雷市02:寄り添う

「悪くねぇ」


 朝練を終えて教室に入ると、自席につこうとしたところで「雷市!」と声をかけられた。聞き覚えのありすぎる声に眉根を寄せながら顔を上げれば、さっき部室前で別れたばかりのが無駄に晴れやかな顔をしてこちらに近寄って来る姿が目に入る。
 手を後ろに隠して近付く姿を訝しんだのも束の間、唐突に突き出された手に思わず固まってしまう。その手に握られた小さなクラッカーに言及しようとしたが、俺が戸惑いから抜け出すよりも早く、明るいの声が教室に響いた。

「イエーイ! ハピバー!」
「ハァッ?! うおッ!!」

 眼前に突きつけられたものを反射的に払いのけた瞬間、が躊躇いなくクラッカーから伸びる紐を引くのが目に入る。それと同時に頭上でパンっと乾いた破裂音が響いた。耳に直接ぶち込まれた異音に顔を顰めた俺は、反射的にに詰め寄る。

「――ッオイ! ッぶねぇだろ、テメェ! っつーか人に向けるモンじゃねェだろッ!?」
「いやぁ、雷市なら絶対叩き落とすと思ったからさー。上に払ってくれて良かったわー」

 悪びれもせず笑うと俺の間にクラッカーから放たれたテープや紙吹雪が降り注ぐ。きらきらとチラつく視界に苛立ちが頂点に達した俺は、に手を伸ばすと制服の襟首とネクタイをひとまとめにして掴みあげた。

「次、同じことやったらコロスッ!」
「オッケー、来年は別のサプライズ考えとく!」

 まるで響いてない様子のに舌を打ち鳴らした俺は、掴みかかったときと同じ勢いでを解放する。結構乱暴に手を離したというのに痛がる素振りを見せないどころか、たたらを踏むことなくその場にしゃがみ込んだは、躊躇無く床に手を伸ばすと散らばったクラッカーの中身を拾い集めに掛かった。
 その姿を横目にどっかりと椅子に腰掛けると、引き出しに教科書などを詰め込みながら、部室を出る前に抱いた違和感を噛みしめる。この天然陽キャ自己満バカは、いつもなら勝手に教室までついてくるクセに、今日に限って「また後で教室でなー!」と意味ありげな顔をして走り去った。なにか企んでいるのではと訝しんだが、まさかこんなくだらない計画を立てていたとは。
 驚かせるという目的だけで言えばサプライズは成功している。だが、誕生日を祝う目的なら主役の俺をこんなに苛立たせてどうすんだよとしか言いようがない。
 マジで来年も同じことやりやがったら殺してやる。そう胸に固く誓いながら空になった鞄を机の横に引っかけた。

「ふぅー、結構中身入ってたなぁ……。今度部活の打ち上げで使おうかと思ってたけどこれは監督に怒られちゃいそうだしやめておいたほうがよさそー……」
「テメェ、ひとの机の上にゴミを置くなやクソが」
「大丈夫大丈夫。あとで片付けるって」

 クラッカーの残骸を俺の机に置いたを睨めつけたが相変わらずまったくと言っていいほど響いていない。俺がむしゃくしゃしてようがお構いなしな様子にますます苛立ちは募る。
 ――人を怒らせといてその余裕綽々な態度はなんだよ。
 血管がブチ切れそうな勢いでこめかみがひくついているのが自分でもわかる。もう一言はぶつけてやらないと気が済まない。いやもういっそぶん殴ってやろうか。
 そんな気持ちと共に立ち上がりかけた。だが、大声を出すよりも先にからまっすぐな視線を差し向けられると、膝に入った力が立ち上がるよりも踏み留まる側に切り替わる。

「改めてだけど、誕生日おめでとうなー」

 へにゃりと笑ったの一言に、思わず怒鳴り声を飲み込んでしまう。勝手に話終わらせてんじゃねぇよだとか、いい話風に語ってんじゃねぇよとか。叫ぶべき言葉はいくつも頭に浮かんだ。だが、数多ある罵詈雑言も、の間抜け面を見ていると、どれも実態の無い幻のように簡単に消え失せる。

「……ハッ。もっと敬え」
「誕生日だけでそこまでイキるの雷市くらいだわー。ってなわけでハイ、これプレゼント」
「あー、サンキュ……って、これテメェがこの前読んでたヤツじゃねぇかよ!」

 実直な言葉に礼くらいは素直に伝えてやるか。そう思ったのも束の間、差し出されたサッカー雑誌の表紙にまたしても怒りが込み上げてくる。あまつさえ小首を傾げて「あげる」と語尾にハートマークがついてそうなぶりっこ声を付け足されるとこっちをおちょくっているのだとしか思えなかった。
 顎を引いてまで上目使いを繰り出したの手から雑誌を奪い、机の上に叩きつけるとクラッカーの残骸がきらきらとひかりながら飛び散る。間抜けな顔をして「あー……」と声を上げたは、落ちていく紙吹雪のひとかけらを空中でキャッチするとその場に再びしゃがみこんで拾い集め始めた。

「えぇー、でも雷市も読みたいって言ってたじゃん。俺もう読んじゃったし、遠慮無くバンバン読んいいぜ」
「普通に貸せよ! 廃品回収と扱いが変わんねぇだろ、これじゃ!」

 大声で怒鳴り散らしたところで相変わらずどこ吹く風といった様子でさらりと流すに〝のれんに腕押し〟という言葉の意味を思い知らされる。
 だが、いくら無駄だとわかっていても、このまま捨て置くことは出来ない。やっぱり頭突きのひとつでもお見舞いしてやろうと決意を固めたが、またしても俺が立ち上がるよりも先にが邪気のない笑顔をこちらに差し向けるので行動が制される。

「ハイハイ! そんなに激おこな雷市くんにプレゼント第二弾な。ホラ、その雑誌にちゃんと挟んでるから。本当のプレゼントったヤツをよ……!」
「ハァッ?!」
「いいから見て見て」

 ウザイ言い回しに腹は立ったが「要らねぇよ」と跳ね除けたところで、この無限コンテニュー持ちのが諦めるはずがない。それに短くない付き合いの中で〝落として落として上げる〟というの遣り口にも慣れていたのもあり、不本意ながらもプレゼントの正体に興味を持ってしまった。
 ――多分、このバカがこういう言い方をする時はマジでちゃんとしたプレゼントを挟んでいる。
 そんな予感に自然と唇が尖った。
 別に楽しみにしてる訳じゃねぇが、現金な態度だと笑われるのも癪に障る。そんな思いに促されるまま口元を引き締めると、感謝や歓喜を表には出さないように気を払いつつパラパラとページをめくる。
 だが、おとなしく雑誌の内容に目を落としたものの、特段変わった要素はないように見える。
 この野郎、やっぱりハッタリかましやがったのか?
 そう腹を立てかけたが、ちょうど真ん中のページに差し掛かったところで一枚の紙切れが挟まっていることに気がつくと、浮かび上がりかけた怒りが鳴りを潜める。

「……もしかしてコレか?」
「ご明察ッ!」

 チケットサイズの紙切れを指で挟んで問いかければ、はニッと歯を見せて笑った。見慣れたアホ面から視線を外し、手にしたばかりの紙切れに目を落とす。
 挟まっていたのはよく行くスポーツ店の割引券だった。限られた小遣いでまかなう必要がある高校生な俺らにとって、2000円引きはかなりデカい。だが期限は10月末まで。喜んでいいのか怒ったらいいのか。たったそれさえとわからないほど微妙なプレゼントだが、この中途半端さがいかにもらしかった。
 眉根を寄せてを睨めつけたが、は相変わらず何にも考えてなさそうな顔をしてこちらに両手の人差し指を突きつける。

「雷市さぁ、この前の試合でレガース割ってただろ? コレ使って買いなよ」
「いや、知ってんならレガース寄越せよ」
「残念ッ! 予算オーバーです!」

 顔の前で腕を交差し、大きくバツを作っておどけてみせたの脇腹に躊躇無く裏拳を入れる。「ぐえっ!」と大袈裟な声を上げその場に蹲ったにフンと鼻を鳴らしたが、2秒後にはケロッとした顔で机の縁を掴んでこちらを見上げてくるもんだから再び舌打ちが漏れた。

「割引券に予算もクソもネェだろ」
「いや、このクラッカー結構したんだって。あ、まだ家にたくさんあるけど、雷市いる?」
「いるワケねぇだろ!」
「えぇー、次の俺の誕生日に使ってくれてもいいからさー」
「誰が祝うかッ! 使う予定がねぇなら今すぐ捨てろ!」

 ぎゃあぎゃあと言い返してくるの言葉を突っぱねていると、ちょうど電車組が来たのか、クラスメイトが続々と教室に入ってくるのが横目に入った。その中に、登校してきたばかりのの姿があるのに気が付くと、思わず口を噤んでしまう。
 別に今更性格を取り繕おうなんて微塵も考えていないはずなのに、朝っぱらから騒ぎまくっているのを見られるのはなんとなくはばかられた。
 ついさっきまでがなり散らしていた俺が唇を結んだのを訝しんだは、俺の視線の先にがいることに気が付くと、無駄に晴れやかな表情で片手を挙げた。

「あ、ちゃんおはよー」
「おはよ、くん」

 黒板近くの席に座る女子に挨拶をしていたの視線が声をかけたに向かい、そのままこちらに流れてくる。目が合うといつものようにやわらかい笑顔を浮かべたに、不覚にもドキッとしてしまう。

「雷市も、おはよ」
「……オゥ」
「どうしたの? 机の周りが……なんだか賑やかだけど」

 ゴミが散らばっているとはさすがに言えなかったのだろう。不思議そうに首を傾げたは俺とに視線を交互に差し向けた。不愉快であると隠しもしない顔を背ければ、俺を不機嫌にしたはずのが意気揚々と手をあげたのが視界に入る。

「今日さ、雷市の誕生日なんだよね。だから色々プレゼント中!」
「今んとこゴミしか貰ってねぇけどな」
「いや、雷市だって俺に誕プレくれなかったんだからおあいこだろ」

 机の脇から両腕を乗せ、頬を膨らませぷりぷりと怒ったフリをするから視線を外すついでに自分の席、つまり俺の隣の席までやってきたの様子を探る。横目に映ったは、机の上に鞄を置き椅子に腰掛けると、目を丸くしたままこちらに顔を向けた。

「あ……そうなんだ。おめでとう、雷市」
「……オゥ」

 あまりにもあっさりとした言葉に微かに落胆すると同時に、がもっと熱烈な反応を見せてくれるんじゃないかと期待していたことに気付いてしまう。バツの悪さに視線を外せば、キョトンとした顔をしたに声をかけた。

ちゃんも何かプレゼント用意してきた?」
「や。それが……その、今、初めて誕生日って知ったから……」
「えぇ、そうなの?!」

 心底驚いたと言わんばかりに素っ頓狂な声を上げたの様子に反発めいた気持ちが沸き起こる。憮然とした面持ちのまま視線を戻せば、さっきまでのアホ面をかなぐり捨てたの「なにやってんだよ」と言いたげな顔つきが目に入る。
 ゴール確定と言えるほど激アツなポジションにパスを出したにも関わらずシュートを外されたときですら見たことないほど渋い表情に、思わず叫びかけた声を飲み込んだ。

「もー、雷市ィー。なんでちゃんと教えてあげてないんだよ。ちゃんも誕プレ用意できなかったって困ってるじゃん!」
「ハァ!? テメェに関係ねぇだろ!」
「関係なくてもさー。俺が言うまでちゃんが知らないの変だって! だってまだ付き合い始めて1、2ヶ月ってところだろ? 今が最高潮ってやつじゃないの?」

 説教だけでも我慢ならないのに、こっちの恋愛事情まで引き合いに出されるとまたしても頭の中がマグマのように熱くなる。だが、そんな俺の怒りに微塵も怯まないは「ちゃんもプレゼント渡したかったよねぇ?」とを自分の味方につけようとするもんだから、火に油を注がれたかのように怒りの炎が全身を暴れはじめた。

「オイッ! マジで――」
「最高潮かはともかく……まぁ、浮かれてる時期だし、お祝いはしたかったよね」

 いい加減にしろよ、と言いかけた言葉がの静かな声で遮られる。眉尻を下げているが、の発言に困っているのか、それとも俺の誕生日を当日になって突然知らされたことに困惑しているのか判別はつかない。
 だが、顔つきの意図が分からずとも、自身の言葉で「浮かれている」と断言されると意識がそこだけに集中する。傍から聞いてしまった居心地の悪さに言葉を失ってしまえば「そうなのかよ」と、からかうことすら出来なくなった。
 じんわりと首の周りに熱が生まれる。それもさっきまで満ちに満ちていた怒りでは無く、照れくささと歓喜が入り交じったものだ。不機嫌さを木っ端微塵に破壊する熱に翻弄されてしまえば、黙って視線を外すことしか出来なくなる。

「良かったじゃん、雷市。ちゃん、浮かれてるって」
「ウッセ、黙れマジで」

 肩を叩いてきたを撥ね付けるように肩を上げ、載せられた手を振り払うと、そろりとへ視線を伸ばす。相変わらず眉尻を下げたままのは、俺と視線を合わせると、表情はそのままに軽く首を傾げた。

「……浮かれてんのかよ」
「そりゃあ、まぁ、うん。……っていうか改めて確認されると照れるってば」
「……あっそ」

 照れ隠しで投げかけた素っ気ない質問に対し、が素直に答えるものだからいよいよ言葉に詰まってしまう。だが、今度は俺だけでなくの頬にも赤みが差したこともあり、自身の中に軽い余裕が生まれた。
 優越感にも似た感情に、自然と口角が上がる。じっとに視線を向けたままでいると、照れた顔を見られている状況に参ったのだろう。
 きゅっと眉根を寄せたは腰掛けた椅子の縁を手で掴むと、こちらに身を乗り出して俺を睨みつけてくる。

「そもそも誕生日が近いならちゃんと言ってよ。教えてくれないとわかんないでしょ」

 普段は人の良さそうな顔をしてるくせに、俺に文句を言う時だけは、こうやってやけにキリッとした顔をする。そのギャップを見せられると、無駄に感情が乱されてしまい、喉の奥で唸り声が生まれた。

「……言えるかよ」

 ふたりには聞こえないほどの声量でぽつりと言葉を零すと、から顔を背けた。
 ――カッコワリィだろ。そういう主張すんの。
 付き合いたての彼女相手に、聞かれてもいないうちからワザワザ自分の誕生日を主張するなんて真似事が出来るのは、くらいのもんだ。もしかしたら世の中にはもっといるかもしれねぇ。だけど近場で見かけたことは無いし、知ったところで俺には無理な芸当であることには変わりない。
 ――別に伝えたところでコイツが「プレゼント目当てで付き合いはじめたの?」だなんて馬鹿げたことを言い出すとは思ってねぇけどな。
 不服そうな顔をしたを眺めていると、逸らしたばかりの視線がいつの間にか戻っていることに気が付いた。頬杖をつき顔の角度を無理矢理変えたところで、無意識にの反応を知りたがっている自分がいるのだと嫌と言うほど自覚させられるのは、だいたいこういう瞬間だ。

「……クソッ」
「雷市? 何か言った?」
「あぁ? 別になんでもネェよ。っつーかじろじろ見んな」
「雷市だってこっち見てるじゃない」

 だからおあいことでも言うつもりなのか、はムッと口元を引き締めながらも俺から視線を外そうとすらしない。こうなるとテコでも動かなくなるのは百も承知だ。しつけぇなと追い払おうとしたところで、どうせ「いつもの雷市よりマシ」だなんて言って食い下がってくるに決まっている。
 試しに憮然とした表情のまま「別に今年は祝ってもらわなくていいし」と続ければ「そういうワケにはいかないでしょと」返ってくる。やっぱり諦める気ねぇじゃん。そう気がつくと、自然と喉の奥で唸り声が上がる。
 勝手にお祝いモードに入ったよりも、こうやって粘り強く話しかけてくるの方が厄介だ。辟易していると隠しもせずに溜息を零しながらも、どこかむずむずするような心地に翻弄されるのが嫌で意識して顔を顰めてやる。
 そんな俺の態度を見咎めたのか、肩を竦めたは前のめりになっていた姿勢を元に戻しながらそっと息を吐いた。

「急にどうしよ……。なにか渡せるものとかあったかなぁ……」

 困ったように眉根を寄せたは、机にひっかけたばかりの鞄を取ると、なにやら中を検めはじめる。揃いも揃って手近な余りもので手を打とうとする神経が分からなくて、聞こえよがしに大きな溜息を吐き出した。鞄につけたキーホルダーを手のひらで掬ったが「でもこれは気に入ってるし……」なんて自分本位な理由で却下した姿を見るといくらでも悪態をつけそうだった。

くんは何あげたの?」
「近所のスポーツ店の割引券。なんと豪華2000円分」
「なるほど……」

 ピースサインで応じたの言葉に対し、神妙に頷いたは口元に指の甲を押し付けて何やら考え込み始める。黙り込んだに嫌な予感を感じ取り、「オイ、そこを基準にすんなよ」と横から釘を刺してやったが、聞こえてないのか、聞こえたところで答える必要は無いと判断したのか、期待したような反応は返ってこなかった。
 椅子に深く腰かけ、じっとの様子を眺める。頬杖をついたまま動向を窺っていると、不意に何かを閃いたかのように「あ、そうだ」とこぼしたはおもむろに付箋を取り出し、何やらペンで書きつけ始めた。
 なにやってんだ、と目を細めたのも束の間、顔を上げたの手が真っ直ぐにこちらに伸びてくる。

「じゃあ、とりあえずこれね。あんまり無茶なお願いは聞けないけど」
「あぁ、ンだよ」

 指先に挟まれた付箋をひったくるように受け取ると、青いペンで書かれた文字を目でなぞる。そこに書かれた〝なんでも言うこと聞く券〟の言葉の意味が頭に染み入ると、思わず顔を顰めた。

「ンだよコレ! 小学生の母の日プレゼントかよ!」
「お母さんにはそういうの渡したことないなぁ……」
「知るかよッ! ものの例えだ、論点すりかえてんじゃねぇ!」

 困ったような顔をしたに対し矢継ぎ早に怒鳴りつけたものの、ますます眉尻を下げるだけであまり効果は感じられない。

「うーん……。そんなにダメなら肩叩き券にしよっか?」
「なんでここに来て母親側に振り切ろうとしてんだよ! バカかッ? バカなのか?!」

 怒りが頂点に達した俺は思わず身を乗り出し、の鼻先に付箋を突きつけながら叫び散らしていた。俺の怒りを目の当たりにしたは、バカと言われたことに腹を立てたのか「そこまで言わなくていいでしょ」と顔を顰める。
 そこまで言われるようなことをしているとは微塵も思っていないのなら、感覚がズレているどころの話ではない。こっちは〝付き合いはじめて浮かれた結果がこれかよ〟と頭を抱えて蹲りたいほど打ちのめされているというのに、目の前に座る女は憮然とした面持ちのまま俺を睨んでやがる。
 何が浮かれてるだよ、クソが。本当に浮かれてるってんなら、一度「彼氏へ渡す初めての誕生日プレゼント」なんて、浮かれモード丸出しな検索ワードと共にネットの海をさまよってこい。
 苛立ちを隠さずを睨み返していると、場の空気を和まそうとしたのか、しゃがみこんだままのが机の端に寄せたクラッカーの残骸を手のひらで掬いながら口を挟んでくる。

「まぁまぁ、そう怒んなって。ちゃんだって工夫して考えてくれてんだからさ」
「お前に指図される筋合いいねェんだよ! っつーか元はと言えばお前がこんな紙切れ渡してくるからがバカなこと考え始めたんだろ!」
「わーい、飛び火だー」
「アァッ?!」

 執りなすことを放棄したらしいは、いつも以上のアホ面を浮かべたかと思うと煽るような言葉を口にした。威嚇したところでどこ吹く風のは手近な席から椅子を引っ張ってくると、悠然と俺の隣に腰掛ける。
 試合中にそうするように「まぁまぁ」と背中を叩かれたが、さっきから俺を怒らせているのはお前となんだよ。宥め掛かる手のひらが嫌で、触るなと言う代わりに肘で応酬していると、が「ねぇ、雷市」と声を掛けてくる。

「あ? ンだよッ」
「じゃあ雷市は私にしてほしいことは無いってことでいいの?」
「ハァッ?!」

 きゅっと眉を吊り上げたの問いかけに、思わず声が裏返る。そんな俺の反応を目の当たりにしたも、ついさっきまで浮かべていた怒りを引っ込め、目を丸くして俺を見つめた。

「なに……? そんなに驚いて?」
「べっ……だ、が……ッ!」

 の追い打ちにうまく言葉が返せない。「別に」だとか「誰が驚くかよ」だとか。ただその一言さえまともに口に出来ないほどに動揺してしまった自分に気付かされる。
 声を出そうとすればするだけ墓穴を掘るような気がして、思わず奥歯を噛みしめた。驚きのあまり狼狽える俺を見つめるは不思議そうに首を捻るだけで、自分が口にした言葉の持つ意味にはまったく頓着していない。
 その反応を見れば、はただ純粋に券の使い道を尋ねたに過ぎないと理解できた。それでも付き合い立ての彼女から〝なにかして欲しいこと〟なんてフレーズが出たらイヤでもドギマギしてしまう。
 この機に乗じて手を出すのか出さないのか。意識した途端、熱湯を浴びせられたかのように全身が熱くなり、その温度に煽られて耳まで赤く染まったのが鏡を見なくてもわかった。

「……あーらら」

 俺の変遷にいち早く気がついたは呆れたような声を漏らすと、組んだ足の上で頬杖をつきがてら薄く唇を開く。

「……雷市ィー。一応言っておくけどまだ朝礼前だからなー」

 には聞こえないようにと気を払ったのだろう。は囁くように忠告を口にする。
 俺の心中を的確に見抜かれたこと。その上で配慮されたこと。その双方に苛立ちと羞恥が綯い交ぜになって襲いかかってくる。
 抱えきれない感情にこめかみがひくりと動く。衝動に突き動かされるまま、頬杖をついたばかりの肘を狙って裏拳を食らわせてやれば、は体勢を崩し椅子から転がり落ちた。

「大丈夫?! ちょっと、雷市! いきなり何してるの!」
「ッるせェ! コイツが余計なチャチャ入れてきたんだよ!」

 驚きながらも俺に噛みついてきたに言い返せば、ムッとしながらもに「大丈夫?」と声をかけはじめた。その姿を横目に見据えながら「クソが」と内心で悪態をつく。
 ――お前に言われなくても、にそういう意図が無いのはわかってんだよ。
 に差し出された手をやんわり断りながら椅子に腰掛けるを睨みつければ、こちらの視線に気がついたのかと視線が交差する。

「ワリィな、雷市」
「……次、口に出したら殺すぞ」
「ハイハイ、了解」

 椅子に座り直しながら立てた手のひらを額にトントン当てて謝意を伝えてくるに、フンと鼻を鳴らしてそっぽを向く。視線の先にいるは、酷い目に遭ったはずのの方が謝っているのを目の当たりにすると不思議そうに首を捻っていた。

「……で? 他にないのかよ」

 さっきまでプレゼントをねだるなんて恥ずかしいと考えていたが、ここまで意にそぐわないものを差し出されると逆に吹っ切れてしまう。さらりと尋ねてみれば、困ったような顔をしたは鞄の中を探り始める。

「えぇ……? それ以外だと……あとはこれしかないなぁ……」

 おもむろに財布を取り出したは、その中から一枚のカードを抜き取るとこちらに差し出してくる。受け取ったそれに目を落とせば、ハーゲンダッツの引換券だと記されていた。
 あまりにも賛否の否に傾きまくった提案をされ続けたせいでプレゼントのハードルが下がっていたらしく、一瞬コレでもいいかと妥協しかけた。だが、きっちり目を通せば、補足事項に県外どころか東北のスタジアムでしか交換できないと書いてあり、かすかに上がったばかりのテンションがそれ以上の勢いで落ちていく。

「……使えねぇだろ、コレ」
「うん。だからこっちは違うかなって思ってたの。やっぱりこんなとこ行かないよね」

 元々あげるつもりでは無かったと言いたげなに突っ返すと、受け取ったは丁寧な手つきでそれを財布の中に戻した。
 ――仕舞うのかよ。
 脱力するあまり言葉に出来ず、心の中でツッコミを入れる。
 だが、俺には縁の無い場所であっても、東北はほかならぬの故郷だ。もしかしたら正月に里帰りする時にでも使うつもりなのかもしれない。そう思いつくと同時に、コイツが秋田にいる幼馴染が好きだったなんて余計な情報まで脳裏に浮かび上がってくる。
 朝から、しかも誕生日なんてスペシャルな日に思い出したくなかった。
 厄介な記憶に舌を打ち鳴らした俺は、喉元まで迫り上がった感情に突き動かされるまま、乱暴に言葉を吐き捨てる。

「っつーかさっきからなんで紙限定なんだよ! もう少しまともなモノ渡してきたらどうなんだッ!?」
「急に誕生日だって言われても他に渡せるものないよ。ちゃんと前もって言ってくれないからこうなるのっ」

 トゲのある俺の態度が気に障ったのだろう。ムッと口元を引き締めて言い返してくるに「アァッ?!」と反射的に声を荒らげる。
 母親みたいな態度を見せるに「開き直るなよ」と反論しかけた。だが、本を正せばの言う通り、他でもない俺がに誕生日を教えていなかったせいでこんな事態を引き起こしたと言える。負い目があるのを自覚すれば、これ以上、怒鳴り散らすのは憚られ、ギリギリと奥歯を噛みしめることしか出来なくなった。
 ――クソッ。むしろ今の状況の方が断然ダセェだろ。
 傍から見れば彼女からまともなプレゼントが貰えなくてキレる男以外の何物でもない。頭の片隅に思い浮かんだ不名誉極まる実状に歯を食いしばったまま、今にも爆発しそうな感情を耐える。
 肩で大きく息を吐き出せば、反論してこない俺を見据えたは口元をへの字に曲げると、手のひらをこちらに差し出した。

「週明けにはちゃんとしたプレゼント用意するつもりだけど、今日お祝いできないのも違うからそれは間に合わせのつもりだったの。要らないなら返して」

 痺れを切らしたの手が翻り、付箋へと伸びる。一瞬、掴まれたそれを、に取り上げられる直前に肘を上げることで躱し、の手が届かない場所まで逃す。

「……チッ。もういいわ、コレで」
「そうなの? じゃあ、なにがいいか考えといてね」

 要らねぇとは言ったが返すのは癪だ。プレゼントだと言ったならコレはもう俺の権利だ。誰が返すもんか。
 そんな心情を込めて吐き捨てれば、釈然としない表情を浮かべたもまた撥ね付けるような言葉と共に伸ばしていた手を引っ込める。フンと鼻を鳴らして顔の横まで手を下ろしてみたが、深く椅子に腰掛け直したの手がこちらに再び伸びることはなかった。
 この紙切れは間に合わせの誕生日プレゼント。それを確認するように、もらったばかりの付箋を指先で握りしめたまま視線を落とす。
 ――っつーか気軽に〝なんでも〟とか書くんじゃねぇよ。
 俺がそういうのを憚らずに言うヤツだったらどうするつもりだよ。呆れまじりに溜息を吐きながら、この券の使い道を考える。命令する内容次第では、を幻滅させる可能性を孕んでいる以上、滅多な願いは口にするつもいはない。
 センスが問われる題目を前に、頭を悩ませる煩わしさを覚えるとキツく顔を顰める。そもそも俺は、何かして欲しいことやしたいことを思いついた時にはすぐに口に出す性分だ。改めて考えたところで即座にオネガイゴトなんて出てくるはずが無い。どの道、ガチな願いが思い浮かばない以上、無難な望みを言ってやるしかないだろう。

「オイ、
「なぁに? もう使い道決まったの?」
「おう。どうせオマエ、今日帰っても暇だろ。部活終わったらこの店に行くからお前も残ってろ」

 にもらった割引券に付箋を貼り付け、ヒラヒラとかざしながら暗に買い物に付き合えと伝える。このスポーツ店は駅近のショッピングモールに入っているし、学校帰りに寄り道するにはちょうどいい距離にあった。それに、こっちの買い物なんてすぐに終わるだろうし、そのあとはの買い物にちょっとくらいなら付き合ってやってもいい。
 帰宅部のと放課後に出かける機会はテスト期間くらいしかないし、ワザワザ理由をつけないと滅多に誘えないことを思えばあながち悪くない提案に思えた。たまの息抜きくらい一緒に過ごしてやってもいいぜ。なんてったって俺はお前の彼氏様なんだからな、なんて考えもあった。
 だが、そんな俺の改心の誘いを受けたは、眉根をきつく寄せるとぶんぶんと手のひらを振った。

「え、そんな急に言われても5時からドラマの再放送見るから無理だよ」
「拒否権あんのかよッ!」

 簡単に〝なんでも〟を覆されたうえに、ドラマの再放送だなんてナメた理由を聞かされると、落ちつきを見せはじめていたはずの心境が一気に爆発する。頭の中の血管がブチブチと切れているのではと思えるほどの怒りが生まれれば、もう頬杖なんてついていられなかった。
 机を叩く勢いでに噛みつけば、俺の勢いに気圧されながらも「だって録画予約してないから」と言い訳がましい言葉が返ってくる。
 ――このクソバカ自己中女がッ! 俺の誕生日を祝うつもりがあるのか無いのかハッキリしろよ。
 ギリギリと奥歯を噛みしめても堪えきれない感情が頭の中を支配する。

「っつーかドラマってなんだよ! この俺より優先したいものがあるのはおかしいだろっ!!」
「優先順位なんてその時々で変わるでしょ!」
「それにしてもドラマ以下はおかしいだろ! しかも再放送のッ!!」

 ここまで来るともう売り言葉に買い言葉だ。言葉で殴り合うようなやり取りにイライラしながら吐き捨てると、ムッと顔を顰めたがスゥッと軽く息を吸い込んだ。何かしらの反論が返ってくるかと身構えたのも束の間、黙って事の成り行きを見守っていたが「まぁまぁまぁ、待って待って」と俺らの間に割って入ってくる。

「ふたりとも喧嘩しないの。雷市がちゃんに誕生日を祝って欲しい気持ちも、ちゃんが急に言われ困っちゃうのも、お互い尊重し合わないと」
「あぁッ?! うるっせぇんだよ、コレは俺との話だッ! 部外者は引っ込んでろ!」
「部外者でも友人として止める権利は持ってまぁす!」

 掴みかかった俺の手を存外と強い力で引き剥がしたは、宥めるように俺の腕を手のひらで叩きながらくるりとを振り返る。

「ねぇ、ちゃん。ちゃんちってたしかおばあちゃんたちと暮らしてなかった? 家に電話して〝録画して〟って頼めない?」

 の質問に対し、一度目を丸くしたはさっきまで俺を睨んでいた視線を外すと困ったように眉根を寄せた。

「それがおじいちゃんもおばあちゃんもあまり機械に詳しくないみたいで、いつも私かが頼まれてるんだよね……」
「あー……。それじゃ難しそうだねぇ」

 眉尻を下げ、あっさりとの断りを受け入れたにチッと舌を打ち鳴らす。
 ――ンだよ。結局、今日はダメなんじゃねぇかよ。
 一瞬でも期待した分だけ損したような気持ちになり、首の裏に手をやりガシガシと爪を立てる。乱暴な手つきで痛みを与えたところで頭の中に残る落胆は掻き消せそうにもなかった。
 そんな俺の態度を横目に確認したは、に向き直ると、眉尻を下げての顔を覗き込んだ。

「じゃあさ、俺らが部活やってる間に、一回録画しに帰るってのはどう? 教室で待ってるより気は紛れると思うけど……。あー、でも時間かかっちゃうし難しいよね」
「時間は……往復してもそんなにはかからないから……」

 軽く俯き口元に指の甲を当てたは頭の中で往復の道のりとそれにかかる時間を考えているのだろう。一秒ほど間を置き、顔を上げたは「大丈夫」とひとつ頭を揺らした。
 その様を目の当たりにしたは、大袈裟に目を輝かせて椅子から身を乗り出す。

「ホント?! あ、でも無理しちゃダメだよ?」
「ううん、無理じゃないよ。待ってる間、お店で雷市の誕生日プレゼント探してたらちょうどいいし」
「うわー! ありがとうっ! よかったな雷市! ちゃん、待っててくれるって!」

 満面の笑みでこちらを振り返るのやり口に思わず顔を顰める。さっきまで誰が待つかとばかりに頑なだったがこうもあっさりと覆すとは。トントン拍子に放課後の予定を決めたに「やり手じゃねぇか」と舌を巻くと同時に簡単に丸め込まれるに一抹の不安を覚える。
 今回は俺が見てる前で起こったから見逃すが、そばにいない時にも同じように説得されたらマジでキレるぞ。
 あまりにもチョロいの態度に釈然としない心地を感じていると、俺が睨んでいることに気がついたからこちらへ視線を移した。

「じゃ、雷市。そういうことだけど……いい?」
「……いんじゃね?」

 口元をへの字に曲げたまま投げやりな態度で承諾してやると、は微かに眉尻を下げながらも「じゃあ約束ね」と笑みを浮かべた。
 いつになく素直な反応を目にすると、またしても無駄な反発心が顔を出す。その衝動に抗わず「別に頼んでねぇけどな」と返してもよかったが、そこまで意地を張るメリットもないので和やかになりつつある空気に水を差すのはやめておいた。
 腹の底に生まれたムズムズした感覚を誤魔化すように頭を何度か揺らして応えれば、はさらに笑みを深める。

「そうだ。買い物だけじゃ早く終わっちゃうかもしれないし、せっかくだから一緒に晩御飯食べようよ。ファミレスくらいならご馳走するから」
「……は?」

 不意打ちの誘いに言葉が詰まる。軽く首を傾げたが「ダメかな?」と追い打ちを掛けてくるとなおさらだった。期待の滲む視線を受け止めかね、すぐさまそっぽを向く。
 無意味にダラダラするのは嫌いだが、誰かとメシを食いに行くのは嫌いじゃ無い。その相手がでも別に問題はないはずだ。いや、むしろ、の方が――。
 脳裏にチラついた考えに触発され、たった今、沈めたばかりの感情が再び顔を出そうとしていた。弾む心境に抗うようにきゅっと口元を引き締める。別に付き合ってんだから手放しで喜んで見せたってバカにされないのはわかっている。それでも〝そんなこっぱずかしい姿なんて見せられるかよ〟なんて抵抗が生まれた感は否めない。
 胸の内で暴れ始めた羞恥を追い出すように、重い息を吐き出した俺は、覚悟を決め、外していた視線をへ戻した。
 俺の返事を待っていたのだろう。相変わらずまっすぐに伸びてくるの目が離れていなかったのを目の当たりにしてしまうと、グッと喉奥が詰まるような感覚が走った。
 ばちりと視線が交差すると同時に諦めの悪い気恥ずかしさが身体の底から迫り上がってくる。これに負ければ、またしても心にもないことを言ってしまうに違いない。そう確信した俺は、極力、心を落ちつかせようと歯を食いしばったが、視線に鋭さが滲むのは止められなかった。
 素直に頷くのは照れくさい。でも別に嫌ってワケじゃない。お前が行きたいなら一緒にメシくらいなら食ってやってもいい。
 そんな意味を持つ言葉を差し出すべく口を開きかけた。だが俺がどんな言葉にするか頭の中でこねくり回している隙に、紙くずを指先で触っていたが元気よく手をあげた。

「あ、それいいじゃん。俺も行こうかな」
「ハァッ!? なんでだよッ!」

 いきなり横から割って入ってきたに、驚くよりも先に反射で噛み付いた。だが、大声を浴びせたところで事も無に顔を顰めたは、手のひらで掬ったばかりの紙くずをサラサラと机に落としながら言葉を続ける。

「えー、だって雷市に奢るならふたりでお金出した方がちゃんも負担少なくていいじゃん。ねぇ?」
くん頭いいね」
「そーなの。頭いいの、俺」

 感心したように目を丸くしたに満面の笑みを向けたは、両手のひらで頬を挟んでわざとらしく片目を何度も瞬かせるた。
 自称・碇ヶ丘サッカー部ナンバーワンの愛嬌の持ち主だと豪語するは、ウチのマネージャーに頼み事をする際も、よく同じポーズでオネダリしている。それを見た女子が「もー、そういうのウザいから」なんて悪態をつきつつも、なぜか嬉しそうに表情を綻ばせるのを見ては「ワケわかんねぇ」と思っていたが、まさかよりにもよって相手に披露されるとは。
 見慣れた光景とは違う反応を見せただが、それでもが人の彼女に粉を掛けるような真似をした事実は拭えない。羞恥心を押さえつけていた反動か、いつになくカチンとくる光景に触発されるまま、俺は机を叩く勢いで身を乗り出した。

「ヤメロッ! 来るなッ! それに受け入れんなッ!! こっちはデートのつもりで誘ってんだよ!」

 本能の赴くまま大声でがなりあげると、教室中がシンと静まり返った。
 俺の勢いを目の当たりにしたふたりは真一文字に口元を引き締めたままこちらを見つめる。に至っては、耳のふちまで赤く染め上げている始末だ。
 一瞬で黙り込んだふたりに、自分が今、何を口走ったのかを遅れて理解した俺は、に負けないくらい顔に熱が集まるのを知覚した。
 俺が叫んだ〝デート〟の一言に、目の前にいるふたりだけでなく、クラスメイトや廊下を歩いている連中の視線までもがこちらに集まり始めたのを肌で感じる。カッと熱くなった頭では、もうまともな言葉を紡ぎ出せそうにもなくて、ぎゅっと奥歯を噛みしめた。

「え、あ……、そうなんだ……?」
「ッるせぇな! いちいち確認すんじゃねぇよ! どう考えてもそうだろうがッ!」

 ぱちぱちと何度も瞬きを繰り返したに、少しだけ混乱の糸がほどけた俺は八つ当たりのように言い返す。俺の叫びを正面から受け止めたは、困惑の表情を浮かべながらもますますその耳を赤く染め上げた。
 ――クソッ。こんなの口説いてンのと同じだろうがよ。
 付き合っていることを隠しては無いとはいえ、おおっぴらに宣言した覚えは無い。少なくとも、人前でこんなにも堂々と愛情に塗れた言葉なんて吐くつもりは無かった。それなにの、頭に血が上ってたとは言え、勢いづくままに〝デート〟だなんて口走ってしまった悔恨に苛立ちは募る。
 怒りに支配される頭を下げれば、視界が狭くなった分だけ神経が耳に集中したのか、再びざわめき始めた教室の様子が嫌でも聞こえてきた。ちゃんと確認はしていないが、口さがないクラスメイトたちのことだ。恐らく今し方の俺の言葉をなぞっては、ひそひそ楽しくおしゃべりを交わしていることだろう。
 想像上の敵を思い描いては、ギリギリと歯を食いしばる。今もなお、好奇の目に晒されていると思えば、恥ずかしさや居たたまれなさに拍車が掛かった。
 心を落ち着けるべく、おおきく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出していく。だが、俺が必死になって目を逸らしたところでクラスメイト代表とも言うべくがニヤニヤと笑うさまが横目に入ると、その想像が妄想よりも現実にほど近いのだと思い知らされた。

「あー……、クソッ! テメェのせいで余計なこと言っちまっただろうが……ッ!」
「えぇー? 別に俺のせいじゃないし。ってゆーかよくない? 結果的に、ちゃんにちゃーんとデートってわかってもらえたんだからさ」

 隣に座るを睨みつけ、椅子の脚を足の側面で蹴ってやった。だが、あまり効果は無いどころか更に追い打ちをかけられてしまい、またしても羞恥が身体中を駆け巡る。
 いっそ逃げ出すか。それともクラスのヤツらに向かって「見てんじゃねェ」よと叫べばいいのか。大暴れしたいほどの衝動に駆られるまま、次の行動の選択肢にぐるぐると思考を巡らせていると、不意にに「雷市」と呼びかけられる。
 顔を上げ、目線だけで応じると、はコホンとわざとらしい咳払いをしてみせた。

「……部活が終わるころ、学校に戻ってきたらいい? もし早く終わるようなら連絡してくれたら急いで戻ってくるから」

 いつになく眦を吊り上げただが、そんな赤い顔をされていたら迫力もクソもあったもんじゃない。若干の呆れは生まれたものの、今の状況に照れているのは俺だけではないと知ると少しだけ心に余裕が戻ってくる。

「……チッ。おとなしく店の前で待ってらんねぇのかよ」
「だって部活帰りの雷市と一緒に帰れるのレアだから。いいでしょ?」

 気が楽になると、自然といつも通りの悪態をつくことが出来た。だが、気持ちを立て直したのはどうやら俺だけでは無かったらしい。先程より幾分も表情を緩めたは、膝の上に両手を置き、指先同士を突き合わせながらこちらを見つめる。その変わり様にムッと口元を引き締めた俺は、ワザと顔を顰めてに言い返してやる。

「ンなの、わざわざ俺に聞かねぇでお前の好きにしたらいいだろ」
「でも雷市が乗り気じゃなかったら意味ないでしょ? せっかく、その……デート、するのに」

 デート、の部分をやけに小さな声で言ったは、照れくさそうに顔を背けながらもこちらの反応を窺うようにすぐさま視線を戻してくる。その反応を目の当たりにすると、突っぱねようとしていた気持ちが途端に薄れていく。

「……そんなこと言ってねぇだろうが」
「じゃあ、いいってこと?」
「――ッ!」

 またかよ。そんな言葉が脳裏を掠める。なんでこうもはいちいち俺の本音を確認しようとするんだ。そんな風に確認されると反発したくなるのがわかんねぇのかよ。
 呼んでもないのに嬉々として戻ってきた怒りに促されるまま、再び罵詈雑言を叩きつけてやろうかなんて乱暴な考えが頭を過った。それでも、ただの帰り道さえもデートだと捉えているかのようなの口ぶりに、絆されて機嫌が良くなってしまった自分がいるのは否定できない。
 相反する気持ちに板挟みになりながらも、これ以上、無駄に吠えるのも煩わしいと結論づけた俺は、おおきく息を吐ききった後、頬杖をついてそっぽを向いたまま言葉を返した。

「……勝手にしろ」
「わかった。勝手にするね」

 突っぱねるような俺の態度を意にも介さないが「ふふ」と機嫌良く笑う。その声音を耳にすると、ぐっと喉奥に力が入った自分に気付き、思わず舌を打ち鳴らす。横目での表情を盗み見れば、いつになく嬉しそうに笑った顔が目に入り、ますますどうしようもない感情がせめぎ合いはじめた。
 本心をひた隠しにして不貞腐れた態度を取る俺に怒りこそすれ、最終的には全部気にしてないとばかりに笑うを見ていると、どうにも調子が狂う。落ち着かない心境に陥った俺に気付いてないのか、気付かないフリをしてんのか。素直に喜んでいるを見ていると、ちょっとくらいなら本音を見せてやってもいいかって気になってくる。
 そんな感情に促されるまま頬杖を止め、腕を降ろしながらに向き直る。目が合うと笑顔のまま不思議そうに頭を傾けたに軽く口元を緩めてやると、は一瞬驚いたように目を丸くしながらも、再びその白い頬を赤く染め上げた。
 悪くない反応に更に緩みそうになる口元を引き締め、いつものように睨み付けてやる。

「っつーか珍獣扱いすんな。レアってなんだよ。レアって」
「もう、そんな悪い意味じゃないってわかるでしょ?」
「ハッ。どうだかな」

 ワザとらしい文句を投げつけ、さらに悪態をついて見せたが、どうやらもう今のには通用しないらしい。はにかむような笑顔を浮かべたまま俺を見つめるに、またしても喉の奥が詰まるような心地がした。
 きゅっと口元を引き締めれば、横で黙り込んだまま俺らの会話を見守っていたがこちらを覗き込んでくる。すっかり毒気を抜かれた俺の顔つきを確認したのだろう。俺との攻防が一段落ついたのを察したは、ニヤニヤとした視線を送ってくる。
 ――言われなくてもわかってんだよ。だからそのツラ止めろ。
 どいつもこいつも、意味ありげな視線ばかり投げて来やがって。反射的に睨み返しても特に気にした素振りを見せないがほとほと嫌になる。
 ――っつーかコイツがこういう顔をしてんのなら、周りで聞き耳立てているやつらも似たような顔をしてやがんだろうな。
 背後を振り返って、この場にいる全員に向かって「見てんじゃねェよ!」と叫んでやるのは簡単だ。普段の俺なら迷いも無くそうしていただろう。だけど今は、どうもそんな気になれなくて、ひとつ息を吐きこぼすだけに留めた。
 横目でを睨んでいた視線を正面へと戻す。会話が終わったと判断したらしく、鞄の中身を机の中に移すの姿に目を細めた。

「おい、
「ん、なぁに?」

 教科書一式を机に突っ込んだはゆるい動作でこちらを振り返る。どことなく残る機嫌の良さを目にすると、心の中が密かに高揚する。
 ――そういうのは、もう教室では見せてやんねぇけどな。

「お前が言いだしたんだから、今日だけはお前の采配に任せてやる。だから精々俺をもてなせよ」

 仕切られんのは嫌いだが、今日だけは特別だ。人差し指を眼前に突きつけるように腕を伸ばしてやれば、は呆れたように「もう。それが祝って貰うひとの態度?」なんて軽口を叩いてきた。諭すような言葉にちっとも腹が立たなかったのは、の目元がやわらかいままだったからだろう。
 ひとつ、肩で息を吐いたは、きゅっと口角を上げるとはにかむように笑った。

「わかった。じゃあ、放課後、楽しみにしててね」
「……オゥ」

 いつになくかわいく見えた表情に、柄にも顔が熱くなるのを感じる。素っ気ない返事で誤魔化したつもりだが、果たしてに隠し通せたのかどうか。
 ダメ押しで「フン」と鼻を鳴らしてそっぽを向いたが、の反応が気になってしまい、そろりと目線だけへ戻す。簡単に交差した視線と熱のこもったの眼差しに、隠したかった愛情はすでにだけには暴かれているのだと思い知った。




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