進撃:デート01

1日限りのデート 01


 848年某日。フランツとハンナが付き合い始めた、という情報は瞬く間に訓練兵内に広まった。
 ゆうべ、ハンナから直接報告を受けたのは、私たち同室の者の中でもごく一部だけだったはずだ。だが、どこから漏れたのかはわからないが、翌日の夕食時にはすべての者が知っていた。その情報伝達の能力の高さに思わず舌を巻く。
――これが卒業後の実践で発揮されるのであれば、こんなに心強いことはないんだけど……どうなるんだか。
 そんなことを考えながら、夕食後の食器洗いを黙々とこなす。偶然にも、本日の当番に噂のふたりが揃っているため、話題も視線も、ほとんどの者がふたりの動向に注目していた。
 フランツが洗った食器を、ハンナが受け取り乾いた布で拭く。仲睦まじいその様子は、付き合う前からも幾度となく目にしていた光景だ。だが、ふたりが付き合っているのだと思うと、今までよりも特別なワンシーンのように感じてしまう。恋愛に対する憧れが、私の目を変えてしまったみたいだ。
 じっとふたりに熱い視線を投げかけていると、隣に立つアニが小さく溜息を吐く。

「んー。なぁに?」
「見過ぎだよ……いいから、手、動かしな。私はさっさと部屋に戻って休みたいんだ」
 心底疲れた、という感情が滲む声色だった。チラリとアニの顔を覗き込むと、ガラス玉のような青い瞳が私を映し出す。かち合った視線はアニが目を細めることで強さを増す。だけど1年の付き合いで、その瞳を恐れる必要なんてないと知っていた。
 疲れているのだ、と主張するアニの瞳を見つめ返しながら今日の訓練のことを思い出す。立体機動装置で林の中をどれだけの速さで動けるか、またガスをいかに効率よく使うかの実地訓練。普段のアニの様子を考えたら、このくらいの内容で音を上げることはない。
 体調が悪いんだろうか。時折、ひどく疲れた顔をするアニは体が小さいからこそ、ほかの人よりも体力面での持続力が低いのかもしれない。

「はぁい」
 じっと見つめている間もしっかりと私の手は止まったままだった。見咎めたアニの低い声に促され、作業を再開させる。桶の中のお皿の汚れを落としながら、アニの方へと頭を傾け、甘えてみせる。
「ごめんよー、アニ。ちゃんとするー」
「……わかったから。ちょっと離れるけど、その間サボったりしたら承知しないよ」
 いつの間にか私が渡したものすべてを拭き上げていたアニは、ふいっとミーナの方へと手伝いに向かってしまった。その背中を見送り、手を動かしたままハンナたちの様子を探る。相変わらず楽しそうに食器を片付けるふたりは、幸せだという空気を惜しみなく振りまいていた。
 その姿を目にするだけで、自然とこちらも笑顔が浮かぶ。いいな、と思ったのは今日で何度目だろうか。数えてはいないが、おそらく片手では足りないはずだ。同じ年頃の恋人同士、というものを初めて目の当たりにし、その状況にいつか自分も、という憧れを重ねずにはいられなかった。
 訓練兵のみならず、兵士同士で付き合ったり結婚したり、というのは決して多くはない。もしかしたら内地暮らしの憲兵団ならばまた違うのかもしれないけれど、そこの情報が届くことはほとんどないため実情を知ることはないだろう。
 だが、1年間も同じ環境にあって、出来たカップルがひと組だけ、というのはいささか少なすぎる気もする。もしかしたら私が知らないだけで隠れて付き合ってたり、いつの間に別れたり、なんてこともあったのかもしれないが、今回のフランツらの話の広がり方から言って、その可能性は低そうだ。
 特殊な環境とは言え、そういうお年頃だし、恋愛に興味ない子は少ないと思うんだけどな。夜な夜な繰り広げられる会話の中に、恋愛に関する話が出る頻度は高い。だが、耳にする話は同じ訓練兵相手への恋慕よりも、資材や食料を配達に来るひとの中で誰が一番かっこいいかだなんて話ばかりだ。
 そしてそれは男子も同じことで、どこかのお店の店員さんがかわいかったから休みの日に見に行こう、だなんて話がもっぱらだと聞いたことがある。相手が身近すぎるからこそ、お互いに想像が難しいのだろうか。
「おい、。手ェ、止まってんぞ」
「わっ! またか、私っ!」
 たまたま通りかかったエレンの呼びかけに、自分の手元に目線を落とす。アニが立ち去ってからどのくらいの時間が経過したのかはわからないが、一心にひとつのお皿だけを洗い続けていたようだ。洗い終えたお皿を置くべき場所に、一枚たりとも増えていないことがその証明だった。このままではお小言だけでは済まされそうにない。
 顔から血の気がなくなったのが自分でもわかるほど耳が冷たくなる。見兼ねたのか、大仰に溜息を吐きこぼしたエレンが隣に並び、桶の中に手を突っ込んで一緒にお皿を洗い始めてくれた。
「お前、ジャンがいねぇと案外ボーッとしてんだな」
 小馬鹿にしたセリフとともに肩を揺らして笑うエレンに、慌てて向き直る。
「や、今日だけだよっ。ハンナたちの様子が気になっちゃって!」
 食器に滴る水を弾く勢いで投げかけた反論と言い訳に、エレンは目を細めて渦中のふたりに鋭い視線を向けた。
「……フランツの野郎、ゆうべからずっとのろけてやがるんだ」
「えっ?! そうなの?」
「おお。だから無駄に関わるとロクな目にあわねぇぞ」
 辟易とした様子で溜息をこぼすエレンの手つきが次第に雑なものになっていく。どうやらゆうべは本当に大変な目にあったらしい。だが、それさえもフランツがよっぽど嬉しかったのだという証明のように感じられ、羨ましさがさらに募るようだった。
「まぁ……でも嬉しいんだろうね」
「あのザマで嬉しくないなんて言いやがったらぶん殴ってやる!」
 フン、と鼻を鳴らして物騒な言葉を吐き捨てるエレンに苦笑する。食器をどんどん洗い終えていくエレンを横目に、私もまた食器を洗うスピードを上げる。カチャカチャと食器同士が擦れる音を聞き流しながら、改めて口を開いた。
「もしかしたら私たちの中で初めてできたカップルなんじゃない?」
「らしいな。オレもそれはコニーから聞いた」
「へー……やっぱりそうなんだ」
 コニーが特別情報通だ、というわけではないんだろうが、男女分け隔てなくいろいろなひとと喋っている印象は強く残っている。さまざまな情報が彼のもとに集まりそうだ、と納得できる。ただ、その情報を正しく理解しているのかは不明なのだけど。
 そういえば、付き合う以前に、誰かが誰かにフラレた、という話もあまり聞かないな。わざわざ言うべきことではないけれど、この一年で一度も聞かない、というのはあまりにも頻度が低い。
 訓練兵の中で告白される可能性が高いのは誰か、と考えるとすぐに脳裏にクリスタとライナーの姿が過ぎった。
 クリスタに関して言えば、ユミルが番犬のごとく目を光らせているからそんな機会さえ男子に与えなさそうだ。ならばライナーは?
 思いついた途端、なんだか気になってそわそわしてしまう。
「ねぇ、エレン。ちょっと質問してもいい?」
「あぁ、なんだ? 言ってみろ」
 あっさりとした態度で許すといったエレンに、質問の内容をミカサ関連のものに変えてみようかだなんてイタズラ心が沸いてしまう。だが、それでつむじを曲げられたら溜まったもんじゃないので、当初、思いついたままの質問を投げかける。
「ライナーって告白されたりしてないのかな?」
「あー……聞いたことねぇな。ライナーは女子と話すよりオレらと喋ってる方が楽しいんじゃないか?」
「たしかに」
 語弊のある言葉だったが、エレンの言うとおりライナーは女子集団に取り囲まれることはあっても、自分から積極的に女子に話しかけに行く姿を見る機会は少なかった。ベルトルトやと一緒にいるか、ジャンとエレンの喧嘩を仲裁する姿ばかりを思いつく。
「女子だったらクリスタはどうなの? ダズなんかはしょっちゅうクリスタに助けてもらってるみたいだけど」
 追加の食器を運びにきたアルミンが会話に加わる。結構な量を持ってきたアルミンに思わず私もエレンも目を見張る。蒼白な私たちの顔を一瞥したアルミンは「下げられてない食器を見つけたんだ」とほんの少しだけ眉を下げて弁明した。
 誰がテーブルの上に放置したままだったのかはしらないが、洗わないと寮に帰れない。それはつまり、眠る時間が遅れるということに繋がる。こんなものをアニに見せては先程は怖くないと感じた瞳に恐怖を抱くに決まっている。
 悲しんだり憤るよりも先に、まず終わらせるべきだ。気を取り直してアルミンが運んできた食器の中からとりあえず、と一枚を手に取る。
「あー……クリスタのことなんだけど」
 思わぬ追加分に断ち切ってしまった会話を再開させるべく口を開く。
「私も聞いたことないんだよね……でも、そういう子がいたとしても全部ユミルが蹴散らしてそう」
「あぁー……なんか想像つくな」
 頬にはねた水を手の甲で拭うエレンがぽつりと言葉をこぼす。桶の中に残りの食器を収めたアルミンは、手近にあった布巾を手に取り、私たちが洗い終えた食器を拭き始めた。
 ライナーやクリスタに想いを寄せる人がいるのかどうかはわからない。だが、例えこのふたりに本気で告白をした人がいたとしても、クリスタたちの方から話が漏れることはなさそうだ、とも思う。自分がフラレた、という話を秘めるのか公表するのかはその人の性格次第だろうけれど、こうも耳にしたことがないとなると、やはりまだ誰も告白したことがないんじゃないかな、と自分の中で結論づけた。
「でもいいなー。私も恋人とまではいかなくても好きな人くらいはほしいよ」
「ふふっ。は前にもそんなこと言ってたよね」
「そんなもん作ってどうするんだよ。オレたちは兵士なんだから、そんな浮ついたことを考えても仕方がないだろ」
 溜息混じりの私の言葉を微笑ましそうに笑うアルミンと、顔を顰めて兵士としての本分を説くエレン。その対照的な反応に思わず唇を尖らせる。
「だってー……目の前でキラキラしてるハンナとか見てるとやっぱりいいものなんだろうなーって憧れちゃう」
 両思いどころか片思いの経験すらないからこそ、想像だけはいつもキラキラと輝いている。兵士を選んだ以上、掴めないかもしれないと思うと余計に憧れは強くなった。
「ドキドキしてみたいなー」
 深く息を吐きながら心からの言葉をこぼすと、隣に立つエレンは目を丸くして私を見下ろした。
「そんなもん、立体機動装置を使ってたらいやでもドキドキするだろ」
「もう! そういうことじゃなくて!」
 身も蓋もないエレンの発言に、両のこぶしを握って反論する。常日頃からミカサへのエレンの態度は目に余るものがあると感じていたが、どうやらそれは私の思い違いではないらしい。あんなに綺麗な子に想われて、心がひとつも動かないのは、エレンの意識に問題があるようだ。
 握った拳を上下に振って、エレンに訴えかけていると、エレンの奥にいるアルミンが声に出して笑った。
「まぁ、でもエレンの言葉も一理あるよ。命の危険に直面したときの心拍数の上昇が、助けに来てくれた人に対する恋心によるものにすり替わるって話もあるし、実際にそういう検証も過去にあった、というのを本で読んだことがあるよ」
 物知りなアルミンの言葉に、私もエレンも感嘆の声を上げる。アルミンが座学トップだ、というのは訓練兵のみならず教官も含め関わるすべての者が認めているところだ。だが、立体機動装置の扱い方や兵站訓練の計画立てなど、兵士としての知識をだけではなく、そんな俗的なことも知っているの、というのは驚きだった。知識の偏りのなさに、アルミンのように様々なことに興味を持てる人が上に立ってくれると兵団としてもいいことばかりなんだろうな、だなんてあるかもしれない未来に思いを馳せた。
「なんだか面白そうだね、それ。でもどうすればいいんだろ。まさか本当に恋に落ちたいからって命を危険に晒すわけにはいかないし……」
 残り一枚となった食器を手に取りながら、アルミンの言葉にさらなる疑問を投げかける。そんな馬鹿な事を考えるなよ、とエレンが吠えるのをアルミンが宥めた。
「そうだね……例えば、誰かわからない相手とデートする、っていうのはどうかな? 当日まで誰が来るかわからなかったら緊張するんじゃない?」
「緊張もだけどちょっとした恐怖も入るね、それ。どうしたらいいのよ、キース教官が来たら」
「そっか。女子は相手を限定しないとダメそうだね」
 目を丸くしたアルミンは見落としていた可能性を考慮し、ほんの少しだけ焦りの色を表情に浮かべる。
「そんなもん、訓練兵の中でくじかじゃんけんかで決めたらいいんじゃねぇの?」
 適当にあしらう気満々のエレンの言葉は、意外といい案なんじゃないかと感じた。だがその着想も、現実のものになることが考えられないからこそ好意的に感じるものであって、もし実現に向けて発展させるべき話題であれば非難していた可能性が高い。
ーっ。そっち終わったー?」
 不意に、遠くから声がかかった。顔上げれば、アニと並んで食器を片付けるミーナが私に呼びかける姿が目に入る。私もまた声を普段よりも張ってミーナに応じた。
「うんっ! エレンたちが手伝ってくれたからあとは拭くだけだよ!」
「わかったー。こっちが片付け終わったらそっち行くねー」
「ありがとーっ」
 ミーナとの問答を終えたあと、一度途切れた話題は、そのまま復活することなく立ち消えた。なかなか楽しい話題だったが、元より真剣に議論していたものではない。さらりと流され、明日の訓練の話題へといつの間にかすり替わっていった。


 その日の話は、ただの片付け中に交わされた他愛もないおしゃべりのはずだった。まさか数日後、その話が再び私たちのもとに戻ってくるなんて――この時の私は、微塵も考えていなかった。



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