ライナー04:いつか恋になる

ライナー・ブラウン


「!! ちょっ……っ、お前、マジでふざっけんなよっ!!」

 夕食を終え、兵舎へ戻ろうと食堂前の階段に差し掛かったところで、耳をつんざくような怒号が耳に入った。思わず声のした方を振り返れば憤怒の表情を浮かべた少年の手が少女の肩を弾いたさまが目に入る。階段の際に立っていた少女はその一撃でいとも簡単にバランスを崩した。受け身を取るつもりなのか空中で身を捩った彼女が手のひらを地面に突き出して来る衝撃に耐えるような仕草を見せる。
 その懐に、反射的に手が伸びた。反対の手で手すりを掴み、自分も落ちないようにと気を払いながら彼女を掬い上げる。腕にのしかかる重みを手放さないようにと腕に力を込めれば、滑落しかけていた彼女の身体が腕の中に収まった。

「大丈夫か」
「え、あ……うん。おかげさまで」

 呆けたように俺を見上げた少女の身体を引き上げ、階段の上で下ろす。数段とは言え、階段には変わりない。運が悪ければ足を捻ったり、手の裂傷でまともな訓練に臨めなくなったりと今後に支障が出る可能性がある。訓練兵に志願した初日で脱落する者も少なくないと聞くが、成り行きとは言え、ひとりの少女の危機を防げたことに思わず安堵の息を吐いた。
 だが、相手はエルディアの悪魔だ。そう思い至った途端、余計なことをしてしまったと後悔が押し寄せる。嫌悪にも似た感情に促され渋面を刻んだ。自然と睨むような目つきになったが、正面の少女にはちっとも響いていないのか、ぼうっとした視線をこちらに向けるだけだった。

「イチャつくのは構わんが、周りはちゃんと見た方ががいい」
「……はい。ごめんなさい」

 自身の失態を取り繕うべくあえて冷たい態度を取れば、目の前の少女はしゅんと項垂れた様子を見せる。そのあまりの素直さに思わず面食らってしまった。
 俺の知る女子はアニやピークといった一筋縄ではいかない女子ばかりだった。戦士を目指すという特性上かもしれないが、それ以外の女子も軒並み気が強かった。だからこそ、きつい言葉を浴びせれば、反発され嫌なやつだと思われるだろうと踏んでいた。
 今後〝助けられたから〟と付きまとわれなうように、と予防線を張ったつもりだったのにどうやら彼女には通用しないらしい。
 面食らったまま、思わずまじまじと少女の様子を観察する。内省しているのか、眉根を寄せた彼女からはやはり俺に対する嫌悪感を見つけることは出来なかった。
 ――いいやつなんだろうな、コイツは。
 ふと気がつけば、彼女の頭の上に手のひらが伸びていた。慰めるような手つきでポンと触れると、足下に視線を落としていた彼女がこちらを振り仰ぐ。
 ――あ、まずい。
 必要以上に馴れ馴れしくしてしまった。それどころか親愛にも似た感情を抱いてしまった。エルディアの悪魔に対し、親近感を覚えるなどあってはならない。だが、一度浮かび上がった感情を簡単に沈めることは出来なかった。
 まっすぐに差し向けられた赤い瞳に思わずごくりとのどを鳴らす。他人から嫌悪や侮蔑、もしくは同情や慰めに塗れた視線を向けられることには慣れていた。だが、今、彼女から向けられる視線にはそんなものは感じられない。遙か高みから下の人間に向ける視線には無い実直さが、ひどく眩しかった。
 ――これ以上、関わってはダメだ。
 頭の中で鳴り響く警鐘に促されるままに踵を返す。だが、立ち去ろうと階段を一段下りたところで、その動きを引き留めるように袖口を引っ張られる。振り切って逃げることも出来た。だが、どうしてか抗えずに振り返ってしまう。案の定、簡単に交差する視線に、口元を引き締めるほかなかった。

「ごめんね、支えてもらっちゃって。腕、痛くなかった?」
「あぁ、問題ない」

 腕を掲げ、無事であることを証明するためにポンポンと2回、盛り上がった筋肉を叩けば彼女は安心したように笑う。その変遷を目の当たりにした途端、言いようのない違和感が身内を駆け抜けた。特に顕著だったのはみぞおち周辺だった。息が詰まったのも相まって甘く痺れるような痛みが生じる。
 他人からの好意に触れたのは、本当に久しぶりだった。差し向けられた善意に、手を伸ばして縋り付きそうになる。だが、こんなことで自分たちの使命を忘れるようなことがあってはならない。
 惑わされないように今度こそ別れを告げるのだと「じゃあな」と口にした。物わかりのいいらしい彼女は更に笑みを浮かべ、「バイバイ」とこちらへと手を振った。
 釣られるように手を掲げ、これ以上引き留められないようにと背を向ける。兵舎へと足を進めていると自然と深い溜息がこぼれた。
 ――この場にベルトルトや……特に、アニがいなくて良かった。
 殺戮対象であるエルディアの悪魔を助けたなどと知られては何を言われることか。ましてその相手に絆されかけたなど悟られるわけにはいかない。
 兵士として志願したのはあくまで壁の王へと近付くまでの手段だ。決してひととの繋がりを求めたわけじゃない。
 唇を結ぶだけでは足りず、表情の変化を誰にも見られたくなくて手のひらで口元を覆う。そのまま口元を緩めて溜息を吐きこぼせば、随分と熱のこもった吐息に触れた。傾きかけた感情を立て直そうと頬に触れた指先に力を込める。眉間に力を込めれば、ようやく戦士に戻れた心地がした。
 自分が戦士であることを思い出せば、動揺していた心情も次第に落ちつきを取り戻していく。同時につい先程まで考えていたものに対し、別の視点からの考えを見いだすことが出来た。
 必要以上に他人に親切にしないようにと距離を取ったのは戦士として間違いではないはずだ。だが、今の失態を兵士として今後の生活で活かすこともまた出来るのではないだろうか。
 ふと、浮かんだ疑念を吟味すべく頭を巡らせる。マルセルならどうするか。パラディ島に乗り込みマルセルを喪って以来、何かを決断する際に繰り返した行動はいつのまにか俺の新しい癖になっていた。
 やつらから距離を取るか、懐に入り込むか。それぞれの利点や欠点を頭の中に並べ立て、訓練兵として忍び込んだ以上、周囲からの信頼を得るのは決して悪いことではないと結論づける。
 今後の行動指針が決まったことでひとつ頭を揺らした。この決断は部屋に戻ったらベルトルトやにも共有しよう。出来ればアニにも伝えておきたいところだが、その機会はあるだろうか。
 ……追い追い、伝えればいいか。
 まだ入団して一日目だ。この施設の情報に明るくない以上、下手な動きは見せづらい。早い内から4人でいるところを無闇に見せない方がいいだろう。あまりこちらと視線を合わせることのないアニの表情を思い浮かべると、その印象を覆すかのようについ先程まっすぐに俺を見上げた瞳が脳裏に浮かび上がった。
 ――そういえば、名前を聞きそびれたな。
 目つきの悪い男が彼女の名前を呼んでいたような気もするが、とうに忘れてしまっていた。後ろ髪を引かれるままに背後を振り返る。だが件の彼女は共にいた男とまたしてもじゃれていて、俺が振り返ったことになんて気付きもしないようだった。
 さっきもその男の腕が当たって階段から落ちそうになったというのに懲りないな。
 呆れたような心地と、ほんの少しの心残りを押し出すように、俺はまたひとつ溜息を重ねた。



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