三ツ谷06:変わらない愛を君へ

変わらない愛を君へ 01


 学校からの帰り道。途中まで一緒だったクラスメイトと別れたあと、家へ向かう道を逸れてオフィス街へと足を踏み入れる。
 あまり慣れていない道ではあるが知らない道ではない。目的地まで迷いなく歩く途中、キャッチセールスなのかナンパなのか区別がつかない調子で声をかけられたけど、いつものように聞こえていない振りをしてやり過ごす。高校生になってからは学年が上がるごとに声をかけられる頻度は格段に上がったけれど、その分、断るスキルも身についたのではと自負していた。
 ――話しかけられても無視して歩いてればそのうち相手も諦めるから、だもんね。
 以前、待ち合わせ場所へ向かう途中で知らないひとにしつこく声をかけられた時、待ち合わせ場所から見えたからと迎えに来てくれた隆くんの言葉が脳裏を過ぎる。変に応じたり断ったりすると〝付け入る隙がある〟と判断する相手もいると説いた隆くんは、「だから決して振り返らないように」と怪談めいた言葉で私に念を押した。
 呆れと心配の入り交じった顔をした隆くんは「次からは家に迎えに行こうか」なんて冗談も言っていたっけ。懐かしい会話にふふ、と口元が緩む。心配性なきらいのある隆くんはふたりの妹のお兄ちゃんでもある。もしかしたら私もマナちゃんやルナちゃんみたいに手のかかるやつだと思われているのかもしれない。
 ――優しいもんね、隆くんは。
 中学の頃から変わらない認識にますます目元は緩む。出会った時から変わらない〝三ツ谷くん〟の思い出を振り返りながら胸の内を温めていると、目的地に一番近い信号に引っかかった。大通りに面しているため周りにはたくさんのひとがいる。その様子が目に入ると同時に、きゅっと唇を結んだ。
 機嫌よくしていると、また知らない人に声をかけられてしまうかもしれない。目的地まであと少しとは言え、油断大敵だ。
 車が行き交う音と信号から流れるメロディを聞き流しながら、近くにあるお花屋さんに視線を向ける。もうすぐ母の日が近い、というのもあるんだろう。店頭にはカーネーションを中心とした花束の見本がたくさん飾られている。中にはカーネーションを使ってクマやイヌの形を模した人形も並んでいた。お母さんに渡すなら、あの中のどれを選んでも十分喜んでもらえる予感がある。
 定番の商品があるのは助かる。だけどその一ヶ月以上先に控える大事なイベントの贈り物は、そう簡単には決められそうになかった。
 ――隆くんにお花を贈るのは……さすがに変だよね。
 もっと大人になったら様になるのかもしれない。だけど、現状がただの女子高生の私では難易度が高すぎる。思いついた案を即座に却下するのは惜しいけれど、せっかくなら隆くんに喜んでもらえるものを贈りたい。そう考えると同時にひとつ溜息をこぼした。
 最近、学校にいる時も家にいる時も隆くんのことばかり考えている。正確には来月に控える隆くんの誕生日プレゼントについて、だ。
 そのせいか、街中を歩いている途中、目に映るいろいろなものを贈ってみるかどうか考える癖がつきはじめているし、今では考えすぎてなにもかも相応しくないのではと考えてしまうようになっていた。
 ――でも隆くんが花束抱えてたらきっとかっこいいんだろうな。
 たとえ候補から外しても想像だけは豊かに頭を巡る。そう言えば、卒業式に手芸部の後輩から花束もらったなぁ。そんなことをぽやぽやと考えていると、正面の信号が青に変わっているのに気がついた。人の流れに沿って歩きながら、きゅっと顎を引いて前方を見つめる。
 ――もうちょっとしたらゴールデンウィークだし、その前に新しいバイトを始めたいな。
 隆くんの誕生日まで1ヶ月以上あるとはいえ、そろそろ予定を立てないと贈りたいものを見つけた際に先立つものが無いと嘆く羽目になる。
 よし、とひとつ意気込むと同時に、信号の先にある林田不動産までの道を見つめる。今から会いに行くふたりの顔が頭に浮かぶと、またほんの少しだけ口元は緩んだ。
 就職を機に家を出た良平とも、同じ職場で次期社長として勉強中のパーくんとも、以前のように簡単には会えなくなった。もしかしたら春休み以来かも、と記憶を辿りながらも、頭の中はゆっくりと相談内容へと傾いていく。
 昨年、一昨年と友だちに相談しつつも自分なりに考えた誕生日プレゼントを渡すことが出来た。だけど三年目となるともっと喜んで貰えるものを渡したい、なんて欲が生まれてくる。その上で誰かに相談するにしても、隆くんのことをよく知っている人がいい、なんて欲張りな要求までも出てくれば、相談できる人は片手で足りる数しか頭に浮かばない。
 その中でも最も信頼してる相手が良平とパーくんだ。
 ――それでも、隆くんの誕生日プレゼントの相談をするのは初めてなんだよね。
 元々隆くんはふたりの友だちだったから、私以上に隆くんについて詳しいはずだ。そうと知りつつも昨年も一昨年も相談出来なかった理由はただひとつ。恥ずかしかったからだ。
   隆くんにとって良平もパーくんも友だちだが、それ以上にふたりは私の大事な幼馴染という認識が強い。
 良平なんてオムツをはいている頃からの仲だし、パーくんだって保育園のころからずっと仲良しの相手だ。男女の分け隔て無く、兄弟のように過ごしてきたからこそいろんな話を持ちかけることは出来る。だが、家族みたいな関係だからこそ、気後れしてしまう話題もあった。
 恋愛に関しては断然後者だ。パーくんが由美ちゃんとうまくいくかどうか良平とやきもきしていた時も、面と向かってパーくんに探りを入れることはなかった。私と隆くんの時も特に良平からのアクションはなかった。もっとも私の場合、好きだと気付いてすぐに付き合い始めたので良平はひたすらに驚いていたのだけど。
 片思いの時期はもとより、決まった相手が出来たと知られたうえでも、恋をしているさまをさらけ出すのは恥ずかしい。それでも背に腹は代えられない時もある。今がそうだ。
 結局、恥ずかしいなどと葛藤しつつも、こうやって行動に移している時点で腹は決まっている。バイト先の選び方もだけど、ひとまずは何を送ったらいいかの相談をしたい。
 あれこれ考えているうちに辿り着いた林田不動産の看板を見上げると、肩にかけたスクールバッグの紐を持つ手に力が入った。胸に残る緊張感を、ひとつ息を吐く事で追い出しながら、このまま入ってもいいかどうか逡巡する。
 先に電話して出ててきてもらった方がいいだろうか。以前までは慣れてないこともあり表まで迎えに来てもらっていたけれど、前回来た時に「そろそろ慣れたろ」と暗にひとりで入ってこいと言われた記憶が蘇る。
 いくらパーくんの会社とは言え、他の人も働いてる場所に押し入るのにほんの少しだけ尻込みしてしまう。でもいつでも遊びに来いとも言われてるし、もしかしたら良平たちも接客中かもしれない。
 やっぱりひとりで上がろう。そう意気込むまま恐る恐るドアを開けば、何かのセンサーが反応したのだろう。軽快なメロディがフロアに鳴り響いた。
 お客さんでもない負い目があるからこそ、その音と共に社員の人たちの視線が一斉にこちらに集中すると同時に申し訳なさがピークに達する。
 顔から血の気が引いていくのがわかったが、このまま出て行っては働く大人の集中力を断ち切っただけ、なんて最悪な結果しか残らない。後退しそうな足を踏ん張りドアノブに縋り付くと、きゅっと下唇を噛み締めて良平の姿を探した。

「いらっしゃ……ってなんだか」

 音に反応して即座にやってきたのは良平だった。浮かべたばかりの営業スマイルを崩した良平はいつものようにニッとイタズラ小僧のような笑みを浮かべる。その顔を見た途端、気が緩むままに泣きそうな顔をしてしまった。

「りょ、良平……」
「なんつー顔してんだよ」
「音、鳴ったのびっくりして……」
「あぁ、最近使い始めたんだよな」

 そのうち慣れんだろと続けた良平は、固まったままの私に手招きするとフロアの奥へと足を向ける。置いていかれては困る。でも「待って」の声をあげることすらままならない。
 追い縋りたい気持ちが最初に表れたのは腕だった。先を行く良平の背中へまっすぐ腕を伸ばすと、ベルト付近のシャツを指先でつまんだ。びっくりしたように目を丸くして振り返った良平だったが、蒼白な顔で見上げる私を一瞥したあとは眉尻を下げてまた前を向いて歩き始める。

「それよりどーした。こっち寄るの珍しいな」
「……ちょっと、相談したいことがあって」
「オゥ、じゃあ仕事終わらせてくるから待ってろ。とりあえずオマエはパーちんとこにいろよ」
「ん」

 ズカズカ奥へと足を踏み入れる良平を見ていると、入店チャイムによって弾き飛ばされた平常心が次第に戻ってくる。ふーっと長く息を吐くと伸ばしていた手の指先から力を抜いた。そのまま招かれるままに事務所の奥にあるパーくんの部屋へと足を踏み入れる。

「おい、パーちん! 来たぞ!」

 ドラマや映画で見るいわゆる〝重役〟の人が使ってそうな部屋。そのメインデスクの前にドッカリと座るパーくんは次期社長として恥じない風格を纏っていた。険しい顔つきで目の前にあるパソコンのディスプレイを睨み付けていたパーくんだったが、良平の声に顔を上げると人好きのする笑みを浮かべる。

「久しぶりじゃん、。元気してたか? ちゃんとメシ食ってっか?」
「パーちん、それ親戚のセリフ」

 久しぶりに耳にしたパーくんと良平の掛け合いは中学のころと何も変わってない。相変わらず仲のいい様子のふたりに自然と口元は綻ぶ。

「うん。パーくんたちも元気そうで安心した」
「で、今日はどうしたんだよ。部屋探しってわけじゃねぇんだろ?」
「なんか相談したいことがあるってよ。おい、パーちん。オレ、残りの仕事片付けてくっからよ。それまでコイツの相手しててくれ」

 一通り私の状況を説明した良平は、ポンと私の頭の上にて手のひらを置いた。その動作に、ふと保育園に預けられる時、お母さんに似たようなことをされていたのを思い出す。お熱ありません。ちゃんと朝ご飯も食べました。今日もよろしくお願いします。
 良平の心境はまったく違うのかもしれないけれど、なんだか一緒に中学通っていた時以上に甲斐甲斐しく世話を焼かれている気がしてどこか面映ゆい気持ちが沸き起こる。じゃあな、と残した良平が扉を閉めて出て行くのを見送った私は、ほんの少しだけ頬に熱を残したままパーくんを振り返った。

「パーくんは仕事平気?」
「オウ。オレは今、資格取るための勉強がメインだからよ。いつでも大丈夫だ!」

 パーくんの口ぶりに〝大丈夫ではないのでは?〟と疑問を抱いたものの、晴れやかな顔をするパーくんに「勉強しなよ」とはとてもじゃないけど言えなかった。

「ってゆーか、ここまで歩いてきたなら疲れたろ。そっち座って待ってろよ」
「うん。そうする」

 フロアの真ん中にあるソファを指さしたパーくんから視線を転じれば、私の他に先客がいることに気がついた。ソファ前のテーブルに置かれたノートパソコンとにらめっこをしているのは、中学生の時、良平たちが特にかわいがってた後輩のくんだった。

「お久しぶりです、ちゃん」
「うん、くんも久しぶり」

 軽く頭を揺らしたくんは、口元に軽い笑みを浮かべるとまた何やらノートパソコンに向かって作業に戻ったようだ。私と同じく学校帰りの格好をしているはずなのに、この部屋で仕事をしている姿は立派なサラリーマンのように見える。ワイシャツにネクタイなんて出で立ちだから余計にそう思えるのかもしれないが、なんだか場に似合う感じがちょっとだけ羨ましかった。
 集中し始めたらしいくんの邪魔にならないように、と足音に気を付けながらはす向かいに回ると、そっと二人がけ用のソファに腰掛ける。
 校長室に置いてありそうな革張りのソファはいつ座ってもどことなく居心地が悪い。ずっとここで働いている良平は我が物顔で座るけど、どうしてもそんな心境にはなれない。
 ――くんも緊張してないかな。
 仲間が欲しくてちらりと視線を差し向けたが、残念ながらくんは平然と作業を進めているようだった。
 パチパチと澱みないタイピング音が部屋の中に響く中、ひとまず相談は良平の仕事が終わってからにしようと結論づけたパーくんと取り留めの無い会話を重ねる。最近、良平が見つけてきた面白い物件の話だったり、近くにあるご飯屋さんの中でも一押しメニューの話だったりと、話題には事欠かない。そのどれもが面白くて、思わず肩を揺らして笑ってしまう。

「そういや最近はどうなんだ? 学校には慣れたか?」
「まぁ、3年目だし。それなりに」

 相変わらずこちらの心配ばかりを重ねるパーくんの口ぶりに、ふふ、と笑みがこぼれる。良平がいたらきっと今の言葉も親戚の台詞だとジャッジされたことだろう。
 だがいつまでも笑ってばかりではいられない。こちらの近況を話す番になったのならなにか面白い話を提供しなければ。
 最近なにかクラスで話題になっているものはあっただろうか。前にここに来たとき、学校の近くに出来たクレープ屋さんの話を持ちかけたらパーくんはすごく興味を持っていたけど、あの後に行けたんだろうか。軽く考えを巡らせていると、ふとカレンダーが目に入った。日付を何気なく目で追っていると、もうすぐ学校で行われるイベントが脳裏に浮かび上がる。

「あ、そういえばもうすぐ体育祭があるよ」
「へぇ、いいな! は何の競技に出るか決まってんのか?」

 目を輝かせて話題に乗ってくれたパーくんに、またほんの少し口元がほころぶ。
 
「リレーと玉入れ」
「えっ! 高校でも玉入れとかあんのかよ」
「うん。結構人気だよ」
「へー! まぁ面白いもんな!」

 うんうん、としたり顔で頷いたパーくんは「小2の時に玉入れやったよなー」なんて思い出を振り返り始める。

「クラスは違ったけど、たしか3人とも同じチームだったよね」
「そーそー。あの時さー、一個でも多くかごの中に入れたくてよー。ぺーやんのやつ、を肩車しただろ?」
「された」

 パーくんの言葉を引き金に思い出した記憶が頭を過れば、思わず笑いながら応えてしまう。
 今思えば、当時からそれなりに背の高かった私たちが手を組んで肩車するなんて、かなりの反則技だっただろう。だが、肩車をすることで玉入れの籠は近づいたが、それで有利に事が運んだかというとそういうわけではなく。肩車をしたままでは玉を拾うことが出来ないなんてオチだったはずだ。
 ふたりともまともな戦力にならなかった結末を思い出しては私とパーくんの溜息が重なる。

「あのときオレが玉を拾っていればなぁ……」

 胸の前で腕を組んだパーくんは当時の失敗を随分と後悔しているらしい。悔恨に塗れた表情で唸るパーくんを見ていると、自然と眉尻が下がった。 

「それにしても運動会かぁ。いいなぁ……。あ、オレらも応援行くか?!」
「いや、さすがにつまみ出されますよ」

 黙って作業に没頭していたはずのくんが不意に言葉を挟んでくる。目を丸くしたパーくんと私が視線を差し向けると、くんは眉根を寄せて困惑の表情を浮かべていた。

「マジ? なんで?」
「あぁ、それはですね……」

 軽く言い淀んだくんの視線がこちらに差し向けられる。自分が説明するべきか私に委ねるべきか。その判断を仰ぐための視線だと察した私が〝どうぞ〟と手のひらを差し出してくんに話してもらうよう誘導すると、くんは一度頭を揺らしてパーくんへと視線を戻した。

ちゃんのとこの女子校って割とガードが堅いので有名なんですよ。たしか招待客のみ入れる、なんて制約がありましたよね?」
「あ、うん。ある」

 くんの言うとおり、体育祭や文化祭など外部の人を招待できるイベントは、あらかじめ生徒に配られるチケットを持ってないと学校に入れないようになっていた。
 
「へー。そうなのか。で、そのチケットって何人まで入れるんだ?」
「どうだっけ。ちょっと待って」

 つい先日、帰りのSHRで招待用のチケットを配られたが、誰にも渡さず学校の鞄に入れっぱなしにしていたはずだ。そう思い当たり、大事そうなプリントを入れる用のクリアファイルの中を検めれば、思った通りチケットを入れた封筒が入っていた。白地の封筒を開き、中を確認すると一枚あたりひとり入れるチケットが3枚入っていた。

「3人呼べる」
「じゃあオレとぺーやんとでちょうどいいじゃん!」
「親御さんを差し置いちゃうんですか?!」

 パッと表情を明るくさせたパーくんの言葉に、くんは心底びっくりしたようだった。くんの反応を目にしたパーくんは何を驚いているのかわからないとばかりにキョトンと目を丸くする。

「なんで? ダメか?」
「いや、さすがにナシでしょう。っていうかオレはカウントしなくていいんで。そこはせめて三ツ谷くんに声かけましょうよ」

 眉を八の字にして困惑の色を浮かべるくんに対し、パーくんは頭の上にクエスチョンマークを散らしたような顔で首を傾げた。

「えぇ、三ツ谷ァ? アイツ来るかな? いつ誘ってもだいたい忙しそうだけど」
ちゃんの体育祭に行くのに誘わない方が不誠実ですよ。っていうか話が逸れた! 一番はちゃんのご両親を優先するべきではって話がしたかったんです」

 ポンポンと飛ぶ会話を耳にしながら、ふたりが発言する度に目で追った。次のターンはパーくんの番だ。そう思いパーくんを振り返ればパチッと視線が交差する。くんの言い分に納得がいかないと言わんばかりの顔つきのパーくんは、胸の上で両腕を組んで更に首を傾げていた。

んちのおばちゃんも親父さんもオレらならいいよって言ってくれそうだけどなぁ……。なぁ、。一回聞いてみてくんね?」
「お母さんたちは大丈夫と思うけど……ただ、よく考えたらうちの学校、親以外はダメって言いかねない」

 つい先程、隆くんの名前が出たことで思い出した注意点を口にすると、パーくんは大きく口を開いて「ハァ?!」と叫んだ。残念そうに眉根を寄せたパーくんの顔を見ていると、こっちまで気持ちが落ち込んでいく。きゅっと眉根を寄せ、鞄から出したばかりのチケットに視線を落とす。
 配られたチケットには、渡す相手は生徒の一存で決めていいときっちり書かれている。けれど、1年の時も2年の時も、担任の教師からは「基本的には親か兄弟姉妹に渡すように」なんて言われたし、彼氏を呼んだら先生に追い払われたなんて噂を聞いたこともあった。
 ――だからなんとなく申し訳なくて隆くんにも渡したことないんだよね。
 せっかく来てくれたのに学校に入れませんでした、なんて事態が起こってしまったら申し訳なさ過ぎる。そんな説明をした上で「ごめんね」と謝れば、眉尻を下げた隆くんは「しょうがないよ」と笑った。聞き入れてくれた優しさに感謝もあったが、残念に思う気持ちがなくなるわけではない。
 思い出しただけでも胸の奥がチクチクと痛む。揃えた膝の上に置いた手に力が入れば、指先で押さえたチケットにシワが入った。
 今度の体育祭が終われば秋の文化祭がラストチャンスだ。一度くらい招待できたらいいんだけど、と唇を尖らせていると、パーくんの「マジか……」とひどく残念そうな声が聞こえてきた。
 顔を上げてパーくんに視線を向ければ、はす向かいに座るくんもまた眉尻を下げてパーくんを見つめているのが横目に入った。

「ご両親がOK出されてもジャッジするのは学校側ですからね。防犯対策の意味もあるでしょうし、同じ年頃の異性が入るのはストップかかるはずですよ」
「オレらきょうだいみてぇなもんなのになぁ……」
「みてぇなもんでも世間から見たら他人扱いされちゃうんですよ」
「冷てぇもんだなぁ……」

 またひとつ、パーくんが溜息を零す。行きたいと言ってくれるパーくんの気持ちはとても嬉しい。私だってせっかくなら来て欲しいのに、学校の曖昧な基準のせいで誘うことすらままならない。
 3年目もきっと、諦めなければならないんだろう。味気ない予想が頭に浮かび、残念さと歯痒さが合わさると重い溜息が唇をついて出る。そんな私たちの暗い表情を眺めていたくんもまた肩を落としているようだった。
 
「オーイ、終わったぜ。……ってなんだよ、暗ぇな、オイ!」

 後ろ頭を掻きながら勢いよく扉を開けた良平は、どんよりとした空気を纏う私たちを目にした途端、顔を顰めて声を荒げる。しょんぼりとした気持ちを抱えたまま良平を見上げると、突き出てんぞと、と注意する代わりか自分の唇を指先で突いて示した。
 指摘の通り軽く突き出ていた唇を内側に引っ込めれば、ひとつ頭を揺らした良平はパーくんのデスクへと足を進める。

「早かったな」
「オゥ、もうほとんど終わってるの片付けただけだからな」

 言って、小脇に抱えていた紙の束をパーくんに渡した良平は、こちらを振り返るとまた眉根を寄せて苦い表情を浮かべた。

「っつーか何も出してねぇのかよ。おい、。オマエもなんか飲むか? つってもコーヒーか水くらいしか用意ねぇけど」
「え、うん。じゃあコーヒー飲みたい」

 突然差し出された二択に狼狽えながらも答えると良平は「オウ」と頭を揺らした。

「パーちんとはァ?」
「オレもコーヒー!」
「あー……。じゃオレも同じのでお願いしまーす」
「わかった。持ってくっから座って待ってろ」

 パーくんがハンコを押した書類の束を受け取った良平は、入ってきたばかりの部屋を出て行こうと踵を返す。その背中に待ったをかけるべくソファから立ち上がりながら「良平」と声を投げかければ、良平はドアノブに手をかけたままこちらを振り返った。

「私もついていっていい? 運ぶの手伝う」
「おー。じゃあこっちな」

 頭を揺らした良平の背中を追ってパーくんの部屋から出ると、良平は近くの棚に受け取ったばかりの書類の束を置いて事務所の奥へと足を進める。そのまま従業員専用のスペースへと足を踏み入れれば何人かの先客がいたが、軽い会釈と共に奥の喫煙所へと入っていった。

「……お邪魔しちゃったのかな」
「アァ? いや、ただ単に煙草吸いたかっただけだろ」
「ふぅん」

 首を捻りながらも「そっか」と頷けば、良平は「そーそー」と事もなげに黒い持ち手と使い捨てできるプラスチックのコップを4つずつ手に取った。ん、と差し出されたふたつ分を受け取り、それぞれにコップをはめながら横目に部屋の中を観察する。
 自販機こそ無いけれど、コーヒーマシーンとウォーターサーバーの他にも冷蔵庫やポットが並んでいる。自分で好きなものを買ってきたら入れていいことになっていると説明する良平の言葉に相槌を打ちながらコーヒーマシーンのボタンを押した。
 ひとつ、ふたつと注いでいると、三つ目をこちらに寄越した良平がウォーターサーバーから水をつぎ始めたのが横目に入った。

「コーヒー4つじゃなくていいの?」
「ん? あぁ、こっちは用。アイツ本当にコーヒー持ってくとスゲェ渋い顔するから」
「そうなんだ」
「まぁ、オレも苦ぇのは好きじゃなかったしな」

 冷たい水を注いだコップを持ってきた良平はひとつ溜息を零すと、棚からミルクや砂糖の入ったかごを出してくれた。自分が飲むつもりの分に砂糖とミルクを入れながら、マッカンはコーヒーだと言い放っていた良平の中学時代の姿を思い浮かべる。
 普通のコーヒーを飲むようになった良平を横目に、また少し大人になったみたいだと感心したのも束の間、砂糖とミルクを大量に入れているのを見てやっぱり変わってないかもしれないと唇を結んだ。

「そう言えばパーくんの分は何も入れなくていいの?」

 コップの中をぐるぐるとかき回す良平に尋ねてみれば、良平は軽く目線を斜め上へやったあと軽く唇を突き出した。
 
「あー。まぁ、いいだろ」
「いつも入れてないの?」
「入れても入れなくても苦そうに飲んでっからな」

 それはもうコーヒーじゃない方がいいのでは。そう思いつつも注いでしまったものはどうしようもないし、パーくんがコーヒー飲むと言った以上、水を持って行くのも違う気がする。
 今度来るときはコーラでも差し入れしようかな。そんなことを考えながら良平と並んで先程の部屋に戻り、ブラックコーヒーをパーくんへ手渡す。「ありがとな」とニコニコ笑って受け取ったパーくんだったが、早速コーヒーに口をつけると良平の言ったとおり「苦ッ」と顔を顰めた。

、こっち座んだろ」
「あ、うん」

 ソファの近くに立つ良平に呼ばれるままさっきと同じ場所に腰掛ける。置きっぱなしにしていたスクールバッグを手繰り寄せれば、空いたばかりのスペースに良平がどっかりと座った。相変わらず集中した顔でパソコンに向かうくんの手元に水の入ったコップを置いた良平は、カフェオレよりも牛乳にほど近い色をしたコーヒーに口をつけるとこちらに視線を向ける。

「で、どーしたんだよ」

 最初に会った時、良平には相談したいことがあると伝えていた。だが、座ってすぐに聞かれるとは思っておらず、不意打ちで話を切り出されると微かに動揺してしまう。
 自然とコップを持つ手に力が入ったが、驚いた私を振り向いた良平は軽く首を傾げるだけだ。とりあえず一口、とコーヒーに口をつけると、視線を泳がせながらぎこちなく言葉を紡ぐ。
 
「んっと。ちょっと、相談したいことがあって」
「オゥ。そりゃさっき聞いたわ。それで? 肝心の話はなんだよ」
「うん。……タ、三ツ谷くんのことなんだけど」

 そう切り出すと同時にもう一度コーヒーに口をつける。首の裏にある熱はコーヒーの熱さによるものではないと自分が一番知っていた。
 気恥ずかしさが集まる襟元に手をやり、ふ、と息を吐く。幼馴染ふたりの前ではどうしても〝隆くん〟とは呼びづらい。名前で呼び始めてもう2年は経つのに、一度誤魔化してしまって以来、ずっとふたりの前では〝三ツ谷くん〟と口にしてしまう。
 いつかは慣れないと、と思いつつもとりあえず克服するのは今じゃないなと問題を先送りにして、今日ここにやってきた目的を口にする。

「来月……その、三ツ谷くんのお誕生日があるから、何を渡したらいいか迷ってて」
「ンなまどろっこしい相談してねぇで、本人に聞けばいいじゃん」
「ちゃんと聞いたよ。物によってはバイト始めないとだし先に知りたいって。けど……」
「けど?」

 あっけらかんと解決方法を口にした良平に思わず眉根を寄せる。直球の質問ならすでに隆くんへ投げかけていた。ただ、期待していた欲しいものとはちょっと趣の違った答えが返ってきたため何を渡したらいいかわからなくなってしまったのだ。
 その際、言われたことをそっくりそのまま良平たちに伝えるべき空気が流れたのにまた胸の奥に緊張と気恥ずかしさが募っていく。口ごもる私を間近から見つめる良平の視線から逃れようと顔を背けたところで同じように言葉の続きを待つパーくんと視線が交わるだけだった。きゅっと唇を結び、テーブルの上に置かれたままのくんのカップへと視線を向けながら、薄く唇を開いた。

「当日は美味しいものを食べれたらそれでいいって言われたの。その代わり、バイトなんてしなくていいから……暇なときは、そのイ……一緒に遊べたほうがいい、くらいのこと言われちゃって」
「謙虚な三ツ谷ってなんか気持ち悪ぃな……」

 隆くんからの言葉を半分ほど伏せて伝えると、パーくんがあんまりな評価を口にする。「えぇ……」と反論めいた言葉を漏らしたものの、パーくんが発言を撤回することはなかった。そんなことないよね、の気持ちで良平を振り返ったが、良平もまたパーくんと同じ心境らしく、歯を食いしばり今にも吐きそうなのを堪えるような表情を浮かべている。
 たしかに隆くんは言いづらいこともちゃんと注意できるひとだし、自分なりのスタイルを持っているひとだから謙虚とは言えないかもしれない。けど必要以上に押しが強いわけでもなければ、ちゃんと思いやりだってあるひとだ。私に対して望んだ答えだってきっと隆くんにとっては遠慮したわけでもない本心からの言葉と信じられる。
 ただそう庇い立てするようなことを考えつつも、私から見る隆くんの姿もほんの一面に過ぎないということも理解できた。良平たちにだってふたりなりの隆くん像があるのだろう。きっと友達にだけ見せる顔もあるんだと思うとほんの少しだけふたりを羨ましく感じた。

「まぁ、三ツ谷くんの言うことも一理あるッスよ」

 不意に紡がれたくんの言葉が耳に入り、斜め前へと視線を伸ばす。いつの間にかノートパソコンから顔を上げていたくんは眉尻を下げ困ったような顔をしていた。右手で左肩をほぐすくんは、テーブルに置いたコップに手を伸ばしながら言葉を紡ぐ。

「要はちゃんがバイトして会う時間削られるくらいなら毎日ちょっとでもイチャイチャしたいってことッスよね」

 言いたいだけ言って一息に水を飲み干したくんは手の甲で口元を拭うと、また前傾してノートパソコンへと向き合った。つい先程、会話のすべてを曝け出すことが出来ず、言い淀んだ言葉がまさにそれだった。
 まるで現場を見てきたかのように正確に口にしたくんに言いたいことはたくさんある。だが再び作業に戻られてしまうと、訂正も誤魔化しすらも受け付けてないと言われているようで、羞恥に震える唇から言葉を紡ぐことすら出来なかった。
   くんの口ぶりに楽しそうに笑った良平は「言いそー」と苦笑交じりで続けながらパーくんを振り返ると親指で私を示した。

「パーちんは知らねぇだろうけど、コイツと付き合い始めたときの三ツ谷すげー厳しかったんだぞ」
「そんなこと、ないけど」

 くんの言葉を訂正できなかったのが尾を引いているのか言葉がぎこちなくなってしまう。弱々しい反論に言い返す好機だと思ったのか。顔を歪めた良平は「んなことあんだよ!」と言葉を荒げる。
 
「あの野郎、オマエの前じゃしおらしい態度見せてたかもしんねぇけど、オレは相当文句言われたからな?!」
「し、知らない」

 良平が見当違いなことを言ってたしなめるならともかく、隆くんが良平に文句を言うなんて想像つかない。そんな思いと共に首を横に振ると、良平が「知らねぇじゃねぇっつの!」と顔を近付けて凄んできた。

「肩抱くな、勝手にが食ってるモノを食うな、部屋に入るな、ベッドに乗るなってもう覚えてらんねぇっつの」

 あれもこれもと指折り数えはじめた良平は五本の指をすべて折りたたんだが、折り返しに差し掛かると同時に手のひらを大仰に振った。ソファの背もたれにどっかりと寄りかかった良平は天井を仰いで「アー! 思い出したら腹立ってきたッ!」と怒鳴り声をあげる。
 口から炎を出さんばかりの怒りを目の当たりにしても、その原因と言われる隆くんの態度が結びつかず困惑に眉根を寄せた。
 
「ぺーやんくん、わけわかんなくなりすぎてちゃんに近付くなって叫んでましたもんね」
「あんだけ三ツ谷がうるせーとな」

 またしても不意に会話に混じってきたくんは一瞬顔を上げたようだったが、言葉を紡ぐと即座に作業へと戻ってしまう。よく見ればくんは耳の穴に耳栓をねじ込んでいるようだった。気になる話があるとつい口を挟んでしまうようだが、基本的には会話に参加する気は無いらしいと知るにはそれでで十分だった。
 器用な子だと感心しつつ、くんの言葉を振り返る。
 言われてみれば、確かに隆くんと付き合ってすぐのころ、良平の動きがぎこちない時期があった。腫れ物に触るような扱いを受け、良平に嫌われたかもしれないと隆くんに相談した記憶もまた蘇る。あれが隆くんによる〝文句〟の結果だったとしたら、隆くんにとっては耳の痛い相談だったかもしれない、なんて今更ながらに反省の念が浮かび上がる。
 当時の様子を知らないパーくんが「そうなのか?」と尋ねてきたので、うん、とひとつ頭を揺らした。そのまま隆くんに何を言われたのか言い募り始めた良平の言葉を聞き流しながらコーヒーに口をつける。
 隆くんの他にも、良平との距離が近いことに対し苦言を呈された記憶がかすかに蘇ってくる。「いい機会だから言っておくね」と前置きした安田さんたちにも、いくら幼馴染だとしてもあまりにも距離感が近いと諭されたっけ。
 正直、今も適切な距離感はわかってないけれど昔に比べたらあまり頻繁には会えなくなった分、改善されていると思う。多分。
 あまりにも頼りない認識に対し心の中でも保険をかけていると、良平がパーくんに向かって吠えるように訴えかけているのが耳に割り込んでくる。当時の記憶を思い出したことで怒りもまた復活したのだろう。
 私がパーくん側に座っているのと怒りで興奮しているせいも重なって、さっきよりも良平がこちら側に詰め寄っていることに気がついた。大きく足を開いた良平の膝横辺りが私の太ももに触れているのに気付き、ほんの少しだけ足を離す。
 ちゃんとこういうのに気付いて対処していけばいつか適切な距離感とやらに慣れるはずだ。そう思ったのも束の間、良平が更にぐいっとこちらに近付いたことでこれはダメだと悟った。
 こっちが引くくらいでは意味が無いのなら、と、ソファの背もたれに腕を載せたことでガラ空きになった良平の脇腹に手のひらを添える。暗に「近い」と含んで押し返せば、良平は「なんだよ」と悪態をつきつつも少しだけ距離を取ってくれた。

「で、結局はうまいこと三ツ谷に探り入れろって言いにきたってわけか?」
「そうしてくれると助かる」
「はいはい。ったくよー」

 まだまだ言いたいことはたくさんあったのだろう。億劫そうにパーくんへの訴えを打ち切った良平は、胸ポケットからケータイを取り出すと「えっと、三ツ谷、三ツ谷……」と言いながら操作し始める。
 電話帳から隆くんに行き当たったのだろう。プップッと音を出すケータイを耳に宛がった良平が軽く前傾したのに合わせて私も自分の膝上に肘を置いて頬杖をつく。電話が繋がるかどうか。じっと良平の横顔を眺めて待っていると、程なくして呼び出し音が消えたのがほんの少しだけ耳に届いた。
 電話越しに隆くんが何か言ったのが朧気に聞こえたが、さすがにこの距離では聞こえない。きゅっと眉根を寄せた私の顔を横目で確認した良平は、聞こえやすいようにという配慮か少しだけケータイを耳から離しこちらに頭を近付けた。
 ケータイを持つ手の指をちょいちょい動かした良平は手招きしているつもりなんだろう。聞いてもいいのかな。軽い戸惑いは生まれたが、相談したのは他ならぬ私だし、気にならないと言えば嘘になる。ほんの少しの葛藤はあれど、ちっぽけな理性が隆くんのことなら知りたいという願望に勝てるはずもなく、私もまた良平の持つケータイに耳を近付けた。

「ヨォ。三ツ谷、今ちょっと話しても平気か?」
「ん? まぁ、休憩中だから大丈夫だけど……どうした、なにかあったか?」

 さっきよりも明瞭に聞こえてきた隆くんの声に思わずぐっと喉奥に力が入った。この距離で声を出してしまうと隆くんに聞こえてしまう可能性がある。そう思いつくと同時に息遣いひとつ聞こえないように、と頬杖をついていた手のひらを移動させて口元を覆った。
 
「オマエさ、もうすぐ誕生日じゃん? いるもんあるか?」
「ハハ、唐突だな」

 直球で投げ込んだ質問に思わず目を見開く。「うまいことやる」と豪語したのは良平だ。だが今のはどう考えてもうまくない。驚きと共に反射的に身を引いたまま、良平の横顔を見つめる。悪い顔しているわけでもない。いつも見る横顔には、良平が今の聞き方がベストだったと確信しているのだとありありと描かれていた。
 だが、ここで呆れていても仕方がない。もう既に言葉は投げかけられたのだから、あとは隆くんがストレートに答えてくれるのを祈るのみだ。
 次に紡がれる隆くんの言葉を聞き逃すわけにはいかないと、軽い笑い声が漏れ聞こえるケータイに再び耳をそばだてる。
 
「そんなモノくれるなら今度家借りる時に敷金安くしてくれよ」
「ハァ? 借りる予定あんのかよ」
「んー。まぁぼちぼちアトリエ借りてぇなって。線引くのにもさすがに床置きじゃ辛ぇし」

 苦笑混じりの言葉に、何度か遊びに行った隆くんのお家を頭に思い浮かべる。ルナちゃんやマナちゃんと共同の部屋は、たしかに満足な作業スペースはなく、型紙を作るのも大変そうに思えた。

「まぁ、話の目処がたったらちゃんと相談するよ」
「オゥ。その時はいい物件見繕ってやるから期待しとけ」
「はは。じゃあ敷金の件も期待しとくなー」
「ハイハイ。休憩中に悪かったな」

 苦い笑みを浮かべて「じゃあな」と続けた良平はそのまま電話を切った。

「こいつマジでガメツいしちゃっかりしてるとこあるワー」

 溜息交じりで閉じたケータイを胸ポケットに収めた良平は、どっかりとソファの背もたれに寄りかかる。私もまた前傾していた身体を起こし、詰めていた息を吐き出した。

「三ツ谷、なんだって?」
「あぁ? 今度、部屋借りるから敷金どうにかしろってさ」

 パーくんの質問に対し、軽く手を振って答えた良平はテーブルに置いたコーヒーに手を伸ばして飲み始めた。その姿を横目に眺めながら、先程の隆くんと良平の会話を頭の中で反芻する。
 結局、プレゼントに何が欲しいかはわからなかったが、隆くんが望むお金の使い方がわかっただけでも進展したと言える。

「じゃあその敷金を私が肩代わりして払えば……」
「……オマエなぁ。敷金がどんくらいかかるのか知らねぇだろ? 重いわ。そんなまとまった金額払われても」

 呆れたように言う良平はゲンナリした顔でこちらを見る。
 そんなことを言われても、家を探したことがないから知らない。軽く唇を尖らせつつも、どのくらいかかるんだろう、と首を傾げれば、良平はテーブルの隅に置いたままだったノートパソコンを開き、なにやら操作し始める。

「オラ、これ見ろ」
「ん」

 こちらから見えるようにノートパソコンを滑らせた良平の横から遠慮無く画面を覗き込めば、良平がディスプレイの上を指でトントンと指し示す。
 毎月の賃料、礼金、敷金と並ぶ欄。そこに書いてあった金額は、高校生の私では簡単に払えそうにない数字だった。
 予想以上の金額に思わずひるんでしまう。だけど「それでも隆くんが望むなら」なんて考えもまた浮かんできた。
 いつもお世話になってるし、クレープとかお茶とか何かにつけて奢ってもらっちゃってるんだから、誠意を見せるためにもここはひとつ、私も頑張るべきなんじゃないだろうか。

「ら、来年の誕生日までにならなんとか……」
「バァカ。三ツ谷が受け取るわけネェだろ。っつーか万が一オマエに払わせるってんなら絶ッ対ェ契約させねぇワ。なぁ、パーちん」
「オゥよ」

 今年は間に合わなくとも来年こそは。そんな気持ちと共に苦渋の決断を口にしたが、あっさりとふたりに一蹴される。なんで、と見上げたが心底呆れたと言わんばかりの視線が落ちてくるだけで、良平が後押ししてくれる気配は微塵も感じられなかった。
 ノートパソコンを閉じ、元あった場所へと滑らせた良平はソファに深く腰かけ直しながらこちらを振り返る。

「ってゆーかオマエ、三ツ谷に誕プレやるの初めてじゃねぇだろ。昨年とか一昨年とかどうしたんだよ」
「えっと……ちょっといいハサミとか、革のブレスレットとか渡した」

 どちらも喜んでもらえた記憶と共に思い返すまま答えると、パーくんが「おっ!」と声を上げる。

「いいじゃん! 三ツ谷っぽくて。今年もそういうのにしねぇの?」
「……ネタが尽きたから」
「早ぇな、オイッ!」

 項垂れながら答えると、良平はソファからずり落ちるようなオーバーリアクションと共に天井を仰いだ。
 昨年も一昨年も安田さんや由美ちゃんに相談した結果だと言えばまた呆れられるかもしれない。余計なことは言うまいと、キュッと口を噤んだ私を、姿勢を戻した良平は不思議そうな顔をして覗き込んできた。
 今にも「怒ってんのか」と聞いてきそうな顔つきから逃れるように俯く。
 
「まぁ、が思いつかねぇってんならオレらも考えてやっからよ。なんか他にねぇか考えてみろよ」
「……ん」

 良平なりに気を遣ってくれているのがありありと伝わってくる言葉にきゅっと唇を結ぶ。ポン、と頭に触れた手の優しさに頷いて応じると、私はそのまま良平を振り返った。

「じゃあ良平だったら何がいいの?」
「そーだな……新しい服とか……? 会社で着る用のやつ、袖が汚れてきたしよー。あ、オマエ、次のオレの誕生日それ買ってくれよ」
「いいよ。サイズは? Lとかでいい?」
「あー……。スーツ用のやつ袖とか首周りとかあんだよな。オマエ見分けつけられっかな……」
「つかない」

 ふるふると頭を横に振ると、離れた位置からパーくんの笑い声が聞こえてきた。

「そういう時だけ自信たっぷりだよなー、は」

 振り返った先にいたパーくんは頬杖をついてこちらを見ていた。苦笑まじりではあるがやさしい視線に口角を上げて応えると、隣から小さな溜息が聞こえてくる。

「……まぁ、いっか。じゃあどのサイズがいいか教えてやっから、一緒に買いに行こうぜ。ちょうどオレの誕生日は水曜だしよ」

 テーブルに置かれたカレンダーに手を伸ばした良平は、10月までめくってちゃんと自分の誕生日が何曜日なのかを確認しているようだった。隣から覗きこめば、良平の言うとおり15日は水曜の欄に書いてあるのが確認できる。

「良平が休みでも私は休みじゃないけど……」
「別に朝から行かなくてもいいだろ。オマエの学校が終わるのにあわせてオレが迎え行けばよくね?」
「そっか。わかった」
「よし、決まりな」

 カレンダーを元の位置に戻した良平はこちらを振り返ってニッと歯を見せて笑う。久々に良平とおでかけだと思うと、自然とわくわくしてしまう。

「……って、ぺーやんの誕プレ先に決めてどうすんだよ」

 呆れた声色で紡がれたパーくんの的確なツッコミにハッと我に返る。半年先の良平の誕生日よりも今は一ヶ月先に迫る隆くんの誕生日だ。
 ソファの背もたれに片手を置き、パーくんを振り返ると今度はパーくんにも同じ質問を投げかける。

「パーくんだったら何が欲しいとかある?」
「オレか? そうだなぁ……。パッとは思いつかねぇけど、ただオレが欲しいもんと三ツ谷の欲しいもんは違うだろうしなぁ」
「たしかに……」

 パーくんのもっともな意見に思わず口を噤む。振り出しに戻ってしまった感が強すぎて、ぎゅっと眉根を寄せると、パーくんもまた同じような顔をしているのが目に入った。お互いどんよりとした空気を背負う中、唯一残った選択肢が頭の片隅を過ると、どうしてもその考えに囚われてしまう。

「やっぱり敷金を……」
「マジでやめろバカ」

 再びその案を口にしようとした私の言葉は良平の鋭い声で掻き消される。こう何度も否定されるとやっぱりまずい選択肢なのかもしれない、とさすがに思い始める。チラリとパーくんの反応を伺ったが、パーくんもまたあまりいい顔はしていなかったので、やっぱりダメみたいだと察しがついた。
 だがこうなると、本当に隆くんの欲しいものがわからない。ぎゅっと眉根を寄せてひとつ息を吐くと、降参だとばかりにソファに深く腰掛けた。

「……とりあえず、まずはバイトだけでも始めようかな」

 敷金は無理だとしても、家を借りるのなら何かしら必要なものが出てくるはずだ。もしかしたら引っ越し準備中に最適なプレゼント案が出てくるかもしれないし、先立つものの準備だけはしておかないと。
 もとよりバイトを始める気ではいたが、ほんの少しだけでも展望が開けたような気がしてより一層気合いが入る。

「そーだな。先立つモンは必要だしな」
「だよね」

 良平の言葉に頷いて応じると、口元でコーヒーを傾けた良平から「で、どこでバイトすんだよ」と飛んでくる。

「うん……。またファミレスとか、カフェとかにしようかなぁって。良平たちはどこか行きつけのお店とかある?」
「あるけど……オレらが行くの定食屋とかラーメン屋ばっかだしなぁ。――なぁ、パーちん。あの辺でどっかバイト募集してたとこあったか?」
「さぁ、どうだろうなぁ。バイト募集の張り紙なんて気にしたことねぇからなぁ」
 
 良平に釣られてパーくんを振り返ると、腕を胸の前で組んで困ったような顔をしたパーくんの姿が目に入る。きゅっと眉根を寄せながら「飯屋に行ったらメニューか飯しか見ねぇもんなぁ」と続けたパーくんにそれもそうだと頭を揺らした。
 ソファの背もたれに肘を乗せた良平は、頬杖にしてはだいぶ偉そうな格好でこちらに視線を向けてくる。

「つってもオマエ、接客するにしても前ンとこで客と揉めたろ」
「揉めた」

 前のとこ、と言えば駅前にあるファミレスだ。高校生になってすぐの頃に始めたバイト先で、初めての接客業ということもあってか、緊張ばっかりしてた記憶がある。
 それでも半年ほど務めることでようやく慣れてきた頃、お酒を飲んで気が大きくなった人がいきなりお尻を触ってきたことがあった。びっくりして相手を引っ掻いちゃったのは今でも申し訳なかったと思っているが、勝手に触られたことに対する怒りがなくなるわけではない。その後、店長からのお咎めはなかったけれど、なんとなくイヤになって結局バイトをやめてしまった。
 多分、良平はそのことを言っているんだろう。軽く頭を揺らして応じると、良平はちょっとだけ困ったように眉根を寄せた。

「だからってウチで雇うにしても仕事的に難しいしなぁ……」
「それは、さすがに私も無理ってわかってるから」

 パーくんの申し出に手のひらを立ててNOを突きつける。事務仕事で戦力になれるとは思えないし、そもそも敷金すら知らなかった私では何の役にも立たないだろう。

「あ。そういやウチのCMや宣材撮った時にバイト代渡したろ? アレ、まだ残ってんのか?」
「うん。貯金してる」

 パーくんの言葉に、ひとつ頭を揺らして頷いた。今年の春休みに入ってすぐ、林田不動産の広告撮影に駆り出された際、モデル料として結構な金額をもらったことがある。その時のお金は手つかずのまま、まるっと残っていた。
 あのお金ならプレゼント代としては十分なものが買えるはずだ。まとまった金額に脅えた私が「パーくんに返しておいて……」と言っても聞き入れてくれなかった良平もまた、その金額を知っているからこそ「いいじゃねぇか」と明るい声を上げた。

「じゃあわざわざ新しくバイト探さなくてもそれ使えばよくね?」
「たしかに……。ただお母さんが管理してるからおいそれとはひき出せないかも……」
「彼氏の誕プレ買うって言えばいいじゃん」
「……それは、ちょっと恥ずかしい」

 ポンポンと飛んでくる良平の提案に首を振るのは心苦しい。こんなんじゃ「相談してくんな」と突っぱねられても仕方がないくらいだが、隆くんの名前を幼馴染ふたりの前ですら呼べない私にとって、お母さんに理由を伝えるのはあまりにもハードルが高すぎた。

「ハァ? んちのおばちゃんもオマエが三ツ谷と付き合ってるの知ってんだろ?」
「知ってるけど」

 眉根を寄せて口をへの字にした良平は、頬を支えていた手のひらをグーの形に変えながら言葉を投げかけてくる。「じゃあよくね?」とあっさりと言える良平だって、おばちゃんたちに全部言ってるわけじゃないはずなのに、と思うだけで唇は尖った。

「良平が同じ状況になったらおばちゃんに言える?」
「オレはそもそも親に金を預けねぇ」

 中学を出ていち早く社会に出た良平らしい答えにぐぅの音も出なくて、ますます唇を尖らせた。

「――アレ、まだ悩んでたんですか?」

 私と良平が不毛な会話を続けているのが聞こえたのだろう。眉毛を八の字にしたくんが唐突に話しかけてくる。
 耳栓を外しながらパソコンをこちらへと向けたくんは、どうやら良平たちに頼まれてた資料を作成し終えたらしい。カラフルなグラフといろんな数字が並ぶ画面はさすがにじろじろ見てはよくないだろうと思い、そっと視線を外した。
 
「ぺーやんくん。これ、終わりましたんで、チェックお願いします」
「オウ、サンキュな。――お、いいじゃん。めっちゃわかりやすくなってる」

 嬉しそうな良平の声を聞き、くんは得意げな顔を浮かべる。相変わらず良平やパーくんにとってくんはいい後輩のようだと思うと自然と口元は綻んだ。

「ここのファイルにフォーマット入れとくんで、次からはこれ開いて、ココとココに数字入れたら勝手にできますんで」
「オゥ、何から何まで悪いな。今度メシでも奢るわ」

 ニッと口の端を上げて笑った良平の言葉に、くんは目を輝かせて背筋を伸ばす。

「マジすか! じゃあオレ、いいとこの親子丼食べてみたいっす!」
「だってよ、パーちん!」
「お、今度行くか!」
 
 あっさりとしたやりとりに目を丸くする。労力に対する報酬と比べるのはちょっと違うかもしれないが、私もこのくらいあっさりと隆くんへの誕生日プレゼントが決まればいいのにと思わずにはいられない。

「あ、そうだ。も三ツ谷となんか美味いもん食いに行けばいんじゃね? 当日はってどーのこーの言ってなかったか?」
「なるほど……いいかも」

 良平の提案に、うん、とひとつ頭を揺らす。たしかに隆くんは「美味しいものを食べよう」と言っていた。ならば腕によりをかけて作ってみせると意気込んでいたけれど、良平の言うとおり、どこか美味しいものを食べに行くって選択肢もいいかもしれない。
 候補に入れておこうと忘れないうちにケータイのメモに打ち込んでいると、パーくんとどこの店がいいか談義していたくんがこちらを振り返る。

「あ……すみません。さっきは急におふたりの話に割って入っちゃって」
「いいんだよ、オマエには仕事頼んでたんだから。それにどうせコイツがロクでもねぇこと言ってんのを聞いてただけだしよ」

 頬杖をついていた手のひらをこちらに伸ばした良平は、ポン、と私の頭に手のひらを置く。そのまま首をぐるぐると回されたが、凝ってもない首をほぐされるのがイヤで、ぐいっと腕で押し返した。

「あぁ、プレゼントに敷金を……ってのは聞いてましたよ」

 腰に手を当て背筋を伸ばしたくんに「ダメかなぁ」と問いかければ「ダメでしょうね」とあっさりと返される。反対意見が三つとも揃ってしまったことに、がっくりと項垂れてしまう。
 落ち込んだ様子を隠しもしない私を目にしたくんは困ったように耳の下を指先で掻いた。

「しょうがないなぁ……。あ、ちょっと今からコレでお願いしますね」

 唇の前で人差し指を立てたくんはおもむろに制服のポケットから携帯を取り出すと、どこかに電話をかけ始めた。

「あ、八戒? おう、久し振り。元気してんの?」

 にこやかに会話を始めたくんの口から出てきた名前に思わず目を瞠る。柴八戒。隆くんにとっては弟分のようにかわいがっている相手だが、私にとっては並々ならぬ因縁がある人物だ。
 だが、私の苦手意識を除けば隆くんの誕生日プレゼントを決めるに当たってこのうえない助っ人には違いない。電話越しとは言えふたりの会話を盗み聞きするのは気が引けるけれど、ここはくんの好意に甘えようと思い直し意識して口を噤んだ。

「はは。中間試験の話じゃなくて。もうすぐ三ツ谷くん誕生日じゃん? 八戒っていつも三ツ谷くんになに渡してんのかなーって思って」

 しゃべりながらさりげなく耳からケータイを離したくんは何やら手元で操作するとおもむろにスピーカーモードに切り替えた。その気遣いに感謝しながら、ふたりの会話に耳を傾けると、八戒くんが「えぇ?」っと戸惑うような声をあげたのが聞こえてきた。

ってタカちゃんと仲良しだっけ?」
「いや、まぁ仲良しってほどじゃ無いけど同中だったっし、世話になってるからたまにはね」
「あぁ、そういやも渋谷第二だったなー」

 懐かしそうな口ぶりで話す八戒くんは、きっと快活に笑っているんだろう。容易に想像がつく声色に、微笑ましさと複雑さを内心で味わっていると八戒くんが明朗な声で言葉を続けていく。

「オレは今年はタカちゃんがいいなって言ってたパーカーにしようと思ってるよ! ちなみにオレとオソロ♡」
「愛が重いなぁ、相変わらず」
「三ツ谷に服か。そういうのもよさそうだな!」

 軽やかな笑い混じりで紡がれたくんの言葉に続いたのはパーくんだった。私も良平も、そしてくんまでもがぎょっと目を見開いてパーくんを振り返る。
 うんうんと頭を揺らしていたパーくんは、三人の視線が集まっていることに気付くと一瞬きょとんと目を丸くした。だけど自分の過ちに気付いた途端、慌てて口元を塞いだがもう後の祭りというやつだ。

「あれ? え、今の声って……パーちんくん?」

 言葉を失った私たち同様に、八戒くんもまた電話越しに聞こえてきた第三者の声に驚いたようだった。弁明の言葉を投げかけるべきか迷う私たちに対し、手のひらを立てることで制したくんは、何事もなかったかのように「ん?」と軽い相槌を挟む。

「あぁ、うん。ちょっと用事があって呼ばれててさ。それで、世間話のついでにたまたま三ツ谷くんの誕生日が来月じゃねって話が出て、プレゼント渡すなら八戒に聞けばよくねってなって、電話かけてみたとこ」
「そりゃオレ以上にタカちゃんに詳しいやつなんていないしねー。ってか、またってば林田不動産にいるの?」

 固唾を呑んで見守るほかない私たちに対し、くんは八戒くんの自尊心をくすぐりつつ、私がいるという情報を隠したうえでの状況を口にする。八戒くんの方は現場が目に入らないからこそ、普段のくんの行動をなぞって好意的に捉えたようだった。機嫌良さそうに「好きだねー」と笑う八戒くんの声色にホッと安堵の息を吐く。
 
「あ、そうだ。今度オレも家借りたいからさ、パーちんくんたちに言っといてくれない?」
「いいよ、いつ来る?」
「いつ行けるかはまだ全然決まってないんだけど、とりあえず夏休みには引っ越したいからさー。その前にいいとこ探しといてほしいんだよね」
「おー、いいぞ。こっちでも何個かリストアップしとくワ」
「やった、よろしくー!」

 またもや口を挟んだパーくんが応じると八戒くんの声色は最高潮に弾んだ。男の子相手だとこんなにも気さくなんだなと意外な一面に軽く目を丸くする。いつも固まっているか、こっちに敵愾心をぶつけてくる八戒くんしか知らなかったから、どことなく新鮮だ。もっとも、隆くんに懐きまくってる姿を思い出すと、かすかに感じた好印象もすぐさま霧散するのだが。
 どういう家がいいのかを言い募る八戒くんの言葉を聞き流しながら、先程耳にしたばかりの誕生日プレゼントの候補をケータイのメモに追加する。
 ――新しい服は盲点だったな。
 良平がさっき愚痴をこぼしたように、服は着ているだけでも痛んでいく。隆くんの誕生日は6月だし、季節の変わり目と思えば夏に向けて新しいTシャツ、それもちょっとおしゃれなものを贈るのもいいかもしれない。
 だが、ぼんやりと思い描いたプレゼント像を「いいかも」と肯定的に捉えたのは束の間だった。
 ――でも八戒くんと同じものを渡すのもなぁ……。
 シンプルな反発心に唇が微かに尖る。良い候補には違いないのだが、どうしてもそこが引っかかると途端に最悪な選択肢のように思えてくる。もし、私のプレゼントが八戒くんにバレたとして「オレのプレゼント案をパクった!」なんて騒がれてしまったら、後々一生後悔してしまいそうだ。なんなら八戒くんの私に対する態度なら来年、再来年と「今年はパクんないでよ」なんて言われそうな気がする。
 まだ見ぬ未来を思い浮かべてはぎゅっと眉根を寄せてしまう。だが、他ならぬ私が相談しているからこそ得た情報だと思い出すと同時に気持ちを改める。
 ――ダメだ。くんがせっかく聞いてくれたのに。
 ぶんぶんと頭を横に振って嫌な考えを押し出すと、今、私がよくしてもらっているのはくんであって八戒くんでは無いのだと言い聞かせる。良平に聞かれたら「屁理屈だろ、ソレ」と一蹴されそうだと理解しつつも、藁にも縋る想いなんだから致し方ない。
 開き直りにも近い結論に辿り着いた私は、意を決して開きっぱなしだったケータイのメモに〝よかったら他に三ツ谷くんが欲しがってたものがなかったか聞いてくれる?〟と打ち込んだ。
 腕を伸ばし、テーブルの上を指先で突くと、くんの視線がこちらに差し向けられる。私が掲げたケータイの画面を確認したくんは、親指と人差し指をくっつけてOKサインを作ると「でさ、話戻して悪いんだけど」と八戒くんに呼びかけた。

「三ツ谷くん、ほかになんか欲しいとか言ってなかった?」
「えー。なんだろ、タカちゃん割りと着るもんも使うもんもこだわりあるしなぁ……」

 たしかに。電話越しに思わず頷いてしまうほど、八戒くんの言葉には思い当たる節しかなかった。
 中学の頃、一緒に部活の買い出しに行った際、作品に使う布を探す隆くんの姿は真剣そのもので思わず息を呑んだ記憶が蘇る。隆くんのこだわりの強いところは美点ではあるが、プレゼントを選びきれない最大の障壁にもなった。

「うぅ……」

 展望の見えない状況に思わず呻き声をあげてしまう。途方に暮れたような心地になり頭を抱えていると、ふと、周りの空気が変わったのを感じ取る。呆れたような良平の視線が落ちてくると、自分が先程のパーくんと同じ過ちを犯してしまったことに今更ながら気がついた。
 
「――あれ、今もしかしてほかのひともいる?」

 たった今まで朗らかに笑っていた八戒くんの声色が急転直下、不穏な響きを帯びる。ひやりと背筋を伝う冷や汗に促され、慌てて口元を抑えたが、八戒くんの問いかけが覆されるようなことはなかった。

「あぁ。もちろん、ぺーやんくんもいるよ?」
「……あとどうせあのひともいるんでしょ? タカちゃんの……自称カノジョ」

 自称じゃないけど。八戒くんの言い分に思わずムッと唇を尖らせる。
 隆くんが私と付き合い初めて三年近く経ったのに、今も認めないと頑なに拒絶する態度にモヤモヤしてしまう。
 たしかに八戒くんの隆くん愛は周知の事実かもしれないが、こっちだって負けてない。なにか反論してしまいたい衝動に駆られたけれど、今はくんが電話中なんだと自分に言い聞かせ、モヤモヤを抑え込んだ。
 私の顔をちらりと盗み見たくんは小さく苦笑すると、たしなめるような声音で「八戒」と呼びかける。

「たしかにちゃんもいるけど、オレの独断でかけてるだけだからさ」
「そういうことかよ……。あーぁ、マジ、のこと見損なったワ。すぐそうやってかわ……女子には優しくするんだからよー」
「あー……。まだダメな感じ?」
「まだって言うか一生ヤダけど。絶ッ対ェ協力したくねぇ」

 電話越しながらも八戒くんが今、舌をベーっと出している姿がありありと想像できた。相変わらずの態度に顔つきが強ばっていたのだろう。隣からなだめるような手のひらが頭に伸びてきた。
 
「ホンット頑固だなぁ、八戒は。でもさ、他ならぬ三ツ谷くんのためじゃん。ここらでちゃんに協力しといたら、三ツ谷くんも褒めてくれんじゃね?」
「ぐぅ……」

 くんの言葉に返事を詰まらせる八戒くんは、きっと苦虫を噛み潰したような顔をしていることだろう。私に協力することへの抵抗と、隆くんのために取る行動。そのふたつを天秤にかけ、悩んでいるらしい呻き声を上げる八戒くんの声に耳を傾けていると、電話越しに随分と重く長い溜息が聞こえてきた。

「じゃー、ボタンたくさんついてる電卓。それ以外はわかんねぇ!」
「おー、了解。そんなものが欲しいって知ってるなんてさすがだな。あ、あとこの話、三ツ谷くんには――」
「言わねぇから安心して!」
「オゥ。サンキュー」
「じゃー、もう切るね。オレ、今からタカちゃんち行くから。バイバーイ」

 嫌に「タカちゃんち」を強調した八戒くんはくんの「ありがとな」の声を聞くと電話を切ったようだった。テーブルに置いていたケータイを拾ったくんに頭を下げる。

「ありがとう。……わざわざ聞いてくれたのに、八戒くんとケンカしたみたいになっちゃっでごめんね」
「いいですって。八戒の態度なんていつもあんなもんですし。それにオレの隊長たちが悩んでるのなら手助けするのがオレの役目なんで」

 御礼と謝罪を伝えるとあっさりとした言葉が返ってくる。そんなやり取りを交わしていると、ソファの背もたれに腕を回した良平が、パーくんを振り返ったのが横目に入った。

「八戒のやつ、喚いてた割にはいやにあっさり吐いたな」
「だな。でも三ツ谷が電卓使ってるとこなんて見たことねぇぞ?」

 怪訝そうな顔をして首を捻るパーくんの言葉に私もまた眉をひそめる。手芸部で布の面積や部費の精算をする際、紙の端っこに筆算していた隆くんの姿を思い出すと、電卓を使うのかな、なんて考えてしまう。

「ボタンがたくさんあるってことは関数電卓ってことですよね? 建築関係で使うとは聞いたことがあるんですけど……服をデザインする際にも使うんですか?」
「ないと思う……けど三ツ谷くんの作業は私が知ってるのよりも高度だから正直、使わないとは言い切れない」

 くんの質問に首を横に振って応える。手芸部に所属していたとはいえ、私が作ってたのは用意してもらった型紙に沿って布を切り、縫い合わせていく程度のものだ。隆くんがやっているように、最初からデザインをして、それを元に型紙に起こして、なんて複雑な作業はしたことがない。
 関数電卓を実際、使うのか使わないかすらわからないほど服飾科は未知の領域だ。私だけでなく良平たちも同じように感じているのだろう。三人とも頭の上にクエスチョンマークを浮かべたような顔をしているから、なおさら「使うの?」なんて疑念に傾いてしまう。

「三ツ谷に聞いてみっか? 関数電卓なんか使うのかよって」
「さっき電話したばっかだしさすがに変に思われそう……」

 すぐにでも電話をかけようとしたらしい良平は
 胸ポケットから出したばかりのケータイを手首のスナップだけで開く。慌ててそれを手で抑えながら隆くんの反応を考えた。
 聡い隆くんのことだ。もしかしたら良平からの連絡があった時点で私が探っているのだと気付いてそうではある。だとしても、最後の一押しまで与えてしまっては、次に会った時「何か企んでる?」なんて隆くんに聞かれてしまいそうだ。もしそんな事態が起こったら、黙ったままでいられる自信が無い。

「とりあえず、候補に入れておこうかな」
「マジか。まぁ、がいいならいいけどよぉ……」
「けど?」
「なんか味気ねぇなと思ってよ。だって電卓だろー?」

 ヤダヤダと言わんばかりのパーくんの表情にきゅっと眉根を寄せる。プレゼントに電卓、と考えるとたしかに味気ない。心沸き立つものがないと感じてしまうのは、自分がもらった時に少なからずガッカリしてしまいそうな予感があるからだ。
 ただそれは私が電卓を必要としていないからこその感情で、隆くんがどう思うかは渡してみないとわからない。
 本当に隆くんが必要としてるのなら、私が贈りたいと思う。だけどもし別に欲しくないのなら避けたいのが本音だ。
 八戒くんが勘違いしているのかもしれない、なんて線も残っている以上、「とりあえずの候補」としか扱えそうになかった。
 それでも、せっかくくんに聞いてもらったのだから。そんな気持ちで浮かび上がりかけた疑念に蓋をして、プレゼント候補を並べたメモ欄の一番下に「関数電卓」と追加した。





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