き下がってくれるかと思いきや、桑島様は少し表情を険しくさせて私をまっすぐに見つめる。

「それはいかん。手伝いに来てもらっているのに満足に飯も食わせないようでは、父君に申し訳が立たない」
「でも、何も食べないわけではありませんので……」
「食事はみなで取る方が居心地いいに決まっている。、あとでと言わず、共に食べよう」
「……それじゃあ、お言葉に甘えて」

これ以上断るのも失礼に当たる。そう思い、了承の旨を伝えると、満足そうにひとつ頭を揺らした桑島様は湯飲みに口をつけお茶をすすり始める。その姿に一礼を残して部屋を出ると、玄関へと足早に向かった。

「おかえりなさいませ」

仲良くする第一歩。そう思い、晴れやかな笑顔と共に獪岳を迎え入れた。だが、一瞬、面食らったように動きを止めた獪岳は廊下から顔を出したのが私だと気付けば途端に顔を歪める。
ふいっと顔を背ける様にムッと唇を尖らせたのも束の間、鍛錬を終えたばかりの獪岳が思いっきり泥にまみれていることに気がつくと、思わず眉間にしわを寄せた。

「泥だらけじゃない。こんな風になるまで……鬼殺隊の修行って大変なのね。怪我はないの? 痛いところがあるならすぐに治療をするから、ちゃんと教えてくれる?」
「ッ、別にたいしたことじゃねぇよ」

泥と血の区別がつかないほどの有様に、思わず両手が獪岳の頬に伸びていた。右、左と検分するも傷を確認する間もなく下から飛び出た手の甲ではねのけられる。

「もう……わかったわ。怪我がひどくないなら、泥を落とすだけでいいわよね? すぐに手拭いを持ってくるからそこに座って待っていてちょうだい」
「いちいちうるせぇ……。甲斐甲斐しく世話をしようとするな。女房気取りかよ」
「何を言っているの? 怪我を甘く見て膿んだりするととても痛いのよ」
「そのくらい知ってんだよ。余計な口出しはするな」

ツンケンとした物言いに互いに苛立ちが募る。またもや戦いの鐘が心中で鳴りかけたが、手のひらを胸に押しつけて息を吐くことで気持ちの立て直しを図った。

「あのね、獪岳……。知っているのなら尚更よ。貴方が、これから先、そうやって怪我に無頓着なままでいるのなら、私は毎日貴方の顔を拭って確かめるわよ」
「脅しかよ……。だから、そういう世話焼きがましい言葉は要らないと言っているんだ」
「わかったわ。もう二度と言わないから、ちゃんと怪我をしたなら教えてちょうだいね」

言い返すだけ無駄と悟ったのか、獪岳は顔を顰めたまま私から顔を背ける。それでも屋敷に上がり込んで来ないところを見ると、少しは納得してくれたらしい。憮然とした横顔から想像が正しいという確証は得られないが、獪岳の気が変わらないうちに早く手拭きの準備をしたほうがいいだろう。そう思い、踵を返したが、直後、背後から聞こえてきた舌を打ち鳴らす音に反射的に振り返る。

「……何か言った?」
「何も言ってねぇよ。持ってくるなら早くしろよグズ」
「はいはい、分かりましたッ」

語気を強めて言い返すと共に、ふいっと顔を背けるとまっすぐに手拭いを取りに向かった。機嫌の悪さを隠そうとも思わないのだろう。獪岳がわざと音を立て腰を下ろした音が聞こえてくる。取り付く島もない態度を感じ取ると、自然と溜息がついて出た。
――まったく。貴方だって口が減らないじゃない。
出会った直後から変わらない獪岳の態度を思い返しながら、やはりこの任務の適任はわたしではなかったのでは、なんて考えてしまう。彼があのような性格なら、どう考えても私よりも気の長い兄姉の方が向いている。修行の手伝いをしに来たはずなのに、初日から喧嘩三昧だなんて、父もそうだが桑島様も想定外だろう。
これから先、命を賭けて鬼を狩ることを生業とする彼には、もっと心安らかに過ごしてもらいたい。その気持ちは多分にあるはずなのに、どうにもままならない。未熟な心を隠そうとすれば猫かぶりだと相手にされず、本心で向き合えば疎んじているのだと露わにされる。どうすりゃいいのよ、なんて気持ちを抑えきれないまま、またしても口やかましく接してしまった。
――それでも、諦めるつもりはないけれど。
たとえ獪岳に嫌われようともちゃんと心から向き合うのだと決めた以上、引くつもりはない。鬼狩様への恩義を果たすためという大義名分以上に、獪岳への反発心が大きくなってしまっているが、やることには変わりないのだから問題ないでしょう。桑島様も仰っていたように、素を見せるのは良い傾向なのだと信じて関わっていくほかないわ。
決意を新たに気持ちを立て直した私は、辿り着いた部屋の壁沿いに置かれた箪笥の中から手拭いを引っ張り出すと、井戸へと回り、手桶に水を張って玄関へ戻った。開け放たれたままの入口の奥へ視線を向けると、意外にも姿勢よく、上がり框に腰をかけた獪岳の姿が目に入る。
てっきり寝転んで待っているかと思っていたため、その意外性に思わず目を丸くする。元から行儀がいいのか、それともそう振舞おうとしているのか。判別はつかないが、一介の剣士らしい姿に、正直、見直す部分がないとは言い切れなかった。

「お待たせ。獪岳」

中へ入る前に声を掛けると、外から戻ってくるとは思っていなかったのか、軽く目を見開いた獪岳は、またもや渋面を刻んだまま私から視線を逸らした。その態度に思うところはあったが、いちいち突っかかるのもよくないと気持ちを抑え込むと、ゆっくりとその隣に腰を下ろす。
手桶を獪岳とは反対側に置き、縁に掛けていた手拭いを水の中に浸した後、含んだばかりの水を絞ると獪岳へ差し出す。

「はい」
「……」

ぶすっとした顔つきはそのままだったがこちらに顔を戻した獪岳は、意外にもすんなりと手拭いを手に取った。顔全体を拭き、手拭いを一度広げたあと白い面を上にして畳み直すと今度は目の際あたりに付着した泥を拭い始める。丁寧な手つきで泥を落とす様をなんとはなしに眺めていると、「おい」と非難めいた声が上がった。

「なに見てんだよ」
「あら、ごめんなさい。……少し、擦り傷ができているわね。救急箱、持ってきましょうか?」
「いらねぇって言ってるだろ」
「そうね。そのくらいなら、きっと大丈夫ね」

言い草にカチンとくるものはあったが、獪岳の言うとおり、たいした傷ではないように見えた。怪我がないのであれば、ぼんやりしているヒマなんてないわ。そう思い直し膝を軽く叩くと、立ち上がるついでに手桶を獪岳の隣に滑らせる。

「早速だけど、もうお昼ご飯の準備は整っているわ。一度着替えるわよね? 洗濯しておくから脱いだものはその辺に置いておいてちょうだい。……っと、その前に貴方、部屋はどこになるの? 言ってくれれば新しい着物を持ってくるわ」
「……っとに、お前は」
「なによ、のんびりしているのは嫌いなんでしょう?」

不機嫌な声を遮るように口を挟むと、獪岳は渋面を刻んだままこちらを振り仰ぐ。剣呑な顔つきに同調はせず、軽く口元に笑みをたたえたまま、まっすぐに見返してやれば一度ぐっと堪えるような仕草を見せたが、さすがに半裸で歩き回るつもりはなかったのだろう。ぶすっとした顔つきで部屋の位置と、着物が何段目に入っているかを口にした。
その後、新しい着替えを獪岳に手渡すと、代わりに回収した手桶を井戸付近の棚に戻す。獪岳の着替えを待つ間に、先に昼食を居間へ運び込んでいると、着替え終えた獪岳が、汚れた着物を洗濯桶まで持っていく姿が横目に入った。

「わざわざ持っていってくれたの? 助かるわ」
「フン。置きっぱなしにするのはみっともねぇし、先生に見つかって注意されたら割に合わないと思っただけだ」

言外に〝オマエのためではない〟と滲ませる獪岳に、〝本当に素直らしさのかけらもないわね〟と内心で悪態をつく。だが、自立した様を目の当たりにすると、あれもこれもと横から口を出す私を煩わしく思うのも無理はないのでは、と考えを改めるきっかけにもなった。
――あまり口やかましく言うのは控えた方がいいみたいね。
為人をまだよく知らないからこそ、少しずつ距離感を正していかなければ。ひとつ、心の中で誓いを立てると軽く口元を緩めて獪岳を見上げた。

「それじゃあ、お昼にしましょうか。もう貴方たちの分は居間にすべて運び終えているから、貴方もほかに用がないなら食べに来るといいわ」
「――先生は?」
「お茶を飲み終えたら来ると言っていたわよ。そろそろ来るんじゃないかしら。――あ、ほら」

廊下の奥から歩いてくる桑島様の足音を頼りに振り返れば、箱膳を運ぶ姿が見て取れる。どうやら私の分の食事を運んでくれているようだと気づくと同時に全身の血の気が引いた。

「桑島様ッ! そのようなことは私が!」

恐縮する気持ちと共に駆け寄れば「いい、いい」とやんわりと断りを入れられる。行き場を失った手をさまよわせていると、後から付いてきた獪岳が隣に並ぶや否や鋭い視線で睨み付けてきた。

「お前、先生になに運ばせてるんだよ」
「いえ、その……そうね。本当に申し訳がないわ……」

獪岳を迎えに行くよりも先に居間まで運んでおけばよかった。後悔に打ちひしがれるまま顔面を両手のひらで覆う。穴があるなら入りたいほどの心境だが、このまま失念したままではますます何のためにここに来たのか、だ。
気持ちを立て直し、「ここから先は私が」と声を掛けると、用意していたおひつの隣に膝をつき三人分のご飯をよそった。
食事が始まると、獪岳は桑島様に修行の成果を伝え始めた。どうやら山の中には敵の動きを想定した罠が張り巡らされているらしい。午前中の修行ではすべてを突破できなかったこと、そしてどのように躱しても次の罠で阻まれることを丁寧に報告する獪岳に、桑島様は「ならばどうすれば対応できるのか」を問いかける。
初めのうちは簡単に答えを教えないことに厳しさを感じたが、話を聞いているうちに考えることで対応力を磨くのも修行なのだと認識を改めた。躱した後の対処について問答を重ねるふたりを眺めていると、今まで漠然と鬼狩様方に抱いていた感謝がはっきりと形作っていくのを感じる。

「……頭で考えるのはそんなもんじゃろう。次は実践じゃな。どれ、午後は儂も山へ上がろうかのう」
「ッ! ありがとうございます!」

桑島様の言葉に、獪岳は目を丸くした後、頭を深く下げる。上げた顔がほんのりと嬉しそうにゆるんでいたのがひどく印象的だった。
話に一段落ついたらしいふたりは食事を終えると、そのまま修行へ入る旨を私に告げ、その場に立ち上がる。食事の手を止め、お茶碗2杯分ほどのご飯が残っているおひつに蓋をすると、食べ終えた箱膳を抱えた獪岳へ声を掛ける。

「ありがとう。後は私が片付けるから、貴方はそのまま修行に行ってちょうだい」

獪岳の正面に立ち、箱膳に手を添えると意外にもすんなりと引き渡された。うんともすんとも返ってこないのは相変わらずだが、眉間のしわがやわらいでいるのを見るに、桑島様との修行が嬉しいのだろうと推測する。

「いってらっしゃいませ」

部屋を出たふたりを玄関まで見送った後、残った食事を食べ終えると、食器類を片付けるべく台所に戻る。おひつに残ったご飯を手に取り形作っていくと、小さめのおむすびが三つ完成した。
――獪岳は食べるかしら。
藤の家にやってきた鬼狩様に、〝鬼殺隊になる前から、夜通し稽古をすることもあった〟と聞いていた。獪岳ももしかしたら寝る間も惜しんで修行をするのかもしれない。そう思い、夜食にでもなればと作ってはみたが、そもそもまだ弟子入りしたばかりとなれば桑島様が無理をさせない可能性が高いようにも思える。
尋ねればいい程度の疑問だが、獪岳相手に素直な答えが返ってくるかどうか。そこもまた悩ましいところだが、残っていれば明日の私の朝食にでもすればいいでしょう。
悶々と考えるまま、こしらえたばかりのおむすびをお盆にならべて布巾をかぶせると、そのまま洗濯場へと足を運んだ。泥だらけになった着物の汚れをやっつけ、干していた布団を取り込むと今度は門前の掃き掃除に赴く。そうやって思いつくままに家事をこなしていると、あっという間に日が傾き始めた。
まだ日が高いうちに家へ帰るために、早いうちに風呂の準備と夕飯を作り終えると、ちょうど玄関口から帰宅を告げる声がかかった。

「おかえりなさいませ」

あらかじめ用意していた手桶と手拭いを携え、玄関に顔を出すと朗らかに笑う桑島様に出迎えられた。

「ただいま帰ったよ」
「お疲れ様でございました。お風呂もお食事も準備はできておりますのでお先に好きな方をお選びくださいませ」
「うむ、じゃあまずは風呂に入らせてもらおうかのう」
「わかりました。では、後ほどお湯加減をうかがいに参りますね」

頭を下げ、部屋へと戻っていく桑島様を見送ると、玄関から一歩下がったところに立つ獪岳へ目を向ける。修行から帰ってきた獪岳は、またも泥か傷かも判別つかない様相だったが、今度は私が何か言う前に「肘、切ったから包帯を持ってこいよ」と口にした。

「わかったわ。すぐに持ってくるから先にここで傷口を拭いておいてちょうだい」

言って、お昼の時と同じように手拭いを差し出せば、つれない態度を見せながらも、獪岳は顔や手を拭い始めた。その姿を確認した後、奥の部屋から救急箱を抱えて戻ってきた私は、早速、そっぽを向いたまま右肘だけをこちらに出した獪岳の腕を取る。染み入るように痛むはずの消毒液を当てても眉一つ動かさない姿に「痛くないの?」と聞いてみたが、答えは返ってこなかった。反応を見つつ、包帯を巻き終えると、肘周りを一瞥した獪岳はその場にスッと立ち上がる。

「獪岳も、先にお風呂入るでしょう? 桑島様の後になるけれど、それまで部屋で待ってる? それとも縁側の方がいいかしら。今の時間は居心地良いと思うわよ」

話しかけてみれば、どうやら私の提案は悪くないものだったらしい。ふらりと外に出た獪岳は縁側へ向かって歩き出したようだった。

「あ、そうだ」

獪岳の後ろ姿を見送った私は、ふと、あることを思い出した。その足で台所へ戻ると、お盆を抱えて獪岳の元へと向かう。縁側に片足を立てて腰掛け、じっと庭の風景越しに夕日を眺める獪岳は、ゆったりとくつろいでいるように見えた。

「獪岳。少し、いいかしら」

そう声を掛け、傍らに膝をつくと首だけでこちらを振り返った獪岳と視線が交差する。その視線は、私が抱えるお盆へとすぐに落ちてしまったが、もとよりこちらを提案するつもりだったので、見やすいようにと膝上から浮かせて獪岳へと差し出した。

「お昼ご飯の残りで、おむすびを作ったの。夕ご飯前だけど、もしお腹がすいているのなら――」
「……」

言葉を紡ぎきるよりも先に、かぶせた布巾を取った獪岳は、その中のひとつを取り上げるとすぐにその場で食べ始めた。
――修行を終えたばかりとは言え、そんなにすぐに手を伸ばすとは。
あまりにも意外すぎて目を丸くしてしまう。もしかして、お昼ご飯が足りなかっただろうか。いいえ、おかわりはその都度できるようにおひつに入れていたし、食べ盛りだからと煮炊きも多めによそったはずよ。
昼ご飯の様子を脳裏に描くまま口元を指の甲で押さえる。だが、私ひとりで考えたところで答えが出るはずもないし、かと言って、とやかく口を挟めば獪岳が機嫌を損ねてしまうかもしれないと思うと、質問を投げかけることすらままならなかった。
二個目を手に取った獪岳から答えは得れないだろうか。そう思い、じっと彼の様子を眺める。
修行で疲れているせいか、表情に陰りはあるものの、険のある態度はすっかり鳴りを潜めている。おむすびは逃げないと言うのに、口いっぱいに頬張る姿を眺めていると、閉ざそうと思っていた唇から自然と言葉が紡がれていた。

「……明日からは、朝から多めにお米を炊こうと思うの。もし、また同じように残ったら、台所の棚に入れておくから、小腹が空いたらいつでも取りに来るといいわ」
「……」

相変わらず、返事はなかった。それでも止めろとは言わないあたり、私の提案は的外れなかったらしい。
まともに「頼む」と言えないあたり、素直じゃないと心底思う。それでも、深く刻まれていた眉間のシワが取れた様を目の当たりにすると、どこがむず痒いような心地が生まれてくる。
――なによ、かわいいところあるじゃない。
突如として生まれた感情に、抗うようにぎゅっと奥歯を噛みしめる。釣られて表情にも出てしまったようだが、それが獪岳には睨んでいるように見えたのだろう。一瞬で眉間のシワを復活させた獪岳は、こちらを振り返ると刺々しい言葉をぶつけてきた。

「なんのつもりだ」
「べっ、別に、何も言ってないでしょう?」

頭の中にある言葉を覗かれるはずがないとわかっているのに、変に動揺してしまう。慌てる私に隠し事があると見抜いたらしい獪岳はぐっと口元をへの字に曲げると鋭い視線をこちらに差し向けた。

「顔が言ってんだよ。……聞いてやるから、なに考えてるか話せ」
「……それほどたいしたことじゃないのだけれど、おいしそうに食べるわねって思っただけよ」

おいしそうと自画自賛のような言葉を持ち出したのは、一種の照れ隠しだった。おむすびを頬張る姿に好感を持ったなど、獪岳を相手に素直に言えるはずがない。
自分に原因があるような言い回しに腹を立てたのか。ぶすくれた表情を浮かべた獪岳に、どこか居心地の悪さを覚えた私は、軽く眉根を寄せると、身を乗り出して獪岳に問いかける。

「貴方こそ、何か言うことがあるんじゃないの?」
「ハァ? そんなものはない」
「どうかしら。さっきから何か言いたげな視線ばかり向けられているように思うのだけど」

わざと顔を覗き込むように頭を傾けると、獪岳はぐっと言葉を堪えるように口元を引き締める。だが、私が簡単に引き下がるような女ではないと悟りつつあるらしい獪岳は、問答を長引かせるよりもさっさと言葉を口にした方が早いとでも思ったのだろう。顔を顰めて舌を打ち鳴らすとふいっと顔を背けたまま口を開いた。

「……美味いって思ったんだから、仕方ねぇだろ」

尋ねたところで、どうせ獪岳からはまともな言葉なんて返ってくるはずがないわ。そうどこか高をくくっていたからこそ、無遠慮に踏み込んだ。だが、まさかそんな言葉が返ってくるとは。あまりにも不意を打たれたせいで、こっちまで態度を取り繕う術を失ってしまう。

「……やだ。本当にかわいいじゃないの……」
「ッ――おい、お前……今なんて言った!」

失言に気付き慌てて口元に手を押し当てたが、そんなことでは間に合うはずもなく。思わず漏れた本音を耳ざとく聞きつけた獪岳はぎろりとこちらを睨みつけてきた。
山を登る道中、言葉をぶつけ合った時よりも遙かに怒りに満ちた表情を目の当たりにしてもなお、コロリと傾いた感情は簡単には戻らない。じっと獪岳を見つめたまま、先程の言葉を噛みしめていると、またもや顔がうるさいとでも思ったのか、獪岳は「クソッ」と吐き捨て、腕を伸ばして私の肩を掴んだ。

「うるせぇんだよ。先生が待ってるんだからさっさと風呂の様子見てこいよ」

あっちに行けとばかりにこちらの肩を押す獪岳は、心から私のことを煩わしいと思っているのだろう。突き飛ばされないだけまだマシとも言えるような力で私を排除しようとする。だけど、怖い顔をして躍起になる姿を見ても、先程もらった言葉を思えば、ちっとも怖く感じなかった。



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