進撃:デート04

1日限りのデート 04


 訓練のない休日の朝。本来ならばそれは、歓迎すべき最高の1日の幕開けだ。だが、意図せず差し込まれた予定が頭の中を占拠している状況では、私の心は弾むどころか沈む一方だった。

 いつもより少しだけ遅い時間に始まった朝食を食べ終え、寮に戻るや否や鏡の前に立たされてから、どのくらい経っただろう。
 食後の歯磨きと軽い洗顔。そこまではいつも通り身体が動いた。だけど、髪を整える段階に移るタイミングで、ミーナから「ヘアピンはいつもとは違うものをつけなよ」と忠告されて以降、手の動きが格段に鈍ってしまった。
 いつもピンで留めている前髪を指の甲で払っても何の解決にはならないとわかっていてもついやってしまう。一瞬、いつもどおりになった世界も指を離せばすぐさま元通りだ。違和感の残る視界に自然と唇が尖る。
 手にしたヘアブラシを握りしめ、ブラシを頭に当てては髪を通すでもなく、そのまま引き下げる。そのままポケットに仕舞い込んだヘアピンに指を這わせた。細い金属の存在を確かめると落ち着くような心地と同時に〝どうしてつけちゃダメなのか〟なんて不満が胸の中に去来する。
 ふてくされたこどもみたいな顔をした自分が鏡越しにこちらを睨んでいるのを目にするといくらでも溜息は零れた。
 待ち合わせの予定が刻一刻と差し迫る中。のろのろと身支度とも言えない行動を続けていると、私の着替えを見繕っていたはずのミーナの姿が不意に鏡に映り込んだ。

ー。準備できてる?」
「ミーナぁ……」

 随分と情けない声が出た。半泣きの顔を隠しもせず振り返ると、私の惨状を目の当たりにしたミーナは困惑した様子でこちらを睨めつける。

「もう! ってばまだ髪すら整えてないじゃない!」
「だってぇ……」
「だってじゃないの!」

 腰に手を当て怒ったような表情を浮かべたミーナにしょんぼりと肩を落とす。ミーナの言うとおり、身支度を始めてからなにひとつ進んでないと言っても過言では無い状況に、無意識のうちに「……だって」がもうひとつ零れた。
 気乗りしない身支度が進むはずも無い要因が頭を過ると自然と溜息が零れる。
 先日、警ら当番だったミーナたちが、フランツと同室の男子とのデートを賭けたくじびきを持ちかけてきたのは記憶に新しい。同部屋にいる20人前後のうちたったひとりが選ばれる確率の低い賭けのはずなのに、運がいいのか悪いのか、私はその権利を手にしてしまっていた。
 誰かと遊びに行くのは大歓迎だ。だけど、それが誰ともわからない男子と1対1で、しかも周りから〝デート〟とお膳立てされたものとなると随分話が変わってくる。
 極力意識しないようにと気を逸らしたところで、どうしても頭にチラついてしまう。自意識に囚われるのもまた思春期というやつの弊害なんだろう。

。せめて髪くらい自分でどうにかしないと間に合わなくなっちゃうよ」

 髪以外は任せなさいと言わんばかりの口ぶりに思わず閉口してしまう。ミーナの両腕には、私の服だけでなくミーナの私物も含まれている。否、それどころか同室の子が着ているのさえ見たことが無い服まで紛れ込んでいた。
 もしかしなくとも、同室の子だけでなく別室の子からも借りてきたのかもしれない。そう思うとますます気持ちが落ちていくようだった。

「わかったわよぅ……。あとでそっちに行くから向こうで待ってて」
「そう。じゃあ待ってるから……って、! そのヘアピンはダメって言ったでしょ!」
「わっ、わっ!」

 突然声を大きくしたミーナに慌てふためくと同時に、いつもの調子で横髪をヘアピンで留めてしまったことに気がつく。どうやら会話に意識を傾けるあまり、気付かぬうちに手がいつもの動きを取っていたらしい。それもわざわざポケットからヘアピンを取り出して、だ。
 習慣というものは恐ろしい。感じたばかりの恐怖を感慨深げに噛みしめていると、一向に身支度を始めない私を見咎めたミーナが、服を棚の上に下ろしこちらに歩み寄ってくる。

「これは今日だけ没収ね。デートなんだから、ジャンからもらったヘアピンなんてつけちゃダメだよ」
「別にジャンにもらったからつけてるわけじゃないのに」
「だとしてもダメなものはダメッ!」

 私の頭からヘアピンを抜き取ったミーナは、背伸びをして私と額を合わせるとかわいい顔をわざとらしく顰めてみせた。
 ミーナの言葉は正論だと思う。感覚的には理解できる。だけど、そのデートに乗り気じゃ無い以上、とてもじゃないが進んでおしゃれをする気にはなかなかなれなかった。
 また手持ちのアクセサリーが心許ないのも理由のひとつだ。訓練兵に志願した以上、おしゃれにかまけていられないだろうと判断した過去の私は、装飾の着いたモノはすべて実家に置いてきてしまっていたのだ。
 ジャンにもらったヘアピンもだが、他の候補も簡素なものしかもっていない。それらは昨日の時点ですべて却下されていた。
 いっそのこと髪を編み込むなり、纏めるなりすればいいのかもしれないが、あまりいつもとかけ離れた様子を見せるとこの企画に前向きだと誤解されてしまう恐れがある。
 もしも、おしゃれをした私の姿をジャンが目にしたら一体何を言われるのか。想像しただけで下唇が突き出るようだった。
 今後、起こりうる最低な未来を考えると、やっぱりなにもしないのがいいかもしれない。そんな結論を出しかけていると、いつまでも動かない私に痺れを切らしたのか、ミーナは私の手からブラシを引き抜いた。

「あっ、何するの」
「あ、じゃないの! とにかくには今日とびきりかわいくなってもらうんだから! 髪の毛、梳かさないなら私がするからねっ!」

 そう言うや否や、私の背後に回り込み、早速ブラシで髪を梳かしはじめたミーナはほんの少し身じろぎした途端「そのままでいいから椅子に座って!」と声をかけてくる。こうなってしまったミーナ相手に「ちゃんと自分でするから」と訴えたところで見逃してくれることはないだろう。
 長い付き合いの中で知り尽くした為人に、自然と溜息が零れた。横髪を梳き終えたタイミングで椅子に腰掛けると、再び頭のてっぺんにブラシが当てられる。
 初めのうちは時折、寝癖が引っかかっていたが、何度か繰り返しているうちに滑らかになっていくのがわかった。頭の形に添って動くブラシの感触を追っていると、不意に立ち上がったミーナが部屋の奥へと声をかける。

「さて、と次は……。ねぇ! 誰かに髪留め貸してあげれる子いないー?」

 その呼びかけに、目をキラキラと輝かせた女子たちが「待ってました」と言わんばかりの勢いでこぞってこちらにやってくる。その手にはたくさんのヘアピンやカチューシャ、バレッタなどが握られていた。

「わっ、わっ! もう充分だから!」
「いいからは黙って座ってて」

 一瞬にして両手、否、両足の指の数を足しても足りないほどの髪留めが集まった。
 嬉々として差し出されたアクセサリーは、普段私がつけているヘアピンとは比べものにならないほどかわいいものばかりだ。
 普段使いのものなんてちっとも含まれない厳選された候補に、ミーナが声をかけるよりも前から準備されていたとしか思えなくて、彼女らがこのイベントを楽しんでいることが伝わってくるようだった。

「こんなにかわいいのつけなくてもいいよぅ……」
「でもは他に持ってないんでしょ?」
「そうだけど、いつもので――」
「それはダメッ」

 ぴしゃりと断言するミーナに同調した少女たちが「ダメ、絶対にダメ!」とか「デリカシーないよ、それは!」と口を揃えて言い募る。

だって相手がほかの女の子にもらったプレゼントを身につけてたら嫌ってなるでしょ?」
「うーん……。でもいつもつけてるものならお気に入りかもしれないし、私だったら気にしないかなぁ」
「そういう考え方は通用しないの!」

 自分なりの考えを伝えるとぴしゃりとミーナに切り捨てられる。嫌かどうか。ただその二択に応えただけなのに。唇を尖らせたが、周りのみんなはミーナに同調するようにウンウンと頭を揺らすだけで誰ひとり味方になってくれそうになかった。
 思い返せば朝食の時もそうだった。いつになく一致団結したミーナたちは、デート相手に誰が選ばれたのかバレないように気を払ったのか、今日に限っては男子は一切無視の徹底ぶりだった。
 異様な空気に男子も気付いているのか、気を遣ってこちらに近付いてこようとしなかった。もっとも、ジャンだけはいつも以上にミカサの動向を気にしていたのだけど。
 いつもなら男女の隔てなく好きな席でご飯を食べるのに、両サイドどころか正面も背後も女子に取り囲まれた状況は食堂から寮に戻る時も続いた。こんな状況でひとりになるなんて言語道断。井戸の近くで水を飲むどころか、近くを歩いていたライナーに挨拶することすらままならなくて、とても歯痒い思いをしたものだ。
 身動きひとつ取れない状況を思い出しては自然と唇が尖る。だが、そんな私の憂鬱を意にも介さないミーナは、再びブラシを手に取るとにこやかに話しかけてきた。

「さ、。続きをするからちゃんと鏡の方を向いて」
「そんなに張り切らなくてもいいよぅ……」
「ダメッ!」

 きゅっと眉根を寄せたミーナは鋭い一言で私の言葉を一蹴すると、溢れかえったアクセサリーをひとつひとつ吟味していく。あれやこれやと試された結果、いつもと比べると幾分も手の込んだ髪型にされてしまった。

「じゃあ次はこっちね! まずはワンピースとシャツだったらどっちがいい?」
「うーん。そうだなぁ……」

 ヘアセットが終わって安堵の息をついたのも束の間、アクセサリーをどれにするか決定したのを見届けた別班の女子が事前に選び抜いた服を着るようにと命じられる。選りすぐりのものとは言え、まだまだ候補はたくさんある。まるで着せ替え人形のようにあぁでもないこうでもないと服を着てはベルトや鞄を合わせ、果ては「バレッタはあっちの濃茶の方がよかったかも」などと振り出しに戻るような提案を繰り返された。

、しゃきっと立って」
「はぁい……」

 3着目のワンピースを身につけたところで自然と肩が下がってしまった。背後に回ったミーナに両肩を後ろから掴まれ、まっすぐ立つようにと引っ張られる。
 背筋を伸ばしたことに満足したのだろう。再び前に回り込んできたミーナが顎に手を当てて深く考え込んでいるのを眺めていると、腕を枕にして寝転んだユミルの視線がこちらに向けられていることに気が付いた。目が合うとニヤリと笑うユミルに、複雑な想いが折り重なった。肩で息を吐くと同時に視線を外すと、新たな服を運び込んでくるクリスタの姿が目に入る。

。おめかしするなら私も手伝うからね」
「クリスタもかぁ……」

 普段はおとなしいクリスタが妙に溌剌とした顔つきで私を見上げていることに気付くと自然と溜息がこぼれた。どうやら彼女もこのイベントを楽しんでいる者のうちのひとりだと知るにはその表情だけで十分だった。

「あ、こっちの髪留めにしたんだね」
「そうそう。だからベースはこの色の服で、小物はこっちの系統で考えているんだけど――」

 持ってきた服を広げるクリスタの隣に移動したミーナは、小物やアクセサリーをどう合わせていくか迷っているのだと口にする。

「だったらこっちのベルトをこうして……」
「あぁ、それだったら合うかも。じゃあさ、こっちのブーツの方が……」

 何やら作戦会議を始めたふたりに、サシャを始めとした同室の子たちが近付いてくる。自分の貸し出した服がどういうコーディネイトになるのか気になるらしく、新しい提案が出る度に所々で感心したような声が上がった。
 盛り上がる彼女たちを遠巻きに眺めていると、部屋の奥から出てきたアニが通りすがりにこちらに視線を流してくる。目が合うと同時に、視線のみで「助けて!」と訴えかけたが、いつだってクールなアニは面倒くさそうに眉を顰めるだけだった。

「せいぜいかわいくしてもらうんだね」
「なっ……! なんてことを言うのよぉ……!」

 いつもなら「別に」とか「さぁね」とかつれない言葉しかくれないくせに、的確に私にダメージを与えてくる言葉を選ぶアニに怒りとも悲しみともつかない心地に襲われる。そんな私の複雑な心境はちっとも伝わらなかったらしく、軽く口角を上げたアニは手の甲を顔の横で振るとフイッとどこかに行ってしまった。
 入れ替わりで部屋に入ってきたミカサは、きらきらした服やアクセサリーが所狭しと並んだ状況に一瞬驚いたような表情を浮かべる。だがその中心に立たされた私を見るや否や状況を瞬時に把握したらしく、やけにキリッとした表情を浮かべた。

「必要なら私もなにか貸し出そう。――マフラーは貸せないけど」
「気持ちだけもらっておくよぅ……。ありがとね」
「うん。も……、その、せっかくかわいい格好をするんだから、たくさん楽しんでくるといい」
「うぅ……。ミカサまでそんなこと言う……」

 この企画に乗り気じゃなかったはずのアニやミカサまでもが、応援するような言葉を口にする。ただそれだけでさらに気持ちが沈んでいくようだった。
 たしかにおしゃれをするのは好きだが、なかなか気持ちが着いてこない状況に唇を尖らせる。実際、立っているのもままならないくらいの心境だが、座りこもうものならまたしてもミーナに噛みつかれるに決まっている。だが、それ以上に服を汚してしまっては貸してくれた子に申し訳が立たない。なけなしの気力を振り絞ってミカサを見つめると、いじけた顔をした私を見たミカサは困ったように眉尻を下げるだけだった。

「はいはい。おしゃべりはその辺にして、次はこっちのワンピースを着てもらうからね」
「この組み合わせなら絶対に間違いないよ!」
「はぁい……」

 ミーナが持ってきたワンピースに袖を通す傍ら、履かされたばかりのブーツの紐をクリスタがぐいぐいと編み上げていく。これがベストだと言わんばかりのふたりの顔つきに、ようやくこの着せ替え人形扱いも終わりなのかと思うと自然と安堵の息が零れる。

「でもいいですね、デートだなんて。なんだかこっちまでソワソワしちゃいます」

 着々と完成に近付く私のおめかしを見守っていたサシャは、安全圏にいるからこそ心にもないことを口にする。

「それはサシャがあたりを引かなかったから言える言葉だよぉ……」
「そんなことないですよ。だって口では色々言ってますがちゃんとおめかししてるじゃないですか」
「抵抗したうえでこうなの!」

 元来、楽しいことに流されやすい性格だと自負しているが、気乗りしないイベントには私だって参加したくないよ。それでもミーナだけではなく色んな女子に「かわいい、似合う」と褒めそやされてなお「イヤだ、行かない」を貫き通すほどの気概もないから、渋々流されているだけなのに。
 むうっと頬を膨らませてサシャを睨めつけたが、当のサシャは「そのブーツは私がお貸ししたものですよ!」と胸を張るだけでちっとも気にしてないみたいだ。ますます面白くない気持ちが膨れ上がる、とちょっとは言い返してやんないとなんて意地悪な気持ちまでもが生まれ出す。

「いいもん。美味しいものをご馳走されちゃうかもしれないし!」
「ぐっ……! いや、もうその手には乗りませんよ!」

 一瞬、悔しそうな表情を浮かべたサシャだが、すぐさまこちらに両手を突き出し、顔を背けてしまう。どうやら心は動かされたものの朝ごはんを食べたばかりなのも手伝って、交代を申し出るほどではなかったらしい。
 思い通りにいかなかった落胆に溜息を吐くと、晴れやかな顔つきに戻ったサシャがこちらを振り返った。

「あっ! でも、もしも美味しいお店を発見した時は教えてくださいね。今度の休日にみんなで食べにいきましょう」
「もうっ、ちゃっかりしてるんだから!」

 ぎゅっと両手を握りしめたサシャのキラキラした顔を目にすると自然と唇が尖った。だが私の不機嫌な顔を見たところで意見は変わらないらしいサシャは「お土産にパンがあるともっと嬉しいですよ!」と続ける。あまりのしたたかさに「もー」と肩を揺らして笑っていると、ワンピースの紐を結んでいたミーナが顔を上げる。

「よーし、こんなもんかな!」
「わぁ……! かわいい!」

 同じくブーツの紐を結び終えたクリスタの弾んだ声を合図に、四方八方からギャラリーがやってきた。
 興味津々な顔つきがパッと華やぐのを目の当たりにすると妙にくすぐったい心地が生まれる。「似合うね」だとか「かわいいじゃん」だとか。同室の女子から口々に褒められる傍ら、そっと視線を鏡に移す。
 そこに映った自分の姿を確認すると、ふたりの見立てのおかげで普段よりも幾分もかわいくしてもらった自覚が芽生える。恥ずかしくて堪らないが、褒められるのは決して嫌ではない。スカートの裾をぎゅっと握ると自然と顔がほころぶのを感じた。

「……あ、ありがとね。その、色々と」
「お礼なんていいって。これものデートを応援するためなんだから!」

 ほんのりと熱くなった頬を手のひらで覆いながらお礼を言うと、ミーナはくるりと私の背後に回り、そのまま私の両肩を掴んだ。首を伸ばしこちらを覗き込んでくるミーナを振り返ると、出来映えに満足しているらしいミーナの誇らしげな顔つきが横目に入る。
 楽しそうな顔つきに釣られそうになったが、いまだデートの相手が分からない状況や照れくささも相まって、どうしても手放しで喜ぶのが恥ずかしくなってしまう。

「でも来る相手がジャンだったら無駄じゃない?」
「ジャンじゃないから安心してデートしておいでよ。ならきっと楽しいって思うはずだから」
「え、それって……」

 襟を整えてくれたクリスタの持って回った言い方に目を瞬かせる。ジャンではないという言葉もそうだが、「楽しくなる」だなんて断言するクリスタの言葉は、相手が私にとって親しいひとであると知っている証明でもあった。
 クリスタから外した視線を巡らせらば、他の子たちもなんだかやけにニコニコしていること気付く。

「え……! もしかしてみんな知ってるの!?」
 
 ニヤニヤ笑うサシャと、申し訳なさそうな表情を浮かべるクリスタ。果てはミカサまでしれっとした顔つきなのに艶やかな黒い瞳の奥に喜色を滲ませている。
 みんな、あんなに男子としゃべらないように気を付けていたのにいつの間に知ったんだろう。
 内緒にされていたのは自分だけだと気が付くと、愕然とその場に膝をつきそうになる。だが、それも私の肩を掴んでいたミーナに支えられると、あとはもうがくりと項垂れることしかできない。
 震える唇で「教えてよぉ……」とこぼしたところで、曖昧な笑顔が返ってくるか、素知らぬ顔で視線を外されるだけだった。
 目に見えて落ち込む私を見かねたのか、奥にいたハンナが、眉尻を下げて前にこちらに歩み寄ってくる。

「ゴメン、……。実はこっそりフランツに教えて貰っててて……つい、他の子にだけ……」
「そっかぁ……それは仕方ないよねぇ……」

 顔の前で手のひら同士を突き合わせて謝るハンナに力無く笑い返す。彼氏彼女ともなると楽しい話題は筒抜けだよねと諦めざるを得ない。
 ひとつ、長く息を吐き出すことで気を取り直した私は、膝に力を入れて自力で立ち上がると、改めて周囲を見渡した。

「――で、ちなみに誰なの?」
「それは……さすがに言えないよ」

 ねぇ、と同意を得るように周りを振り返ったハンナ含め、クリスタたちもまたうんうんと頷き合っている。その表情はどことなく楽しそうで、私が当事者のはずなのになんだか仲間はずれにされているみたいな心地に陥った。

「もう! 教えてくれたっていいのに!」
「あとちょっとの辛抱だから」
「心構えがあるのとないのとは全然違うのー!」
「大丈夫だって。心構えなんて要らない相手だもん」

 地団駄を踏むこどものような勢いで反論したところですぐさまミーナの説得によりねじ伏せられる。くすくす笑う他の子たちは、今の状況が楽しくて仕方ないらしく、なんだか微笑ましいものを見るような表情を浮かべていた。
 私だけを残して和やかな空気が蔓延する中、不意に「おい、」と呼びかけられる。不貞腐れた顔を隠しもせずに振り返れば、割れた人垣の間から現れたユミルと視線がかち合った。
 さっきまでベッドに寝転んで喧騒を眺めていたはずのユミルは、何やら楽しげな顔つきで私の正面に立つと、ぐいっとワザと顔を近付けてくる。

「いくつかお前がするべき指令を書いておいてやったからデートの参考にしろよ」

 そう言ったユミルは人差し指と中指に挟んだメモを私の目の真横でひらりと翳す。ちょっと背伸びしたらキスできそうな距離のままメモへと視線を向ければ、ユミルはするりと私の唇の前にメモを滑り込ませた。

「なになに? どんな指令?」
「中身はと私だけの秘密だ。――おっと、今日のデートのお相手さんもか」

 私の肩に手を置いたままだったミーナが身を乗り出して質問するのと同時にユミルはすっと背を伸ばして私たちから距離を取る。だが相変わらずニヤリと笑う表情は健在で、この状況を心底楽しんでいるのだとその瞳が雄弁に物語っていた。

「ユミルってば、自分が嫌がってた割にはノリノリなんだから」
「なんだよ。不満そうだな、。お前の背中を押してやろうという親切心からの行動だぞ? 私の愛を疑うつもりか?」

 ムッと眉根を寄せたユミルは、再びこちらに身を乗り出すとミーナからひったくるように私の腰を抱いた。おでこがっくつきそうなほど顔を近付け凄むユミルに思わず閉口する。だが鋭いのにどこか優しい印象の残った眼差しを差し向けられると、ツンケンした気持ちが次第に鳴りを潜めていった。

「もー……。ほんとそういう言い方ずるいんだって」
「ハッ。イイコだ、。私の言うことならなぁんでも聞くんだもんな?」

 観念したことに気がついたのだろう。ユミルは満足気に笑うと、腰に回していた腕を翻し、私の手の中に小さく折りたたんだメモを握りこませた。メモを見ようと手のひらを開きかけると、その上からユミルの手が重なる。

「おっと……これは相手と一緒に見ろよ」
「心配事がふたつに増えちゃうじゃん」
「いいだろ。楽しいことはふたりなら2倍ってやつだ」
「本当に楽しいことならいいんだけど」

 提案者であるユミルの表情にいたずらめいたものが含まれていなければメモの中身を楽しみにできたかもしれないけれど、とひとつ溜息をこぼす。

「帰ってから出来たかどうか結果を聞くからな。せっかく私のクリスタがお前を着飾ってやったんだ。ちゃんと気合い入れて行けよ」

 歯を見せて笑うユミルの手のひらが私の頭の上ではねる。その感触を追うように前髪に指を通せば、再びミーナの手のひらが肩の上に乗った。

。仕上げにちょっとだけお化粧するから、あっち行くよ」
「えー、そこまでしなくてもいいよぉ」
「いいから。相手が誰であれデートには変わりないんだから、かわいいって思われるように頑張ろうよ」
「思われなくてもいいよぉ」

 私の嘆きに聞く耳を持たずグイグイと私の肩を押すミーナは、どうやら鏡の前へ連れていこうとしているようだ。床に踵を押し付けるように踏ん張ってみたところで前に立ったクリスタに手を引かれては歩き出す他ない。
 結局、私が泣こうが喚こうがお構いなしのふたりに、きっちりと化粧を施されることとなった。

「ヨシ! 今度こそ完成! 楽しんできなね、
「うー……。それは善処するけど……」

 相手次第だとごねる私を「大丈夫」となだめすかすミーナも、「すごく可愛くなったよ!」と褒めてくれるクリスタも、心から応援してくれているのは伝わってくる。それでもまだ相手が分からない不安が大きすぎて素直にお礼を言えない自分がいた。

「ほら、もたもたしていると待ち合わせの時間に間に合わなくなっちゃうよ」

 敵前逃亡は許さないと言わんばかりに私の腕を取ったミーナは、腕を組んだまま歩き出す。いつもなら私の方がミーナに腕を絡める側だからか、なんだか変な心地がした。

「楽しんでおいでね、
「土産話、期待しているからな」

 にこりと笑いかけてきたクリスタに足並みを合わせるように歩きだしたユミルはどうやら一緒に待ち合わせ場所までついてくるらしい。本当に、自分が関係ないからって楽しんじゃうんだから。
 ぷうっと頬を膨らませてみれば、しなやかなユミルの指先が頬に突き刺さる。抜けた空気を吐き出すまま唇を尖らせるとユミルは愉快そうに笑いながらクリスタの肩を抱いた。
 こんな風に歩いていると、デートなんかじゃなく、この4人で普通にお買い物に行ければいいのになって気持ちが湧き出てくる。
 ――無理なんだろうなぁ。
 同行してくれてるとは言え、これも待ち合わせ場所の兵舎前までだとわかりきっている。それに逃げだそうとしたところでダッシュした瞬間、後ろからついてきているミカサやサシャに取り押さえられてしまうに違いない。あとはもう、腹を括るしか無いのだろう。
 先頭に立たされて歩きながら、ひとつ溜息を吐きこぼす。目線を軽く斜め上に投げかけ、出陣の心境というのはこういうものなんだろうかと漠然と考えた。




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