ライナー02:甘える

ライナー・ブラウン


 気がついたとき、目には何も映らなかった。暗い空間にひとり、放り出されているのだと頭で理解した途端、心の底から怯えが生まれた。
 自分が宙に浮いているのか、それとも水の中に沈んでいるのか。それさえもわからない。
 投げ出された体を起こし、地面とも床とも判別のつかない場所に足を下ろす。だが、きちんと立てているのか、否、それどころか上下の別もわからないのでは、状況が変わった認識さえ持てないままだ。
 空恐ろしさに必死で手足を動かした。もがき、足掻いていると、目の前の情景が変わっていることに気づく。
 目の前を過ぎる風景は、かつて幼い頃に戦士候補生として訓練した場所であった。広大な山道を、銃を持ったまま走らされた記憶は今も根強く残っている。
 ――あぁ、俺は今、夢の中にいるのか。
 不思議とそうだと確信できた。記憶が蘇ってもなお駆けたままでいると、銃を抱える手のひらが子供のものへと変遷する。同時に、走る先にゴールが見えた。
 俺の前には誰もいない。このまま駆け抜ければ一着だ。
 その思いは、当時も抱いたものだった。あと十数メートルも走れば辿り着く、と考えた瞬間に、横から飛び出した影があった。
「マルセル!」
 黒い髪が俺の横を駆け抜ける。抜かれた、と思った時にはすでにマルセルの背中が手の届かないほど遠くに離れていた。先を走るマルセルの背中に手を伸ばす。
 ――この競走で負けたら、俺は戦士になれない。
 駆けて、駆けて、足を必死に動かし続けた。だが、マルセルの背中はぐんぐんと遠くなっていく。ちっとも前に進みやしないことに、業を煮やし、ぎゅっと目をつぶって足を動かすことだけに集中した。
 駆けて、駆けて。何度も繰り返し足を出す。だが、何かに足を取られたのか、自分の足がもつれたのか。気がついた時にはまたしても地面に体を投げ出していた。
 ――まだ、走らなきゃ
 収まらない衝動に、体を起こそうと腕に力を入れる。顔を上げて、閉じたままだった目を開いた。だが、目に飛び込んだ光景にはっと息を呑んでしまう。恐怖で身が竦み、にわかには体が動かない。
 ――巨人だ。
 パラディ島で見た、初めての巨人が目の前にいた。奴は、先を走っていたはずのマルセルを掴み、今、まさに口に運ぼうとしている。
 本当なら、俺が巨人に食われるはずだったのに。
 瞬時に理解した。ぼうっとしていた俺を庇い、突き飛ばしたことで、マルセルが俺の身代わりになってしまった。
 マルセルが捕まったのは、俺のせいだ。俺が、戦士になれるはずもなかった俺が、ここが外の世界だと、悪魔の住む島だと忘れて気を抜いていたから――。
 口に運ばれるマルセルがこちらを見ていた。絶望を映す瞳に、意識を絡め取られる。
 やめろ、やめてくれ。食わないでくれ。生き残るべきだった、マルセルを殺さないで――。
「――待って!」
 叫び声が口をついて出た。衝動のままに手を伸ばす。どこにも辿りつけない手のひらは、空を掴む、はずだった。
 見慣れぬ天井。その景色に目が慣れるよりも先に、伸ばした手のひらがやわらかい手に包まれた。
 薄く日に焼けた手が、俺の手を強く握りしめている。誰の手だ? そう思い、細い腕を辿ろうと首を動かしたが、届くよりも先に、ひとりの少女が視界に割って入ってくる。
「大丈夫? ライナー」
 陽の光に透けた髪がきらきらと輝いていた。眩しさに目を細め、浅い呼吸を繰り返す。不快な動悸は簡単には収まらない。
 なにかに縋りたい気持ちが包まれた手のひらに現れる。指先同士が絡むように位置を動かし、そのまま軽く曲げれば、応えるように、もまた俺の手を強く握りしめた。
 の手のひらが繋がっているのだと思うと、次第に呼吸が楽になるようだった。親指を動かし、の手の甲の感触を確かめる。
 俺の手を握ったままのが、腰を下ろす姿が横目に入る。ちらりと視線を横ヘ流し、意識して呼吸を整えていると、周りの景色や自分の状況に気を払うことができるようになった。
 横たわった体は、地面ではなくベッドの上にあり、はその横に置いた椅子に腰掛けている。窓から見える景色や、棚に整然と並べられた薬瓶、ほぼ白で敷き詰められた室内だということを加味すれば、ここは医務室だと判断をくだすことができた。
 今朝方、点呼で見かけた際に「今日は医務室の当番なんだ」とアニやミーナにぼやいていたを思い出し、自らの仮説を裏付ける。
 目を深く瞑る。
 悪夢はまだ、身内にある。忘れてはいけない過去だ。だが、今だけはそれを飲み込んで、『兵士』として振る舞わなければいけない。
 細く長い息を吸い込み、吐き出した。ゆっくりとまぶたを上げると、そっとへと視線を動かした。
 細められた瞳が俺を見つめている。どこか不安げに見えるのは、俺を心配してのことだろうか。
「ひどくうなされてるようだったから、起こそうと思って体揺すってたんだけど余計にうなされちゃって……ごめんね?」
 しょんぼりと頭を下げるは、右手で握っていた俺の手に左手を添え、「本当にごめんね」と自らの親指同士に額を押し付けた。
 さらりと触れた髪と、やんわりとしたの手のひらに、落ち着いたばかりの鼓動が静かに跳ねる。
「いや、起こしてくれて助かった」
「ほんとに?」
「あぁ」
 頭を上げ俺と目を合わせるに、顎を引き頷いてみせると、は安心したように笑い、俺の手を握ったままの手に頬をくっつけた。
「よかった……。あとね、治療した教官からも、怪我はたいしたことないって聞いたんだけど、今はどう? 痛くない?」
「怪我?」
「うん、さっきの格闘訓練で、ミカサに投げられてたじゃない?」
「……あぁ、そうだったな」
 の言葉に、途切れた記憶の断片が浮かび上がってくる。
 今日の昼の座学の後に行われた対人格闘訓練では、ミカサと組んでいたはずだ。今日というよりも、ここのところほとんど、というのが実情だ。
 どういうわけか、最近、エレンがアニを頻繁に誘うようになったため、あぶれたミカサが、解き放たれた猛獣のように他のものと組まざるを得なくなったのだ。
 初めのうちはジャンを筆頭にミカサと対戦することで何かを学ぼうと挑むやつも少なくなかった。だが、容赦なく打ち破るミカサに、次第に誰もミカサとは組みたがらなくなり、体の大きい俺が適任だろう、と、とばっちりが回ってくるようになったのだ。
 ミカサに投げ飛ばされたところまでは記憶があるということは、その後、打ちどころが悪く伸びてしまったということだろう。
 に取られていない方の手を額へと伸ばす。さらりとした布の感触は、包帯だと推測できる。そういえば、一度、目が覚めた際に、教官に包帯を巻かれたんだったな。安静にしておくといいという言葉に従い、眠っていたことを思い出しながら、改めて視線をへと戻した。
 医務室の当番であるがここにいるということは、今はもう夕食の準備時間に入っているのだろう。
 ならば、が戻るのに合わせて俺も戻ればいいはずだ。それまでは、少しだけ休ませてもらうとするか。
「ミカサも申し訳なさそうだったよ。もしかしたら今日の夕飯のパンをわけてもらえるかもね」
「はは、そいつはいいな。楽しみにしておくか……なら、が戻るまで少し寝させてもらうとするか」
「ほんと? じゃあまだ当番まで時間あるし、あとで着替えに戻ろうかな」
 そう言ったが、いまだ兵団服に身を包んだままであることに今更ながらに気がついた。
 また、当番の時間にもなっていないということは、まだ格闘訓練が終わったばかりなのだろうか。
 驚きに目を丸くするままにを見上げる。
「着替えもしないうちにここに来たのか?」
「うん、ライナーが心配だったからね」
 さらりとした言葉に、いつものように友情以上のものを含まれたのではと勘違いしそうになる。だが、こいつは自他共に認めるほど、好意を伝えることに躊躇のない女だ。いちいち惑わされていたら身がもたない。
「じゃあ、先に戻るか?」
「んーん。どうせ今から戻ったって寮も混んでるだろうし、ライナーの寝顔も見たいからあとで一緒に戻ろ?」
 惑わされないと身構えた途端、これだ。触れる距離の近さも、口にする言葉も、特別に親しいものへ向けるものとしか思えない。唇をまっすぐに結び、顔を背ける。だが、ベッドの上に横たわったままでは、その抵抗は取るに足らないものでしかなかった。
 俺の抵抗を苦にしないは、ぎゅっと握りしめた手に力を込めることで「こっちを向け」と示す。更に抵抗したところで、が諦めるとは思えない。
 こちらが折れるという選択肢以外、初めから用意されていなかったのだ。
「あ、でも、眠るなら寮のほうが慣れてるんじゃない?」
「……いや、そうでもないな」
 頭の向きをへと戻し、顔を顰める。もし、このまま寮に戻ったとして、まともに眠れる気がしないことを思い出したからだ。不思議そうに首を傾げたに、苦渋の表情を添えて理由を告げる。
「正直、ここのところきちんと眠れていなくてな」
「そうなの? ……なにか心配事?」
 眉を下げ心配そうな表情を浮かべるに、先程まで見ていた悪夢の話をするわけにはいかない。
 ならば、ともうひとつの眠れない理由を頭に思い描く。ダイレクトに我が身に降りかかるそれを口にする行為は、同郷の仲間を貶めることに等しい。だが、友人の多いのことだ。もしかしたらジャンあたりにすでに聞いている可能性もなくはない。
 逡巡の後、に無駄な心配をかけるよりはいいだろう、と判断をくだす。
「ベルトルトの寝相がとにかく酷いんだ」
 端的に告げるとは頭を揺らした。
「あ。それ、前に聞いたことがあるよ。ベルトルトの寝相で天気が当たるんだよね?」
 微妙に異なる噂を口にしただったが、確かに天気を占う連中が多くいること、その輪に俺も加わることを思えばあながち外れではないだろう。
「まぁ、そんなところだ。とんでもない寝相をするんだ。今日なんかベルトルトのやつに顔のあたりを蹴られてな」
「足が長いもんねえ、ベルトルトは」
 足に限らず、だ。訂正しようか考えたが、じゃあどの程度でと尋ねられると答えに詰まる。
 手でベッドの上から押し出されたり、縦に寝るべきところを横に寝ようとしたりと、被害の種類には事欠かない。その数々の暴挙を列挙するには、夕飯の時間まででは到底足りそうになかった。
「みんな俺の体が丈夫だからいいだろうだなんて言うんだ。まったく、誰かに代わってもらいたいもんだぜ」
「でも、ベルトルトがここまで運んでくれたんだし、あんまり悪く言っちゃだめだよ」
 やんわりとしたフォローを入れるは、ベルトルトとも仲がいいんだったな。戦士としては喜ぶべきではないが、兵士としてなら孤立して悪目立ちするよりもよっぽどいい。
 同意を示すために頷いて返すと、は安心したように笑った。
「ベルトルトの他に運んでくれたやつはいるのか? 後で礼を言いたいんだが」
「えっと、あとはかな?」
が!?」
 の言葉に、思わず聞き返してしまう。
 ――あの面倒くさがりが?
 トラブルがあれば我先に逃げ出し、不穏な空気が生まれればいつのまにか姿を消す、あのが?
 にわかには信じられず、不信の目をに向けてしまう。
「あ、でもは割とすぐに『重ォい!』って手を放してたけど……」
 詳しく聞けば、ベルトルトが運ぶと決まった際に、他に背の高い男子が運ぶ、ということでが抜擢されたそうだ。
 ユミルにケツを蹴り上げられながら俺の左肩を担いだが、数歩、歩いたところで俺を放り投げた、というのが真実らしい。その放り投げ方はミカサ以上のものだった、というのがの弁だ。咄嗟のことに、ベルトルトも対処ができず、やむなく頭を打ち付けた俺が、更に気絶を深めた要因となったようだ。
 どうりで頭が左右ともに痛むはずだ。 
「クソっ……いや、気を失ったオレが悪いか。だが……」
 のやつは本当にどうしようもない、という思いが強まる。どうせのことだ。巨人の力を使って治せばいいじゃないかとでも言うつもりなんだろう。
 同様の言葉とともに、雑な扱いを受けた経験がいくつも脳裏をよぎる。
もきっと悪気はないんだよ?」
「それはわかっているが……いや、悪気がないからこそ性質が悪い」
 あの男に優しさというものは備わっていない。ガキの頃から知っている。その評価が、今後、覆されることはないだろう。
 俺の言葉に困ったように眉を下げたに気付き、反射的に「すまん」と口にする。同時に、顰められていただろう表情を解こうと試みる。
 一方的に怒りをあらわにしても、知るのはここにいるだけなのだから、これほど不毛なことはない。この場にいない相手に憤ったとて虚しいだけだ。ふつふつと沸き起こる怒りを身内から追い出そうと、ひとつ、溜息を吐き出した。
 同時に肩から力を抜くと、ふ、と眠気が顔を出す。小さなあくびを挟むと、すぐさまが俺の変調を察知する。
「もう寝ちゃいそう?」
「そうだな……まだ、時間は大丈夫そうか?」
「うん、まだまだたっぷりあるよ」
 頭を揺らして応じたに、安堵の息を吐く。どうやら気がついていなかっただけで、思ったより身体に負担が溜まっていたらしい。
 寝るか、と身体から力を抜くと、右腕に違和感を覚える。目線でたどれば、いまだの手を握り締めたままだということに気がついた。
 眠ると口にした以上、この手を離した方がいいだろう。じっとしていることが苦手なにとってはこんな拘束めいたことは受け入れ難いはずだ。
 そこまで理解していながらも、もう少しだけこの手を握っていたいという願望が頭をもたげる。同時に、俺がそれを口にすれば、が笑って受け入れることも半ば確信していた。
「……少し、甘えてもいいか?」
 言って、握る手のひらに力を込める。離したくないと口にする代わりの行動だったが、には届いたらしい。
「ライナーなら大歓迎だよ」
 口角を上げ笑ったは、同じように手のを強く握り返すことで応えた。拒絶されることはないと確信していたが、いざ実際に受け入れられると、照れくささがにじみ出る。口元を引き締めることはできるが、緩む目元を隠すことはできなかった。
「じゃあ、お前が着替えに戻るタイミングで起こしてくれ。俺もその時間に出れば間に合うだろう」
「うん! いいよ!」
「ありがとな」
「ううん、任せて! おやすみ、ライナー」
 両手で握りしめられていた左手がそろりと抜ける。そのまま柔らかく頭を撫でる手の心地よさと、迫る眠気に身を委ねる。
 がこのまま待っていてくれるなら、今度は悪夢に邪魔されない。そんな予感があった。



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