ジャン01:嫌味なくらい

ジャン・キルシュタイン


「ライナー!」
 野外訓練を終え、寮へと戻る道すがら、弾けるような声が耳に届いた。昔から聞いてきた声の、聞き慣れない言葉。いや、最近よく耳にするようになった、名前。
 その声に振り返ったのは反射だった。いつもならば俺の正面で立ち止まるはずが、間近を通り過ぎて行く。駆けていくの背中を目で追いながら、顔を顰めて舌を打った。思ったよりもその音は響いたらしい。近くに立っていたマルコが俺を振り返って苦笑いを浮かべた。
「どうした、ジャン」
「……別に、どうもこうもねぇよ」
 いつの間にか立ち止まっていた足を前に踏みだし、マルコを追い抜いてやると、マルコはひとつ息を吐き、俺の隣に並んで歩き始めた。
 ちらりとこちらを見たマルコの視線が頬に刺さる。普段ならば気にもとめないはずなのに、どうしてだか今は苛立ちが募るようだった。
 腹の内が熱を持つ。つい先程までどうって事無かったのに、瞬間的に生まれた炎が誰のせいで起こったのか。その理由は、火を見るよりも明らかだった。
 視線を前方へと伸ばし、随分先へと行ってしまった背中を睨み付ける。俺の視線になんて気付きもしないに、ますます腹立たしさが増した。ぐっと喉の奥に生まれた感情を飲み込み、歯を食いしばって視線を逸らす。一連の俺の動きを隣で見ていたマルコが、小さく肩で息を吐いたのが横目に入った。
が気になるの?」
「チッ……そんなんじゃネェよ」
「はは、悪い」
 ちっとも悪びれた様子のないマルコの謝罪に、一際大きく舌を打ち鳴らす。もし実家にいる頃にこんな真似をしたら母ちゃんからの叱責が飛んだことだろう。
 マルコの言葉が引き金だ。別に気にしているわけではない。
 そう自分に申し開きをしながら、改めて視線をへと向ける。駆けた先にいたライナーの腕を引っつかんで止まらせたらしいは、身振り手振りも交えてなにやら楽しそうに喋っている。
 正面に立つライナーもまた、時折、肩を揺らして笑っているように見えた。その笑顔を向けられる度に、の表情は華やいだものへと遷り変る。
 その笑顔を見る度に、言い知れない苛立ちが腹の底で増幅する。
 の笑い顔を、一番目にしてきたのは俺だ。は俺の同郷、というよりも幼馴染というやつだ。訓練兵になって面倒くさいことになるのが嫌で俺がを邪険に扱おうとも、文句を言いながらでも強引にが俺を追いかけ回してきた。
 ――それが、なんだよ。今になって、突然、ライナーを追いかけ始めるなんてよ。
 俺がいくら離れろと言い募ってもあんなにひっついて回っていたくせに、今じゃ、俺としゃべっていたって、二言目には『ライナーがね』だ。
 釈然としない思いを抱えたまま、を睨み付ける。ライナーの腕を掴んで引く背中は、これ以上は無いというほど浮かれている。腕を引きすぎて前につんのめりかけたを、ライナーが支える。ただそれだけで、は心底嬉しそうに笑った。
 ミカサやミーナなんかと喋っている時だって、アイツはあんな顔はしない。楽しそうなのは変わらないのに、種類が違って見えるのはなぜなのか。見えかけている答えを導き出すことは、あまりにも癪に障る。
 俺の苛立ちなんて知らないほかのやつらの目には、がライナーに懐いていることを微笑ましいもののように思っていることだろう。俺と同じものを見ているはずのマルコの穏やかな顔つきがその証明だった。
「ライナーといる時のが、一番嬉しそうだね」
 眩しいものでも見つめるかのように目を細めて言ったマルコに呆れて思わず口を挟んだ。
「ネコがじゃれてるようにしか見えねぇけどな」
 ライナーの前に立つは、木の枝を目の前で振るうと踊るように跳ねるネコとなんら変わらないように見えた。気が乗らねぇと見向きもしねぇところなんてそっくりだ。正直な感想をマルコにぶつけると、マルコは眉根を寄せ、声をひそめた。
「ジャン……寂しいのはわかるけど言葉がすぎるよ」
「オイ、勝手なこと言ってんなよ」
「勝手って……ただ、はライナーのことが好きなんだろ。いいじゃないか、素直で」
 ぐっと喉の奥が詰まった。ストレートな言葉は、俺が持て余していた答えそのものだった。マルコにわざわざ言われなくたって、そんなこと俺だってわかってんだよ。
 ライナーの目の前でが笑う度にチラついていた考えが、マルコの言葉によって明確な形を持つ。今、あのバカはライナーに恋をしているんだろう。目に見えてわかるほどに純粋に真っ直ぐに――。
 ひとつの考えとして確立した瞬間、背筋がぶるりと震えた。ガキの頃から見ていた相手の初恋を目の当たりにするおぞましさか、それとも、散々引っかき回された今までをぽんと無碍に捨て去ったへの苛立ちなのか。
 デレデレとした顔で、ライナーに身体全体を預けるように歩くを見ていれば、前者の方が強いような気もしたが、腹の中の気持ち悪さが後者であることを主張し続けた。
 以前、マルコから「お前ももわかりやすくて助かるよ」だなんて言われたことがあるが、俺はミカサの前であんな風に振舞ったことはない。それどころか、ミカサと会話を交わすことなんてほとんどない。
 ――……なんで自分で自分を引き合いに出してダメージ負わないといけないんだよ。
 クソったれ。なにもかものせいだ。
 恨みをぶつけるようにへの視線を強いものへと変える。俺が睨んでいることになんて微塵も気づかないは、相変わらず機嫌良さそうに笑っていた。
 マルコは俺とが似ていると言ったが、俺があんな風にミカサの前で振舞ったことがあるか? いや、絶対にない。ミカサに惚れた瞬間に、俺はこの恋が報われないと知った。
 だって気付くべきなんだ。ライナーが、誰に対しても親切であることや、『自分が特別だ』なんて思わない方が身のためだということを。それさえも気付かずに無邪気に好きと主張するは、もっと謙虚に生きたほうがいい。
「報われないもんを追いかけてなにが楽しいんだか。俺には理解できないね」
「いや、まだ報われないと決まったわけじゃないだろ」
「いーや。もう決定事項だ。わかんだろ、普通」
 がライナーのどこを気に入って懐いているかなんて知らない。だが、相手はこの104期の男子の中で一番人気のライナーだ。理由を予想立てればいくらでも出てくるようだった。
「大体あのライナーだぜ。勉強もできて体力もあってオマケに人望まである」
 言葉にすると、ますます実感する。ライナー・ブラウンという男の条件の良さってやつを。
 に限らず、ライナーに一目置くやつは少なくない。同郷というベルトルトやの中心にいるのもライナーだし、コニーも色々と力になってもらっていると言っていた。あのエレンでさえライナーに信頼を寄せているように見えるのだから相当だ。
 教官からの叱責を受けるところを見たこともなければ、女子からの人気も高いと聞く。樽ひとつくらいなら軽々と運ぶ恵まれた体躯に、面倒見の良い兄貴分として申し分ない性格。嫌みなくらい、出来たやつだ。
 人の好いライナーのことをが気にいるのもわかる。だが、だからこそダメなんだ。
「あぁいう手合いに、が相手にされるわけがねぇ」
 玉砕前提の恋なんて、空しいだけだ。馬鹿みたいに表に出して、周りにもそうと悟られ、振られてなんかしてみろ。俺たちが気をつかってやらないといけなくなるんだぞ。
 土台、無理な話なんだ。相手が悪すぎる。あんなに優秀を絵に描いたようなライナーなら、女なんて選び放題だ。その中からわざわざ欠点だらけのなんて選ぶ理由なんてあるはずがない。
 ライナーに合うのは、同じく男子の中でも一番人気のクリスタぐらいのものだろう。実際、ライナーは時折、かわいいだのなんだのとぼそぼそ呟きながらクリスタへ熱い視線を送っているのだから、どう考えてもに勝ち目はない。
 そう思うと、手に入らないもんを追いかけるが哀れな存在のように思えてくる。
 ――そうだ。初めから叶わないってわかってるんだから、とっとと玉砕して、身の程を思い知ればいいんだよ。
 近い将来、起こりうるはずのの反応を頭に思い浮かべる。鼻を垂らして泣くは、どうせミーナたちには心配かけたくないだなんて言って、俺の服を汚しながら泣くはずだ。
 先程まではのんきに浮かれまくった顔にイラついていたが、それも今だけだと思えば気が晴れるようだった。
「まぁ、忠告したところで聞く耳をもつようなやつじゃないからな、は。とっとと泣かされて帰ってきたらいんだよ」
 フンと鼻を鳴らしてから視線を逸らす。まぁ、泣くようなことがあるならドーナツくらいなら奢ってやってもいい。幼馴染なんだ。骨を拾うくらいのことはしてやるよ。
 きっとマルコも同意するだろう。そう思いながら視線を横に流すとマルコはまた曖昧に笑っていた。



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