ライナー01:触れる

ライナー・ブラウン


 井戸の近くで男子がなにやら尋常でない盛り上がりを見せている。対人格闘訓練の後ということもあり、少しくらいテンションが高いのであれば特に気にならない。だが、ここ最近で一番、というのが相応しいほどであれば、人目を引くというものだ。
 こちら側にいる女子たちも、私と同じように気になっているのか、チラチラと視線を送っている。ミーナと一緒になってアニを引き留め、女子の一団に混じって首を伸ばして見てみれば、その輪の中心にライナーがいることに気がついた。
 ――何かやってるのかな?
 気になると見たくなる。何人かの女子が徐々に近づいているのに後押しされ、心の赴くままふらりとその集団へと足を向ける。
「ちょっと見てくる」
「あっ! !」
 ミーナの声を背に受けながら、彼らの輪へと混じる。踵を上げ、男子の背の間から中の様子を覗うと、目に飛び込んできた光景に思わず目を丸くしてしまった。
 上半身の服を脱いだ男子が、いた。それもひとりではない。片手では足りないほどの人数がその場に集まっていた。
 訓練の汗を流そうと水をかぶった後の喧噪だったのだと、状況を把握しながら視線を巡らせる。ノリのいいコニーを含め、身体の発育に自信がある男子が中心となっているからこそ、ライナーが真ん中にいたのかと納得した。
 腕からの二の腕にかけて、筋肉を盛り上げ見せびらかすライナーの笑顔がまぶしい。感心したようにライナーの腹筋に触れるエレンや、「ぶら下がれそうだな」なんて言いながら力こぶに手を回し、腕が下がらないか確認するマルコの姿を目に入れる。
 みんな、なんだか楽しそうだな。そう感じた途端、身体は動いていた。
「私もライナーに触りたい!」
 ハイ! ハイ! と勢いよく挙手をしながら宣言すると、ライナーを取り囲んでいた人垣が割れる。ぎょっとした目が一斉にこちらへと向けられたが、怯むことなく主張を押し通した。
! お前、なにこっち来てんだよッ?!」
 声を裏返しながら歩み寄ってきたジャンの腕がこちらへと伸びる。すんでの所でその腕を掻い潜り、近くにいたトーマスの背に回り込み、盾にする。
「おい、……」
「テメェ! 逃げんなっ! おい、退け! トーマス!!」
「お願い、隠れさせて!」
「ハァ?! 隠れるじゃねぇだろ、見えてんだよ! このクソバカ女!!」
 ぎゃあぎゃあと騒ぎ出した私たちに、周囲が戸惑いを示す。首を竦め、どうにかしてライナーの元まで辿り着けないだろうか、と算段をつけていると、背後から腕を引かれた。
 ――誰だろう? 今、捕まるのはいやだな。
 そんなことを考えながら眉根を寄せ、首を捻って仰ぎ見れば、顔を顰めたライナーが立っていた。一瞥を私に落としたライナーは、息巻いて迫るジャンに「落ち着け」と諭しながら、そっと私を自らの背に隠してくれた。整った背筋を間近で眺めながら、ジャンの嵐が過ぎ去るのをじっと待つ。
「おい、! お前、マジでこれ以上調子に乗ったら知らねぇぞ! 何やらかしてもカバーしてやんねぇからな!」
 次第に遠くなるジャンの捨て台詞を聞き流す。私の興味はすでにライナーの肩にのみ向けられていた。こんなに近くで、ひとの筋肉を観察したことはない。むしろ、自分では見られない箇所だからこそ、物珍しさに惹かれてしまう。
 触っても良いかな、とそっと腕を上げるのと、ライナーがこちらを振り返ったのはほとんど同じタイミングだった。
「……なんだ、この手は」
「や、触りたいなーと」
 呆れたような声が落ちてくる。バカ正直な私の答えに、ライナーは重い溜息を吐きこぼした。一歩退いて、ライナーを見上げる。右手で額を押さえ込み、瞑目したライナーは、小さく横に頭を振った。薄く目を開いたライナーと視線がかち合う。睨むような視線に怯むことなくまっすぐに見返すと、ライナーはまたひとつ溜息を吐き出した。
「触るって……、お前は簡単に言っているが、その距離感の近さは今回ばかりは感心しない。ジャンの注意にもたまには耳を傾けるべきだ」
「えー……ダメかな?」
 たしなめられているのはわかる。いつもならライナーの忠告にはまともに応じるのだが、今回ばかりは抗いたい。目の前にあるものを諦めるのが、ひどく惜しい。
 それでも私は触りたい、という気持ちを込めてじっとライナーを見上げる。口を結んで私を見下ろしていたライナーだったが、私の意思が折れないことを早々に感じてくれたのだろう。口を開く頃には硬くなっていた表情をほんの少しだけほどいてくれた。
「俺なら別に構わんが――お前の場合、遠慮がなさそうで怖いな」
「そんなことないよ! 大丈夫、減りはしないから!」
「矜持が減りそうなんだが……」
 げんなりした顔をしながらも「少しだけだぞ」と許してくれるあたりライナーは優しい。口角を上げて笑いかけ、退いていた距離を一歩分詰め寄った。
「それじゃ遠慮無く! ……腕にぶら下がるのとどっちがいいかな?」
「好きな方を選べ」
 好きな方を、と言われ、ほんの少しだけ頭を捻る。腕は脱いでなくても出来るから、今度別の機会にしてもらおう。そんな打算的なことを頭に思い浮かべながら、そっとライナーのお腹に手を伸ばす。
 掌を立て、ピタッと腹筋に触れさせた途端、馴染みのない感触が伝わった。それと同時に、肉が締まっている、という言葉の意味を知る。
 人の温度を持つ鎧のようだ。正直な感想を頭の中に思い浮かべながら手を這わせる。薄い溝に指が引っかかる。しなやかささえもある肉質は、押せばほんのりとした弾力が掌に返ってきた。
 胸の前で組まれた腕にも目を向ける。一般的な女子のふくらはぎほどはありそうながっしりとした腕には血管や筋がびっちりと浮かび上がっていた。
 ――鍛えてるんだな。
 ライナーの努力が垣間見えるようだ。ここに来て、いや、訓練兵になる前からきっと、開拓地で鍛えざるを得なかったのだろう。
 私の肉付きの薄い身体では、誰かを守るだなんておこがましい考えなのかもしれない。これからはもっと、ちゃんと身体を作っていかなければいけないな、と自らの訓練兵としてのあり方に対し、ひとつ、誓いを新たにする。
「――もういいか」
 落ちてきた声に顔を上げる。間近で見上げたライナーの表情は、先程以上に硬い。鋭い眼差しは、彼が兵士なのだと思わせるだけの強さがあった。
 ――男の人だ。
 気軽に触れてもいい『男子』ではない。そう感じた途端、なぜだか無性に恥ずかしくなった。身体を巡るはずの血液がすべて、顔に集まってしまったのではと思えるほどに頬が熱い。
「おい、! いい加減にしろお前!」
 首根っこを掴まれ、強引に引き剥がされる。いつもなら、そんなジャンの行動には大いに反論するのだが、このときばかりは助かった、だなんて感じてしまう。
 だが距離が離れたところでまたライナーと視線を合わせられるかというとそうではない。熱くなった頬を隠すように、横髪を握りしめて顔にかける。
「あ、ありがとね?!」
「? いや、別に構わんが……」
 様子のおかしい私を、ライナーが怪訝そうな顔をして窺おうとする。身を乗り出されると、先程まで無遠慮に触れていた体躯がいやでも目に入った。
 居たたまれなくなって、ジャンの背中に隠れる。相変わらずの怒号がジャンから落ちてくるが、耳に入っても頭の中までは届かなかった。
 急に襲いかかってきた感情をやり過ごそうと深呼吸を繰り返していると、複数の影がライナーへと近づいた。
「ねぇ! 私たちもお願いしていいかな?」
「は?」
「いいよね? 興味あるんだ、腹筋」
「お、おい、ちょっと、待って――」
 私と入れ替わるようにしてやってきた女子たちにもみくちゃにされるライナーを横目に、急いでミーナとアニの元へと戻った。さっき離れたときとまったく同じ場所に留まっていてくれたふたりには感謝を覚えるほか無かった。ベンチに腰掛けたふたりの前に膝をつき、彼女らの太ももを両腕にかき抱いた。
、顔真っ赤だよ」
「だってぇ……」
 口元が緩むのを隠しもしないミーナの手が私の頬を包み込んだ。ひんやりとした感触は、ミーナの手が冷えているのか、それとも私の頬にまだ熱が残っているせいなのか。あまりの羞恥に目がにじんでいることを思えば、おそらく後者なのだろうと判断する。
「照れるくらいなら初めからやめときなよ」
 冷めた目をしたアニから至極当然の言葉でバッサリ切り捨てられ、ふて腐れた子どものように唇を尖らせる。
 体中が燃えているかのような居たたまれなさを抱える羽目になったのは、自分のせいだという自覚はもちろんある。だけど、そのまま会話を終わらせるのもなんだか癪な気がする。
 失敗したことを、新しい失態によって上書きできないか。そんな心理が私の背中を押した。
 膝を抱えていた腕を放し、アニの膝へと顔を埋める勢いで突っ伏す。そのままアニのお腹に手を添えて腹筋の発達状況を確かめると、鋭い肘が頭上に落ちてきた。



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