ライナー03:温める


 朝の点呼の時は、空は澄み渡っていた。惜しげも無く注がれる陽光とからっとした空気に、今日は午後から暑くなるだろうなという予感さえあったほどだ。
 だが、立体機動装置の訓練を迎えた今、天候は大きく崩れている。一歩外に出れば、シャワーに打たれたかのように水浸しになるほどの豪雨にさらされた。山の天気は移ろいやすいとは言え、これはいささか予想外にもほどがある。
 これだけの雨量ではアンカーを上手く穿つことは出来ない。ならば、と、雨避けのため、岩場の切れ目に入り込んでから10分ほど経っただろうか。穴の中から外へと手を差し出すと、幾重もの雨粒が手のひらに降り注いだ。
「もう少ししたら止むかなぁ」
「いや……これはかなり長引くだろうな。……どこかで見切りをつけないと時間内での帰着は難しそうだ」
 手を振るうことで雨粒を払い落としながら、雨雲群れなす空へと向けていた視線を、隣に立つライナーへと向ける。
 雨雲を避けようと正規のルートを外れた私を追いかけて来てくれたライナーは、険しい視線で空を睨み付けている。天候を恨んでいるのか、それとも無鉄砲な私の気質を憎んでいるのか。その表情からは判別が出来ない。
 ――まぁ、私を憎んでいるなら、こんな風に助けに来てくれるはずもないか。
 いろんな人に発揮されているとはいえ、ライナーの面倒見の良さには、ありがたいような申し訳ないような複雑な心境が生まれる。
 ライナーの横顔をじっと見上げながら、胸につかえるような心境を押し出すためにそっと息を吐いた。溜息のようなかたちのそれを聞き咎めたのだろう。ライナーは空へと向けていた視線を私へと落とした。
「寒いか?」
「ううん。平気だよ」
 頭を振って否定すると、「そうか」と短い言葉が返ってくる。会話はそれっきりで、ライナーの視線が再び空へと向けられると、雨音だけがその場に残された。
 岩肌を叩く雨音は強い。まるで滝の側にでもいるのではと錯覚してしまうほどの音に耳を傾けていると、じっとしているせいだろうか、肌寒さに思わず身震いしてしまう。
 唇を引き締め、自分自身の腕を抱くことで、突如生まれた寒さを堪えていると、隣に立つライナーが身を翻した。
 どうしたの、という問いかけは、肩に掛けられた兵団ジャケットにより遮られる。驚いて顔を上げると、シャツ一枚の姿になったライナーが、眉を顰めてこちらを見下ろしていた。
「平気じゃないんだろ。寒いなら着ておけ」
「ありがとう! でも、ライナーは平気なの?」
 つい先程までライナーが着ていたということもあり、ジャケットを通してじんわりとした熱が身体に染み入ってくる。一瞬にして体温が元に戻ったような心地に安堵するが、そのぬくもりを失ったライナーを思えば手放しには喜べない。。
「あぁ、むしろ湿気で蒸し暑いくらいだ」
「そっか。じゃあ、遠慮無く」
「少し雨で濡れてしまっているが、まぁ、無いよりはマシだろう」
 ジャケットに付いた雨を払うためか、ライナーの手のひらが背を滑る。その感触を背を反らし受け入れていると、「落ちるぞ」と、ライナーの手がジャケットを掴んだ。
 軽く肩に引っかかるだけだったジャケットの襟をそれぞれ引き、きちんと羽織ってみると、思いのほかすっぽりと身体が覆われる。袖なんてぶかぶかで、私のジャケットを着たままでも余裕で腕が通りそうなほどだ。
 体格差があるなとは思っていたが、まさかこれほどとは。
 新しい発見に、そわそわといろんな箇所を検めていると、ライナーが困惑したような表情を浮かべていることに気がついた。
「着ておけとは言ったが、遊べとは言ってないぞ」
「はーい」
 これ以上の詮索は許さないとばかりに、ライナーのおおきな手が羽織ったばかりのジャケットの襟首を掴む。ただそれだけなのに、どうしようもなく動きづらい。腕を前に垂らし、降参の意を込めて見上げてみれば、ライナーはわずかに目を細め、それからゆっくりと私から手を離した。
「ジャンが言っていたが、は言葉よりも行動で示さないと止まらないようだな」
「止まるときは止まるよ……たぶん」
「たぶんじゃ困る時もあるだろう」
 その言葉には同意しかねる。唇を尖らせそっぽを向いてみせれば、呆れたような溜息が耳に入ってきた。
 私から視線を外したライナーの目はまた空へと向けられる。黒く厚い雨雲は遠い空へと繋がっていて、ちょっとの待機では止みそうにないな、ということを知らしめるだけだった。
「ん」
 唐突に咳を払ったライナーに目を向ける。鼻の下を手の甲で拭い、そのまま胸の前で腕を組んだライナーの表情は険しい。
「ライナーも寒いんじゃない?」
「いや、平気だ」
 短い否定は力強さに満ちていた。だが、捲っていたシャツの袖をそっと伸ばしているあたり、その強さは強がりなのだと言っているようなものだ。
「もう。嘘ばっかり」
「嘘じゃない。少し鼻がむずがゆくなっただけだ」
 私の指摘に、ライナーはムッと唇を引き締めた。意固地さを見せるライナーを見上げ、これ以上の説得は無理だろうと悟る。
「じゃあ、ちょっとくっついてもいい?」
「ん? あぁ、構わないが――」
 ライナーの同意を待たず、半歩分ほど開いていた距離を詰める。ライナーの組んだ腕と脇の間に手を捻じ込み、ぴったりと寄り添うようにして立つと、頭上から息を呑む音が聞こえてきた。
 合わせて微かに抵抗を見せた腕を、放さないと口にする代わりにぎゅっと捕まえたままでいると、程なくしてその反応は消えていった。
 掴んだ腕に頬を寄せ、少しでも私の体温をライナーに移そうと試みる。雨に打たれたせいもあるのだろう。表面は氷のように冷たくなってしまっている。だが、その抵抗は薄く、私の体温が馴染む頃には、ライナーの本来の体温がこちらへと移ってくるほどだった。
「ライナーって意外と体温高いんだね」
 もう大丈夫だろうと見当をつけ、頭を起こしながらライナーを振り仰ぐ。相変わらず険しい表情を浮かべていたが、かすかに浮かんでいた青白さは和らいでいるように見えた。
「鍛えているからな。代謝がいいんだろう」
「そっか」
「それより意外というのはどういうことだ?」
「んー。体温高いのは子どもの特徴だと思ってたから」
 率直に考えていたことを口にするとライナーはあからさまにムッとした表情を浮かべた。
「子どもって……それはどういう意味だ、。俺はお前より年上だぞ」
 ふたつ上だ、と主張するように、ピースサインを押しつけてくるライナーの手を、やんわりと押し返す。
「ふふ、わかってるよ」
「だったら少しは敬ってほしいものだな」
 私の言葉に機嫌を損ねたらしいライナーが、いつになく子供っぽいところを見せて来るのがおかしくて、ますます笑ってしまう。それは決して、バカにしているわけではなく、そんなライナーがかわいいと感じているからだ。
 だが、そんなことを口にすればライナーはますます『面白くない』と渋面刻んでしまうことだろう。ならば、私がすることは決まっている。
 組んだままの腕を、更にきつく抱き寄せ、頭を傾けてライナーを見上げる。
「尊敬はしてるよー。だからいつも頼りにしてるでしょ?」
のそれは甘えって言うんだぞ。知ってたか?」
「知らなーい」
 宥めるのがうまくいかないのなら、今度は甘えてみよう。そんな思惑とともに鼻先をツンと反らし意固地になってしまったライナーの反論を放り投げてみせると、ライナーは呆れたように息を吐き出した。
 その後もライナーからの説教とも弁明とも言える論述は続いた。私がそれを受け入れたりはねのけたりしているうちに、次第に雨雲は立ち去り、空の隙間から陽光が差すようになっていた。
 まだ、雨の名残は降り続いていたが、この程度の雨模様ならば気をつけていれば立体起動に移ったとしてもなんとかなりそうだ。
「ようやく止みそうだな。そろそろ行くか?」
「そっかー。……もう少し降っててもよかったんだけどな」
 私の返事を待つより先に、ここから出ようとするライナーの袖を指先でつまんで引き止める。
 訓練中だからこそ、もちろん早めに移動を始めないといけないことはわかっている。だけどこんな風にライナーとゆっくりしゃべっていられる時間が長く続いてほしいという気持ちが強く出たのだ。
 正直な感想をこぼすと、空の様子を眺めていたライナーが咎めるような視線をこちらに落としてくる。
「なんだ。そんなにサボりたかったのか?」
「違うよ! もう少しライナーとしゃべりたかったの!」
 的はずれな指摘に噛み付くと、はじめはキョトンと目を丸くしたライナーだったが、意味が頭に浸透する頃にはその顔を露骨に顰めてみせた。
「前にも言ったと思うが……たしかに俺は誤解しないとは言ったが、それでもそういうことを軽々しく言わない方がいいと忠告したはずだ」
 険しい表情で呻いたライナーに今度はこちらが目を丸くしてしまう。今のはまるで、ジャンのような口ぶりだ。ライナーが私に対して遠慮がなくなってきた証拠なんだろうか。
 まじまじとライナーを見上げてみたが、その本意がわかるはずもなく、困ったような表情を焼きつけるだけとなった。
 ライナーを相手に反発する気持ちは起きないのだけど、ただ、誰にでも言っていると誤解されるのは不本意だ。その弁明は、きちんと果たさなければ。
「思ってることはちゃんと口にしとかないとちゃんと伝わらないから今のは言うべきなの」
 もう少しライナーと喋っていたかったというのは、紛うことなく私の本心だ。真正面から受け止めてもらっても差し支えなんてない。
 開き直りにも似た言葉をライナーに差し出した。これもライナーに対する甘えというやつなら、それを奮うことになんの躊躇もいらない。
 恥じる必要もないのだと胸をそらし、ライナーを見上げた。私の言葉と視線を受け止めるライナーは口を開き、戸惑いと逡巡を繰り返しながら視線を右へやったり私に戻したりと忙しない様子を見せる。
 もう一度私を叱るべきか、受け入れるべきか。その2択で葛藤しているように見えた。
「……口の減らないやつだな。少し、黙ってろ」
 気持ちを立て直したらしいライナーの手がこちらへと伸びてくる。もう口を開くなというつもりだろうか。頬の端をつままれ、引っ張られた。これでは口を開いたところで、言葉として正確に伝わる気がしない。
「出発まであと2分だけ待つ。その間に兵士として振る舞えるように気持ちを入れ替えることだな」
 相変わらずの生真面目さに、返す言葉が見つからない。兵士であることを掲げられちゃうと、今が訓練中だということを差し引いても、真面目に振る舞わなければと意識してしまう。
 小さく息を吐き、緩んだ気持ちを引き締めていると、頬を抓る指先が開き、耳から首にかけて全体を広く覆った。
「……ちゃんとできたら、今日の夜、飯を食った後に話す時間を取ってやる」
「ホント?! 約束だよ!」
「声が大きい! ちゃんとできたらと言っただろうが」
 狭い岩場の中で声が響いた。うるさそうに顔を顰めたライナーの指先が、またしても私の頬を抓りあげる。反射的なものということもあり、先程よりも強い力がかかっていたが、夜にまたライナーと話せることを考えればちっとも痛くなかった。



error: Content is protected !!