春雷の果てに咲く花 05
気づけば、鬼殺隊を志してから数ヶ月が経っていた。初めは慣れぬ修行に随分と苦労させられたが、毎日のように山々を駆け回っていれば次第に身体は馴染み始める。
衣食住の保証された生活を送れるようになったことで元々痩せぎすだった身体に肉がつき始めると尚更で、昼夜を問わず修行に明け暮れても息が切れない程度の体力が備わりつつあった。
先生が課す修行の匙加減が絶妙すぎるのも功を奏したのだろう。常に俺の限界よりも少し先に目標を設定されたことで確実に俺自身を成長させた。
力をつけると共に、伸びた手足の動かし方もわかってきた頃には、気付けば季節は夏の盛りを過ぎ、もうすぐ秋を迎えようとしていた。
「おかえりなさい、獪岳」
「……あぁ」
朝昼ぶっ通しの修行を終え、いつもより早い時間帯に屋敷に戻ると、門をくぐったところでと鉢合わせた。屋敷の裏手にある蔵にしまい込んでいた薪を運ぶ途中なのだろう。腹から胸に掛けて積み重ねた薪の束を抱えたは、多少ふらつきながらもこちらを振り返ると、俺の顔を見た途端、こちらの都合も考えずへらへらと笑いかけてきやがる。
その表情があまりにも間抜け面に見えて、思わず疲労困憊であることも忘れて口元が緩みそうになった。だが、そのような反応を見せれば、また口やかましく絡まれるのが目に見えていたため、すんでのところで唇を引き結んだ俺は、軽く頭を揺らすだけに留めた。
同じように会釈を返してきたは、俺の顔をまじまじと見つめるとひとつの溜息と共に眉尻を下げる。
「今日も泥だらけじゃない……。それに、血もかなりついているわ。怪我の状態を見るから――」
「必要ない。血もほとんど乾いているし、見た目ほど大した怪我じゃねぇから、構うな」
このやりとりも数日続いていた。今日もまた、提案を撥ねのけたが、きつく眉根を寄せたがすぐさま噛みついてくる。
「良くないわよ。貴方、昨日もその前も、ううん、ここのところ何日も何もせずに傷を放置しているでしょう? 今日こそは見させてもらいます」
強い意志と共にこちらを見上げたは、薪さえ運んでいなければいつものように俺の両頬を張ってでも言い募ったことだろう。その勢いに反発心は沸いたが、の言うとおり放置した傷が膿みかけているのを自覚していたため舌を打ち鳴らすことで返事とした。
「泥を落としたら、玄関で待っていてちょうだい。これを置いたら救急箱を取って戻ってくるわ」
これ、という言葉に合わせては抱えた薪を軽く持ち上げた。大層な量を一度に運ぼうとする横着さに呆れつつも「重くねぇのかよ」と声を掛ければ「しっかり乾燥させてあるから案外平気よ」と返ってくる。
「貴方ほどでは無いけど、私も少しは体力に自信があるのよ。そもそもこのくらいの量を運べなかったら、休憩ばかりしちゃって家事が進まないわ」
もう機嫌を治したのか、聞いてもないことをペラペラ話し始めたは、こちらを振り仰ぐと誇らしげに笑う。我が身の自慢でもって気遣いを無下にされた心地にフンとひとつ鼻を鳴らし、抱えた薪が落ちないように手を添えなおすの姿を眺める。
この後、治療の世話になるのなら、ただ座っての戻りを待つよりも、共に救急箱のある部屋まで出向いた方が手っ取り早いはずだ。そう思い、半分くらいなら持ってやっても構わないと進言しようとした。だが、僅かに残る葛藤を飲みくだせずにいるうちに、は「それじゃ、また後でね」とさっさと風呂釜へと向かってしまう。差し出しかけた言葉の受け取り手がいなくなると共に、遠くなる背中に思わず舌を打ち鳴らす。
――せっかちな女だ。せっかく俺が歩み寄ろうとしてやっているのに、アイツは気付きもしない。
手伝う気が失せると同時に言いようのない苛立ちが沸き起こる。二度と言わないと心中で誓いを立てながら、泥をはたき落とした俺は乱暴な足取りで玄関へと足を踏み入れた。
「ただいま戻りました」
奥にいるであろう先生に声を掛け、上がり框に腰掛けるといつものように用意されていた桶に手を突っ込み泥を洗い落とす。の見立て通り、傷が多いのだろう。冷め始めた湯に触れただけでチリッと指先から染み入るような鋭さが走り、思わず奥歯を噛みしめた。
滲む痛みを堪え、手ぬぐいで顔や腕を拭いながら最近の修行内容に思いを馳せる。
真夏の盛に入ったあたりから、俺の身体が出来上がったという判断のもと、先生は本格的な修行に移行させた。雷の呼吸を学ぶ修行。今はまだ竹刀や木刀での剣技の習得がもっぱらだが、一部は本物の刀を用いての修練も取り入れられている。そのため、これまでとはまた違う種類の怪我が増えつつあった。
木刀を構えた先生の手本を身に受けた際の打ち身や切り傷も、刀を握ることで生まれたマメを潰すのも、踏み込みの際に草履の鼻緒で擦り傷をこさえるのも、すべて必要な怪我だ。だが、そのくらいどうってことないと受け入れた俺とは裏腹に、こちらの苦労を知らないは、怪我を見る度に眉尻を下げ、呆れたような表情を浮かべた。
その顔つきに苛立ちを覚えることもあれば、辛気くさい顔をするなと二度三度と言い合うこともあった。それでも互いの性質に慣れてきたのだろう。以前のように言動のすべてに苛立つような事態は少なくなってきた。
――あとは、アイツが真面目に奉公している様を見ているからか。
掃除、洗濯、炊事、風呂。ほかにも繕い物なんかもしていたのを見たこともあったか。それらがどういう順番で行われているかは知らないが、屋敷に戻る度に、が何かしらの家事に取り掛かっている姿が目に入る。最初のうちは、鈍臭いからいつまでも終わらないのかと思っていたが、日に焼け始めた障子を張り替えているのを見て、何かしら仕事を見つけては働き続けているのだと知った。
鬼殺隊のために尽くすと言われている藤の家に生まれたという話が嘘偽りがないのだと知ると、無下に扱う気が失せるのも致し方ないだろう。見直した、とまではいかない。そもそも与えられた役割に真摯に向き合うのは当然だと思う。
それでも、の真面目な姿勢を憎むつもりにはなれないし、すべての家事手を止めてまで俺の治療に当たる姿を目にすると、思い浮かんだ文句くらいなら飲み込んでやってもいいと思えた。……とは言え、から噛み付いてきたら言い返す腹づもりはあるのだが。
柳眉を逆立てたの表情を思い出すと同時にムッと唇を引き締める。舌を打ち鳴らし、手指の先についた泥を桶の中で洗い落とし、手拭いを畳み直すと比較的清潔な面で手のひらを拭う。付着した血痕は然程の量ではないが、放っておけば次の修行に障るのが目に見えていた。
言われたとおり、に治療をさせるにしても、アイツはまだ戻って来ていない。玄関で待てと言われたが、軽く耳をそばだてたところでが屋敷の中に戻った足音も聞こえてこなかった。
――しょうがねぇから、こちらから出向いてやるか。
待つのは不毛。そう考えた俺は、手桶を抱えると庭の端でお湯を捨て、その足で井戸に向かうと軽く桶を濯いで片付けた。そのまま薪置き場へと足を向ければ、入れ違いを懸念していたが、角を曲がったところでしゃがみ込んだの姿が目に入る。だが、てっきり運び込んだ薪を棚に並べているのかと思いきや、熾した火の加減を見ているさまに思わず眉根を寄せた。
「おい、何やってやがる」
薪を置いてくるから待ってろと言われたが、風呂の準備をするとまでは聞いていない。端からそのつもりだったなら、教えてくれれば先に着替えるなりなんなり出来たものを。時間を無駄にしたかと思うと自然と非難するような言葉が衝いて出た。
「あら、獪岳。こっちまで来てくれたの?」
「テメェが遅いからだろ。この愚図」
剣呑な空気がには伝わらなかったのか、あっけらかんとこちらを振り返ったに反射的に文句を浴びせる。さすがに愚図とまで言われれば、腹を立てたのだろう。はムッと顔を顰めた。
「待たせてしまったことはお詫びをするわ。でも湯加減がどうしても気になってしまって……。貴方だって桑島様に風邪をひかせたくはないでしょう?」
どうやら俺より一足先に帰った先生が風呂に入ったところらしい。壁の向こう側にいる先生に本性がバレたくないということだろうか。は言葉を選んで言い返してきた。
これではまるで、我慢出来ずに文句を言った俺がまるで餓鬼みたいじゃないか。にしてやられたのかと思うと瞬時にして頬に熱が走る。苛立ち紛れに怒鳴り返してやろうかと思ったが、それを制するように、からっとした笑い声が壁の向こうから聞こえてきた。
「すまんな、獪岳。儂がに頼んだんじゃ」
「……いえ。先生は悪くありません」
先生に非は無いと伝えれば、すぐさまが「私にもないでしょう?」と言わんばかりの顔でこちらを見上げてきたがそれはまるっと無視してやった。
「何かと約束でもしておったか?」
「約束と言うほどのことでは……。ただ、こいつが救急箱を取りに行くと言ったきり、戻ってこなかったので……」
戻るのを待つと言えるほどの時間は経過していなかったが、そこは触れずに弁明する。一部を誤魔化したとは言え、事実を口にするのはどこか気恥ずかしさとはまた違う息苦しさを感じたが、握った拳に力を入れることで感情を堪えた。
先生の反応を待つ間、うっすらと背筋に緊張が走る。だが、俺の内心のざわめきとは裏腹に、俺の言葉を耳にしたらしい先生は「そうかそうか」と穏やかに相槌を打った。
「待たせてしまってすまんかったのう。だが、たまにはのんびり待つのもいいぞ。獪岳も、修行を終えて帰って来たばかりなんじゃ。疲れは溜まっておろう?」
「――それは」
疲れているか、疲れていないか。答えは是だが、元柱で、最強と謳われた先生を相手に弱音を吐くのは憚られた。が隣にいる状況では尚更で、言葉を続けるのに窮してしまう。だが、俺の葛藤や空気さえも先生にはお見通しだったのだろう。「疲れてはおらずとも、にはもう少し風呂を焚いてもらおうと思っておる」と暗に時間がかかるから休めと伝えられた。それにさえも応えられずにいると、「のう、獪岳」と呼びかけられる。
「はい」
「――無理をしておると、気付かぬうちに心をすり減らす。強くなるために、幾ばくかの我慢は必要じゃが、それだけではないと覚えておくのも肝心じゃ」
「……はい」
「なぁに、今日無理をせずとも明日にはまた厳しい修行を用意しておる。そのためにもしっかり休める時には休む。それを覚えておきなさい」
説教をめいた印象を和らげるためなのか、わざとらしく明日の修行の方が厳しいぞとほのめかした先生の言葉にうまく返せないまま「はい、わかりました」とだけ返事をする。
とにかく、これ以上ここに留まるべきではない。先生の言うとおり、早くここから立ち去ろう。そう思うまま、横目でを見下ろす。火の前にいるせいか、顔を赤らめたと目が合うと、ぐっと喉が詰まるような心地がした。
「……先に着替えてくる」
「そうね。その方が助かるわ。あとでお部屋に行くから、それまでゆっくりしていてね」
そう言ったに、ひとつ頭を揺らして返事とすると、そのまま踵を返して部屋へ戻った。
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着替えを終え、台所でおむすびをふたつ腹に収めて部屋に戻ると、廊下の先から救急箱を抱えてやってくると出くわした。
「ごめんなさい、待たせてしまって」
「遅ぇんだよ、この鈍間」
「貴方もさっき見たでしょう? 桑島様のお風呂を沸かしていたの。……でも貴方に何も言わず桑島様のお手伝いについたことは本当に申し訳ないと思っているわ」
俺の罵倒に対し、すぐに噛みついてきたかと思えば汐らしく頭を下げたに調子が崩れる。内心、思うところは山ほどあったが今はまず、治療を終わらせるのが先だ。そう考え直し、部屋に入るとどかりと胡座をかく。
「言い訳なんていらねぇんだよ。……さっさとしろよ、愚図」
「もう、本当に貴方ときたら……」
もまた、何やら言葉を押さえ込んだ様子が見て取れたが、溜息ひとつ吐いた後はすんなりと俺の隣に正座をした。その姿を横目で見ると、一番損傷が著しい腕をへ差し出す。
先程、手拭いで拭ったはずなのに、また血が流れていたようで、は薬箱の中から清潔な布を取り出すと、傷口に残った血を拭い始めた。柔らかな布とは言え、数日間放置した傷があるせいか、触れる度にそれなりの痛みが与えられ反射的に眉間が寄る。
「今日は痛みが堪えられないみたいね……。こんなにも膿んでいたらかなり沁みるでしょう?」
当たり前のことを聞いてくるに「うるさい。いいから早くしろ」と伝えると、が眉根をぎゅっと寄せる様が目に入る。だが、珍しく何も言い返して来ないなと思いきや、無言で消毒液の入った瓶から取り出した布を強く手のひらに押し当てられた。当然、先程とは段違いの痛みが手のひら全体に駆け抜ける。
「ッ! おいっ、何しやがる! 今のはわざとだろっ!」
「あら、痛くないみたいだから、それならしっかり薬を塗り込んであげた方が良いと思ったのだけど……痛かったかしら?」
ツンとした表情で俺を睨むは、何度も邪険にされたことで堪忍袋の緒が切れたらしい。嫌がらせのつもりなのか治療にかこつけて反撃をしてくるあたり本当にタチが悪いと言わざるを得ない。
「もういい。自分でやるから離せよ」
「いやよ。傷薬が塗れたとしても、片手では包帯も満足に巻けないでしょう?」
いいから黙って手当をさせろとでも言いたげなの表情に反射的に舌を打ち鳴らす。「だったら早くしろよ」と続ければ「そうさせてもらうわ」とまたもやつっけんどんな答えが返ってきた。
フンとわざとらしく鼻先を逸らしたは救急箱から諸々を取り出すと傷具合を確かめながら、傷薬を布に染み込ませて、手のひら全体に塗り込んでいく。
昔から伝わる薬の匂いが鼻をくすぐると、意識が逸れたのも合って少しだけ気持ちが落ち着いた。わずかに残った憮然とした心地を飲み下せないままをじっと見つめる。
俺の手元に視線を落としているため、目が合うことも俺の怒りに気付くこともない不毛さに、またもや苛立ちが腹の底に溜まりつつあることを自覚した。似たような苛立ちはにもあるのだろう。軽く俯いてもなお垣間見える口元は真一文字に引き締められたままだった。
「……なに、怒ってんだよ」
「別に、怒ってなんかいないわ。ただ、やっぱり傷は毎日見せてもらわないと、と実感しただけよ」
怒ってないと口にする割にまったくこちらを見ないは、いつになく冷静な声で言葉を紡ぐ。その様子に、どうしてか余計に腹が立ってしまい、ムッとをつぐむ。
「いちいちお前に見せる必要なんてねぇだろ」
「貴方がきちんと自分で処置出来るならこんなにも口やかましく言わないわ」
「餓鬼扱いするなよ」
「餓鬼扱いって……。違うわよ。貴方が自分を顧みないのが歯痒いの」
口やかましい自覚があってこれかよ。そう思うまま、さらに反発してみれば、思ってもみなかった言葉が返ってくる。まるでこちらを気遣うようにすら聞こえる言葉に、咄嗟に言い返すことが出来なかった。
の真意がわからず、無意識のうちに眉根を寄せる。だが、怪訝な顔をした俺がその意味を問うより先に、顔を上げたはほんの少し拗ねたような顔をして言葉を紡ぎ始めた。
「これでも心配しているのよ。傷をほったらかしにしていると膿む。それをわかっているのに貴方は今まで何もしなかったでしょう?」
「チッ……。なんだ。お前も説教する気かよ」
「そうね。桑島様も仰っていたのだし、良い機会だからついでに言わせてもらうわ」
手に持っていた道具を箱に納めたは、手を膝の上に置き佇まいを直して俺へと向き直る。そのまま目を伏せ、ふぅとひとつ息を吐くと、眦を釣り上げて顔を上げた。
「貴方、自分への労りが足りていないのよ」
ぴしゃりと言い放ったに、思わず「ハァ?」と反発心に塗れた声がこぼれ落ちる。
「どういう意味だよ」
「別に、深い意味なんてないわ。ただ私が思ったことを言っただけよ」
――その〝お前が考えていること〟がわからないと言っているんだ。
躱されているわけでもないのに上手く噛み合わない会話に自然と苛立ちが募る。俺に対する所見を豪語したからにはなりの根拠があるんだろう。そう思い、話を促してやったのに。
本当に嫌な女だ。そう確信を深めながらも「だから、どういう意味だって聞いてんだよ」と重ねて問えば、は唇の先を尖らせつつもゆっくりと口を開いた。
「改めて聞かれても困るのだけど……。そうね、意味というほどの考えではないけれど」
そう前置いたは、手の甲で口元を押さえて考える素振りを見せると、険しい目線をどこかにやったまま訥々と言葉を紡いだ。
「貴方って、こちらが心を砕こうとしてもいつも面倒だって振り払うじゃない? ……もちろん、受け取る受け取らないのは獪岳の自由だから文句なんて言わないわ。それでも、ひどく虚しくなるのよ」
先程「歯痒い」なんて汐らしい言葉を使ったのはだ。だが「虚しい」とまで重ねた割に、寄せた眉根や握った拳を隠そうとしないあたり、どうやら悔しさの方が強いらしい。
結局、俺を心配していると言うよりも自分の気持ちが満たされないことが要因らしいと気付くと、どこか興醒めしたような心地が生まれる。
落胆とともにひとつ溜息を吐く。だが、それはあくまで自分の表層に現れた態度であって、心の奥に諦めに似た感情よりも強く、湧き上がるものもまた確かにあった。
「結局、お前の気分の問題かよ」
「そうよ。悪い?」
棘を含んだ切り返しをすれば、当然、が目を剥いて食ってかかってくるかと思った。だが、予想とは裏腹にあっさりと肯定され、拍子抜けしてしまう。
ツンケンした態度に思うところはあるが、図星を突かれると開き直るきらいのあるの、本当の気持ちなんだろうと察しがつく。その事に気がつくと、治療されていない方の手が自然と拳に変わっていた。
――腹が立つ。の言い分も、態度も。……その言葉を悪くないと感じている俺自身にも。
思い通りにならないと腹を立てるはひどく身勝手だと思う。
その身勝手さ普段ならどうしようもなく苛立つはずなのに、俺の身を案じる想いが偽りではないからこそ生まれたものだと思うと、胸の内に静かな熱が降り積もるような心地を覚える。それどころか、上っ面の笑顔だけで寄り添った振りをされたり、おためごかしに包まれた労りの言葉を並べたてられるよりも、よっぽど信じられるとさえ感じてしまった。
好意的に考えてしまう自分自身の甘さに苦い感情が広がる。うっすらと浮かぶ気持ち悪さに渋面を刻んだまま、に差し出した手元をじっと見下ろした。
新しい布を取り出し手のひらの傷を覆うと、その上から包帯を巻き始めたの手が、くるくると滞りなく回る。それを目で追っていると、なぜか妙な気を起こしそうになる。
たとえば、不意にこのまま手をひっくり返して、手を掴んでしまいたいような――そんな、衝動。
今までの人生において、一度も思い浮かべることすらなかったいたずらめいた考えが頭をよぎる。少し遅れて生まれた気まずさに背を押されるように視線を逸らすと、ぎゅっと下唇を突き出して感情を抑え込んだ。
「……わざと痛くして悪かったわ」
顔を背け、への字口を作った俺の横顔を目にしたは、傷が痛むとでも勘違いしたのだろう。唐突に謝罪の言葉を口にした。
相変わらず、こっちの話も聞かずに勝手に話を進める女だ。だが、その〝らしさ〟に呆れると同時に、どこか慣れてきてしまったのか、それを許してやっても良いような気持ちまでもが生まれる。
から顔を背けたまま、組んだ胡座の上で、治療中の手とは反対の手で頬杖をつく。そのまま黙り込んでいると、言葉が続かないことに業を煮やしたのか、またもやは一方的に言葉を紡ぎ始めた。
「でも、修行で負った傷さえも治療しないなんてことを続けていると、いざ鬼殺隊に入った時、自分の痛みに気づけないかもしれないでしょう?」
「だから身をもって知れってことかよ」
「そこまでは言ってないわ。ただ……貴方が私に助けを求めるのは、血が止まらないほどの大怪我をした時だけ。擦り傷や打ち身は、ないものとして振る舞う。……さっきも言ったけど、そういうのは嫌なの。小さな傷でも、ちゃんと向き合って治してほしいわ」
だから、自分の身をきちんと気遣え。おそらく、はそのような言葉を伝えたいのだろう。
先程、先生から差し出された忠告とも重なる言葉に、どうしてか唇の先がむず痒くなる。頬杖をついた手にわざと力を入れて奥歯を噛みしめると、改めてから目を背けた。
それでも視界の端には、包帯の端を鋏で切った後、固く結んでいく手の動きが映り込む。もうすぐ治療が終わる気配を感じながらも、俺はいまだに身内に燻る感情と向き合うことが出来ないままでいた。
――別に、どうということではないはずだ。
普段から口うるさい女が、またやかましく噛み付いてきた。否、それどころか自分に酔って説教を垂れてきた。ひどく身勝手で、迷惑極まりない行為をぶつけられた被害者だと言っても過言ではない。
――やはり、気に入らない女だ。
の行為を振り返ると、どう考えても好感を抱くような気持ちになれない。そう結論づけた俺は、に向けるべき感情を定める。だが、すぐに冷たく突き放すような感情が沸き起こるかと思えばそうでもなくて、ひとまず治療が終わるまでの辛抱だと思い直した。
「でもね、獪岳。貴方はまた口うるさいと言うかもしれないけれど……私は、貴方の自分を顧みないほどの努力を、心から尊敬しているの」
不意にが口を開いた。やわらかな声音に誘われるまま思わず耳を傾ける。目線だけを微かに動かせば、正座した膝の上に置いた両手で鋏を持つ手が目に入った。
「貴方のひたむきさが、私は好きだわ」
の言葉に、反射的に顔を上げた。俺が振り向く前からじっとこちらを見ていたのだろう。少し顔を動かしただけで、すぐに視線がかち合う。
――何を言ったんだ、こいつは。
耳に入ったはずの言葉は、脳に辿り着く前に消えていく。それでも頭で理解するよりも先に心理的な影響が出たのか、から差し向けられるまっすぐな視線を受け止めただけで、指先ひとつ動かせなくなった。
「だから、貴方にはここにいる間に、覚えて欲しいの。自分をどうやって大事にするかを」
呆けたまま黙る俺を見つめたは、そのまま言葉を続けると、ゆるりと唇に弧を描いた。いつになく穏やかに笑ったの表情に、反射的に眉根を寄せる。言葉自体はいつものように押しつけがましく聞こえるのに、その笑顔ひとつで俺の身を心から案じているのだと思わされると、言いようのない感情が胸の内に渦巻いた。
「……なぜお前にそこまで口出しされないといけないんだよ」
「あら。だって好きな相手には、長生きしてほしいじゃない?」
ただでさえ軽やかな言葉に「何言ってるの」などと、さも当たり前でしょうと言わんばかりの言葉をは続けた。腸が煮えくり返るような怒りにも似た感情が胸の奥から浮かび上がる。
軽く目を伏せ、巻いたばかりの包帯の位置を整えるから、目が離せない。何か、言葉を――。そう考えれば考えるほど、頭が回らなくなる。それどころか口を開けばまた悪態ばかりをついてしまいそうで、言葉を返すどころか、と向き合うことすら出来そうもなかった。
気まずさに押し負けるように目を逸らすと、正面からふふ、と笑うような声が聞こえた。
「はい、おしまい」
治療の終わりを告げる言葉が耳に入ると同時に、傷口に触らない位置での指先が跳ねた。ここから立ち去る機会を得たことで、にわかに頭が回り始める。
「……チッ。長々とうるせぇんだよ。終わったならもう行く」
「ちょっと! まだ他にも傷はあるんでしょう?」
「後で自分でするからいい」
まだ行くなと言いたいのだろう。追い縋ろうとこちらに手を伸ばしたから乱雑に手を引き戻すと、素早く立ち上がって部屋の外へ足を向ける。
乱暴に障子戸を開き、一瞥を背後に流すと、文句を言いたげな顔で俺を見上げたが目に入る。それに対し鼻を鳴らして顔を背けた俺はそのままに背を向け、視線を断ち切るようにぴしゃりと障子戸を閉めればいつも以上に大きな音が廊下に響いた。
「……ックソ」
障子の向こうで、ようやく悪態をつけた。そのまま自室に向かうべく踵を返すとわざと音を鳴らして歩き始める。
――本当に、気持ちが悪い。
人の心配をして悦に浸るも、俺の腹の内にうごめく感情の正体がわからないことも、すべてが気持ち悪くて仕方が無かった。身体の奥に生まれた熱を持て余した俺にできるのは、口を閉ざしてもなお生まれる舌打ちと罵倒をこぼすことだけだ。
――それもこれも、全部のせいだ。
苛立ち紛れに八つ当たりのような考えを頭に浮かべる。
怒りに塗れた感情を御しきれないまま、辿り着いた自室の障子戸に手を伸ばせば、巻かれたばかりの包帯が目に入る。同時に、手のひらの端をの指先がそっと撫でる感覚が蘇った。触れられた際に生まれた熱は、まだ手のひらに残っている。ただそれだけのことで、心臓がやけにうるさく鳴る。
それだけならば耐えられたのに、耳障りな心音に紛れて、先程のの言葉が不意に耳の奥に蘇ると、またそこから熱が生まれるのを感じた。